2025年8月17日
説教題「天の国の鍵」 牧師 藤掛順一
詩編 第2編1~12節
マタイによる福音書 第16章13~20節
主イエスの問いとペトロの信仰告白
本日ご一緒に読むマタイによる福音書第16章の13節以下は、この福音書の中でも最も大事な箇所の一つです。ここには、主イエスの、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対して、一番弟子であるペトロが弟子たちを代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えて、主イエスに対する信仰を告白したことが語られています。それを受けて主イエスはペトロに、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言なさいました。「あなたはメシア、生ける神の子です」という主イエスに対する信仰の告白こそが、この後主イエスの十字架と復活を経て結集されていくイエス・キリストの教会の土台であることが示されたのです。
人々は、人の子のことを何者だと言っているか
これは主イエスと弟子たちがフィリポ・カイサリア地方に行った時のことだった、と13節にあります。聖書の後ろの付録の地図の中の「新約時代のパレスチナ」を見ていただくと、ガリラヤ湖の北に「フィリポ・カイサリア」があります。ヨルダン川の源流近くの風光明媚な場所です。そのフィリポ・カイサリア地方に行った時、主イエスは弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問いかけました。「人の子」とは主イエスがご自分のことを言っておられる言葉です。つまり、「世間の人々は私のことを誰だと言っているのか」と問うたのです。弟子たちはこの問いに即座に答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。ここに、当時の人々が主イエスのことをどのように見ていたかが示されています。「洗礼者ヨハネだ」というのは、14章で、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが言っていたことです。自分が首を切って殺した洗礼者ヨハネが生き返ってきたのがイエスだと彼は恐れているのです。「エリヤだ」というのは、神の救いの実現の前にエリヤが遣わされるという旧約聖書の預言に基づいて、主イエスをその救いの先駆けとなる人だと思っているということです。「エレミヤだ」とか「預言者の一人だ」というのは、主イエスを過去の偉大な預言者の再来だと理解しているということです。当時の人々はそのように、肯定的にせよ否定的にせよ、敬うにせよ恐れるにせよ、主イエスのことを捉えていたのです。これらの世間の人々の評判がすぐに弟子たちの口から出たのは、弟子たちがそういうことをいつも気にしていたからでしょう。自分たちの先生が世間の人々にどう見られ、評価されているかは、彼らの大きな関心事だったのです。それは私たちも同じでしょう。主イエス・キリストが、この日本の社会で、人々からどのように思われているか、あるいはキリスト教、教会がどういうイメージを持たれているか。それは私たちも気になることです。
あなたがたはわたしを何者だと言うのか
弟子たちの答えを聞いた主イエスは、第二の問いを投げかけられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。世間の人たちがどう言っているかはわかった。それでは、あなたがたは、私のことを何者だと思っているのか。これこそ、主イエスが弟子たちに、そして私たち一人一人にも、問いかけておられる肝心なことです。世間の人たちがどう言っているかは実はどうでもよいのです。それは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という肝心な問いへの導入に過ぎません。主イエスは私たち一人ひとりに、「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけておられます。この問いに答えることこそが、イエス・キリストを信じる信仰なのです。
