説 教 「魔術からの解放」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 申命記第18章9-14節
新 約 使徒言行録第8章1-13節
エルサレム教会に対する大迫害
使徒言行録を読み進めています。前回は7章44節から8章3節までを読みました。そこには、ステファノが最高法院で語った長い説教の最後の部分と、ステファノの殉教が記されていました。ステファノはキリスト教会最初の殉教者となったのです。前回は8章には触れませんでしたので、本日は改めて8章1節から読み進めていきます。
8章1節の後半、小見出しの後に、「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」とあります。「その日」とはステファノが殉教した日です。つまりステファノの殉教をきっかけとして、「エルサレムの教会に対して大迫害が起こ」ったのです。これまでもペトロとヨハネが最高法院に連れて行かれたり、使徒たちが捕らえられ牢に入れられて鞭で打たれたりしましたが、それらはいずれも、特定の人物に対する迫害でした。しかしステファノの殉教をきっかけとして起こった迫害は、エルサレム教会全体に対する迫害であったのです。ペンテコステに誕生したエルサレム教会は、これまで全体として順調な歩みをしてきました。問題が起こっても、新しいやり方を取り入れることで、福音はますます広がり、教会のメンバーも増えていったのです。そのエルサレム教会が、今までとは比べものにならないほどの危機に直面しました。この大迫害によって、多くのメンバーがエルサレムを離れなくてはならなくなったのです。
とはいえすべてのメンバーが、エルサレムを離れたわけではありませんでした。「使徒たちのほかは皆」と言われていたように、使徒たちはエルサレムに残りました。その理由は、何も記されていませんが、おそらくこの迫害が、ステファノと同じ、「ギリシア語を話すユダヤ人」でキリスト者となった人たちに対して、集中的に行われたからでしょう。このことは本日の5節以下で、この迫害によってエルサレムを離れ、サマリアに行ったフィリポの伝道が語られていることからも推測できます。フィリポは、食事の分配を整えるためにステファノと共に選ばれた七人の奉仕者の一人で、ステファノと同じく「ギリシア語を話すユダヤ人」でキリスト者となった人物だからです。もちろんだからといって、この迫害の影響を小さく見積もるべきではありません。この大迫害によって、エルサレム教会は大きな危機に直面したのです。
サウロの登場
ところでステファノの殉教について語る中で、使徒言行録は、さりげなく新たな人物を登場させています。それがサウロ、後のパウロです。すでにステファノの殉教の場面において、7章58節で、「証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」と言われていました。ここで初めてサウロが登場します。続けて本日の箇所の冒頭で、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」とあり、また3節で、「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」とあります。「家から家へと押し入って教会を荒らし」と言われているのは、エルサレム教会が教会堂を持っていたわけではないからです。多くの人が集まれるいくつかの家に、メンバーが集まって礼拝を守っていました。ですから「家から家へと押し入る」とは、メンバーが集い礼拝を守っていた家から家へと押し入ることであり、それゆえに「教会を荒らし」た、と言われているのです。そしてサウロは、集っていたメンバーを「男女を問わず引き出して」、牢に送ったのです。サウロについては、これ以上何も語られていません。サウロが本格的に登場するのは9章で、ここではさりげなく紹介されているだけです。このような手法は、4章36節でバルナバが紹介されたときも用いられていました。後に重要な働きをする人物をあらかじめちらっと見せておく。伏線を張っておく。そして後々、ちゃんとその伏線を回収する。現代の小説や漫画やドラマで見られるような手法を、使徒言行録は用いています。しかし使徒言行録はさりげなくサウロを紹介することにおいても、大切なことを語っています。それは、サウロがステファノの殉教に賛成し、その殉教に立ち会い、ステファノが、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだのを聞いていた、ということです。そして、聞いていたにもかかわらず、サウロはその叫びに心を動かされることなく、むしろ教会を荒らし、キリスト者を捕らえ、牢に入れたということです。私たちはこのことを見過ごしてはならないのです。
散らされて行った
