説 教 「誘惑におちいらせず」牧師 藤掛順一
旧 約 詩編第61章2-9節
総員礼拝と子ども祝福式
今日は、総員礼拝です。普段は、教会学校の礼拝が9時から、そして10時半から大人の人たちの礼拝が別々に行われていますが、今日は、大人も子どももみんな一緒に礼拝をしています。教会学校の皆さん、ちょっと周りを見回してみてください。3階の席まで人がいっぱいです。みんなの礼拝が終わった後、毎週こんなに大勢の大人の人たちが神さまを礼拝をしているのです。また教会の皆さん、今多くの子どもたちと保護者の方々が、教会学校に集っています。どうぞこの子どもたちとそのご家族を覚えてお祈りください。そして皆さんが礼拝に来る頃に教会学校が終わって帰っていく子どもたちと保護者の方々に、「おはよう」「また来てね」と声をかけて下さい。私たちはみんな、神さまに招かれて礼拝に集められている仲間です。今日も神さまが招いてくださった、その喜びをみんなで分かち合っていきましょう。
また今日はこの礼拝の後、「子ども祝福式」を行います。自分の子どもや孫が対象でなくても、どうぞ残って参加して下さい。イエスさまは子どもたちを迎え入れて祝福して下さいました。そのイエスさまの祝福を担って、人々に伝えていくのが教会です。神さまは教会を通して子どもたちを祝福して下さるのです。できるだけ多くの方々に、その働きに加わっていただきたいのです。
神さまから引き離そうとする力
さて教会学校の礼拝では今、イエスさまが「こう祈りなさい」と教えて下さった「主の祈り」の一つひとつの祈りについてのお話しを聞いています。教会学校の礼拝で唱えている「主の祈り」は、大人の人たちがいつも主日礼拝で唱えているのとは違う、新しい訳のもので、今週の週報にはそれが印刷されています。その中の「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」が今日のところです。そしてこのお祈りについて語られている「新明解カテキズム」の今日の箇所である問62の答え、それも週報の報告のところに印刷されていますが、そこには、このお祈りは、「わたしたちを神さまから引き離そうとするあらゆる力から守ってくださるように」ということだ、とあります。「わたしたちを誘惑におちいらせず」の誘惑というのは、私たちを神さまから引き離そうとする力です。そういう力が私たちの周りには満ちています。日曜日、教会に行くよりももっと楽しいことや、将来のためになりそうな習い事がたくさんあって、そっちに行きたくなる、あるいはお子さん方を行かせたくなることがあるでしょう。教会に行っていると言うと、周りの人たちから、「今どきまだ神さまなんて信じてるの。変わってるね」なんて言われてしまうこともあるかもしれません。人にそう言われるだけではなくて、私たち自身も、いろいろなつらいこと、悲しいことがあると、「神さまは何もしてくれない。神さまを信じていても仕方がないんじゃないか」と思ってしまうことがあるでしょう。神さまを礼拝したり、お祈りをすることはもうやめちゃおうかな、そういう気持ちを私たちに起こさせるいろいろな力、誘惑が、私たちの周りには働いているのです。だから私たちは毎日、「わたしたちを誘惑におちいらせないでください」と神さまにお祈りして、神さまに守っていただくのです。そうしないと、神さまと一緒に歩んでいくことができないのです。
悪からお救いください
「わたしたちを誘惑におちいらせず」に続いてこのお祈りには、「悪からお救いください」と語られています。悪というのは、悪いことです。私が悪いことをしてしまわないように守ってください、と祈るのですが、その悪いことというのは、例えばお店のものを万引きしてしまうとか、人をだまして得をしようとするとか、悪口を言いふらして誰かを仲間はずれにする、などということでもありますが、何よりも、私たちが神さまから離れてしまうこと、もう神さまといっしょに歩むのはやめた、礼拝もしない、お祈りもしない、と言って、神さまとのつながりを断ち切ってしまうことです。それが悪いことだっていうのは、そういうことをするとバチが当たって何か不幸なことが起こる、ということではありません。神さまとのつながりを切って、神さまから離れてしまうと、私たち自身が、喜んで、元気に、生き生きと生きることができなくなってしまうのです。毎週日曜日の礼拝で神さまが語りかけて下さっていること、私たちが毎週ここで聞いていることは、神さまが私たちのことを心から愛して下さっているんだ、ということです。神さまはその独り子であるイエスさまをこの世界に送って下さいました。そしてイエスさまは私たちのために十字架にかかって死んで下さったのです。独り子を与えて下さったほどに私たちを愛して下さっているこの神さまから離れてしまって、礼拝やお祈りをしなくなってしまったら、その神さまの愛を見失ってしまいます。そうしたら私たちは喜んで、元気に、生き生きと生きることはできません。それは私たちにとって一番「悪いこと」「サイアク」なことです。だから、「悪からお救いください」というのも、「わたしたちを誘惑におちいらせず」と同じように、私たちが神さまから離れてしまわないように守ってください、というお祈りなのです。
わたしたちは弱い
