夕礼拝

主が示されたこと

説教 「主が示されたこと」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 列王記下第8章7-15節
新約聖書 ルカによる福音書第19章41-44節

アラムによって苦しめられているイスラエル
 月に一度私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書列王記下からみ言葉に聞いています。今読んでいるところの主人公は主なる神の預言者エリシャです。エリシャは、ダビデ、ソロモンのイスラエル王国がソロモンの死後、南ユダと北イスラエルに分裂してできた、北王国イスラエルにおいて、紀元前9世紀に活動した預言者です。その頃、北王国イスラエルは、その北東に位置するアラムに度々攻め込まれていました。しかしエリシャが、アラム軍がどこに攻めて来るのかを、預言者としての力によって知り、イスラエルの王に伝えていたので、イスラエルはその都度アラム軍を撃退することができました。そういうことが繰り返されたことに怒ったアラムの王は、エリシャを捕えようとして軍勢を遣わし、エリシャのいる町を包囲しましたが、主なる神がその危機から救って下さった、ということが、前回、9月に読んだ第6章に語られていました。その話の最後のところ、6章23節には、「アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった」とありました。しかし前回も申しましたが、こうして成立した平和はほんの一時のことで、次の24節にはもう「その後(のち)、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、攻め上って来て、サマリアを包囲した」とあります。アラム軍は、二度と来なかったどころか、すぐにまた来て、北王国イスラエルの首都サマリアを包囲したのです。包囲されたサマリアは食料が尽き、大変な飢饉に苦しんだことが6章の後半に語られています。しかし7章には、主なる神が不思議な仕方でアラム軍を退却させて、イスラエルを救って下さったことが語られています。手に汗握る面白い話ですので、第7章をぜひそれぞれで読んでいただきたいと思います。
 さて本日ご一緒に読むのは、第8章の7節以下です。最初の7節に、先ほどの6章24節にも出て来たアラムの王ベン・ハダドの名が語られています。「エリシャがダマスコに来たとき、アラムの王ベン・ハダドは病気であった」。このベン・ハダドがこれまで何度もイスラエルを苦しめてきたのです。この時のイスラエルの王はヨラムという人ですが、その父であるアハブ王の時にも、ベン・ハダドがイスラエルを攻撃してきたことが、列王記上の第20章に語られていました。その戦いにおいて、主なる神がイスラエルに勝利を与えて下さり、ベン・ハダドを捕えることができました。しかしアハブ王が欲に目がくらんで彼を釈放してしまったために、その後もイスラエルは彼によって何度も苦しめられることになった、ということが語られています。そのようにこれまでイスラエルをさんざん苦しめてきたアラムの王ベン・ハダドが病気になったのです。

主の御旨を尋ねさせるベン・ハダド
 7節の冒頭に「エリシャがダマスコに来たとき」とあります。ダマスコはアラムの首都です。エリシャは、敵国であるアラムの首都ダマスコに、何のために来たのでしょうか。第6章には先ほど申しましたようにアラムの王がエリシャを捕えようとして軍勢を送ったと語られていました。つまりエリシャはアラムにおいては「お尋ね者」だったのです。そのエリシャがのこのことダマスコに行くとはどういうことでしょうか。そのことには後で触れますが、イスラエルの神である主とその預言者エリシャのことは、アラムにおいても既によく知られており、その特別な力は恐れられると共に敬われてもいました。列王記下の第5章には、アラムの軍司令官ナアマンがエリシャのもとに来て重い皮膚病を治してもらったことが語られていました。病気になったベン・ハダドも、それと同じようなことをしたのです。7節後半から8節に「『神の人がここに来た』と知らせる者があって、王はハザエルに言った。『贈り物を持って神の人を迎えに行き、わたしのこの病気が治るかどうか、彼を通して主の御旨を尋ねよ』」とあります。「神の人」とはエリシャのことです。ベン・ハダドは、エリシャがダマスコに来たことを知ると、自分の病気が治るのかどうかを、イスラエルの神である主の御旨をエリシャに尋ねさせようとしたのです。重い病気になった時には誰もが、自分はこれからどうなるのか、治って再び元気になることができるのかを知りたいと思います。今ならそれは医者に聞くことですが、当時は神のみ心を尋ねるしかありませんでした。そしてどうせ尋ねるなら、できるだけ力のある神に、そしてその神のみ心を伝えることにおいて定評のある預言者に依頼したい、それは私たちが、できるだけ優れた医者に見立ててもらいたいと思うのと同じことです。ベン・ハダドはそのように思って、敵であるイスラエルの神である主の預言者エリシャのもとに人を送ったのです。

