説 教 「辱めを受けるほどの者」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第43章1-7節
新 約 使徒言行録第5章27-42節
最高法院へ引き立てられて
使徒言行録5章を読み進めています。前回、12~16節で、教会に対する人々の恐れと好意の緊張感の中で、最初の教会の伝道が進展したことを見ました。しかし人々がキリスト者を称賛し、キリスト教会が無視できない存在になりつつあることに対して、大祭司を始めとするユダヤ教のサドカイ派の人々は「ねたみに燃えて」、十二人の使徒たちを迫害しました。そのことが17節から42節で語られていますが、前回は26節までを読みました。そこでは使徒たちが逮捕され、牢に入れられたけれど、主の天使によって牢から出され、しかし再び捕らえられて、最高法院へと引き立てられたことが語られていました。本日はその続き、最高法院での出来事を読み進めていきます。
命令に背いて伝道を続けているではないか
最高法院に引き立てられてきた使徒たちに対して、28節で大祭司がこのように尋問しています。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」。「あの名」とはイエス・キリストの名のことです。4章でペトロとヨハネが逮捕されたとき、最高法院が出した結論は、その18節にあるように、「決してイエスの名によって話したり、教えたり」してはならない、というものでした。要するにキリスト教会が伝道することを禁じたのです。そのように厳しく命じたにもかかわらず、その命令に背いて伝道を続けているではないか、と大祭司は尋問したのです。
人間に従うよりも神に従う
大祭司の尋問はさらに「あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」と続きますが、このことについては後回しにして、まず29節の使徒たちの弁明を見ておきます。伝道を禁じたのに、なぜその命令を守らないで伝道を続けるのか、という尋問に対して、ペトロとほかの使徒たちは29節でこのように答えています。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。使徒たちは、「決してイエスの名によって話したり、教えたり」してはならないという人間の命令に従うのではなく、20節で主の天使が告げた、「命の言葉を残らず民衆に告げなさい」という神のご命令に従ったのです。だから彼らは牢から出されると、身の安全を図るのではなく、神が命じられた通り夜明けから神殿の境内で「命の言葉」を語りました。その彼らの伝道によって、エルサレム中に「命の言葉」が、つまり福音が広まっていったのです。
使徒たちが宣言したように、私たちの教会も「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。しかしそれは、キリスト教会の伝道が禁じられるような状況に直面するときだけの問題ではありません。そのような状況にならずとも、私たちの教会は、人間に従うのかそれとも神に従うのか、ということを絶えず問われているのです。「人間に従う」とは、この世の権力に従うことだけではなく、この世の評価に従うことをも意味します。前回、教会は信者でない方々が教会に入ってきやすいように心を砕かなくてはいけないけれど、その一方で教会と外の社会との境を、境界線を無くしてはならない、とお話ししました。教会が外の社会との境界線を無くし、社会に迎合し、人々が喜び、気に入ることばかりを語ったり行ったりすることは、社会や人々の評価を気にして、それに従うこと、つまり人間に従うことにほかなりません。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」というこのみ言葉は、しばしばこの世の評価を気にし、人間に従ってしまいそうになる私たちの教会が、人間に従うのではなく神に従って歩むよう導き、励ましているのです。
罪を突きつける
そう宣言した後で、使徒たちは30、31節でこのように語りました。「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」。使徒たちが最高法院の議員に向かって最初に語ったのは、「あなたがたがイエスを木につけて殺した」ということです。彼らはまず議員たちの罪を指摘したのです。このことはすでに4章で、最高法院においてペトロが語っていたことです。そのときもペトロは、「あなたがたがイエスを十字架につけて殺した」と、彼らの罪を突きつけました。このことから、後回しにしていた大祭司の尋問、「あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」、という尋問の理由が分かります。大祭司を始めとするサドカイ派の人々は、ペトロを始めとする使徒たちが、「ユダヤ教の宗教指導者たちがイエスを十字架につけて殺した」と語っているのを聞いて、自分たちにイエスの血を流した責任を負わせようとしている、イエスを十字架につけて殺した責任を負わせようとしている、と受けとめていました。だからこのように尋問したのです。その彼らに対して、使徒たちは「あなたがたがイエスを木につけて殺した」と語り、ここでも彼らの罪を突きつけたのです。その結果、33節にあるように、最高法院の議員たちは「激しく怒り、使徒たちを殺そうと考え」ました。使徒たちは最高法院で、まさに議員たちの評価を気にせず、彼らが気に入るはずのないことを語り、彼らの怒りと殺意を買ったのです。
