夕礼拝

目を開かれて

2025年9月28日 夕礼拝
説教題「目を開かれて」 牧師 藤掛順一

列王記下 第6章8〜23節 
ヨハネによる福音書 第4章35、36節

主のご支配は全ての民に及ぶ
 月に一度私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書列王記下からみ言葉に聞いています。前回、8月に読んだ第5章には、預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を癒した、という奇跡のことが語られていました。エリシャは、ダビデ、ソロモンのイスラエル王国が南ユダと北イスラエルに分裂してできた北王国イスラエルで、紀元前9世紀に、主なる神のみ言葉を語り、主の力による癒しなどの奇跡を行った預言者です。当時北王国イスラエルは、その北東に位置するアラム、今日で言えばシリアとしばしば戦争をしていました。その敵であるアラムの軍司令官であるナアマンの病を、イスラエルの預言者であるエリシャが癒したのです。それは、エリシャが敵をも愛する心の広い人だった、ということではありません。前回お話したようにこの話は、主なる神のご支配が、イスラエルの民だけではなくて、アラムにも、つまり世界の全ての国々や人々にも及んでいることを語っているのです。そもそも聖書は、この世界と人間は全て、主なる神の恵みのみ心によって造られ、そのご支配の下にある、と語っています。しかし人間は、造り主である主に従わず、自分が主人となって生き始めました。それが人間の罪であり、その罪のゆえに人間は神の祝福を失ってしまったのです。主なる神は、そのような人間を救うために、アブラハムを選んで「祝福の源」として下さり、アブラハムの子孫であるイスラエルの民をご自分の民として下さいました。イスラエルが神の民として選ばれたのは、人間の罪によって失われた神の祝福が、神の民イスラエルを通して、世界の全ての人々に再び与えられ、回復されていくためです。世界の全ての人々を救おうとしておられる主のみ業の実現のために、イスラエルの民は選ばれ、立てられたのです。それゆえに、主なる神に仕える預言者として立てられたエリシャの働きも、イスラエルの民だけにではなくて、他の民にも、イスラエルの敵である人々にも及んでいくのです。アラムの軍司令官ナアマンの病を主なる神の預言者エリシャが癒した話は、主なる神のご支配が全世界に及んでいることを語っているのです。

アラムの王の寝室にまで
 本日の第6章にもそれと同じことが語られています。本日の箇所の冒頭の8節に「アラムの王がイスラエルと戦っていたときのことである」とあります。ここにも、アラムとイスラエルが敵どうしだったことが見つめられています。8節の後半には、その戦いにおいてアラムの王が家臣たちと協議して「これこれのところに陣を張ろう」と言った、とあります。つまり、イスラエルのここに攻め込もうと作戦を立てたということです。しかし「神の人」がイスラエルの王に、アラム軍がここに攻めて来る、ということを伝えたので、イスラエルの王は前もってその場所の守りを固めることができ、アラムの王の作戦は失敗に終ったのです。この「神の人」こそがエリシャです。そういうことが何度も繰り返されたので、アラムの王の心は荒れ狂いました。彼は、家臣たちの中に、イスラエルの王に通じてこちらの作戦を漏らしている裏切り者がいるに違いない、という疑いを抱いたのです。しかし一人の家臣がこう言いました。「だれも通じていません。わが主君、王よ、イスラエルには預言者エリシャがいて、あなたが寝室で話す言葉までイスラエルの王に知らせているのです」。アラムの王が立てる作戦が全て、イスラエルの預言者エリシャにはお見通しであること、エリシャにはそういう特別な力があることをアラムの王の家臣たちは知っているのです。エリシャのこの力は主なる神に仕える預言者としての力であり、つまりは主なる神の力です。つまりこれは、主なる神の力が、アラムの王の宮廷にも、その寝室にまでも及んでいることを、アラムの家臣たちも知っていた、ということです。ナアマンの癒しの話に続いてここにも、主なる神のご支配がイスラエルを越えて全ての民に及んでいることが語られているのです。

