主日礼拝

永遠の命を得るには

2026年2月8日
説教題「永遠の命を得るには」 牧師 藤掛順一

ネヘミヤ記 第9章26〜31
マタイによる福音書 第19章13~22節

永遠の命?
 本日の説教の題を「永遠の命を得るには」としました。それは勿論、本日の聖書箇所でるマタイによる福音書第19章16節に、ある人が主イエスに、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と訊ねたことから取ったものです。しかしそういう題を掲げておいて言うのも何ですが、私たちは今、「永遠の命」を得たいと思っているでしょうか。永遠の命と言われて多くの人が考えるのは、この世でいつまでも生き続けるといういわゆる「不老不死」ではなくて、肉体が死んだ後魂が、天国とか極楽とか言われる死後の世界で永遠に幸せに暮らすことだと思います。平均寿命が今よりはるかに短かく、死が常に身近にあった昔の人たちは、そういう死後の幸福を求めていました。しかし今、この国の平均寿命は、女性も男性も八十歳を越えています。そういう中で今私たちがより切実に求めているのは、死んだ後のことよりも、今のこの人生の幸福、平安なのではないでしょうか。だから「永遠の命を得るには」という問いは私たちにはピンと来ない。そんなに切実なことには思えない。主イエスにこの質問をした人は20節に「青年」とありますが、なるほど青年らしい頭でっかちで青臭い問いだ、などと思ったりするのです。

どんな善いことをすればよいのか
 このように私たちは、「永遠の命を得るには」と問うことはあまりありません。しかしこの青年は、永遠の命を得るには「どんな善いことをすればよいのでしょうか」と質問しました。これは私たちもしばしば問うことではないでしょうか。「どんな善いことをすればよいのか」、それは言い換えれば、どのように生きたらよいのか、ということです。自分の人生を、より良い、充実した、幸せな、意味あるものにするにはどうしたらよいか、という問いです。それは私たちにとっても大事な問いです。好きなことをして楽しく生きられればそれでよい、というのではなくて、自分の人生を本当に意味ある、充実したものにしたいと思っている人は誰でも、この青年と同じように、「どんな善いことをすればよいのか」と問うのです。価値ある、有意義な、充実した人生を生きるためには、「善いこと」をする必要がある、と誰もが思っているからです。だから「永遠の命」はピンと来なくても、「どんな善いことをすればよいか」という問いには私たちも共感するのです。本日の説教題も、「どんな善いことをすればよいのか」にした方がよかったのかもしれません。私たちが毎週日曜日に、朝早くから教会の礼拝に来るのも、「どんな善いことをすればよいのか」という問いへの答えを求めてだと言えるのではないでしょうか。つまりこの青年が主イエス・キリストのもとに来たのと同じ思いをもって私たちも礼拝に来るのです。だからこの青年は、教会の礼拝に集まっている私たちの代表だと言ってもよいのです。そうであるならば、主イエスが彼に答えて語られたことは、そのまま私たちへのみ言葉でもあります。主イエスはどのようにおっしゃったのでしょうか。