それは私たちが、信仰とはこういうものだと思っている通常のイメージとは違うことかもしれません。私たちは、信仰とは、イエス・キリストの教えを聞いて、それを受け入れてそれに従って生きることだと思っていることが多いのではないでしょうか。あるいは、教えに従うと言うよりも、主イエスが共にいて恵みを与えて下さることを信じて慰めや支えを受けて生きることが信仰だと思っているかもしれません。これらのことはどちらも、信仰をもって生きる中で私たちに起こることです。しかしそれが信仰の中心ではありません。信仰が信仰として成り立つ中心、これがあってこそ信仰だと言えるのは、「あなたは私を何者だと言うのか」という主イエスからの問いに答えることなのです。主イエスの教えを聞いて、それを行なって生きようと努力していたとしても、「あなたは私を何者だと言うのか」という問いに答えていなければ、それは私たちが自分で努力して立派な生き方をしているに過ぎないのであって、主イエスを信じて生きているとは言えません。また、主イエスが共にいて下さることによる慰めや支えを受けていたとしても、「あなたは私を何者だと言うのか」という問いにはっきり答えることができていなければ、それは私たちを本当に慰め、支えるものではあり得ないでしょう。このように、「あなたは私を何者だと言うのか」という主イエスからの問いかけは、私たちの信仰において最も大事な要(かなめ)なのです。そして私たちはこの主イエスからの問いに自分で答えなければなりません。問うておられる主イエスにその答えを教えてもらうことはできません。私たち自身が答えなければならないのです。この主イエスからの問いと向き合い、それに真剣に答えていこうとする中で、私たちは主イエスを信じる信仰に生きる者となっていくのです。
主イエスの問いを避けようとしている私たち
しかし私たちはむしろ、主イエスのこの問いと向き合うことを避けていることが多いのではないでしょうか。先ほどの、信仰とはイエス・キリストの教えを聞いてそれに従って生きることだ、という思いや、主イエスが共にいて下さることを信じて慰めや支えを受けることが信仰だという思いは、いずれも、主イエスのあの問いに答えることなしに信仰者であろうとしているのです。「あなたは私を何者だと言うのか」という問いに答えなくても、イエス・キリストの教えを受け止めてそれを行おうと努力していくことはできます。また主イエスが共にいて下さることによる慰めや支えを受けて歩もうとしているというのは、一見信仰によって生きている姿であるように感じられますが、しかしそこで私たちが見つめているのは、自分の求める時に共にいて慰めと支えを与えてくれる主イエスではあっても、自分に問いかけて来る主イエスではありません。つまり、主イエスの教えに従って生きるにせよ、主イエスからの慰めと支えを求めて生きるにせよ、どちらにおいても私たちは、主イエスのあの問いを避けているのです。
なぜそういうことが起こるのでしょうか。それは、この問いにどう答えるかによって、私たちが主イエス・キリストとどのような関係を持っているか、持とうとしているかが明らかになるからです。主イエスこそ生ける神の子、自分のまことの救い主として信じ、主イエスを礼拝しつつ、欠けの多い者ではあっても常に主イエスに従い、共に生きようとしているのか、それとも、イエス・キリストを、人生をより豊かにするためのアクセサリー、気が向いたら身につけて楽しむもの、ぐらいに捉えているのか、あるいは体調の悪い時には駆け込んで頼りにするけれども、調子が良くなると忘れ去ってしまうお医者さんのようなものとしているのか、ということが、この問いへの答えによって明らかになるのです。
しかし、この問いと向き合うことを避けていては、私たちはいつまでたっても本当の信仰に至ることはできません。「あなたは私を何者だと言うのか」という主イエスの問いに向き合うことによってこそ信仰は信仰となるのであって、それなしに、イエス・キリストを信じる者として生きることはできないのです。
あなたはメシア、生ける神の子です
この主イエスの問いに、シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。「メシア」と訳されている原文の言葉は「クリストス」つまりキリストです。ペトロは「あなたはキリストです」と答えたのです。「キリスト」は旧約聖書のヘブライ語では「メシア」でした。その意味は「油を注がれた者」です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第2編の2節に「主の油注がれた方」とあるのが「メシア」です。それはもともとは、神によって油を注がれて特別な使命へと任命された人を意味していましたが、次第にそれは神が約束して下さった救い主を意味する言葉となりました。ですから「あなたはメシア、キリストです」とは、「あなたは救い主です」という意味です。ペトロは、主イエスの問いに、「あなたこそ私たちの救い主です」と答えたのです。そしてさらに「生ける神の子です」とも言っています。「生ける」は「子」ではなく「神」にかかっています。「生ける神」です。神は生きておられる。今生きて働き、恵みのみ業を行っておられる。その生ける神が、ご自分の独り子である、つまりまことの神であるイエス・キリストを遣わして下さったのです。マタイ福音書はこの「主イエスは神の子である」ということを繰り返し語っています。