「契約の血」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第24章1-18節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第11章23-26節
・ 讃美歌 : 134、436
契約締結の準備
月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書出エジプト記を読み進めております。出エジプト記はその名の通り、イスラエルの民が、奴隷とされ、苦しめられていたエジプトから、主なる神様の力によって解放され、そこを出ることができた、脱出することができたことを語っています。そのエジプトからの脱出の話は15章までのところに語られています。16章からは、エジプトを出た彼らが、神様が彼らに与えると約束して下さっている「乳と蜜の流れる地」に向けて、神様の導きと守り、支えを受けながら荒れ野を旅していく、その歩みを語っています。その荒れ野の旅路において彼らは今、シナイ山の麓にいます。19章からがそのシナイ山での出来事です。この山において、主なる神様は彼らイスラエルの民と契約を結んで下さったのです。その契約とは、主なる神様が彼らの神となり、彼らが神様の民となる、そういう特別な関係を神様が間に結んで下さるということです。その契約締結の準備が、20章から23章においてなされてきました。20章の前半は「十戒」です。20章後半から23章にかけては、「契約の書」と呼ばれる、神様の命令、掟です。十戒を含めた全体を契約の書と考えることもできます。十戒を中心とするこれらの神様の命令、掟は、神様がイスラエルの民と契約を結んで下さることの準備のために語られています。契約によって主なる神様の民となり、主なる神様と共に生きていくイスラエルの人々がどのように歩んだらよいか、契約の相手である主なる神様との関係を、また神の民としての隣人との関係をどう整えたらよいのかが、十戒とそれに基づく「契約の書」において示されたのです。そういう準備を経て、いよいよ契約が締結されることを語っているのが本日読む第24章なのです。
神の前での食事
神様と民との契約の締結に当っていくつかのことがなされています。先ず1、2節に語られているのは、神様がモーセに、「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい」とおっしゃったことです。アロン、ナダブ、アビフは、この後の28章で祭司として立てられていく人々です。その祭司たちと七十人の長老たちとを、主なる神様がお招きになり、彼らがモーセと共にシナイ山を主のもとに登り、イスラエルの民の代表として主なる神様との契約の締結に参加したのです。9~11節には、彼らがシナイ山に登り、主なる神様のみ前に出たことが語られています。「モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」。彼らは、主なる神様を目の当たりにして、そこで食事をしたのです。これは特別なことです。旧約聖書において、罪人である人間は基本的に神様を直接見ることはできません。神を見た人間は滅ぼされ、死ぬしかないのです。しかしここではそういうことが起らなかった、「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので」というのがその理由です。神様の特別な許しによって、彼らは「神を見て、食べ、また飲んだ」のです。神様の前で食事を共にするということが、契約の締結の一つの要素です。主なる神様と共に食卓につき、共に食べたり飲んだりするのです。それによって、お互いが一体であること、深い絆で結ばれた関係がそこにあることが確認されるのです。
民の誓い
このように、主なる神様とイスラエルの民との契約の締結は、民の指導者、代表者たちがシナイ山に登り、神様のみ前に出ることによってなされました。しかしこの契約の締結は、主なる神様と民の代表たちとの間のみで、一般の人々は与り知らぬところでなされたのかというと、そうではありません。3節には、モーセが、「主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせ」たことが語られています。「主のすべての言葉とすべての法」、それが20章から23章の、十戒とそれに基づく契約の書です。契約締結の準備のために示され、与えられた主なる神様のこれらのみ言葉を、モーセはイスラエルの民全員に語って聞かせたのです。そしてそれを聞いた人々は、3節後半にあるように、「民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った」のです。そのことは7節でも繰り返されています。7節には、「契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと」とあります。