2026年3月1日
説教題「後の者は先に、先の者は後に」
イザヤ書 第55章1~5節
マタイによる福音書 第20章1~16節
ぶどう園の労働者のたとえ
主日礼拝においてマタイによる福音書を読み進めていて、本日から第20章に入ります。その最初のところには、主イエスが語られたひとつのたとえ話が語られています。「ぶどう園の労働者のたとえ」と呼ばれているもので、ぶどう園の主人が、そこで働く労働者を雇い入れる話です。主人は夜明けに町の広場に出掛けて行って、一日一デナリオンの約束で人々を雇い入れました。これが当時の普通の賃金で、一日働いて一デナリオンもらえれば、どうにか家族が生活していけたのです。普通は、夜明けに人を雇えば、それでその日の分はおしまいです。ところがこの主人は、九時ごろにも広場に出かけました。すると、何もしないで広場に立っている人々がいた。それで彼らにも「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言って雇い入れました。同じことを、昼の十二時にも、午後の三時にもしたのです。そして夕方の五時にも、彼は広場に行きました。するとまだそこにたむろしている人々がいたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、彼らは「だれも雇ってくれないのです」と言いました。主人は彼らにも、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言いました。夕方の五時ですから、もう日没まで一時間ほどしかありません。そんな時になって、さらに新たに人を雇い入れたのです。
さていよいよ日没になり、労働者たちに賃金を支払う時になりました。その時主人はぶどう園の監督に、「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と命じました。それで、五時に雇われた人が先ず一デナリオンずつもらいました。それを見ていた最初に雇われた人たちは、自分たちはもっと沢山もらえるだろうと期待しましたが、彼らに支払われたのはやはり一デナリオンでした。それで彼らは不平を言い始めました。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。主人はそれに対してこう答えました。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。
後の者が先に、先の者が後に
これが、このたとえ話の筋です。今それを語り直しましたが、そんなことをしなくても、聖書を読んだだけで内容はすぐに理解できる、分かりやすい話だと思います。しかし、このたとえ話によって主イエスが何を語ろうとしておられるのか、はそう簡単ではありません。それを考えるためのヒントが、最後の16節に語られています。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。主イエスはこう言ってこの話を締め括られたのです。このたとえ話は、後の者が先になり、先の者が後になるということを語っている、と主イエスご自身がおっしゃったのです。しかし私たちはこのことをすぐに納得できるでしょうか。果してこの話は、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ということを語っているのでしょうか。この話の中で、「後の者が先に、先の者が後に」ということがあてはまるのは、夕方になって賃金が支払われた時に、後に雇われた人が先に、先に雇われた人が後になった、という所です。そこには確かに、後の者と先の者との逆転が起っています。しかしこの話の大事なところは、賃金をもらった順序の逆転ではないのではないだろうか。最初に雇われた人も最後に雇われた人も同じ一デナリオンをもらった、ということこそが、この話の最も肝心なところなのであって、最後の人から先に賃金が支払われたというのは、最初に雇われた人たちがそれを見ていて、これなら自分たちはもっと沢山もらえるはずだと期待した、しかし彼らに渡されたのも同じ一デナリオンだったので不平を言った、それに対して主人が語った言葉を記すための、言わば文学的手法であって、この話が語っている中心的なメッセージとこの順序の逆転は関わりがないのではないか。私は以前はそう思っていました。しかし今は違います。この16節がとても大切なのだということに気づかされたのです。本日はそのことを糸口にして、このたとえ話を読んでいきたいと思います。そのために説教の題も、「後の者は先に、先の者は後に」とつけました。