「善いこと」と「善い方」
 「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」。これが主イエスのお答えです。「どんな善いことをすればよいのか」という問いに対して、主イエスは突き放すような言い方をなさっています。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか」、それは、そういう問いは的外れだ、ということです。そして、「善い方はおひとりである」とおっしゃいました。「善いこと」ではなく「善い方」をこそ求めなさい、と主イエスはおっしゃったのです。
 「善いこと」を求めるのと「善い方」を求めるのはどう違うのでしょうか。「善い方」とは、「善い方はおひとりである」と言われていることからわかるように、神さまのことです。「善いこと」とは、自分がする善い行いです。つまり「善いこと」を求めることと「善い方」を求めることの違いは、善い行いをする自分自身を見つめるか、善い方である神さまを見つめるか、です。自分自身を見つめて生きるのか、それとも神を見つめて生きるのか、と主イエスは問うておられるのです。教会の礼拝に通い、み言葉を聞いていく中で私たちは、この問いに直面します。この問いは、私たちが信仰に入るために乗り越えなければならない大きな壁、障壁です。つまり私たちは、先程も申しましたように、「どんな善いことをすればよいのか」という問いを抱いて教会に集います。人生を本当に充実した良いものとするためには、どのように生きるべきか、どんな善いことをしたらいいのか、それを教えてもらおうとして礼拝に出席するのです。あるいは、キリスト教が教える「善い行い」は他の宗教の教える「善い行い」とどう違うのだろうか、という興味や関心をもって来られる方もいるでしょう。ところが、その期待は裏切られます。教会の礼拝において主イエスが私たちに語りかけて来られるのは、「こういう善い行いをしなさい」という教えではありません。ただ一人の「善い方」がおられる。自分がどんな「善いこと」をするかではなくて、その「善い方」をこそ見つめ、その方と共に生きることを求めなさい、と主イエスはおっしゃるのです。教会の信仰は、あれこれの「善い行い」を努力してしていくことではありません。ただ一人の「善い方」である神と共に生きることが教会の信仰なのです。つまり「善いこと」をして生きることを求めていたところから、「善い方」である神と共に生きることを求めることへと方向転換をしないと、信仰に入ることはできないのです。ここに、信仰に入るために乗り越えなければならない壁、障壁があります。キリスト教信仰と倫理・道徳の教えの違いがここにあり、そこにキリスト教信仰のとっつき難さ、難しさがそこにあると言えるでしょう。

ただ一人の善い方を見つめて生きる
 主イエスはこの青年に、「善い方」をこそ見つめなさいと教え、そして「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」とおっしゃいました。掟というのは、旧約聖書に語られている主なる神の掟、律法であり、その中心はいわゆるモーセの十戒です。その後の18、19節に「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」とあるのは、十戒の後半に語られている戒めです。それらの掟、律法を守りなさい、と主イエスはおっしゃったのです。しかしそれは、これらの掟を守るという「善いこと」によって永遠の命が得られる、ということではありません。この教えは、先程の「善い方はおひとりである」という言葉に続いて語られているのです。つまりこれは、「ただ一人の善い方である神が命じておられることをしっかりと聞き、それを守り行ないなさい」ということです。掟を守るという善い行いをすることが求められているのではなくて、ただ一人の善い方である神のみ言葉に聞き従って生きることが求められているのです。聖書には十戒を始めとする戒めの部分があって、そこには「こうしなさい」とか「これをしてはならない」と語られています。しかしそれらの戒めを道徳律としてただ守り行うだけでは意味がありません。大切なのはそれらの戒めを語りかけておられるただ一人の善い方である神との交わりです。善い方、恵み深い方である神を信じ、愛し、神と共に生きる中で、その神から与えられたみ言葉に聞き従うことが求められているのです。それは、掟を守って善い行いをしている自分を見つめるのではなくて、それらの掟をお与えになったただ一人の善い方である神を見つめて生きるということです。

まだ何かが欠けている
 しかしこの青年は、「善い方である神を見つめ、その方のみ言葉である掟を守りなさい」とという主イエスの本当の思いを受け止めることができませんでした。彼はあくまでも「掟を守って善いことをしている自分」を見つめています。「そういうことはみな守ってきました」という彼の言葉にそれが現われています。十戒を守ることはユダヤ人たちにとって信仰の基本中の基本です。彼らは十戒の周りに細かい沢山の掟を設けることによって、間違って十戒を破ってしまうようなことが絶対に起こらないようにしていたのです。善いことをして永遠の命を得ようと願っているこの青年は、それらの細かい掟の全てを熱心に学び、それらを守り行っていたのでしょう。そういう彼にとっては、十戒を守ることなど、わざわざ意識するまでもない、当然のことです。彼は自信を持って、「そういうことはみな守ってきました」と言うことができるし、それは決して嘘ではないでしょう。しかしここに面白いことがあります。そのように「善いこと」を追い求め、律法の全てを人一倍熱心に守り行っていたであろう彼が、「まだ何か欠けているでしょうか」と言っていることです。自分のしている「善いこと」にはまだ何かが欠けているのではないか、と彼は不安を感じているのです。だから主イエスのところに来て、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問うたのです。彼のこの姿が示しているのは、「善いことをしている自分」を見つめている限り、そこには平安、安心は得られない、ということです。どんなに頑張って善い行いに励み、一つ一つの戒めを落ち度なく実行したとしても、「まだ何か欠けているのではないか、何かが足りないのではないか」という思いがなくなることはないのです。「善い行いをしている自分」を人生の土台として、それを追い求めていく歩みには、いつもどこかに不安がつきまとうのです。

