主日礼拝

光輝く主イエス

説教「光輝く主イエス」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第27編1-14節
新約聖書 マタイによる福音書第17章1-8節

光り輝く主イエス
 マタイによる福音書第17章1節以下には、イエス・キリストが、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子のみを連れて高い山に登られたことが語られています。この三人は、主イエスの最初の弟子たちです。彼らが弟子になったことはこの福音書の第4章18節以下に語られていました。彼らは皆、ガリラヤ湖の漁師でした。ペトロは、兄弟アンデレと一緒に湖で網を打っていた時に、主イエスに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけられると、すぐに網を捨てて従ったのです。ヤコブとヨハネも兄弟です。彼らも、主イエスに呼ばれると、舟と父をその場に残して従いました。このように彼らは、主イエスがガリラヤにおいて伝道を始めて最初に主イエスに従った人たちでした。主イエスの弟子はその後12人に増えましたが、本日の箇所で主イエスは、この三人だけを連れて高い山に登ったのです。その山の上で何があったのでしょうか。2節に「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」とあります。主イエスの姿が、栄光に輝く姿に変わった、つまり、主イエスの神の子としての栄光が目に見える仕方で示されたのです。このことは逆に、普段の主イエスは栄光に輝く姿をしてはおられなかったことを示しています。普段の目に見えるお姿からは、主イエスが神の子であることは全く分からなかったのです。しかしこの時だけは、そのお姿が栄光に輝くお姿に変わりました。ペトロとヤコブとヨハネはこの時、主イエスの神の子としての栄光を、特別に見させていただいたのです。主イエスはそのために彼ら三人を連れて高い山に登ったのです。

モーセ
 彼らが見たのは、栄光に輝く主イエスのお姿だけではありませんでした。3節には「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」とあります。彼らはモーセとエリヤの姿をも見たのです。モーセは、出エジプト記に出てくるあのモーセです。エジプトで奴隷とされて苦しんでいたイスラエルの民を救うために主なる神がお遣わしになったモーセは、数々の力ある奇跡を行って、エジプトの王ファラオにイスラエルの民の解放を迫りました。イスラエルの民はモーセに導かれてエジプトを脱出し、神が約束して下さっている地へと、荒れ野を旅していったのです。その荒れ野の旅の中で主はモーセを通して、十戒を中心とする律法を彼らに与えました。旧約聖書の最初の五つの書、創世記から申命記まではモーセが書いたと言い伝えられており、その全体が「律法」と呼ばれています。モーセは旧約聖書の第一の部分である「律法」を代表する人なのです。

エリヤ
 それに対してエリヤは、主なる神が、ご自分の民であるイスラエルに、み言葉を語りかけ、み業を行うために選び、お立てになった預言者たちの代表です。先ほどの「律法」に続く旧約聖書の第二の部分、ヨシュア記以降のところは「預言者」と呼ばれています。主なる神が様々な人々を遣わしてイスラエルの民を導かれたことがこの部分に語られていますが、その全体が「預言者」と呼ばれており、エリヤはその部分を代表する人なのです。旧約聖書の第一の部分はモーセに代表される「律法」であり、第二の部分はエリヤに代表される「預言者」です。そこにさらに第三の部分「その他の書」が加えられて旧約聖書は完成するのですが、主イエスの時代には第三の部分はまだ確定してはいませんでした。ですから当時の聖書は「律法と預言者」という二つの部分から成っていたと言えます。その二つの部分を代表しているのがモーセとエリヤです。つまりこの二人は、旧約聖書の全体を代表していると言うことができるのです。

