主日礼拝

わたしに倣う者になりなさい

説 教 「わたしに倣う者になりなさい」副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第41章8-16節
新 約 コリントの信徒への手紙一第4章14-21節

厳しい言葉
 私が主日礼拝の説教を担当するときにはコリントの信徒への手紙一を読み進めています。本日は4章の終わりを読みます。その冒頭14節に「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」とあります。「こんなことを書くのは」と言われている「こんなこと」とは、前回の箇所4章6~13節で語られていたことを指しています。前回この箇所を読んだのは5月でした。だいぶ前のことになりますので、そこで語られていたことを簡単に振り返っておきます。この箇所でパウロはコリント教会の人たちに、「あなたがたは勝手に王様になっている」と言っていました。8節前半にこのようにあります。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」。それは、コリント教会の人たちが自分が得たもので、具体的には自分の賢さや強さや人からの評価に満足して、自分が立派な信仰者になり、「すでに」救いの完成に到達していると思い、王様になっているかのように振る舞っていた、ということです。それに対してパウロは、「いまだ」救いは完成していないし、私たちが持っているものはすべて神様からいただいたものだと語り、それなのにコリント教会の人たちは自分の力ですべてのものを獲得し、救いの完成に到達し、王になったかのように勘違いしている、と批判しました。キリストを信じて生きるとは愚か者となり、弱い者となり、侮辱されて生きることなのに、コリント教会の人たちは、それとは逆に賢い者となり、強い者となり、尊敬されて生きている、と厳しい言葉で批判したのです。

心に届く言葉を
 そのように厳しい言葉を語ったのは、コリント教会の人たちに「恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すため」であった、とパウロは本日の箇所の冒頭で語っています。「諭す」という言葉は、「心」と「置く」という言葉から成ります。つまり「諭す」とは、相手の心に置く言葉を語ること、相手の心に届く言葉を語ることです。この言葉に込められたパウロの思いがよく分かるのは、使徒言行録20章31節だと思います。そこでパウロはエフェソ教会の長老たちにこのように言っています。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」。ここで「教えてきた」と訳されている言葉が、4章14節の「諭す」と同じ言葉です。使徒言行録20章17節以下は、パウロがエフェソ教会の長老たちに別れを告げている場面ですが、長老たちと二度と会うことがないと分かっている中で、パウロはこの言葉を語りました。「あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきた」と言われているように、パウロは一人ひとりの心に届く言葉を、いつも心を込めて語ってきたのです。同じような思いでパウロはコリント教会の人たちにも語っていたのではないでしょうか。その口調は、時に激しく厳しいものがあるとしても、コリント教会の人たち一人ひとりの心に届く言葉を、しかも親が愛する自分の子どもに語りかけるように、いつも愛を持って、心を込めて一人ひとりの心に届く言葉を語ろうとしていたのです。

私たち一人ひとりに語りかけられている
 私たちはコリントの信徒への手紙を、私たちの教会に宛てられた手紙として、私たちの教会に連なる一人ひとりに語られている手紙として読んでいます。しかしそれは、なかなか簡単なことではありません。一つには、コリント教会が直面していた問題が、そのまま私たちの教会が直面している問題であるわけではない、ということがあります。コリント教会が置かれていた時代や社会は、私たちの教会が置かれている時代や社会と隔たりがあるからです。しかしそれにもかかわらずコリント教会が直面していた問題の背後にあること、その問題の根っこにあることは、時代の隔たりや社会の違いを越えて、私たちの教会とも関わりがあることです。ですから私たちは単純に「コリント教会」イコール「私たちの教会」とすることなく、しかしコリント教会の問題の本質をしっかり受け取る必要があります。ここに一つの難しさがあります。もう一つは、パウロの激しく厳しい言葉に戸惑ってしまう、ということがあります。もう少し平たく言えば、パウロの激しく厳しい言葉に、嫌になってしまう、気が重くなってしまう、ということです。確かにこの手紙を読んでいると、気が重くなってしまうことも少なくありません。しかし私たちがこの手紙を、私たちの教会に、また私たちの教会に連なる一人ひとりに語りかけられている手紙として読むとき、パウロが、愛する自分の子どもに語りかけるように、いつも愛を持って、心を込めて、私たち一人ひとりの心に届く言葉を語ろうとしていることを忘れてはなりません。そのパウロの思いをしっかり受けとめて、パウロの言葉に聴いていきたいのです。

