夕礼拝

平和があるように

説 教 「平和があるように」副牧師 川嶋章弘
旧 約 エゼキエル書第34章23-31節
新 約 ルカによる福音書第24章36-43節

こういうことを話していると
 「こういうことを話していると」と、本日の箇所の冒頭にあります。「こういうこと」というのは、前回読んだ箇所の最後に語られていたことです。33~35節にこのようにありました。「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」。エルサレムでは十一人の弟子とその仲間が集まって、主イエスが復活してシモン、つまりペトロに現れたことを話していたのです。この復活の主イエスがペトロに現れてくださった出来事そのものを、ルカによる福音書は語っているわけではありません。24章11、12節で語られていたように、主イエスの遺体を納めた墓が空であったことを女性たちが使徒たちに伝えたとき、ほかの使徒たちが彼女たちの話を信じなかったのに対して、ペトロだけは墓へ行き、その中をのぞいて、主イエスのご遺体がないことを確認しました。しかしこのときペトロは、復活の主イエスに出会ったわけではありませんし、主イエスの復活を信じられたわけでもありません。墓が空であることに「驚きながら家に帰った」に過ぎないのです。ルカ福音書は触れていませんが、おそらくその後、復活の主イエスはペトロに現れてくださったのです。
 十一人の弟子とその仲間がこのことについて話しているところに、エマオから二人の弟子が戻ってきました。彼らも自分自身の体験を語り始めます。エマオに向かっていたとき、復活の主イエスが共に歩んでくださったにもかかわらず、自分たちはその人が主イエスだとは分からなかったこと。しかしエマオで共に食卓を囲み、主イエスがパンを裂いてくださったとき、その人が復活の主イエスだと分かったこと。そのすべてを、彼らは集まっていた十一人とその仲間に話していたのです。

霊を見ていると思った
 すると復活された主イエスが、弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われました。しかし弟子たちは、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」のです。新共同訳では「亡霊」と訳されているので、私たちは「幽霊」を思い浮かべがちですが、原文では単に「霊」と言われているだけです。聖書協会共同訳では「彼らは恐れおののき、霊を見ているのだと思った」と訳されています。復活の主イエスが現れたとき、彼らは恐れとおののきにとらわれ、霊を見ていると思ったのです。このことは不思議に思えるのではないでしょうか。弟子たちの中には、すでに復活の主イエスと出会ったペトロがいましたし、エマオから戻ってきた二人の弟子もいたからです。しかも彼らはこのとき、復活の主イエスがペトロと二人の弟子に現われてくださったことを話している最中でした。「本当に主イエスは復活された」と話している人たちの真ん中に、まさにその復活の主イエスが現れたのですから、恐れおののくのではなく、復活の主イエスが現れてくださった、と喜んでも良いように思います。今、自分たちが話していたことに間違いはなかった、と主イエスの復活を信じても良いはずです。しかし彼らは、恐れおののいたのです。「恐れおののく」は、原文では「恐れる」という意味の言葉が重ねて使われています。彼らはめちゃくちゃ恐れたのです。それほどに主イエスの復活を信じるのは難しい。すでに復活の主イエスに出会っていても、そのことについて話していても、実際、目の前に復活の主イエスが現れると、信じるよりも、恐れとおののきにとらわれ、「霊」を見ていると思ってしまうのです。

復活と昇天の間
 弟子たちがそのように思ったのは、主イエスの復活を信じることの難しさに加えて、復活の主イエスの現れ方にも原因があったのかもしれません。このとき主イエスは、復活と昇天の間を歩んでおられました。ルカ福音書の続きである使徒言行録1章3節には「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。復活の主イエスは、天に上げられるまでの四十日に亘って、弟子たちに現れてくださいました。しかしその現れ方は、弟子たちとずっと一緒にいてくださる、という現れ方ではありません。あの二人の弟子は、エマオで復活の主イエスに気づいた途端に、主イエスの姿が見えなくなりました。ペトロにしても、復活の主イエスと出会った後、ずっと一緒にいたわけではありません。このことは十字架と復活の前と後で、主イエスと弟子たちとの関係が変化したことを示しています。かつて主イエスは弟子たちとずっと一緒にいて、共に生活をしながら旅をしていました。しかし今や、復活の主イエスは同じように弟子たちと一緒にいてくださるわけではありません。むしろ神出鬼没に弟子たちに現れ、そしてすぐに見えなくなるのです。弟子たちは、主イエスが天に上げられた後、目に見えない主イエスを信じて生きていかなければなりません。復活と昇天の間を歩んでおられる主イエスが、今までとは異なる仕方で弟子たちに現れてくださったことは、そのための備えとなります。目に見える復活の主イエスが現れて、目に見えない主イエスを信じて生きるよう導いてくださるのです。その意味で、主イエスの復活と昇天の間は、弟子たちにとって、目に見えない主イエスを信じて生きるための準備期間です。その準備期間に入ったばかりの弟子たちは、これまでと違って、ずっと一緒にいてくださらない、すぐに見えなくなってしまう復活の主イエスをにわかには信じることができませんでした。だから彼らは復活の主イエスが現れると、恐れとおののきにとらわれ、「霊」を見ていると思ったのです。