3章17節では、ヨハネから洗礼を受けた主イエスに、天からの声が「これはわたしの愛する子」と告げています。8章29節では、悪霊が主イエスに「神の子」と呼びかけています。14章33節では弟子たちが「本当に、あなたは神の子です」と言っています。そして27章54節では、主イエスの十字架上での最後を見たローマの百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と言います。これらの箇所は全て、主イエスが神の子、つまりまことの神であられることを語っているのです。ペトロもここで、「あなたは私を何者だと言うのか」という主イエスの問いに、「あなたは生ける神の子、まことの神であり、父なる神から遣わされた救い主です」と答えたのです。
あなたは幸いだ
そのペトロに主イエスは「あなたは幸いだ」とおっしゃいました。これは単に「あなたの答えは正しい、正解だ」ということではありません。「あなたは幸いだ」というのは、この福音書の5章3節以下の、「心の貧しい人々は、幸いである」に始まる教えの「幸いである」と同じ言葉です。これは祝福の言葉であり、分かりやすく言えば「よかったね」ということです。主イエスは、ペトロが、主イエスこそ生ける神の子、救い主である、と答えたことを、ペトロのために喜び、祝福しておられるのです。さらに主イエスは、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とおっしゃいました。主イエスこそ生ける神の子、救い主であるという信仰の告白は、人間が考えて得られるものではなくて、主イエスの父である神が示して下さるものです。「あなたは私を何者だと言うのか」という主イエスの問いに向き合う中で、父なる神から、「あなたは私の救い主、生ける神の子です」という信仰を与えられ、それを告白することができる者は幸いだ、と主イエスはおっしゃったのです。信仰をもって生きるとは、この幸い、祝福にあずかって生きることなのです。
教会の一員とされる幸い
しかし、主イエスを生ける神の子、救い主と信じる信仰を与えられ、それを告白することによって与えられる幸い、祝福とはどのようなものなのでしょうか。18節以下にそれが語られています。主イエスはペトロに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃいました。ペトロという名前は「岩」を意味する「ペトラ」から来ています。ですからここには語呂合わせがあって、「あなたはペトロだ。わたしはこのペトラの上に教会を建てる」と言われているのです。主イエスがここでわたしの教会をその上に建てると言っておられる「岩」は、ペトロという人間ではなくて、彼が天の父である神によって示され、与えられたあの信仰告白です。主イエスは生ける神の子であり、救い主である、という信仰告白の上に、主イエスはご自分の教会を建て上げようとしておられるのです。つまりペトロの幸い、主イエスを生ける神の子、救い主と信じる信仰を告白する者の幸いとは、主イエスがご自分の教会を建てていかれる、そのみ業に加えられ、そのために用いられる幸いです。つまりこの幸いは、イエス・キリストの教会の一員となるという幸いなのです。
陰府の力も対抗できない
教会の一員となることはなぜ幸いなのでしょうか。それは、教会は、「陰府の力もこれに対抗できない」ものだからです。陰府とは、死者の行く所、死の力が支配する所です。私たちの人生はいろいろな苦しみや悲しみによって脅かされていますが、その最終的なものが死です。「陰府の力」とは、私たちを最終的に支配しようとしている死の力です。しかしその陰府の力、死の支配も、主イエス・キリストの教会には対抗できないのです。どうしてそう言えるのか。それは教会が特別なパワースポットだからでも、あるいは教会に集っている人々が立派な聖人君子だからでもありません。その理由はただ一つ、教会は、生ける神の子であり救い主である主イエス・キリストのものだからです。生ける神の子である主イエスは私たちと同じ人間になってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。本来なら私たちを罪人として裁くことができる方が、逆に私たちの代わりに裁きを受けて死んで下さったのです。それによって主イエスは私たちの罪の赦しを実現して、私たちをもご自分と同じ神の子として下さったのです。そして父なる神は、陰府の力、死の支配に勝利して、主イエスを復活させてくださいました。死者の中から復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、ご自分のもとに私たちを呼び集めて、教会を建てて下さっているのです。だから、イエス・キリストの教会は、陰府の力に勝利した神の恵みによって建てられているのです。私たちは、「主イエスこそ生ける神の子、救い主です」という信仰を告白して洗礼を受けることによって、このイエス・キリストの教会に加えられて、神が独り子イエス・キリストの十字架の死によって実現して下さった罪の赦しにあずかり、神の子として新しく生かされていきます。そしてそれと共に、父なる神が、陰府の力に勝利して主イエスを復活させて下さったその力によって、私たちの誰もがいつか捕えられていく死の支配を滅ぼして、私たちにも、復活と永遠の命を与えて下さる、その、世の終わりの救いの完成を待ち望みつつ生きていくのです。