4節に、「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」とあります。何気ない一文で、読み過ごしてしまいそうになります。しかし私たちはここで立ち止まる必要があります。なぜならこの一文は、福音が初めてエルサレムを超えたという画期的な出来事を語っているからです。その画期的な出来事は、どのようにして起こったのでしょうか。「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」と言われていました。そう言われると、エルサレム教会の人たちが自発的に散って行って福音を告げ知らせたように思えます。積極的な伝道がなされたように思えるのです。しかし「散って行った」と訳されている言葉は、原文では受身の形で、「散らされて行った」と訳すべきです。ステファノの殉教をきっかけとして起こった大迫害によって、エルサレムから散らされて行った、もっとはっきり言えば、逃げて行ったのです。積極的な伝道がなされたのでは、まったくありません。人々は福音を伝えようと思って、あちらこちらに散って行ったのではなく、エルサレムにいられなくなったから、あちらこちらに散って行った、逃げて行ったのです。
不安と恐れに駆られて
散らされ、逃げるしかなかった人たちの心は不安と恐れに駆られていたはずです。この迫害によって、ステファノのように殉教する仲間が、ほかにも出るかもしれない。牢に入れられた人たちはどうなるのだろうか。自分たちはこれからどうすればよいのだろうか。しかし使徒言行録は、そのような不安や恐れに駆られていたに違いない人たちが、散らされた先で、「福音を告げ知らせながら巡り歩いた」と語っています。なぜ、そんなことができたのでしょうか。頑張って自分の不安や恐れを抑えつけ、福音を告げ知らせたということでしょうか。そうではないと思います。彼らにはキリスト教会の先行きも、自分たちの先行きもまったく見えませんでした。とりわけこの後、登場するフィリポもそうですが、サマリアに散らされた人たちの不安と恐れは、とても大きかったはずです。サマリアは、ユダヤとガリラヤの間にあり、サマリア人と呼ばれる人たちが暮らしていました。もともとはサマリア人も、神の民イスラエルに連なる人たちですが、複雑な歴史的経緯の中で、ユダヤ人とサマリア人は互いに互いを軽蔑し、関わらなくなっていたのです。ですからサマリアに散らされた人たちは、初めてサマリアに足を踏み入れたに違いありません。もちろんこの人たちはキリスト者ですが、しかしユダヤ人からキリスト者となった人たちであり、サマリア人からすれば、ユダヤ人としか思えなかったはずです。自分から足を踏み入れたいとは思わないところへ、しかも自分たちを軽蔑している人たちがいるところへ散らされた。湧き上がってくる不安や恐れを、自分の力で抑えることなどできるはずがなかったのです。
主イエスの約束を想い起こして
けれども散らされた人たちは、そのような不安や恐れに駆られる中で、復活の主イエスの約束を想い起こしたのではないでしょうか。1章8節で、復活の主イエスはこのように言われていました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。「あなたがたは、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、主イエス・キリストの証人となる」。この主イエスの約束を、散らされた人たちは、散らされた先で想い起こしたのです。強いられて散らされた先で、逃げざるを得なかったから逃げた先で、この主イエスの約束を想い起こし、自分たちが散らされたことには意味があり、使命があることに気づかされました。だから彼らはこの約束を信じ、この約束に支えられて、キリストの福音を、主イエス・キリストの救いの良い知らせを告げ知らせながら巡り歩いたのです。
それにしてもこの主イエスの約束は、最初の教会が誕生する前に与えられたものです。しかし使徒言行録を読む限り、エルサレム教会の人たちは、この約束の実現のために、ユダヤとサマリアの全土に伝道しよう、と考えなかったようです。そのような伝道計画は立てていなかったのです。誕生したばかりの教会を整えるのに精一杯で、準備が整わなかったのかもしれません。だからこの主イエスの約束は忘れられていたか、もしくは脇に置かれていたのでしょう。ところが、考えてもいなかった仕方で、思いも寄らなかった仕方で、エルサレム教会の人たちは、ユダヤとサマリアの全土で伝道することになりました。準備なんかできていなかったのに、強いられて、やむを得ずユダヤとサマリアの全土に散らされたからです。そのようにして散らされた先で、人々は主イエスの約束を思い出しました。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で」というあの主イエスの約束を思い出し、この約束の実現のために、自分たちは散らされたと信じ、伝道したのです。
伝道は神のみ業