神の救いの歴史の代表
 旧約聖書はその最初に、主なる神がこの世界と人間を恵みのみ心によって造って下さったことを語っています。しかし人間は神に従うことをやめ、自分が主人となって生き始めました。その罪によって人間は神の祝福を失い、同時に人間どうしの良い関係も失って、苦しみの中を生きるようになったのです。主なる神はその人間を救って下さるために、イスラエルの民を選び、導いていかれました。モーセによって彼らをエジプトの奴隷の苦しみから救い出し、彼らがこの救いに感謝して神の民として歩むための道しるべである律法を与え、また預言者たちを遣わして、主なる神のもとに立ち帰り、神の民として生きるようにと彼らに語りかけて下さったのです。それはイスラエルの民だけを救うためではありません。彼らが立ち帰って神の民となることによって、失われてしまった神の祝福が回復され、その祝福が彼らを通して全ての人間に及んでいくことを主なる神は願っておられたのです。つまりイスラエルの民の歩みは、神が世界の全ての人々を救って下さろうとしている救いのみ業の歴史なのです。しかしイスラエルの民は、この神の思い、願いを受け止めずに、神に背き続けました。しかし主なる神はそのような現実の中でも、救いのみ業を継続して下さいました。預言者たちによって、メシアと呼ばれる救い主が来られることを告げて下さったのです。神による救い、祝福の回復は、将来現れるメシア、救い主によって実現する、と約束して下さったのです。旧約聖書にはこのように、罪によって神の祝福を失っている人間を救うための神の救いの歴史が語られています。律法と預言者を代表しているモーセとエリヤは、その神の救いの歴史全体を代表している二人です。その二人が現れて、神の子としての栄光に輝く主イエスと語り合っていた。それは、神の子である主イエスこそ主なる神のこれまでの救いの歴史を受け継ぐ者、約束されていたメシア、救い主であり、神が全ての人々に与えようとしておられる救い、祝福の回復が、主イエスによっていよいよ実現する、ということを示しているのです。

主なる神の語りかけ
 つまり三人の弟子たちが山の上で体験したのは、普段は見ることができない主イエスの神の子としての栄光を見ることができた、というだけのことではありません。旧約聖書以来の神の救いのご計画が主イエスによっていよいよ実現する、という極めて重大なことがここに示されているのです。ですから彼ら三人の弟子たちは、まさに光り輝く神の救いの出来事のただ中に置かれたのです。5節に「光り輝く雲が彼らを覆った」と語られているのはそういうことを示しています。そしてこの光り輝く雲の中で彼らは、主なる神のみ声を聞いたのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。主なる神ご自身が、イエスこそ私の愛する子だ、と宣言して下さり、神のみ心に適う救いのみ業がこのイエスによって実現する、とお語りになったのです。三人の弟子たちは、主イエスの神の子としての栄光のお姿を見ただけでなく、律法と預言者によって示されてきた主なる神の救いのみ心が、主イエスによっていよいよ実現しようとしていることを、神のみ言葉によってはっきりと示されたのです。