このようにここには二度にわたって、主なる神様の言葉、掟、十戒を中心とする契約の書が民の前で読まれ、民がそれらを守り、行うことを誓う、ということがなされているのです。実はそのことは、既に19章でもなされていました。19章の7、8節です。そこには「モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』と言った」とありました。この場合の「主が語られたこと」は、十戒や契約の書ではなくて、その前の所、19章3節以下のことです。3節以下に、「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である』」とあります。彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、救い出して下さった主なる神様が、今彼らと契約を結ぼうとして下さっている。その契約をしっかり守るなら、彼らイスラエルの民は神様の宝の民となり、神様と他の諸民族との間に立ってとりなしをする祭司の王国、神様に選ばれた聖なる国民となることができる、そういう約束のみ言葉がモーセを通して語られたのです。それを聞いた民は、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言いました。そこから、契約の締結が始まったのです。これらのことから分かるように、シナイ山における主なる神様とイスラエルの民との契約の締結に当たっては、神様のみ言葉が繰り返し民に向かって語られているのです。イスラエルの民は、エジプトの奴隷状態から自分たちを解放し、救って下さった主なる神様が、契約に当って自分たちに何を求め、期待しておられるのかを、十戒を中心とする契約の書によってしっかりと示され、理解したのです。そして神様がこの契約によって彼らに与えようとしておられる恵み、祝福が何であるかをもしっかりと受け止め、そのみ言葉に従い、み心の通りに行うことを誓ったのです。この民の誓いを受けて、代表者たちが山に登り、神様のみ前での食事にあずかったのです。
アブラハムとの契約
ここに、このシナイ山で主なる神様とイスラエルの民との間に結ばれた契約の基本的な特徴があります。実は、主なる神様がイスラエルの民との間に契約を結んで下さったのはこれが最初ではありません。イスラエルの民は既に、神様によって特別に選ばれ、主なる神様の民として歩んでいたのです。その選びはアブラハムから始まっています。アブラハムが、神様の召しに応えて、故郷を離れ、主のお示しになる地に向って行き先を知らずに旅立ったことから、イスラエルの民の歴史は始まったのです。創世記第12章以降にそのアブラハムの歩みが語られています。その歩みの中で、神様はこのアブラハムと契約を結んで下さいました。そのことが創世記第15章に語られています。創世記15章の18~21節(20頁)を読んでみます。「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える」。当時はアブラムという名前だったアブラハムと、主は契約を結び、彼の子孫にこれらの土地を与えると約束して下さったのです。この時、アブラハムとサラ夫妻にはまだ一人も子供がおらず、既に二人共年老いていました。常識的には、もう子供が与えられるはずはない、従って子孫など得られるはずもない状態だったのです。しかしこの15章の5節で主は彼に、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」とおっしゃったのです。そして彼はその主のみ言葉を信じました。その信仰が彼の義と認められた、と6節にあります。このようなアブラハムの信仰に基づいて、主なる神様は彼と、そしてまだ存在していない彼の子孫と契約を結んで下さったのです。
契約は新しい段階へ
このようにアブラハムの子孫であるイスラエルの民は、最初の先祖であるアブラハム以来、主なる神様の契約の相手、神の民とされていたのです。エジプトの奴隷状態の苦しみからの解放も、この契約のゆえになされたことです。そのことは、主がモーセに現れて彼を出エジプトのみ業のために遣わされた、その最初のみ言葉にも語られています。出エジプト記の第3章6節以下です。6節で主なる神は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とご自身を示し、そして7節で「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」とおっしゃいました。イスラエルは既に「わたしの民」と呼ばれています。アブラハムと結んで下さった契約のゆえに、イスラエルは既に神様の民であるのです。だからこそ主は彼らを、エジプトの奴隷状態から解放して下さったのです。ですから、シナイ山における契約によって初めてイスラエルが神の民となったのではありません。だとしたら、シナイにおける契約は何のためになされたのでしょうか。