このことは、伝道が人間の力や計画によって始まるのではなく、神様のみ業、聖霊なる神様のみ業によって始まることを示しています。伝道は私たちの計画によって始まるのではありません。そうではなく聖霊なる神様が、たとえ私たちには準備が整っていないように思える状況であっても、考えてもいなかった仕方で、伝道を始めてくださるのです。その中で私たちも、「あなたがたは…地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主イエスの約束を想い起こします。この主イエスの約束を信じ、この約束に支えられて伝道するのです。それが、私たちの伝道です。私たちの計画が先にあるのではなく、聖霊のみ業によって始まる伝道に、主イエスの約束の実現のために、私たちは用いられ、仕えていくのです。もちろん私たちの教会も伝道の計画を立てますし、それは必要なことです。しかしそれはあくまでも聖霊のみ業によって始まる伝道に仕えるための計画なのです。
困難な状況の中にあるからこそ
このように福音がエルサレムを超えたという画期的な出来事は、教会が順調な状況の中で実現したのではありません。むしろ大迫害によって教会が危機的な状況に直面する中で、また先行きがまったく見えない不安と恐れに覆われた状況の中で実現しました。聖霊なる神様は、ステファノの殉教をきっかけとした大迫害をも用いてくださり、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、主イエス・キリストの証人となる」という主イエスの約束を実現してくださり、伝道のみ業を進めてくださったのです。キリストの福音が地の果てまでに至る、世界中に広がっていく第一歩が実現したのです。
今、日本の教会も困難な状況の中にあります。どの教会も教勢が低下し、高齢化が進み、財政的にも逼迫しています。その意味で、私たちの感覚では、伝道する人的な力も財政的な力も足りず、伝道する準備が整っていない、と思わざるを得ない状況です。しかし私たちの教会は伝道を諦めません。私たちの計画や、勇気や頑張りを頼りとして諦めないのではありません。聖霊なる神様が伝道のみ業を進めてくださることを信じ、そのことを祈り求めていくことを諦めないのです。キリスト教会は、危機的な状況の中で、福音が世界に広がる画期的な一歩を踏み出しました。同じように、私たちの教会がどれほど困難な状況の中にあったとしても、いえ、困難な状況の中にあるからこそ、先行きが見えない不安と恐れの中にあるからこそ、聖霊なる神様が、考えもしなかった仕方で、思いも寄らなかった仕方で、私たちを用いてくださり、伝道のみ業を進めてくださることを信じて歩んでいくのです。
フィリポとシモン
さて5節以下では、サマリアに散らされたフィリポの伝道が語られています。「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った」。フィリポも強いられてサマリアに散らされて行きました。しかしそこで彼は、キリストを宣べ伝えます。「ユダヤとサマリアの全土で…わたしの証人となる」という主イエスの約束を想い起こし、その約束によって支えられ、聖霊によって力を与えられて、フィリポはまさにキリストの証人として、キリストを宣べ伝えたのです。群衆は「こぞって」フィリポの「話に聞き入った」と言われています。群衆がフィリポの話に聞き入ったのは、彼ら彼女たちが、フィリポの行うしるしを見たり、聞いたりしていたからです。そのしるしとは、7節にあるように、汚れた霊の追放や病の癒しでした。サマリアの人たちは、フィリポが汚れた霊に取りつかれた人たちから、その霊を追い出したり、病にある人たちを癒したりしたのを目の当たりにして、8節にあるように「大変喜んだ」のです。しかしこの喜びは、単に奇跡を目の当たりにしたことだけによるのでしょうか。フィリポが、今まで見たことも聞いたこともないような奇跡を行ったから、とても喜んだということなのでしょうか。
そうではなさそうです。9節では、フィリポがやって来る前から、サマリアに、シモンという魔術師がいて、その魔術によって、サマリアの人々を驚かせていた、と語られています。シモンの魔術が、具体的にどんなものであったかは記されていません。しかしきっとシモンも、汚れた霊を追放し、病を癒し、あるいはその人の将来を言い当てたりしていたのだと思います。だからこそ10節にあるように、サマリアの人たちは、「小さな者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って」、シモンに注目していたのです。奇跡だけを比べるなら、シモンとフィリポに大した差はなかったのです。サマリアの人たちは、11節で言われているように、老若男女を問わず、長い間、このシモンの魔術に心を奪われていたのです。
現代も魔術の類が溢れている