持ち物を売って施せ
 主イエスはその彼に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。「善いことをしている自分」を見つめ、自分の善い行いを人生の土台としようとするなら、その土台を確かなものにするために、持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そこまでして初めて、自分の善い行いを土台とすることができる、とおっしゃったのです。主イエスは18、19節で、「殺すな、姦淫するな」などの十戒の後半の戒めを語った上で、それらをまとめて「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃいました。それに対してこの青年は自信をもって「そういうことはみな守ってきました」と言いました。主イエスはその自信満々な彼に、「もしあなたが本当にこれらの戒めをみな守り、隣人を自分のように愛しているなら、自分の財産を売り払って貧しい隣人に施すことができるはずだ」とおっしゃったのです。つまりこの青年は、十戒の掟の字面だけを受け止めて、自分は人を殺していないし、姦淫の罪も犯していない、人のものを盗んだことも、偽証したこともない。父母を敬い大事にしている、だからこれらの戒めをみな守っている、と思っているのです。しかし十戒のこれらの掟は、隣人を自分のように愛することを教えているのであって、それを本当に行うなら、持ち物を売り払って貧しい人々に施すことができるはずだ、と主イエスはおっしゃったのです。

たくさんの財産
 この主イエスのお言葉を聞いて、この青年は悲しみながら立ち去りました。それは「たくさんの財産を持っていたから」だと22節にあります。財産を全部売り払って施すことが彼にはできなかったのです。このことは、財産のある人がそれを捨てて神に従うことの難しさを語っています。しかしそれは単に、お金持ちは信仰に入りにくい、貧しい人の方が信仰に入りやすい、ということではありません。彼がどうしても捨てることができなかった沢山の財産とは、彼がいっしょうけんめい努力して積み重ねてきた「善いこと」でもあるのです。彼はお金も沢山持っていましたが、お金があればもう大丈夫、安心だとは思っていませんでした。永遠の命はお金は買えない、それを得るためには善いことをしなければならない、と思って、善いことを積み重ねてきたのです。つまり善いことをして生きる、という面でも彼はこれまで豊かな財産を築いてきたのです。そしてその財産にさらに新たな善いことを加え、より完全なものにするために、主イエスのもとに来たのです。つまり彼は、自分の善い行いという財産、豊かさにより頼み、それを人生の拠り所としているのです。そういう彼に主イエスは、「善いこと」を追い求めるのではなく、ただ一人の「善い方」との交わりに生きなさいとおっしゃいました。その流れの中で、持ち物を売り払って貧しい人に施せとお語りになったのです。ですからこれは、「全財産を貧しい人に施すという完全な善い行いをすれば、永遠の命を得ることができる」、ということではありません。主イエスが彼に求めておられるのは、あなたが拠り所とし、必死になって積み重ねている自分の「善い行い」という財産を手放しなさい、それを全部捨て去って、何も持たない無一物になりなさい、ということなのです。無一物になってどうやって生きていくのか。「それから、わたしに従いなさい」と言われています。無一物になって主イエスの弟子になることへと主イエスは彼を招いておられるのです。主イエスの弟子になるとは、それまでとは違う新しい善い行いをして生きる者となることではありません。そうではなくて、自分の善い行いを拠り所とするのをやめて、ただ一人の善い方であられる神の恵みに身を委ねて生きる者となることです。自分の富、豊かさを人生の土台とすることをやめて、神の善さ、つまりいつくしみと恵みによって生かされる者となることです。それこそが「天に富を積む」ということなのです。主イエスが彼に「持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい」とおっしゃったのは、「善い行い」という富を自分の中に積むことばかりを追い求め、いつも自分自身のことばかりを見つめている彼の目を、神の方に向けさせ、ただ一人まことに「善い方」であられる神の恵みに拠り頼んで生きる者とするためだったのです。