その意味を教え示しているのが、今見てきた、この契約において、十戒を基礎とする契約の書が与えられ、それが民に読み聞かせられ、民がそれを守り行うことを誓ったという一連の事柄であると言えるでしょう。つまり、このシナイにおける契約の大きな特徴は、十戒や契約の書が与えられ、民がそれを守る誓いをしていることにあるのです。ということは、この契約は、主なる神様の民であるイスラエルがどのように歩んでいくのか、その神の民としての姿、あり方を明確にしていると言うことができます。これまでの契約は、彼らが主なる神様に選ばれた民となり、主の祝福と守りの内を歩む者となる、また将来実現する救いの約束を与えられ、その希望に生きる者となる、というものでした。しかしこのシナイにおける契約では、その神様の恵みのみ心をしっかりとわきまえ、それに従って生きるとはどういうことか、が見つめられているのです。それは言い換えれば、自分の努力によってではなく、ただ神様の恵みによって神の民とされている者が、自らもその恵みをわきまえ、それに応え、神の民として生きていく、そういう具体的な生活へと召され、歩み出すことがこの契約においてなされている、ということです。主なる神様とイスラエルの民との契約が、そういう新しい段階に入ったのです。その新しい段階を切り開いたのが、エジプトの奴隷状態からの解放の出来事でした。主なる神様によるこの救いのみ業を具体的に体験したからこそ、民はその主のみ心をしっかり受け止め、み言葉に従って生きるという感謝の生活へと歩み出すことができるのです。シナイ山における契約によって、主なる神様とイスラエルの民との関係はそういう新しい段階に入ったのです。
血による契約
4、5節には、民の誓いの言葉を受けて、山のふもとに祭壇が築かれ、イスラエルの十二の部族を示す十二の柱が建てられ、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物として雄牛の犠牲が捧げられています。つまり、民全体による礼拝がなされているのです。「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と誓って生きることは、主を礼拝して生きることです。主なる神様との契約により、神様の民として生きることは、神様を礼拝することと分ち難く結びついているのです。そしてその礼拝において、犠牲の雄牛の血が注がれています。その血の半分が、築かれた祭壇に振りかけられたと6節にあります。その後、7節で先ほど見たように契約の書が朗読され、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」という民の誓いが再びなされます。すると8節でモーセが、残りの半分の血を民に振りかけて「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と言ったのです。このように、契約の締結において犠牲の動物の血が用いられています。その血の半分が祭壇に、半分が民に振りかけられているのです。祭壇に振りかけられる、というのは、その血が神様のものとなり、聖なるものとなることを意味しています。その聖なる血が、あの誓いを語った民にも振りかけられ、イスラエルの民も主の聖なる民とされるのです。また血は、命がそこに宿るものと考えられていました。ですから犠牲の動物の血は、その命の象徴です。神様と民との契約の締結において、動物の命が犠牲としてささげられるのです。それは一つには、動物の命が罪人である人間の命の身代わりとしてささげられることによって、人間の罪が赦され、神の民として新しく生きることができる、ということです。そしてもう一つの意味は、主なる神様と民との契約が、単なる紙の上での約束事ではなく、命をかけたことであるということです。つまり、この契約を結ぶということは、もしそれを破るなら命を取られてもよい、ということなのです。先ほどの創世記第15章における主なる神様とアブラハムとの契約においてもそうでした。そこでは犠牲の動物が二つに切り裂かれ、神様がその間を通る、ということによって契約が結ばれたのです。それは、この契約を破ったなら、この動物にように二つに切り裂かれてもよい、ということです。主なる神様と契約を結び、神の民として生きるというのは、そのように命がけの事柄だったのです。契約において血が用いられることにはそういう意味が込められているのです。
破られていく契約