父親と養育係
 パウロにとって、コリント教会の人たちは「愛する自分の子供」でした。このパウロとコリント教会の人たちの関係について、15節でさらにこのように言われています。「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたをもうけたのです」。コリント教会はパウロが伝道して建てた教会です。その後、パウロがコリント教会を去ると、ほかの伝道者たちがやって来てコリント教会を導きました。ここでパウロは、コリント教会の人たちにとって、コリント教会を建てた自分が「父親」であり、自分が去った後にコリント教会を導いた者たちは「養育係」である、と言っているのです。「養育係」とは、もともと「子どもの指導者」を意味する言葉で、通常、その家の奴隷の中で、子どもに礼儀作法や食事のマナーなどを教える務めを託された者のことです。養育係は何人もいたかもしれませんが、何人いたとしても父親は一人しかいません。同じように、パウロが去った後に、コリント教会を導いた「養育係」がたとえ「一万人いたとしても」、父親はコリント教会を建てたパウロただ一人なのです。パウロは「養育係」という言葉を、否定的な意味で使っているわけではありません。だからパウロは自分が去った後に、コリント教会にやって来た伝道者を「キリストに導く養育係」と呼んでいます。しかしそうであったとしても、その伝道者たちは、コリント教会の人たちの父親ではない。父親であるのは、コリント教会を建てた自分だけだと、自分とコリント教会の関係は、父親とその愛する子どもの関係だ、とパウロは言うのです。

福音を通し、キリスト・イエスにおいて
 しかしパウロのこの言葉は、聞きようによっては、パウロが自分の手柄を誇っているようにも思えます。自分がコリント教会の人たちを洗礼に導き、コリント教会を建てたことを誇っているように思えるのです。そのような誤解を避けるために、15節の後半でパウロは、「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」と言っています。「もうける」は、「子どもを生む」という意味の言葉です。パウロがコリント教会の人たちを自分の子どもとして生んだのは、彼自身の力によるのではなく、「福音を通し、キリスト・イエスにおいて」です。コリント教会の人たちは、パウロが宣べ伝えた福音を、つまり主イエス・キリストの十字架と復活による救いの良い知らせを聞き、それを信じ、洗礼を受け、主イエス・キリストにおいて新しく生まれたのです。それは、あくまでも神のみ業です。パウロは福音を宣べ伝えることを通して、その神のみ業に仕えたに過ぎません。パウロはそのことを十分に弁えていました。その上でなおコリント教会の人たちが、自分の宣べ伝えた福音を聞き、それを信じ、洗礼を受け、主イエス・キリストにおいて新しく生まれることにおいて、彼ら彼女たちは自分の子どもとされた、と語っているのです。

父親と子どもの関係の中で
 パウロがそのように語るのは、父親とその愛する子どもの関係の中で、コリント教会の人たちに語ろうとしたことがあったからです。それが16節の言葉です。「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」。16節の冒頭に「そこで」とあるのが大切です。パウロは、自分とコリント教会の人たちが父親とその愛する子どもの関係にあるから、「そこで」、「わたしに倣う者になりなさい」と勧めたのです。つまりここでパウロが言いたいことの中心は、「わたしに倣う者になりなさい」ということにほかなりません。それは、何を意味するのでしょうか。パウロに倣う者になるとは、どういうことなのでしょうか。その疑問への答えを示されるためにも、先を読み進めていきたいのです。

テモテの派遣
 「わたしに倣う者になりなさい」と勧めたパウロは、続けて17節でこのように言っています。「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです」。「このこと」とは、コリント教会の人たちがパウロに倣う者になることです。その助けとなるために、パウロはテモテをコリント教会に遣わしたのです。テモテは、小アジア(現在のトルコ)で、ユダヤ人の母とギリシア人の父親の間に生まれました。パウロの伝道によってキリスト者となり、以後、パウロの同労者として福音を宣べ伝えるために多くの働きを担いました。パウロの同労者はほかにもいますが、パウロのテモテに対する信頼はとりわけ厚かったと言えるでしょう。だからこそパウロは、分派争いが起こり危機的な状況の中にあったコリント教会へ、彼を派遣したのです。17節でパウロはこのよう言っています。「彼(テモテ)は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」。パウロがテモテをコリント教会に派遣したのは、コリント教会の人たちが、テモテを通して、キリスト・イエスに結ばれたパウロの生き方を思い起こすためです。つまり先ほどの「わたしに倣う者になりなさい」とは、「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方に倣う者になりなさい」ということなのです。その助けとなるために、パウロは最も信頼するテモテを派遣しました。テモテの語る言葉や振る舞いを通して、いえ、テモテの生き方、テモテの全存在を通して、パウロの生き方をコリント教会の人たちに想い起こさせようとしたのです。