目を開いて下さる主
 作戦がことごとく失敗している原因はエリシャであることに気づいたアラムの王は、その元凶であるエリシャを捕えようとします。エリシャはドタンにいる、という知らせがもたらされたので、王は軍馬と戦車の大軍を送って夜中にその町を包囲しました。エリシャの召使が朝起きて外に出てみると、町はアラム軍によって完全に包囲されており、もはや蟻の這い出る隙間もなくなっていました。うろたえた彼はエリシャに「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか」と言いました。するとエリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言いました。私たちの味方の軍勢の方が、彼らアラムの軍勢よりも多い、だから恐れるな、ということです。しかし実際には、エリシャを守っている警備兵など一人もいません。「わたしたちと共にいる者」などは全く見当たらず、敵の大軍に包囲されてもうどうすることもできない、というのが目に見える現実だったのです。しかしエリシャは主なる神に祈りました。「主よ、彼の目を開いて見えるようにしたください」。この祈りに応えて主なる神はこの召使の目を開いて下さいました。すると彼は、「火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た」のです。「わたしたちと共にいる者」とエリシャが言ったのは、「火の馬と戦車」つまり主なる神の軍勢です。彼らを包囲しているアラムの大軍よりもはるかに強力な、主なる神の軍勢が彼らを守っていることを、目を開かれた召使は見たのです。
 敵の大軍に包囲されてもはや逃れるすべはない、という絶体絶命の危機においても、主なる神はご自分の民をこのように守って下さっている、そのことを信じることが、主なる神を信じる信仰なのだ、ということをこの話は語っています。そしてこの話は、その信仰に生きることはどのようにして実現するのかを語っています。私たちの肉の目に見える現実においては、敵の大軍に包囲されてもはや逃れるすべはないのです。その現実の前で私たちは、あの召使のように、「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか」とうろたえ、恐れるしかないのです。しかしその私たちの目を、主なる神が開いて下さると、「火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちている」という事実が見えてくる。つまり、主なる神が共にいて下さり、主の力が私たちを守って下さっている、という恵みの事実を見ることができるようになるのです。主なる神を信じる信仰に生きることはそのようにして実現するのです。私たちの生まれつきの肉の目は、主なる神が共にいて下さり、主の力が守って下さっているという恵みの事実を見ることができません。主によって目を開かれることによって初めて、それを見ることができるようになるのです。主によって目を開かれることが、信仰に生きるためには不可欠です。主なる神を信じ、その救いを信じて生きるとは、主によって目を開かれて、肉の目には見えない恵みの事実を見つめて生きることです。信仰者とは、主によって信仰の目を開かれた者なのです。
 そこからさらに言えることは、信仰は、私たちが聖書の内容を学び、その理解を深めていって、次第にいろいろなことが分かるようになっていくことによって得られるものではない、ということです。主なる神が共にいて下さり、主の力が私たちを守って下さっている、という恵みの事実は、私たちの理解が深まれば、つまり私たちの目がよりよく見えるようになれば見えて来るようなものではありません。私たちが自分の目をより見えるようにするためにどんなに努力しても、それによって「火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちている」という神の恵みの事実が見えるようになることはありません。主なる神が目を開いて下さることによってのみ、私たちはそれを見ることができ、信仰をもって生きることができるようになるのです。つまり信仰は私たちの努力によって得られるのではなくて、私たちの目を開いて下さる主のみ業によって与えられるのです。

祈りに応えて
 エリシャの祈りに応えて主は召使の目を開いて下さいました。主は祈りに応えて私たちの目を開いて下さり、恵みの事実を見させて下さるのです。主の恵みの事実に目を開かれ、信仰をもって生きる者となるために、私たちにできるのはこのこと、つまり祈ることのみです。「主よ、わたしの目を開いて見えるようにしてください」と祈るのです。その祈りに応えて、主は私たちの目を開いて、恵みの事実を見させて下さいます。またエリシャがしたように、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と、他の人のためにとりなし祈るのです。その祈りに応えて、主はその人の目を開いて、恵みの事実を見させて下さるのです。私たちが目を開かれて信仰をもって生きる者となるために、このように私たちのためにとりなし祈ってくれた人たちがいたのです。今度は私たちが、誰かのためにそのように祈っていく番です。主がその祈りに応えて下さることによって、目を開かれた信仰者が新たに生まれるのです。