昇天後の時代を生きる私たち
 今、私たちは教会の暦の上ではイースターと主イエスの昇天を記念する昇天日の間を歩んでいます。今年の昇天日は5月29日(木)です。しかしそれは暦の上だけのことであって、私たちが生きているのは、主イエスが天に昇られた後の時代です。主イエスの昇天後の時代を生きる私たちは、この目で復活の主イエスを見ることはできません。私たちの信仰生活は、目に見えない復活の主イエスを信じて生きる歩みです。しかしそれは、弟子たちがそうであったように簡単なことではありません。いえ、弟子たち以上に難しいと言うべきかもしれません。弟子たちは四十日の間、目に見える復活の主イエスに出会うことができ、そのことを通して、主イエスの昇天の後に、目に見えない主イエスを信じて生きる備えをすることができました。しかし私たちにはそのような準備期間は与えられていません。復活の主イエスに出会った弟子たちですらなかなか信じられなかったのであれば、その機会が与えられていない私たちは、より一層、主イエスの復活を信じることに難しさを感じるのです。恐れおののき、霊を見ていると思った弟子たちに、主イエスは「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と言われました。弟子たちをとらえたこの動揺と疑いは、主イエスの昇天後の時代を生きる私たちをもとらえるものであるに違いないのです。

体を持った復活
 復活の主イエスを信じられず、霊を見ているように思った弟子たちに、主イエスは、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と仰って、ご自分の手と足をお見せになりました。ここでも「亡霊」と訳されている言葉は「霊」という言葉です。ですからここで主イエスは「幽霊には足がないけれど、私にはある」というようなことを言いたいのではありません。主イエスは弟子たちに、「私の手や足に触りなさい」と言われます。つまり主イエスの復活は、触ることのできる体を持った甦りなのです。体を持たない、霊における甦りでは決してありません。弟子たちは、復活の主イエスが現われてくださっても、霊を見ているように思いました。それが意味しているのは、一つには、彼らが主イエスの復活を霊における復活と考えようとした、ということでしょう。神出鬼没に現われ、現れたかと思ったら消えてしまう復活の主イエスは、体を持って甦ったのではなく、霊において甦ったと考えたのです。そのほうが主イエスの復活を信じやすいからです。主イエスが体を持って復活されたとは信じられなくても、霊において復活されたのなら、まだ納得できる、信じられると思ったのです。
 弟子たちより主イエスの復活を信じることが難しい私たちにとっても、主イエスの復活を霊における甦りと考えることは、大きな誘惑です。そのように考えたほうが、復活に対する信じがたさや疑いは薄れるからです。たとえばこのように言われることがあります。主イエスは2000年前に十字架で死なれたけれど、弟子たちの記憶の中で生き続け、それを教会が主イエスの復活として信じてきた。このように考えるなら、それは主イエスの復活を霊における復活と考えていることになります。しかし本日の箇所は、このような考えをはっきりと否定しています。主イエスの復活は、まさに手と足、肉と骨を伴った、体を持った甦りなのです。
 復活の主イエスがご自分の手と足をお見せになっても、弟子たちは「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がって」いました。「喜びのあまりまだ信じられない」というのは矛盾しているように思えます。しかし私たちも、私たちの常識を超えた神様のみ業に触れるとき、「喜びのあまり信じられない」という体験をするのではないでしょうか。この矛盾しているように思える弟子たちの姿は、主イエスの復活という神様のみ業が、私たちの常識をはるかに超えた、驚くべきみ業であることを示しているのです。主イエスは、なお信じられず、不思議がっている弟子たちに、「ここに何か食べ物があるか」と尋ねられます。彼らが「焼いた魚を一切れ差し出すと」、主イエスは「それを取って、彼らの前で食べられ」ました。焼いた魚を食べることを通して、主イエスはご自分が体を持って甦られたことをはっきりと示されたのです。

まさしくわたしだ
 このように主イエスの復活は霊における復活ではなく体を持った復活です。体を持って地上を歩まれ十字架で死なれた主イエスが、神様によって体を持って復活させられたのです。しかしここで疑問が生じるかもしれません。主イエスの復活のお体は、地上を歩まれたお体と同じお体なのだろうか、という疑問です。聖書は全体として、復活の体が、地上の生涯を歩んだ体とは異なる「新しい体」であることを語っています。その意味で、主イエスの復活のお体は、地上を歩まれたお体と同じではない、と言うべきでしょう。しかしそれは、地上を歩まれた体と復活の体が、まったく関係ないということではありません。本日の箇所が見つめているのは、主イエスの復活のお体は、地上を歩まれたお体と連続している、ということです。復活の体は、確かに「新しい体」であり、その点で、地上を歩まれた体と連続していません。地上を歩まれた体と復活の体は「不連続」なのです。しかし同時に本日の箇所が告げているのは、その「不連続」の中に「連続」がある、ということです。不連続性の中の連続性です。小難しいことを言っているように思えるかもしれません。しかし、実はシンプルなことです。また大切なことでもあります。復活における体の連続性とは、要するに復活された主イエスが、地上を歩まれ十字架で死なれた主イエスと同じ方だ、ということです。だからこそ主イエスは「まさしくわたしだ」と言われるのです。「復活してあなたたちの目の前にいる私は、これまであなたたちと一緒に過ごし、共に旅をし、そして十字架で死んだ、その私だ、まさしく私だ」と言われるのです。「まさしくわたしだ」という主イエスのお言葉は、復活された主イエスと地上を歩まれた主イエスの同一性を言い表しているのです。