16節がとても大切であることに気づかされたのは、19章30節によってです。本日の箇所の直前、先々週に読んだ19章の終わりのところに、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という主イエスのお言葉があったのです。本日の箇所のたとえ話を読む時に、この19章30節は見落しがちです。章が変わっているので繋がりが見えなくなってしまうのです。しかし聖書の章とか節は後から付けられたもので、便利でもありますが、逆にこれがあるために大事なことを見落してしまうことがあります。ここはその例であって、19章30節と20章1節は切り離すべきではないのです。主イエスは、「ぶどう園の労働者のたとえ」の前と後に、「後の者は先になり、先の者は後になる」というお言葉を二度にわたってお語りになったのです。つまりこの言葉は、このたとえ話を理解する上で鍵となる大事な言葉なのです。
ただ神の恵みと憐れみによって
このことはさらに、このたとえ話が、19章の23節以下、あるいはさらに遡って16節以下と繋がっていることを示しています。そこに語られていたのは、主イエスのもとを悲しみながら去っていった金持ちの青年の話であり、それを受けて主イエスが、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃったことでした。弟子たちはそれを聞いて驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。決して金持ちではなかった弟子たちがこう言ったのは、主イエスのこのお言葉が単に財産のある者のことを言っているのではなくて、あの青年がそうであったように、自分の善い行い、正しさという富、そういう自分の豊かさに依り頼み、それによって永遠の命を獲得しようとしている者を指しているのだと気づいたからです。自分たちも含めて誰もが、自分の正しさ、善い行いという自分の豊かさによって救いを得ようとしている。そのようにして救いを得ることが、らくだが針の穴を通るよりも難しいのだとしたら、救われる人など一人もいないではないか、と彼らは思ったのです。それに対して主イエスは、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」とおっしゃいました。私たちの救いは、人間の力や、正しさや、善い行いによって獲得できるものではない、それは神が、何でもできる全能の力によって与えて下さるのだ、神の恵みに満ちた全能の力によってこそ私たちは救われるのだ、とおっしゃったのです。それは言い換えれば、私たちの救いは、私たちの働きに対する報酬、見返りとしてではなくて、ただ神の恵みと憐れみのみ心によって与えられるのだ、ということです。
信仰の報い
この主イエスのお言葉を聞いた弟子のペトロは、19章27節で「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と言いました。つまりペトロは、自分たちが主イエスに従ってきた、そのことの見返り、報酬を期待しているのです。それは主イエスがたった今おっしゃった、救いは神の恵みに満ちた全能の力によって与えられる、ということを何も理解していない、情けない言葉だと言わなければなりません。しかし驚くべきことに、主イエスは彼のこの期待を退けることなく、わたしに従ってきたあなたがたには大きな報いがある、とおっしゃいました。弟子たちだけでなく、主イエスのみ名のために大切なものを捨てて従った人は、その百倍の報いを受ける、と約束して下さったのです。そしてそれに続く30節で、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とおっしゃったのです。先々週の説教ではこのお言葉には全く触れませんでしたが、主イエスはこれによって、私に従って来た信仰者には豊かな報いが与えられる、しかし先の者が後になり、後の者が先になるという逆転がそこでは起こる、とおっしゃったのです。
この最後の者にも