恐れてはならない
 さて、主によって目を開かれた召使は、「火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た」、つまりアラムの大軍勢に勝る主の軍勢が自分たちと共にいることを見ました。しかしこの主の大軍勢がアラム軍を蹴散らして彼らを窮地から救ってくれたのかというと、そうではありませんでした。18節には「アラム軍が攻め下って来たので、エリシャが主に祈って、『この異邦の民を打って目をくらましてください』と言うと、主はエリシャの言葉通り彼らを打って目をくらまされた」とあります。攻めて来たアラム軍と戦ったのは「火の馬と戦車」ではなくて、主なる神ご自身だったのです。それでは「火の馬と戦車」は何のためにそこにいたのでしょうか。それは敵と戦って滅ぼすためではなくて、目に見える現実の中で恐れ、うろたえている者が目を開かれて、主なる神が共にいて守って下さっているという恵みの事実を見るためです。そして彼らが、恐れを取り去られて、主に信頼して、主を信じて歩むためです。つまり主の軍勢は、私たちを脅かしている敵をやっつけるために共にいて下さるのではないのです。だから「わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」という言葉を誤解してはなりません。それは、より強大な神の軍勢が自分たちの味方なのだから、この戦いはこちらの勝ちだ、ということではありません。私たちは、圧倒的に強大な敵に包囲されているという目に見える現実の中で、恐れうろたえるしかない者です。その私たちに、「恐れてはならない」と語りかけ、共にいて下さる主なる神の力に信頼して生きるようにと励ますために、「わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」という言葉は語られているのだし、その信仰に生きることができるために主が私たちの目を開いて、恵みの事実を見させて下さるのです。

目を見えなくされて
 主なる神は、エリシャの祈りに応えて、アラム軍の目をくらまして下さいました。彼らの目を見えなくして下さったのです。と言っても、物理的に視力が失われたのではありません。彼らの肉の目は開いていましたが、現実を正しく見ることができなくなったのです。その彼らの前にエリシャは進み出て、「これはあなたたちの行く道ではない。これはあなたたちの求める町ではない。わたしについて来なさい。あなたたちの捜している人のところへわたしが連れて行ってあげよう」と言いました。「あなたたちの捜している人」とはまさにエリシャのことです。エリシャを捕えるために彼らは派遣されてきたのです。そのエリシャ本人が目の前にいるのに、彼らはそれが分からなくなっていました。そしてエリシャの後について行ったのです。エリシャは彼らをサマリアに連れて行きました。サマリアは北王国イスラエルの首都です。敵国の首都へと連れて行かれているのに、目が見えなくなっていた彼らは気づかなかったのです。サマリアに着くとエリシャは再び、「主よ、彼らの目を開いて見えるようにしてください」と祈りました。主がその祈りに応えて彼らの目を開かれると、自分たちが敵の首都サマリアの真ん中にいることに初めて気づいたのです。

召使とアラムの軍勢の共通性
 これはとても面白くて深い話です。ここには、目が見えなくなっていた人が主なる神によって目を開かれ、本当のことが見えるようになった、という出来事が二つ並べられているのです。第一は、エリシャの召使です。彼は敵の大軍に包囲されている、という目に見える現実を見て、恐れ、うろたえました。主なる神が目を開いて下さったことによって、主なる神が共にいて守って下さっているという神の恵みの事実、本当のことを見ることができたのです。第二は、アラムの軍勢です。彼らは主なる神によって目をくらまされ、本当のことが見えなくなっていました。エリシャが目の前にいても気づかず、そのエリシャに導かれて敵の首都に連れて来られてしまったのです。肉の目は開いているけれども本当のことが見えていない、ということにおいて、あの召使とこのアラムの軍勢の姿は同じです。この二つの話は両者の共通性を私たちに気づかせようとしているのです。私たちは、敵の大軍に包囲されて恐れうろたえている召使の姿を、自分自身と重ね合わせて、この世の現実の中で自分もしばしばこういうことを体験し、恐れ、うろたえてしまう、このような状況になればそうなるのが当然だ、と思っています。しかしそのように恐れうろたえている私たちの姿は、目をくらまされたために目の前の人がエリシャだと気づかず、エリシャによってサマリアに連れて来られてしまったアラムの軍勢のこっけいな姿と同じなのです。どちらも、目を塞がれてしまっていて、本当のことが見えていない。目に見える現実によって恐れ、うろたえている私たちも、それと同じように目を塞がれて、本当のことが見えていないのです。