悔い改めて、罪の赦しにあずかるため
しかし使徒たちが語ったことは、それですべてではありません。ペトロや使徒たちの言葉をしっかりと受けとめるなら、大祭司を始めとする宗教指導者たちの、「自分たちにイエスの血を流した責任を負わせよう」としているという理解は思い込みであったことが分かります。確かに使徒たちは彼らの罪を曖昧にはしません。「あなたがたが木につけて殺した」と、「あなたがたが十字架につけて殺した」と語ります。しかしそれはただ罪を突きつけるためだけではありません。それには目的があったのです。それが31節で言われている、「イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すため」です。イエスを殺した罪の責任を負わせるためではなく、その罪に気づき、悔い改めて、つまり神の方に向き直って、洗礼を受けて、キリストによる罪の赦しにあずかるために、使徒たちは罪を突きつけたのです。なぜなら30、31節で語られているように、罪の赦しにあずからせるためにこそ、神は十字架で死なれたイエスを復活させ、そのイエスを「導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられ」たからです。ユダヤ教の宗教指導者たちが十字架につけて殺したイエスを、神が復活させ、天に上げられたのは、彼らにその罪の責任を負わせるためではなく、彼らが悔い改めて罪の赦しにあずかり、イエスを導き手として、救い主として歩んでいくためであったのです。
罪を赦された者として
そもそもイエスを十字架につけて殺した罪の責任を問うのであれば、ペトロを始めとする使徒たちも、その責任を免れるわけにはいきません。彼らは主イエスの十字架を目の前にして主イエスを見捨て、裏切ってしまったからです。ペトロに至っては、主イエスを三度知らないと言って、主イエスとの関係を完全に否定しました。主イエスと共に歩んできたのに、主イエスを裏切った弟子たちこそ、主イエスを殺した罪の責任を負うべき最たる者でありました。しかし取り返しのつかない罪を犯した彼らのために、神は十字架で死なれたイエスを復活させてくださったのです。復活の主イエスが彼らに出会ってくださることによって、彼らは主イエスのもとへと立ち帰り、罪の赦しにあずかり、イエスを導き手として、救い主として新しく生き始めることができたのです。そうであるからこそ使徒たちは罪を赦された者として、一所懸命に議員たちに語りかけました。自分たちと同じように、彼らが悔い改めて罪の赦しにあずかり、新しく生き始めるよう懸命に語りかけたのです。罪に気づき、悔い改めるのに遅すぎることはないからです。このように使徒たちが、最初の教会が語ったことの中心は、イエスの死の罪の責任を負わせよう、ということではなく、今からでも遅くはないから悔い改めて罪の赦しにあずかり、イエスを自分の人生の導き手として、救い主として新しく生き始めなさい、ということであったのです。このことこそ「命の言葉」であり、福音です。使徒たちは最高法院の議員たちの目の前で、権力者たちの目の前で、その命令に従うことなく、神のご命令に従って「命の言葉」を語りました。主イエスによって罪を赦された者として、自分たちと同じように議員たちが悔い改めて罪の赦しにあずかるために福音を語ったのです。
躓きとなることに本当の救いがある
時々、信者でない方から教会は罪ばかり語っているから嫌だ、と言われることがあります。礼拝に出席すると、繰り返し「あなたには罪がある」と言われてしまう。別に法律に違反したわけでもないのに、「あなたには罪がある」、しかも「イエスを殺した罪がある」と言われるのは心外だし、気分が滅入る、と言われたりします。人間の罪を語ることは、世の人々に人気のないことであるに違いありません。大祭司が言ったように、イエスの血を流した責任を負わせようとしている、と思われてしまうかもしれません。しかしそれでも私たちの教会は人間の罪を語っていきます。私たち人間の罪がイエスを十字架につけて殺した、と語っていくのです。教会は世の人々が喜ぶことを語るのではなく、聖書が告げていることを語るからです。人間に従うのではなく神に従うからです。けれどもそうであったとしても、私たちの教会が人間の罪を語るのは、人々に罪の責任を負わせるためではありません。そうではなく人々が自分の罪に気づき、悔い改めて、主イエスによる罪の赦しにあずかり、新しく生き始めるためです。最初の教会がそうであったように、私たちの教会も世の人々に一所懸命に語っていきます。今からでも決して遅くはないから、悔い改めて罪の赦しにあずかり、イエスを自分の人生の導き手として、救い主として新しく生き始めなさい、と語っていくのです。ほかならぬ私たち自身が主イエスによって罪を赦され、新しく生かされているからです。イエスを導き手として、救い主として生きる私たちに、なお苦しみや悲しみが絶えない日々にあっても、本当の慰めと希望が与えられているからです。確かに私たちの教会は世の人々に人気のないこと、人々の躓きになるようなことを語ります。しかし実はそこにこそ神が与えてくださる本当の救いがあり、本当の慰めと希望があるのです。だから私たちは、この「命の言葉」を、福音を語り続けていくのです。