私たちは、サマリアの人たちが長い間、シモンの魔術に心を奪われていたことに対して、2000年前の人たちは科学的な知識もなく、騙されやすかったのだな、と思うかもしれません。しかし本当にそうでしょうか。科学が発展し、技術が進歩しても、私たちの世界にも魔術の類は溢れているのではないでしょうか。魔術の本質は、魔術師が、その魔術によって、自分の利益を得ようとすることにあります。シモンは「偉大な人物と自称していた」と言われているように、魔術によって、自分が「偉大である」という評判を得て、それで報酬を得ていた、儲けていたのです。そのような魔術の類は、私たちの世界にも溢れていますし、ますます巧妙なものになっています。とりわけ日本では、血液型占い、星座占い、姓名判断、手相占いなど、多くの占いが日常生活に広く浸透しています。毎日、テレビの朝の番組の中で、今日の星座占いや血液型占いのコーナーがあり、「今日のラッキーアイテム」が紹介されています。それらを、私たちは気にしていないつもりで、どこかで気にしていたりします。毎朝、それを見ないと落ち着かなくなるとしたら、そのとき私たちも、魔術に心を奪われているのです。しかしこれらの占いは、結局、占いによって相手の性格や運命を言い当てることで、占う側が評判を得て、利益を得るものでしかないのです。
そして占いに代表される魔術の根本にあるのは、この世界と私たちは得体のしれない力、「運命」と呼ばれるような力に支配されている、という理解です。だから様々な占いによって、得体のしれない「運命」を言い当てて、少しでも安心を得ようとするのです。魔術に心を奪われているとは、この得体の知れない力に心を奪われ、支配されていることにほかならないのです。
魔術からの解放
しかしフィリポによって、サマリアの人たちは魔術から解放され、得体の知れない力から解放されました。それは、フィリポのほうがシモンより、より驚くような奇跡を行ったからでは決してありません。先ほど見たようにサマリアの人たちは、フィリポの行った奇跡を見て、「大変喜び」ました。しかしその奇跡によって、人々はこぞって、フィリポの話に聞き入った、と言われていたことを忘れてはなりません。フィリポは、何を話したのでしょうか。フィリポの奇跡が何を指し示しているかを話したのではないでしょうか。自分の奇跡が、主イエス・キリストと、主イエス・キリストによる救いを指し示していると語ったのです。だから5節で、フィリポが「人々にキリストを宣べ伝えた」と言われています。ここにフィリポの奇跡とシモンの魔術の決定的な違いあります。シモンの魔術は自分の力を誇り、人々から評判を得て、自分の利益を得るためのものでした。しかしフィリポの奇跡は、主イエス・キリストを指し示し、人々をその救いに導くものであったのです。
フィリポの奇跡が、人々に大きな喜びを与えたとしても、その奇跡によって、人々が本当に魔術から解放され、得体の知れない力から解放されたのではありません。8節では、あくまで「人々は大変喜んだ」と言われているに過ぎません。しかし12節ではこのように言われています。「しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」。「神の国」とは、神様のご支配のことです。フィリポが、神様のご支配とキリストの福音を告げ知らせることによって、人々は主イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、キリストによる救いにあずかりました。奇跡によって信じたのではなく、キリストの福音を聞くことによって信じたのです。キリストの福音は、私たちに一時的な驚きを与えるのではなく、信仰を与え、私たちを洗礼へと導くのです。このキリストの福音は、キリストの十字架と復活によって、神様が罪と死の力に打ち勝ち、神様の恵みのご支配を確立されたことを告げています。この神様の恵みのご支配を信じて生きるところに、魔術からの解放が、得体の知れない力からの解放が与えられるのです。この世界と私たちを支配しているのは、得体の知れない力ではなく神様です。しかもその神様は、私たちを罪と死から救うために、独り子イエス・キリストを十字架に架けるほどに、私たちを愛し、大切にしてくださる方です。この神様の愛と恵みが、この世界と私たちを支配し、この世界と私たちの歩みを導いているのです。確かに私たちの目に見える現実は、この世界も私たちも得体の知れない、運命と呼ばれるような力に翻弄されているように思える現実です。だから私たちは占いの類に頼って、一時の安心を得ようとするのです。しかしそこに本当の安心はありません。目には見えなくても、キリストの十字架と復活によって確立した神様の恵みのご支配を信じて歩むところにこそ、本当の慰めと平安と希望があり、本当の喜びがあるのです。
キリストの福音を告げ知らせる
フィリポは、強いられて散らされて行った先で、このキリストの福音を告げ知らせました。私たちもキリスト者として歩む中で、望んでもいないところに遣わされることがあります。逃げなくてはならないこともあります。しかし強いられて遣わされた先で、逃げざるを得ないから逃げた先で、キリストの福音を告げ知らせる使命を与えられるのです。たとえ準備ができていなくても、遣わされた先で、私たちは聖霊によって力を与えられ、主イエスの約束に支えられて、魔術からの解放を、得体の知れない力からの解放を告げる、キリストの福音を宣べ伝えます。キリストの十字架と復活による救いの良い知らせを証しするのです。その私たちを用いて、聖霊なる神様が確かに伝道のみ業を進めてくださるのです。