主なる神のご支配という本当の現実
 主なる神が目を開いて下さることによって、本当のことが見えるようになります。エリシャの召使は、火の馬と戦車が自分たちを守ってくれていることを見ました。アラムの兵士たちは、いつのまにか敵の首都サマリアに連れて来られてしまったことを見ました。召使にとってはそれは大きな喜びであり、アラム軍にとっては絶望でした。しかしどちらにおいても彼らは、主なる神こそがこの世界と自分たちを支配しておられる、という本当のことを見たのです。主なる神によって目を開かれて、主こそが世界と自分たちの支配者であられることを知らされたのです。主なる神によって目を開かれて、この本当のことを見つめて生きる者となることこそが、信仰者となることなのです。

絶望からの救い
 イスラエルの王は、捕虜となったアラムの兵士たちを打ち殺そうとしますが、エリシャは、むしろ彼らに食事を与えて彼らの王のもとに送り返すように命じました。彼らを打ち殺せば、アラムの人々のイスラエルへの憎しみはさらに募り、戦いが際限なく続いていきます。しかしこのように捕虜を寛大に扱い、送り返すことによって、23節の終わりにあるように「アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった」。つまり両国の間に平和が訪れたのです。エリシャの命令は、平和を築くための政策としても適切だったのです。しかしこの後のところには、アラムがまたイスラエルに攻めて来たことが語られていますから、世の中そう甘くはないと言うか、平和はそう簡単には実現しません。エリシャの命じた寛大な措置はあまり効果がなかったのです。しかしエリシャのこの命令にはそれ以上の意味があります。アラムの軍勢は、目を開かれて、主こそが世界と自分たちの支配者であられることを知りました。彼らはそのことによって死を覚悟するしかない絶望に陥ったわけですが、エリシャのこの命令によって救われたのです。つまり、目を開かれて、主なる神こそがこの世界と自分たちを支配しておられることを知らされたことは、エリシャの召使にとってだけでなく、アラム軍の兵士たちにとっても、絶望からの救いをもたらしたのです。主なる神によって目を開かれて、主こそがこの世界と自分たちを支配しておられる、という本当のことを見つめる者となることが信仰です。その信仰は、全ての者に、絶望からの救いをもたらすのです。

目を上げて畑を見よ
 本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、ヨハネによる福音書第4章35、36節を選びました。「刈り入れまでまだ四か月もある」というのが、弟子たちの目に見えていた現実でした。しかし主イエスは「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」とおっしゃいました。神の独り子主イエスがこの世に来られたことによって、畑は既に色づき、刈り入れを待っているのです。主イエス・キリストによって、神のこの世界と私たちへの恵みのご支配が現実となっており、神の救いのみ業は豊かに実っているのです。そのことはまだ隠されていて、誰の目にも明らかにはなっていません。目を開かれてこの隠された事実、神の恵みの事実を見つめることが信仰です。私たちは自分の努力によって目を開くことはできません。主なる神が祈りに応えて、私たちの目を開いて、主イエス・キリストによって実現している救いを見つめさせて下さるのです。そのことは私たちに、罪人として裁かれ滅ぼされるしかないという絶望からの救いをもたらします。目を開かれた私たちは、主イエス・キリストによる神の救いの恵みにあずかり、永遠の命に至る実を集める者とされるのです。36節の最後に「こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」とあります。主なる神によって目を開かれた私たちは、神が種を蒔いて下さった神の畑が、主イエスの十字架の死と復活によって既に色づいて刈り入れを待っていることを示されます。そしてその畑から、救いの実りを豊かに刈り入れる喜びにあずかるのです。主なる神はそのことを私たちと共に喜んで下さっているのです。

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