パウロが来ることはないと判断して
 17節でテモテの派遣について語った後、18節でパウロは、このように言っています。「わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです」。パウロが去った後、コリント教会に分派争いが起こり、教会は危機的な状況に陥りました。そのことに心を痛め、その危機的状況をパウロに伝えた人たちがいました。それでパウロは、このコリントの信徒への手紙一よりも前に、コリント教会に向けて手紙を書きました。そのことは、たとえば5章9節の「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが」からも分かります。しかしパウロが手紙を送ったことで、コリント教会の人たちの中で、パウロ自身はコリント教会に来ることはない、と考えた人たちがいました。またテモテが派遣されたことを知った人たちは、パウロ自身が来れないからテモテが遣わされたと考えたかもしれません。いずれにしても、パウロがもう一度コリント教会へ来ることはないと判断して、高ぶっている者がいたのです。この人たちは、パウロがコリント教会にもう一度来ることを望んではいませんでした。来ないでほしいと思っていた。なぜならもしパウロが来れば、自分の生き方を変えなくてはいけないかもしれない、と思っていたからです。しかしパウロがコリント教会へ来ることはなさそうだと分かって、自分の生き方を変えなくてよい、と高ぶっていたのです。

言葉ではなく力
 しかしパウロは19節でこのように言います。「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう」。前半は分かります。主の御心であれば、時が備えられれば、パウロはコリント教会に赴くと言っているのです。しかし後半は分かりにくいと思います。「高ぶっている人たち」とは、最初にお話ししたように、自分が王様になったかのように振る舞っていた人たちです。その生き方を変えたくない、と思っていた人たちです。その人たちの言葉は、これまでこの手紙で語られてきたように、自分の知恵や賢さや強さ、自分に対する評価を誇る言葉でした。パウロは自分がコリント教会に赴いたら、高ぶっている人たちのそのような言葉ではなく、力を見せてもらおう、と言っています。このパウロの言葉は、この人たちに実際は力がないことを前提にしている言葉です。自分たちは賢い者であり、強い者であり、尊敬されて生きていると誇っているけれど、王様になったかのように振る舞っているけれど、この人たちは本当の力を持っていなかったのです。本当の力とは自分自身を生かし、隣人を生かし、そして教会を活かす力です。しかしこの人たちは、むしろ分派争いをすることによって教会を危機的状況に追い込んでいたのです。

神の力であるキリスト
 それならばこの本当の力は、どのようにして与えられるのでしょうか。20節で「神の国は言葉ではなく力にあるのですから」と言われています。これも謎のような言葉ですが、いわゆる「不言実行」、つまり「あれこれ言わずに、黙って実行すること」を意味しているのではありません。神の国とは、神の王国であり、神が王であられる国のことです。神のご支配と言い換えることもできます。ここでは「言葉」とは、先ほどの自分を誇る言葉のことでしょう。そうであれば、神が王であられる国は、神のご支配は自分を誇る言葉ではなく、神の王としての力にこそある、と言っているのではないでしょうか。あるいは神のご支配は、自分を誇る言葉ではなく、神の力によってこそ働く、と言うこともできるかもしれません。高ぶっている人たちは、自分たちが王として生き、自分を誇る言葉を語って生きていましたが、本当の力を持っていませんでした。本当の力は、自分が王として生きるのではなく、神様を王として生き、神の王としての力に生かされることによってこそ与えられるのです。その神の王としての力、つまり神の力とは何でしょうか。それが、1章24節で「神の力、神の知恵であるキリスト」と言われていました。そしてそのキリストとは、1章23節にあるように、「十字架につけられたキリスト」にほかなりません。神の力とは「十字架につけられたキリスト」にあるのです。自分を誇る言葉を語って生きるのではなく、自分の賢さや強さ、人からの評価に頼って生きるのではなく、十字架につけられたキリストに頼って生き、十字架につけられたキリストによって生かされることによって、私たちは本当の力を与えられるのです。