私の信仰告白と教会の信仰告白とが一致するところに
「あなたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いかけによって私たちは、「他の人がどう言っているかはともかく、この自分にとって主イエスとは何者か」を考えさせられます。これはとても大事なことであり、それなくしては、信仰は自分の事柄になりません。世間の人々が何と言おうと、私は主イエスをこのような方と信じる、ということが、信仰に生きるためには必要なのです。しかしそのように私たちが自分一人で、主イエスとは何者であるかの信念のようなものを持つことだけでは、信仰による本当の幸いにあずかることはできません。その自分の信仰が、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と主イエスがおっしゃった、教会の土台となる信仰の告白と一つとなることによってこそ、信仰による本当の幸いにあずかることができるのです。世間の人々がどう言おうと私は主イエスをこう信じる、という私たちの信仰と、ペトロが父なる神によって与えられた、「あなたこそ生ける神の子、救い主です」という信仰告白とが一致するところにこそ、陰府の力も対抗することができないキリストの教会が建てられていくのです。つまり私たちの信仰が、教会がその上に築かれる岩として受け継がれてきた教会の信仰告白と一致するところにこそ、本当の幸いが与えられるのです。
天の国の鍵
主イエスはさらにペトロに、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とおっしゃいました。この天の国の鍵も、ペトロ個人にではなくて、ペトロのあの信仰告白という岩の上に建てられていく教会に授けられたのです。天の国の鍵とは、天の国、つまり神による救いの扉を開いたり閉じたりする鍵です。それを教会が持っているというのは、教会が好き勝手に人を救いに入れたり締め出したりできる、という傲慢な主張のようにも聞こえます。しかし教会は、今見てきたように、主イエスを生ける神の子、救い主と信じる群れです。神の子である主イエスが、私たちのために十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を赦し、天の国の扉を開いて下さったことを教会は信じ、宣べ伝えてているのです。だから教会に授けられているこの鍵は、基本的に、天の国の扉を開くためにあります。罪と死の力に支配されている人々に、主イエス・キリストによる解放を告げ知らせ、天の国、神の救いにあずからせるために、この鍵は授けられているのです。しかしこの救いは、「あなたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに、「あなたこそ生ける神の子、救い主です」という信仰の告白をもって答えるところに与えられます。それなしには天の国の扉は開かれないのです。そういう意味では、教会が主イエス・キリストによる救いを宣べ伝えていくところには、それを信じて天の国の扉が開かれ、救いにあずかることと、信じないために天の国の扉が開かれず、救いにあずかることができない、という両方のことが起ります。それは教会が勝手に誰かを入れてやったりやらなかったりということではありません。むしろ私たち自身が先ず、主イエスからの問いに向き合い、ペトロが天の父なる神から与えられたあの信仰を告白して、天の国の扉を開かれて救いにあずかることを願い求めていかなければならないのです。ペトロは自分の力や努力によってではなくて、天の父なる神によってあの信仰告白を与えられました。だから私たちも、天の父なる神にそれを祈り求めていくしかありません。けれども主イエスはこの福音書の7章7節でこう約束して下さっています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。天の父なる神は、私たち一人ひとりにも、「あなたこそ生ける神の子、救い主です」という信仰の告白を与えて、陰府の力にも打ち勝つキリストの教会に連なるまことの幸いを与えようとしておられるのです。