主イエスの受難と栄光
 何故、この時点でこのことが示されたのでしょうか。そのことは前回まで読んできた第16章を振り返ることによって分かります。16章13節以下には、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに答えてペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰を言い表したことが語られていました。ペトロは弟子たち皆を代表してこの信仰告白を語ったのです。主イエスはそれを受けて「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とおっしゃいました。「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰の告白は、人間が考え出したことではなくて、主イエスの父である神が与えて下さるものなのです。そして主イエスはさらに、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃいました。この岩と言われているのは、ペトロが弟子たちを代表して語ったあの信仰告白です。主イエス・キリストの教会はこの信仰告白を土台として築かれていくのです。主イエス・キリストによる救いにあずかる群れである教会は、旧約聖書におけるイスラエルの民に代わって、主イエスによって実現する神の救いを担ってそれを世界の人々に伝えていく新しい神の民です。その教会は、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白の上に築かれていくのだということがここに示されたのです。
 16章21節以下には、主イエスが「このときから」ご自分がエルサレムに行って多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活することを打ち明け始めたことが語られていました。主イエスの受難、十字架の死が、主イエスご自身によって予告され始めたのです。「このときから」とは、主イエスが神の子であり、救い主であられるという信仰が告白され、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」という宣言がなされたこの時から、ということです。そのことが示されたとたんに、主イエスが多くの苦しみを受け、十字架につけられて殺され、そして復活することが語られ始めたのです。このことによって主イエスは、メシアであり神の子であるご自分による救いは、苦しみを受け、十字架につけられて殺されることによってこそ実現するのだ、ということをお示しになったのです。しかしペトロはそれを受け止めることができませんでした。16章22節で彼は、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って主イエスを諌めました。すると主イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しくお叱りになり、そして「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」とおっしゃったのです。
 ペトロが、主イエスの受難などあってはならないことだと言ったのは、主イエスによる救いは、神の子としての力と栄光を示すことによって実現する、と期待していたからです。彼はその主イエスに従う弟子である自分も、その救いにあずかって力と栄光の道を歩むことができる、と期待していたのです。しかし主イエスは、神の子であり救い主である自分はこれから十字架の苦しみと死に向かって歩んでいくと語り、弟子たちにも、自分の十字架を背負って従って来ることを求めたのです。16章にはそういうことが語られていました。これを受けての17章です。その1節には「六日の後」と具体的な日も語られて、16章との繋がりが示されています。主イエスが十字架の苦しみと死によって救いのみ業を実現しようとしておられることが示された直後のこの時こそ、主イエスの神の子としての栄光のお姿が示されるべき時だったのです。

主イエスの栄光の先取り
 主イエスは多くの苦しみを受け、十字架につけられて殺されることによって救いを実現して下さいます。その主イエスの弟子たちも、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくのです。それは力と栄光の歩みではなくて、むしろ苦しみの歩みです。その苦しみの歩みを支えるために、主イエスの栄光のお姿がここで示されたのだと言えるでしょう。苦しみと死への道を歩んで下さった主イエスは、その隠された本質においては、神の子としての栄光に光り輝く方なのです。その主イエスの神の子としての栄光は、今は隠されているけれども、最終的には必ず明らかになります。そのことは16章にも語られていました。16章27節で主イエスは、「人の子(つまり主イエス)は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」とおっしゃいました。主イエスは、世の終わりに、父の栄光に輝いて天使たちと共にもう一度来られるのです。そのことによって、主なる神による救いが完成するのです。山の上で示された主イエスの栄光はそのことの先取りです。三人の弟子たちは、父の栄光に輝いて天使たちと共に来る主イエスのお姿を、前もって、ほんのひと時だけ、示されたのです。それによって、自分の十字架を背負って主イエスに従っていく弟子としての、信仰者としての歩みのための励ましと支えを与えられたのです。

高い山の上とゲツセマネ
 しかし主イエスの栄光のお姿を見ることができたのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけでした。何故この三人だけだったのでしょうか。そのわけは、この福音書の26章36節以下を共に読むことによって見えてくると思います。ここは、主イエスが逮捕される直前に、ゲツセマネという所で深い嘆き悲しみの中で祈られた箇所です。主イエスはそこで「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃり、「父よ、できることなら、この杯(つまり十字架の死)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られたのです。この時主イエスに伴われて、主イエスの悲しみと祈りを目撃したのがペトロとヤコブとヨハネでした。後にゲツセマネにおいて、主イエスの最も深い苦しみのお姿を見ることになるこの三人が、この時高い山の上へと伴われたのです。彼らは、山の上で栄光に光り輝く神の子としてのお姿を見た、その主イエスが、十字架の死を前にして苦しみ悶えるお姿をも見たのです。この二つの場面の繋がりを意識することが大切です。主イエスは、力と栄光を示すことによってではなくて、十字架の苦しみと死によって救いのみ業を実現して下さいました。そのことは主イエスにとっても大きな苦しみであり、できることなら避けて通りたいことだったのです。しかし主イエスは父なる神のみ心に従って、ご自分の十字架を背負って歩み通して下さったのです。その主イエスが、その本質においては神の独り子であり、栄光に輝くお方なのだ、ということがこの山の上で示されています。本来神の子としての栄光に輝いておられるはずの主イエスが、その栄光を手放して私たちと同じ人間になって下さり、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによってこそ、私たちの救いは実現したのです。山の上で神の子としての栄光に光り輝いた主イエスと、ゲツセマネにおいて苦しみ悶えつつ祈っておられる主イエスとが同じ方なのだということを知らされることによってこそ、主イエス・キリストによる神の救いの恵みがはっきりと示されるのです。主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を選んで、このことを示して下さったのです。