ハザエル
 彼がエリシャのもとに遣わしたのが、家臣のハザエルでした。この人の名前も、ここで初めて登場したのではありません。列王記上第19章に既にその名前が語られていました。それは、エリシャの前に主なる神の預言者だったエリヤの物語においてです。そこを振り返っておきたいと思います。列王記上の18章と19章は、エリヤの物語のクライマックスです。18章には、エリヤが、北王国イスラエルの当時の王アハブとその妻イゼベルと対決したことが語られていました。アハブは妻イゼベルの出身地の偶像の神バアルをイスラエルに持ち込み、主なる神の預言者たちを迫害していました。エリヤは、イスラエルの人々の前で、主なる神とバアルと、どちらが本当の神なのかを明らかにするために、カルメル山の上で、バアルの預言者450人と一人で対決したのです。お互いに祭壇を築き、犠牲の動物をその上に乗せて、それぞれの神の名を呼んで祈り、その祈りに応えて天からの火をもって献げものを焼き尽くす神こそがまことの神だ、という勝負です。まずバアルの預言者たちが祭壇を築き、朝から昼まで必死に祈りましたが、何も起こりませんでした。次にエリヤが主なる神のための祭壇を築き、犠牲の動物を置いて、その上から何杯も水を注いで祭壇全体を水びたしにしました。そしてエリヤが主なる神に祈ると、主の火が天から降って、祭壇の全てを焼き尽くしたのです。そのようにしてエリヤは一人で、バアルの預言者450人に勝利したのです。しかしこのことによって北王国イスラエルからバアル崇拝が一掃された、というわけではありませんでした。むしろアハブ王とイゼベルは激しく怒ってエリヤを殺そうとしたのです。エリヤは、イスラエルのずっと南のシナイ半島の方まで逃げて行き、神の山ホレブにやって来ました。そのことが列王記上の19章に語られています。神の山ホレブは、モーセが主なる神と出会って、エジプトへと遣わされた所です。主なる神はモーセに現れたのと同じように、神の山ホレブでエリヤの前に現れました。エリヤは主なる神に、私はあなたに熱心に仕えてバアルの預言者たちと戦ってきたけれども、事態は少しも変わらず、あなたに従う者はもう私一人です。私はもう疲れ果てました、と訴えました。しかし主なる神はエリヤに、私はなおイスラエルに私に従う民を残していると告げ、エリヤに使命を与えて、彼をもう一度預言者として立て、お遣わしになったのです。エリヤに与えられた使命は、三人の人に油を注ぐことでした。列王記上の19章15、16節を読んでおきます。「主はエリヤに言われた。『行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ」。ここにハザエルの名前が出て来ます。ハザエルは、主なる神がエリヤに、油を注げとお命じになった三人の中の一人だったのです。

エリヤに告げられたことがエリシャによって実現する
 油を注ぐというのは、神によってある特別な使命へと立てられることを意味しています。この三人の内の最初の二人は、王として立てられます。ハザエルはアラムの王に、イエフは北王国イスラエルの王にです。三人目のエリシャは預言者として立てられます。エリシャがエリヤの後継者となって、主なる神のみ言葉を語り、み業を行っていくのです。主なる神はこの三人を立てることによって、み心を行い、み業をおし進めようとしておられるのです。つまりエリヤに与えられたこの使命は、主なる神がこれからもなお、イスラエルの民をご自分の民として導いて行こうとしておられることを示しているのです。そのために主は、ハザエルをアラムの王に、イエフを北王国イスラエルの王に、そしてエリシャを預言者としてお立てになるのです。
 エリヤは主のみ言葉に従ってイスラエルの地に戻り、エリシャに油を注ぎました。エリシャが今力ある働きをしているのは、エリヤによって油を注がれて主の預言者として立てられたからです。しかし最初の二人、ハザエルとイエフについては、エリヤが彼らに油を注いだことは語られていません。ハザエルとイエフが王となることは、エリヤの後継者として立てられたエリシャのもとで実現していったのです。ハザエルがアラムの王となったことが本日の箇所、列王記下の第8章7〜15節に語られています。イエフがイスラエルの王となるのは、次の第9章においてです。列王記上の第19章でエリヤに与えられた主の命令は、列王記下の8章と9章において、エリシャによって実現したのです。エリシャが敵国であるアラムの首都ダマスコに来たのは、主がエリヤにお命じになったあの第一のことを行うためだった、と言うことができるのです。