このように、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」とお祈りすることによって私たちは、神さまから離れてしまうことがないように守ってください、と神さまにお願いしているのですが、それって何だか変だな、と思うかもしれません。だって、神さまから離れてしまうのは自分なんだから、自分が離れさえしなければいいので、それを神さまにお願いするなんて変じゃないか?理屈っぽい人はそう思うのではないでしょうか。でも私たちは、自分で神さまから離れないでいることはできないのです。それが私たちの弱さです。このお祈りは、「私たちは弱いものですから、自分で神さまから離れないで生きることができません。だから神さま、私たちが神さまから離れてしまわないように守ってください、助けてください」というお祈りなのです。私たちは、すぐに誘惑に負けて神さまから離れてしまって、悪に飲み込まれてしまう弱い者です。だからこのようにお祈りをするのです。このお祈りだけではありません。主の祈りのほかのお祈りも、そしてそもそも神さまを信じてお祈りをするということは、自分が弱い者だっていうことを自分で知っている、そのことを認めているということです。私たちは弱い者だから、お祈りをするのです。神さまを信じるのです。自分は強いんだ、と思っていたら、お祈りなんてしません。自分の力でできると思っている人はお祈りはしないのです。神さまを信じたりしないのです。ひっくり返して言えば、お祈りなんてしない、神さまなんて信じない、という人は、どこかで自分は強いと思っているのです。自分の力でできると思っているのです。でも、私たちはそんなに強い者ではありません。自分の力で生きていくことはできないのです。それは、他の人と助け合わなければ生きられない、ということではありません。他の人と助け合って、支え合って生きることは、弱い私たちには確かに大事です。でもそれだけでは足りません。人間どうしで助け合えること、支え合えることには限りがあるのです。本当に必要なのは、私たちに命を与えて下さって、人生を導いて下さっている神さまの助けと支えなのです。それなしに、人間の力だけでどうにかしよう、と無理をしていると、どこかでポキンと折れてしまって立ち上がれなくなってしまうのです。イエスさまがこのお祈りを私たちに教えて下さったのは、私たちが、自分は弱いものなんだ、ということを認めて、受け入れて、神さまに助けを求めていくためです。神さまを信じて、お祈りをして神さまに助けを求めて生きることは、おかしなことでも変わったことではなくて、自然なこと、当たり前なことなんだよ、とイエスさまは教えて下さっているのです。
祈りに応えて下さる神
そして神さまは、私たちのお祈りをしっかり聞いて下さいます。そして弱い私たちを助けて下さり、支えて下さいます。今日の聖書の箇所、詩編第61編はそのことを語っているのです。詩編61編の2、3節に「神よ、わたしの叫びを聞き/わたしの祈りに耳を傾けてください。心が挫けるとき/地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上にわたしを導いてください。」とあります。弱い私たちは苦しみや悲しみの中ですぐ心が挫けてしまいます。「地の果て」というほどに遠く神さまから離れてしまうのです。その「地の果て」から神さまを呼び、助けを求める私たちの叫びを、神さまは聞いて下さいます。そしてそれに応えて下さるのです。そのことが4、5節に語られています。「あなたは常にわたしの避けどころ/敵に対する力強い塔となってくださいます。あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り/あなたの翼を避けどころとして隠れます」。地の果てから、神さまに向かって叫ぶように祈る私たちに、神さまは応えて下さって、私たちの「避けどころ」「力強い塔」となって下さるのです。だから私たちは神さまの幕屋に宿り、神さまの翼を避けどころとして隠れることができるのです。それは神さまが守って下さっているから、安心していることができる、ということです。すぐに神さまから離れていってしまう弱い私たちが、助けを求めてお祈りする時に、神さまはこのように応えて下さって、私たちが神さまから離れてしまわないように、守って、支えて、助けて下さるのです。私たちはこの神さまに、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」とお祈りしているのです。
主イエスの十字架による救いの中で
でも、このようにお祈りしていても、弱い私たちはすぐに誘惑に負けてしまって、神さまから離れていこうとします。いろいろな悪いことにひきずられてしまうこともあります。神さまに守っていただいて誘惑に打ち勝とう、悪に負けないようにしようとしても、やっぱりできないのです。イエスさまは私たちのそういう弱さをよくご存じです。だからイエスさまは、このお祈りを教えて下さっただけではなくて、私たちのために十字架にかかって死んで下さったのです。それは、誘惑におちいって、神さまから離れてしまって、いろいろな悪いことをしてしまう私たちのその罪をイエスさまが全部背負って、私たちの身代わりになって死んで下さったということです。イエスさまが十字架にかかって死んで下さったことによって、誘惑に負けて悪におちいってしまう私たちを、神さまはもう赦して下さっているのです。誘惑におちいってばかりで、悪にひきずられてしまう弱くて罪の深い私たちが、イエスさまの十字架の死によって、もう赦されているのです。救われているのです。イエスさまが実現して下さったこの救いの恵みの中で私たちは、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」とお祈りするのです。
喜んで、感謝して生きるための祈り
私たちが神さまの助けを受けて、誘惑におちいらないように気をつけて、悪と戦っていくことによって救われるのではありません。そういうことのできない弱い私たちの救いが、イエスさまの十字架の死と、そして復活によってもう与えられているのです。イエスさまが与えて下さったこの救いをいただいて、喜んで、感謝して、そしてその救いの恵みに少しでもお応えしていくために「主の祈り」があります。「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」というお祈りも、誘惑におちいって悪にひきずり込まれないようにとびくびくしながら、用心して生きるためのお祈りではなくて、イエスさまの愛による救いを喜んで、感謝して、神さまと一緒に日々を過ごしていくために与えられているのです。