この、血が振りかけられる儀式と、先ほどの9節以下の神様の前での食事によって、契約の締結がなされました。その後の12節以下では、モーセとその従者であるヨシュアのみが、さらに山の高い所まで、つまり主のもとに登って来るように命じられています。それは12節にあるように、「教えと戒めを記した石の板」を彼らに授けられるためでした。十戒を記した二枚の石の板です。十戒そのものは既に20章で示されており、民はそれを聞いて、それを守り行いますと誓っています。その誓いに基づいて今結ばれた契約の印として、この石の板が授けられるのです。つまりこの石の板は、主なる神様と民との契約の目に見える印であると言うことができます。それを授けられるためにさらに登っていこうとするモーセは、後に残していく長老たちに、14節にあるように、「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい」と言いました。この言葉は、この後32章で起ることへの伏線のようになっています。モーセたちはこの後、18節にあるように、四十日四十夜山に留まることになります。その間に麓では、モーセが帰って来ない、と不安にかられた民がアロンにつめより、自分たちを導いてくれる目に見える神として金の子牛の像を造るのです。つまり、「偶像を造ってはならない」という十戒の第二の戒めが早速破られてしまうのです。つまり、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」という先ほどの誓いが、またたく間に破られ、反故にされてしまうのです。モーセが十戒を刻んだ板を授けられている間にその十戒が破られていく、というこの事態はまことに深刻です。シナイにおける契約は、先ほど申しましたように、神の救いの恵みによって神の民とされた者が、神のみ心をわきまえてどのように感謝の生活を送るか、ということを見つめており、民の側もみ言葉に従う誓いをすることによって神様との関係が新しい段階に入ったことを示しています。ところがその契約は、結ばれたとたんに民の背きによって破られてしまうのです。24章はまだそのことを語っていませんが、私たちはそのことをも視野に置いてここを読む必要があるのです。
新しい契約
私たちは今、旧約聖書の出エジプト記を読んでいます。その「旧約」というのは、旧い契約、という意味です。その旧い契約とは、このシナイ山において結ばれた主なる神様とイスラエルの民の契約のことを指しています。それが「旧い契約」であるのは、新しい契約、新約があるからです。それは主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活とによって神様が与えて下さった契約であり、教会は、キリスト信者は、この新しい契約による新しい神の民とされています。シナイにおける旧い契約は、今予告したように、人間の背きの罪によって破られていきました。「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」という誓いを守ることによって救いを得ることはできなかったのです。それゆえに主なる神様は、ご自分の独り子イエス・キリストによる新しい契約を打ち立てて下さったのです。旧い契約の締結のために犠牲となったのは雄牛でしたが、新しい契約は、主イエス・キリストの十字架の死によって、つまり神様の独り子の命によって結ばれました。契約を破ったために切り裂かれ、滅ぼされなければならない民の代わりに、神様の独り子である主イエスが十字架にかかって肉を裂かれ、血を流して下さったのです。主イエスが十字架で流して下さったその血が、私たちに罪の赦しを与える贖罪の血となりました。主イエスの血による新しい契約においては、「主が語られたことをすべて行い、守る」という自分の力や努力によって救いを得るのではなく、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによる罪の赦しが与えられたのです。
聖餐の恵み
私たちは、教会において、そしてこの礼拝において、主イエス・キリストによる新しい契約の恵みにあずかります。しかしその契約は旧い契約、シナイにおける契約を前提とすることによってこそ正しく受け止めることができるし、その恵みをはっきりと知ることができるのです。シナイにおける契約は、血の儀式と、神様の前での食事によって結ばれました。主イエスによる新しい契約においては、その二つを結び合わせたものである聖餐が私たちに与えられています。礼拝においてパンを食べ杯から飲む聖餐は、神様が私たちのために、み前に備えて下さる食事です。聖餐にあずかることによって、私たちは自分が主イエス・キリストによる救いにあずかっている者であり、主イエスの父である神がいつも共にいて下さることを味わいつつ、神の民として生きることができるのです。そしてその聖餐を定めて下さった時、主イエスがお語りになったみ言葉が本日共に読まれた新約聖書、コリントの信徒への手紙一の11章23節以下です。主イエスは杯を与えるに際して、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」とおっしゃいました。聖餐の杯は、主イエスの血によって立てられた、つまり主イエスの十字架の死による、新しい契約に私たちがあずかることの印です。シナイの契約では成し遂げられなかった救いの恵みが、主イエスの十字架の血によって、今や私たちに与えられているのです。