ただ一人まことに「善い方」である神
 神がただ一人まことに「善い方」であられるとはどういうことなのでしょうか。そのことが本日の箇所の13節以下に語られているのです。主イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来ました。手を置いて祈るというのは、祝福を与え、その子が神の恵みの下にすくすくと育つことを祈り求めることです。病人を癒したり、死んだ者を生き返らせておられると評判になっていた主イエスのところに、親たちが子供を連れてきて祝福を願ったのです。弟子たちはその親たちを叱りました。それは、ただでさえ忙しい先生をこれ以上煩わせてはならないという思いによることだったのでしょうし、また、主イエスの教えを聞いて、弟子となって従うという信仰の姿勢もないのに、ただ祝福だけを、恵みだけをいただこうなんてけしからん、という思いもあったのかもしれません。しかし主イエスは、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」とおっしゃり、子供たちを祝福されたのです。「天の国はこのような者たちのものである」。ここに、神がまことに「善い方」であられることが示されています。主イエスは、子供のように素直で純真な者にならなければ天の国に入ることはできない、と言っておられるのではありません。この子供たちは、素直だとか純真だというのではなくて、ただ親たちに連れられて主イエスのもとに来たのです。弟子たちが考えたように、それは主イエスを煩わせることだったでしょうし、また親たちの姿勢も確かに、主イエスを信じて従っていくことなしに、ただ自分の子供への祝福を求めるという虫のいいものです。しかし主イエスはそのような子供たちを、そして親たちを、喜んで迎え入れて下さったのです。そして、天の国はこのような者たちのものだとおっしゃったのです。それは、天の国は、それに相応しい立派な善い行いをしている人のものなのではなくて、そのような相応しさを全く持っていない、何の「善いこと」をもすることができない者に、神がただ恵みによって与えて下さるものだ、ということです。神さまは、「善い行い」という財産を何も持っていない無一物の者に、天の国を、つまり神のご支配による救いを、恵みによって与えて下さるのです。神はそのようにまことに「善い方」、恵み深い、憐れみに満ちた方なのです。その神の恵みと憐れみが、主イエス・キリストによって私たちに示され、与えられています。「善いこと」をするどころか、神に背く罪を犯してばかりで、隣人を愛するよりも傷つけることの方がはるかに多い私たちのために、神は独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、神の子として下さり、復活によって私たちにも復活と永遠の命の約束を与えて下さったのです。自分の「善い行い」を追い求めるのをやめて、このただ一人まことに「善い方」である神の恵みを求め、それに身を委ねていくことこそが、聖書の教える、主イエス・キリストを信じる信仰なのです。

永遠の命を生き始めるために
 「永遠の命」は今の私たちにはそんなに切実なことには思えないのでは、と最初に申しました。永遠の命は、勿論不老不死ではないし、死後の世界での魂の幸福でもありません。私たちが今、この人生において、ただ一人の本当に善い方、恵み深い、いつくしみに満ちた方である主イエス・キリストの父なる神と出会い、この神の下で、自分の善い行いという自分の富にではなく、神の無限に大きないつくしみに拠り頼み、そこに土台を置いて歩み始めるならば、私たちは今この人生において、永遠の命を生き始めることができるのです。私たちの人生には、様々な悩み苦しみ悲しみがあり、病があり、そして肉体の死があります。それらのものによって常に脅かされているのが私たちの地上の命です。しかし主イエス・キリストの十字架の死と復活によって神が与えて下さった恵み、いつくしみは、私たちの人生を確かに支え、肉体の死においてすらも、私たちを復活と永遠の命の希望に生かすのです。自分のしている「善いこと」を見つめてばかりいる私たちが、ただ一人の「善い方」である神を見つめることによって、永遠の命を生き始める。そのために、神はこの礼拝へと私たちを招いて下さったのです。

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