「ぶどう園の労働者のたとえ」は、今振り返った19章における主イエスの教えを物語にしたものだと言えます。永遠の命を得ること、天の国、神の国に入ること、つまり救われることがこのたとえ話では一デナリオンにたとえられています。それがあれば生きていくことができる一デナリオンを得ることが、救われることを意味しているのです。その一デナリオンは、私たちの善い行いへの報いとして獲得できるものではなくて、ただ神の恵みと憐れみによって与えられるのだ、ということをこのたとえ話は描いています。この主人は、つまり神は、夜明けにだけでなく、九時にも、十二時にも、三時にも、そして五時になってもなお人々を雇い入れています。それは、仕事にあぶれ、その日の賃金を得ることができないでいる人々に、生きるために必要な一デナリオンを与えてやりたいという思いからです。働きがない人にも、善い行いという豊かさを全く持っていない人にも、救いを、永遠の命を与えてやりたいというみ心から、この主人、つまり神は何度も何度も人々のところへ行き、招いておられるのです。そのみ心は、不平を言った人々へのこの主人の答えの言葉にもはっきりと語られています。14、15節です。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。この最後の者、夕方の5時に雇われ、働きにおいては何もしなかったに等しい者にも、必要な一デナリオンを、救いを与えてやりたい、この主人はそういう思いでこのぶどう園をやっているのです。それが神さまの思いです。働きに応じた報酬を支払う、というのであれば、最後の者たちがもらえるのは、夜明けから働いた人の十分の一ぐらいでしょう。同一労働同一賃金という原則においては、それが公平なのかもしれません。しかしそれでは、彼らとその家族は、ひもじいままで夜を明かさなければならないのです。要するに、救われないのです。十分の一の救いなどというものはありません。救われるか、救われないか、どちらかです。神は、彼ら最後の者をも救いたいと思っておられるのです。またこの主人は、「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか」とも言っています。彼らに与える一デナリオンは、この主人のものです。救いは神のものなのであって、神がそれを自由なみ心によって私たちに与えて下さるのです。そういう意味では、夜明けから働いた人たちだって、一デナリオンを自分の権利として主張できるわけではありません。主人が、つまり神が、彼らに救いを与えようという恵みのみ心によって雇い入れてくれたから、この一デナリオンにありつけたのです。彼らに与えられたのも一デナリオンだったのはそのためです。計算の上では、一時間しか働かなかった人が一デナリオンなら、彼らは十デナリオンもらうべきなのかもしれません。しかし、十分の一の救いなどないのと同じように、十倍の救いもないのです。救いは一つです。神の救いは、人間の働きに応じて松竹梅のランクがあるようなものではありません。人間の業、善い行い、神のため信仰のためにどれだけ働いたか、ということにかかわらずに、みんなが同じ救い、同じ永遠の命、同じ天の国を与えられるのです。そこに、人間の力によるのでない、恵みと憐れみに満ちた神の全能の力による救いの真髄がある。このたとえ話はそのことを描き出しているのです。
信仰には報いがある
しかし同時に主イエスは、信仰には報いがあるとおっしゃいました。報いなど求めてはいかんとはおっしゃらなかった。そのことがこのたとえ話にやはり描き出されています。ぶどう園に雇い入れられ、働いて、その賃金をもらう、という設定がそれを示しています。信仰をもって生きるとは、神のぶどう園に雇われて働くことだと言っているのです。雇われて働くのは、賃金という報酬を得るためです。一日につき一デナリオンという雇用契約を結んで働く、それは、一デナリオンという報酬を求めてのことです。それが約束されているから、苦労があっても希望をもって働くことができるのです。主イエスに従い、神を信じて生きるとはそういうことだとこのたとえ話は語っています。何の見返りも求めずに無償奉仕をすることが信仰なのではありません。信仰には、報いがあるのです。その報いは勿論お金ではありません。一デナリオンは神による救いであり、永遠の命、天の国です。一日の生活を支えるお金よりもさらにすばらしいこの報いを求めて、私たちは主イエスに従い、神のぶどう園の労働者となって生きるのです。
後の者が先に、先の者が後に
しかしそこで忘れてならないのは、私たちの救いは、私たちの働き、私たちがどれだけ善い行いをしたか、どれだけ神に仕えたか、ということへの報酬なのではなくて、根本的には神の恵みのみ心によって与えられるものなのだ、ということです。そのことを示すために神は、「後にいる者を先に、先にいる者を後に」ということをなさるのです。だからこのたとえ話で、最後に雇われた者から先に賃金を支払うようにと主人が命じたことは、とても大事なことなのです。このように順序が逆転することによって、この一デナリオンが、労働の対価としての報酬ではないことが示されているのです。働きに対する報酬なら、先の者は先、後の者は後、という順序が守られるべきです。しかし、信仰の報いとして神が与えて下さる救いにおいては、そういう順序は成り立ちません。