ハザエルによる王位簒奪
 さてハザエルは先ほども申しましたように、アラムの王ベン・ハダドの家臣です。主君ベン・ハダドの病気が治るのかどうかを尋ねたハザエルにエリシャはこう答えました。10節です。「行って王に言うがいい。『あなたは必ず治る』と。しかし、主は彼が必ず死ぬことをわたしに示された」。はあ?どういうこと?と思う答えです。エリシャはハザエルに、主君ベン・ハダドには、「あなたは必ず治る」と告げるようにと言いました。しかしハザエル自身には、「主は彼が必ず死ぬことをわたしに示された」と言ったのです。そこに込められている意味は13節の後半にはっきりと示されています。「主はあなたがアラムの王になることをわたしに示された」。ベン・ハダドが死んで、ハザエルがアラムの王になる、ということこそ、主なる神がエリシャに示したみ心だったのです。ハザエルはこれを聞いて、主君ベン・ハダドのもとに帰りました。そして「エリシャはお前に何と言ったか」と問われると、「必ず治ると彼は言いました」と答えました。しかしその翌日、ハザエルはベン・ハダドを殺して、アラムの王となったのです。つまり家来であるハザエルが、主君ベン・ハダドを殺してその王位を簒奪したのです。

時代が変わり人が代わっても
 この出来事において決定的な役割を果たしたのが、エリシャに示された主の言葉でした。ベン・ハダドが死ぬこと、そしてハザエルがアラムの王となることを、主がお告げになり、そのみ言葉が、ハザエルのみに伝えられたのです。ハザエルは、この主の言葉によって、主君を殺し、王位を奪う決意を固めた、と言えるでしょう。こうして、エリヤに示された主のみ心、ご計画が実現したのです。しかもそのことは、エリヤに告げられてから随分時が経ってから実現しました。エリヤの後継者となったエリシャのもとでそれは実現したわけですし、北王国イスラエルの王もその間に、アハブからアハズヤそしてヨラムへと変わっています。アハズヤとヨラムは二人共アハブの子ども、つまり兄弟です。アハズヤがアハブの後を継いで王となりましたが、彼の治世は二年間で、病気で死んだために兄弟であるヨラムが次の王となったのです。列王記上から下に移るあたりにそのことが語られています。このようにエリヤに告げられたみ心が実現するまでにはかなりの時が経っており、世代も交代して、人の顔ぶれも変わっています。主なる神がお示しになったみ心は、時代が変わり人が代わっても、必ず実現する、ということがここに語られているのです。

涙を流したエリシャ
 しかしハザエルがベン・ハダドに代わってアラムの王となったことは、主なる神が、イスラエルを繰り返し苦しめていたベン・ハダドを取り除いてイスラエルを救って下さった、ということではありませんでした。エリシャは、ハザエルがアラムの王となることを主から示され、それをハザエルに告げましたが、そこに不思議なことが語られています。11、12節です。「神の人は、ハザエルが恥じ入るほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出したので、ハザエルは、『どうしてあなたは泣かれるのですか』と尋ねた。エリシャは答えた。『わたしはあなたがイスラエルの人々に災いをもたらすことを知っているからです。あなたはその砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼児を打ちつけ、妊婦を切り裂きます」。ハザエルがアラムの王となることによって、イスラエルの人々がこれから苦しみを受ける、ということがここに示されています。ハザエルも、ベン・ハダドと同じように、イスラエルを苦しめていくのです。そのことはこの後のところに繰り返し語られていきますが、10章の32節にはこうあります。「このころから、主はイスラエルを衰退に向かわせられた。ハザエルがイスラエルをその領土の至るところで侵略したのである」。主なる神のみ心によってアラムの王として立てられたハザエルによって、北王国イスラエルは度々侵略を受け、衰退へと向かっていったのです。エリシャはそのことを見通して、涙を流しました。しかし彼はハザエルがアラムの王となることを妨げることはできません。それは主がお示しになったみ心であって、それを変えることはできないのです。だから彼は涙を流すことしかできないのです。