主の日の礼拝において
 私たちも、彼らと同じように選ばれて、このことを示されつつ歩んでいます。それは私たちが、この主の日、日曜日の礼拝に集う者とされている、ということです。私たちは主の日の礼拝において、栄光に輝く主イエスのお姿を見つめます。主なる神は礼拝において、聖霊のお働きによって私たちの心に、主イエスこそ神の独り子、救い主であられ、神としての栄光に輝いておられる方であることを示して下さっているのです。ですから私たちにとっての「山の上」は主の日の礼拝です。そして私たちは、同じ主の日の礼拝において、その神の子である主イエスが、栄光を放棄して私たちのために人間となって下さり、私たちの罪を全てご自分の身に背負って、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことをも示されています。これから共にあずかる聖餐は、私たちがそのことを体をもって味わい知るために備えられています。聖餐のパンと杯によって私たちは、主イエスが肉を裂き、血を流して十字架の上で死んで下さったことによって実現して下さった恵みにあずかるのです。ですから私たちにとってのゲツセマネは、主の日の礼拝とそこであずかる聖餐であると言うことができます。主イエスはこの礼拝へと私たちを招いて下さることによって、主イエスの栄光のお姿を示される「山の上」へと伴って下さると共に、十字架の死を前にして苦しみ悲しみつつ、しかし父なる神のみ心に従って十字架の死への道を歩み通して下さった主イエスのお姿を目の当たりにする「ゲツセマネ」へも伴って下さっているのです。
 さらに聖餐は、主イエスが神としての栄光に輝いて天使たちと共にもう一度来られる世の終わりの時に、父なる神のもとであずかることを約束されている祝宴の先取りでもあります。聖餐にあずかることによって私たちは、神の子としての栄光に輝く姿で来られる主イエスのもとで味わうご馳走を、前もって、ほんの少しだけ、味わうのです。それによって、主イエスを待ち望む希望を確かにされて、その希望に支えられて、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくのです。

これに聞け
 ペトロは4節で「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と言いました。これはそのまま、礼拝に集っている私たちの思いです。礼拝において、み言葉を聞き、聖餐にあずかり、私たちのために十字架の苦しみと死への道を歩み、救いを実現して下さった主イエスのお姿を示され、その主イエスが神の子としての栄光に輝くお姿でもう一度来られることを待ち望みつつ歩むことができることは、なんとすばらしいことでしょうか。そのことに感激したペトロは、「ここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。主イエスとモーセとエリヤのための小屋を建てることによって、この山の上でのすばらしい恵みの体験をいつまでも留めておきたい、と思ったのでしょう。けれどもそれは的外れなことでした。礼拝において与えられる神の恵みは、私たちがそれを自分の手元に留めておけるようなものではありません。この恵みにあずかり続けるために必要なのは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という主なる神のみ言葉に従うことです。つまり、神の子である主イエスに聞き続けること、要するに、礼拝に集い続けることです。それによってこそ私たちは、十字架の苦しみと死とによって救いを実現して下さった主イエスの恵みにあずかり、その主イエスが神の子としての栄光のお姿でもう一度来られることを希望をもって待ち望みつつ、自分の十字架を背負って主イエスに従って生きることができるのです。そしてそこに、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰の告白が与えられ、主イエスによって実現した神の救いを担って、それを世界の人々に伝えていく新しい神の民である教会が築かれていくのです。

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