ガマリエルの発言
しかし教会がそのように「命の言葉」を語ったからといって、いつも受け入れられるわけではありません。すでに見たように33節では、使徒たちが語ったことを聞いて、最高法院の議員たちが「激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」と語られています。最高法院は使徒たちへの激しい怒りと殺意で覆われたのです。ところが使徒言行録は、ここから最高法院における議論の風向きが変わっていくことを語ります。これまで議論を引っ張ってきたのは大祭司を始めとするサドカイ派の人たちであったと思われます。しかしまさに使徒たちへの怒りが頂点に達したときに、ファリサイ派のガマリエルという人物が議場で発言し、怒りに駆られる議員たちを冷静にさせたのです。ガマリエルは34節にあるように「民衆全体から尊敬されている律法の教師」でした。ファリサイ派の穏健派に属し、使徒言行録22章3節には、パウロがこの「ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け」たことが語られています。ここでガマリエルが、ファリサイ派とサドカイ派の派閥争いを背景として、サドカイ派の議論に反対したという面がまったくなかったわけではないかもしれません。しかしその点を差し引いても、ガマリエルは穏健かつ公正に論じたのです。
リーダーが死ねば、従っていた者たちも消え去る
そのガマリエルの結論が、38、39節でこのように言われています。「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」。ガマリエルは議員たちに、使徒たちから手を引き、放っておくよう言います。なぜなら使徒たちの計画や行動が、つまり「命の言葉」を語り続けることや、イエスの名によって業を行うことが、神から出たものではなく人間から出たものであるなら、自然に滅びるからです。このことをガマリエルは二つの歴史的出来事から裏付けて論じています。それが36、37節で言及されている、テウダという人物が起こした事件とガリラヤのユダという人物が起こした反乱です。この二つの出来事については、歴史的にはガリラヤのユダの反乱のほうが、テウダの事件より先に起こったと考えられることもあり、色々な議論がなされています。しかしここでガマリエルが二つの事件に言及したのは、あるカリスマを持ったリーダーが現れて、それに多くの人々が従ったとしても、そのリーダーが死んでしまえば、従っていた人たちはバラバラになる、ということを示すためです。だからテウダの事件についても「彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった」と述べているし、ガリラヤのユダの反乱についても、「彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた」と述べているのです。彼の議論のポイントは、リーダーが死ねば、従っていた人たちも消え去り、そのリーダーに率いられたグループは瓦解する。テウダにしろユダにしろ人間から出た計画や行動は、そうやって自滅するのだ、というところにあるのです。そして同じことが使徒たちやキリスト教会についても言えると論じます。イエスというリーダーは十字架につけられて死にました。ですからもし使徒たちの計画や行動が人間から出たものであるなら、イエスに従ってきた使徒たちもいずれ消え去り、キリスト教会も瓦解するに違いないのです。だからガマリエルは、人間から出たものなら放っておいても自滅するから、使徒たちから手を引くよう語ったのです。
人間から出たものではなく神から出たもの
このガマリエルの議論は、はからずも使徒たちの計画や行動が神から出たものであることを証明する道備えをすることになります。このときガマリエル自身が、使徒たちの計画や行動を人間から出たものと見なしていたのか、それとも神から出たものと見なしていたのかはよく分かりません。しかしいずれにしても、使徒たちは消え去りませんでした。「命の言葉」を、キリストの福音を語り続けたのです。使徒たちが地上の生涯を終えた後も、使徒たちに続く者たちが起こされ続けました。そうやってキリスト教会は、2000年以上に亘って福音を宣べ伝え続け、世界中に広がっていったのです。キリスト教会が2000年以上に亘って存続し、福音を宣べ伝え続けていることこそ、そして私たちの教会がこの横浜の地に立てられ、今も福音を宣べ伝え続けていることこそが、まさにガマリエルが論じたように、使徒たちの計画や行動が人間から出たものではなく、神から出たものであったことを証明しているのです。神から出たものであるからこそ、キリスト教会は幾多の困難に直面しながらも、これまで滅ぼされることなく存続し、使徒たちが宣べ伝えたのと同じキリストの福音を語り続けてきたのです。