ご自分の民を懲らしめ、悔い改めを求める主
 これは不思議な、なかなか理解出来ないことです。しかしここには、主なる神とその民であるイスラエルの関係とはどのようなものなのかが示されているのです。その関係は、主がイスラエルの民の守護神として、いつもイスラエルを守り、勝利と豊かさと繁栄をもたらして下さる、というものではありません。主なる神は、確かにイスラエルの民を選んで、ご自分の民として下さり、彼らを通して救いのみ業を行っておられます。しかしそれは、イスラエルの民だけを愛して、その便宜をはかって下さる、ということではありません。主なる神は、この世界の全てをお造りになり、全ての国々の人々を導いておられるのです。その中でイスラエルの民が選ばれて神の民とされているのは、彼らが主なる神のみ心を知って、主に従い、主と良い関係をもって生きることによって、この世界をお造りになった主の恵みを世界の人々に示し、全ての人々が主の祝福にあずかって生きるようになるためです。つまり主の救いのみ業に仕えるために、イスラエルは神の民とされているのです。そのイスラエルが、主なる神に従って共に生きることをやめて、他の神々、偶像の神々を拝むようになり、主が与えて下さった使命を捨ててしまうならば、主はお怒りになります。イスラエルが主に選ばれ、愛されている民だからこそ、主は激しくお怒りになり、彼らに苦しみをお与えになります。それは、怒りに任せて彼らを滅ぼしてしまおう、ということではなくて、彼らが悔い改めてご自分のもとへと立ち帰るように促すためです。北王国イスラエルがこれまで度々アラムによって苦しめられてきたのも、主による懲らしめ、警告でした。それでもなおイスラエルは、主に立ち帰ることをせず、偶像の神バアルを拝んだりしているのです。そのイスラエルにさらに苦しみを与え、悔い改めを求めるために、ハザエルがアラムの王として立てられたのです。主なる神は、ご自分の民として選んだ者たちを、愛しておられるがゆえに、厳しく懲らしめることによって、悔い改めを促す方でもある、とうことがここに語られているのです。

主イエスも涙を流された
 主イエスも同じようなことをお語りになりました。それが先ほど共に読んだ、ルカによる福音書第19章41節以下です。主イエスはこの時、エルサレムに入ろうとしておられました。そのエルサレムで、捕えられ、十字架につけられるのです。そのエルサレムが、敵に攻め滅ぼされて徹底的に破壊されてしまう時が来る、と主イエスは語っておられます。そして44節の最後のところには、そのようなことが起こるのは、「神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」とあります。神の独り子主イエスがこの世を訪れて下さっているのに、その恵みをわきまえず、受け入れようとしない、そのために、神の怒りによる災いが降ろうとしているのです。主イエスはそのことを見通して、エリシャと同じように涙を流されました。しかしこの主イエスの涙は、主なる神のみ言葉を伝えることしかできない預言者エリシャの涙とは違います。主イエスは、神の訪れをわきまえず、み心を無にしている私たち全ての者の罪をご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。罪人が受けるべき苦しみと滅びを、神の独り子である主イエスが代わって背負って下さったのです。エルサレムのために、人々のために、私たちのために泣いて下さった主イエスは、ご自分の命を犠牲にして、人々の、私たちの、罪を赦して下さり、神との良い関係を回復して下さったのです。私たちの歩みはこの主イエスの涙と、十字架の死とによって支えられています。私たちも、神の愛をわきまえず、それを無にしてしまう罪のゆえに、苦しみを受けることがあります。神が私たちに懲らしめを与えて悔い改めを求めておられる、と感じることがあります。そうであっても、主なる神は根本的には私たちに、独り子主イエスの十字架の死による赦しを与え、ご自分の民として導こうとして下さっているのです。主イエス・キリストによって、主なる神のそういうみ心が示されています。主がお示しになったみ心は必ず実現するのです。私たちはそのみ心を信じて生きることができるのです。

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