神は、「自分のものを自分のしたいようにする」その自由なみ心によって、私たちの働きや功績における順序を越えて救いのみ業をなさるのです。私たちはそのことを体験する時、不満を抱くことがあります。夜明けから働いた人の不平はそういう私たちの思いを代弁しています。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。私たちはこんなに一生懸命苦労してやっているのに、あの人たちは大した働きもしていないではないか。これでは不公平だ。という彼らの思いはよく分かります。私たちも、信仰に熱心であればある程、これと同じ思いを抱くことがあります。しかしそれは、自分の働きによって救いを得ようとしている、ということであり、あの金持ちの青年が、善い行いをして永遠の命を獲得しようとしたのと同じ思いなのです。しかし神の救いは、ただ神の恵みと憐れみによって、具体的には神の独り子イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、与えられているのです。神は、「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」と言っておられます。神が、その自由なみ心によってご自分のしたいようになさった、それによってなされたのは、独り子主イエスの十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さる、ということであり、主イエスを死者の中から復活させて私たちに新しい命、永遠の命への道を開いて下さる、ということだったのです。私たちの救いはこの神の自由な、恵みと憐れみに満ちたみ心によって与えられています。後の者が先になり、先の者が後になるというみ言葉はそのことを示しているのです。
神のぶどう園で働く幸い
神のぶどう園で働く者となることが私たちの信仰です。神はその信仰へと私たちを招いておられます。一日に何度も出かけて行って人々を雇い入れたこの主人のように、神はいつでも、私たちを捜しに来て下さっているのです。その招きが最もはっきりと示されるのは毎週の主の日の礼拝です。この招きに応えて、「わたしを雇ってください、神さまのぶどう園で働く者になりたいのです」と申し出るならば、神は私たちを必ず雇い入れて下さいます。私たちがどんな者であってもです。まともな働きは少しもできそうにない者であっても、「おまえは使いものにならないからダメ」とはおっしゃらないのです。また神のぶどう園には定員はありません。もう手が足りているからいいよ、と断られることはないのです。どんな人でも、いつからでも、働くことを許されるのがこのぶどう園です。このぶどう園で働くことは、決して楽なことではありません。「我々は一日中暑い中を辛抱して働いたんだ」と不平を言っている人がいるように、やはり苦しいこと、つらいこともあります。辛抱しなければならないこと、忍耐を求められることがあります。後の者が先になり、先の者が後になることが起って、不公平を感じ、「頑張ったのに割に合わない」と思うようなことだってあるのです。けれどもそれにもかかわらず、このぶどう園で働くことは大きな喜びです。なぜならば、このぶどう園において私たちは、この主人の下で生きることができるからです。私たちの働きや善い行いに応じてではなく、ただ自由な恵みのみ心と全能の力によって私たちに救いを与えて下さる神、そのために独り子を十字架につけることさえして下さった神の下で、その神に仕えて生きることほど、有意義な、希望のある人生はありません。この神の下で生きる者となって振り返って見るときに、神に見出される前の自分は、「だれも雇ってくれない」と嘆きつつ広場に虚しく立っていたことがわかるのです。このたとえ話において、夜明けに雇われた人と、夕方の五時に雇われた人とでは、どちらが得をしたのでしょうか。どちらがより幸せなのでしょうか。働いて報酬を得る、という観点から見れば、少しだけ働いて同じ一デナリオンをもらった最後の人が一番得をした、ということになります。しかし本当はそうではないのです。一番先にこの主人に見出され、神のぶどう園で働く者となった最初の人こそが、実は一番幸せな人なのです。しかし私たちはそのことがなかなかわからずに、不平を言うのです。神はそういう私たちに、信仰者として生きること、神のぶどう園の労働者となることの幸いを教えようとしておられます。神の自由な恵みによって、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ということを、喜びをもって受け入れるときに、その幸いが私たちのものとなるのです。