十字架につけられたキリストにのみ頼って
 私たちはコリント教会の人たちとまったく同じ状況に置かれているわけではありません。私たちの教会は分派争いをしていないし、私たち一人ひとりも自分が王様だと思って生きているわけでもないでしょう。それでも私たちは、どこかで自分が小さな王であり続けたいと思っていないでしょうか。自分の人生の王でいたい、自分の人生は自分で握りしめていたい、と思っているのではないでしょうか。どこかで自分の賢さや強さ、人からの評価を頼りとして生きたいと思っているのです。私たちも実は、コリント教会の「高ぶっている人たち」と同じように、パウロに来てもらいたくない。パウロが来て、「わたしに倣う者になりなさい」と告げられることによって、自分の生き方を変えられたくないと思っているのです。しかしそれでは私たちに本当の力が与えられることはありません。私たちが自分の人生の王であることをやめ、神様を王として生き、自分の賢さや強さ、人からの評価に頼るのではなく、十字架につけられたキリストにのみ頼って生きることによってこそ、本当の力が、自分自身を生かし、隣人を生かし、教会を活かす力が私たちに与えられるのです。
 共に読まれた旧約聖書イザヤ書41章8節以下に、十字架につけられたキリストにのみ頼って生きる者に与えられる神の力が指し示されています。10節。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える」。13節。「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う 恐れるな、わたしはあなたを助ける、と」。十字架につけられたキリストにのみ頼って生きるとき、神様は私たちと共にいてくださり、弱っている私たちに力を与え、崩れ落ちそうになる私たちの手を固く取り、苦しみや悲しみの中から私たちを助け出してくださるのです。

わたしに倣う者になりなさい
 「わたしに倣う者になりなさい」。「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方に倣う者になりなさい」。パウロは、今、私たちにそう語りかけています。それは、パウロが自分を誇って、自分のように立派で敬虔なキリスト者になりなさい、と言っているのではありません。これまで見てきたように、パウロに倣って生きるとは、イエス・キリストに結ばれて生きるとは、自分の力を頼みとするのではなく、ただ十字架につけられたキリストにのみ頼って生きる、ということです。それは、愚かな者となり、弱い者となり、侮辱されて生きることでもあります。多くの人にとって愚かとしか思えない十字架につけられたキリストにこそ救いがあると信じ、自分の弱さにこそ神の力が働くと信じ、侮辱されるときにこそキリストの苦しみに僅かばかりあずかっていると信じて生きることだからです。パウロが「わたしに倣う者になりなさい」と告げるとき、私たちがそのように生きることを勧めている、いえ、すでにそのように生き始めているはずだ、と告げているのです。
 そうであれば、パウロだけが「わたしに倣う者になりなさい」と語るのではないはずです。私はこの箇所を読むとき、自分は伝道者として、「わたしに倣う者になりなさい」と言えるだろうかと思い、自分自身を振り返って、とてもじゃないけど自分には言えない、と思います。自分自身は罪と弱さと欠けにまみれていて、ほかの人の生き方の見本となるようなところはまったくない、と思うのです。しかし本日のみ言葉からその思いを打ち砕く思いをも与えられます。そのように罪と弱さと欠けにまみれ、とてもほかの人の生き方の見本となれない自分が、キリストの十字架と復活によって救われ、今、キリストと結ばれて生かされている。十字架につけられたキリストにのみ頼って生きている。その自分に倣う者になりなさい、と言うことは出来るのではないか、いや、言わなくてはならないのではないか、という思いを与えられるのです。

 そしてそれは伝道者だけが語ることでもないでしょう。私たちキリスト者は誰もが、「わたしに倣う者になりなさい」と語っていくのです。自分に誇るものがあるからではありません。自分には誇るものは何もないけれど、むしろ罪と弱さと欠けばかりであるけれど、せっかく与えられた賜物を自分のものと勘違いして王になったかのように振る舞ってしまうけれど、そのような自分がキリストの十字架と復活によって救われ、今、キリストと結ばれて生かされている。自分の賢さや強さや、人からの評価ではなく、十字架につけられたキリストにのみ頼って生きている。その自分に倣う者になりなさい、と私たちは語っていくのです。もちろん言葉によってではなく、振る舞いによってということもあるでしょう。言葉であろうと振る舞いであろうと、私たちは自分の全存在を通して、イエス・キリストに結ばれた私たちの生き方を、十字架につけられたキリストにのみ頼って生きる私たちの生き方を、世の人々に証ししていくのです。「わたしに倣う者になりなさい」と告げられた私たちが、「わたしに倣う者になりなさい」、と世の人々に語っていくのです。

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