主イエスが復活されたから
しかしこのことは、使徒たちやそれに続いたキリスト者たちの努力や頑張り、あるいは信仰心の篤さによるものではありません。そのような人間の力によってキリスト教会が2000年以上に亘って存続したのではないのです。ガマリエルの議論は、実は、もう一つ大切なことを指し示しています。彼は歴史的出来事から、リーダーが死ねば、それに従ってきた者たちも消え去る、と主張しました。しかし使徒たちも、それに続くキリスト者たちも消え去りませんでした。キリスト教会も存続しました。なぜでしょうか。キリスト者たち自身の力によってではありません。もしそうであれば私たちが頑張れなくなったとき、キリスト教会は滅ぶことになります。しかしそうではない。キリスト教会が今も存続しているのは、リーダーが死んだままではなかったからです。十字架で死なれた主イエスが復活されたからです。復活され、神の右に上げられた主イエスが生きて働かれたから、聖霊によって使徒たちと共にいて、また教会と共にいて、使徒たちと教会を用い、み業を行い続けてくださったから、キリスト教会は2000年以上に亘って存続してきたし、これからも存続し続けるのです。
辱めを受けるほどの者
そのように復活の主イエスがいつも共にいてくださり、私たちの教会を用いてくださるとき、私たちを満たすのは頑張ろうという熱意ではなく喜びです。ガマリエルの意見を聞き入れた最高法院は使徒たちを「鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放」しました。41節では「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」と言われています。鞭打ちは、その最中に死んでしまうこともあるほどの厳しいものでした。その痛みは想像を絶するものがあります。しかし使徒たちを満たしたのは、その激しい痛み以上に、その痛みに耐えようとする思い以上に、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたこと」への喜びであったのです。痛めつけられることを喜んだのではありません。「イエスの名のために辱めを受けるほど」自分たちは立派になった、と喜んだのでもありません。主イエスを見捨て、裏切ったにもかからず、主イエスの十字架と復活によって罪を赦され、新しく生かされて、「命の言葉」を、キリストの福音を告げ知らせる者とされていることを喜んだのです。主イエスが十字架で受けられた苦しみに僅かばかりであっても、共にあずかれていることを喜んだのです。
喜びに満たされて
復活の主イエスに用いられて、今も生きて働かれる主イエスに用いられて、私たちも世の人々に福音を届け、主イエスを証ししていきます。その中で苦しむことがあり、時には辱めを受けることがあるかもしれません。しかし私たちはそれにまさる大きな喜びに満たされているのです。なぜなら主イエスを十字架につけて殺した私たちを、それほどにどうしようもない罪人である私たちを、神が見捨てることなく、愛してくださったからです。共に読まれたイザヤ書43章1節以下には、この神の愛が告げられています。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。……水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。……わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる……」。このことが主イエスの十字架と復活において実現しました。神は御子イエスによって私たちを罪から贖い、私たちをご自分のものとしてくださいました。だから神のものとされた私たちは、いついかなるときも神と共に、主イエスと共に生きることができるのです。神は救われるに値しない私たちを、「価高く、貴い」と言ってくださり、「愛している」と言ってくださり、主イエスの十字架と復活によって救ってくださいました。イエスを導き手として、救い主として生きる新しい人生を、福音を告げ知らせ、主イエスを証しする者としての新しい歩みを与えてくださったのです。使徒たちは42節にあるように、主イエスによる救いによって与えられたこの喜びに満たされて、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせ」ました。同じように私たちの教会も、私たち一人ひとりも、神の愛によって、主イエスの十字架と復活によって罪を赦され、新しく生かされ、福音を告げ知らせる者とされていることの喜びに満たされて、これからも福音を宣べ伝え続けていくのです。主イエスを証しすることをやめないのです。この喜びに満たされて、私たちは人間に従うのではなく神に従っていくのです。