同一の自分に復活させられる
 少々複雑な話をしたのは、このことが単に、体を持った主イエスの復活を信じることだけでなく、私たちの復活にも関わりがあるからです。私たちは洗礼を受け、主イエス・キリストと一体とされ、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えられて生きています。主イエスが復活させられたように、私たちも世の終わりに復活させられる、その約束に希望を置いて生きているのです。その私たちの復活も、主イエスの復活と同じように体を持った復活です。霊における復活ではありません。私たちに約束されている復活は、いわゆる「霊魂不滅」とはまったく違います。その復活の体は「新しい体」ですが、しかし地上の生涯を歩んだ体とまったく関係がないのではありません。主イエスの復活と同じように、「不連続」の中に「連続」がある。つまり私たちは、復活して、地上の生涯を歩んだ自分とは異なる別の誰かになるのではない、ということです。地上の生涯を歩んだ自分と、復活させられる自分は同一であり、同じ自分なのです。だから私たちも世の終わりに、復活させられたとき、「まさしく私です」と言うことができます。本日の箇所は、このことをも私たちに告げているのです。私たちは誰もが地上の生涯を終え、死を迎えます。しかしそれで終わりではない。その先に、「まさしく私です」と言うことができる体を持った復活の約束が与えられているのです。私たちキリスト者は、死の先に約束されている復活と永遠の命を見つめ、そこに希望を置いて、それを待ち望みつつ、今、地上の生涯を歩んでいるのです。

幽霊を見たと思った
 さて、少し話が戻りますが、37節、39節の「亡霊」と訳された言葉は、原文では単に「霊」という言葉だと、繰り返しお話ししてきました。聖書協会共同訳だけでなく、かつての口語訳も「霊」と訳していますし、英訳聖書を見ても “spirit” と訳しています。ですから「霊」と訳すので正しいわけです。しかし今回、説教に備える中で改めて辞書を調べてみると、本日の箇所におけるこの言葉は、 “ghost” を意味すると書いてありました。つまり「亡霊」ないし「幽霊」を意味すると書いてあったのです。ですから新共同訳の「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」という訳は、言葉の訳としては正確でなくても、その意味を汲んでいる、と言えます。もっとも厳密には、西洋における “ghost” と日本における「幽霊」には違いがあるでしょうし、「亡霊」と「幽霊」にも違いがあるでしょう。しかしここでそのような厳密な話をしたいのではありません。目を向けたいのは、復活の主イエスが現れたとき、弟子たちが「幽霊を見た」と思った、ということです。そのように読むこともできる、ということです。こういう感覚は日本の文化にもあり、私たちも知らず知らずの内に影響を受けていると思います。幽霊が出てくる映画や小説や漫画はたくさんありますし、幽霊が出る場所というようなことも言われます。あるいは「肝試し」や「お化け屋敷」も、幽霊が前提とされています。そのような日本の文化をすべて否定するつもりはありませんが、しかし問うべきは、私たちが幽霊を信じる背後に何があるのか、ということです。その背後にあるのは、主イエスが弟子たちに、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と言われたように、動揺と疑いではないでしょうか。何に対する動揺と疑いでしょうか。死んだらどうなるのか、ということに対する動揺と疑いです。死んだらどうなるか分からないから、死後に対して、恐れと動揺と疑いを持っているから、「幽霊を見た」と思うのです。幽霊を信じるのです。

もう幽霊に頼らない
 そうであるなら私たちキリスト者は、幽霊を信じる必要はありません。幽霊を信じたり恐れたりすることから解放されています。なぜなら私たちは、死んだらどうなるのか、ということを知らされているからです。主イエス・キリストが復活させられたように、私たちも地上の生涯を終え、死を迎えた先で、世の終わりに復活させられ、永遠の命を生きるようになります。主イエスと同じように体を持って復活させられ、「まさしく私です」と言うことができます。このことを知らされ、このことを信じて生きる私たちは、もう幽霊に頼る必要はないのです。

復活の主イエスとの交わりに生きる
 ある方がこの箇所の説教で、この「霊」という言葉は「幽霊」を意味していると語った上で、「幽霊のためにいのちをかけるなどということは考えられない。けれどもこの弟子たちは…イエスのために死んだのであります」と語っておられます。私たちは幽霊を見たと思ったからといって、それで幽霊のために命をかけることはないでしょう。しかし弟子たちは主イエスのために命をかけました。文字通り命を失った者もいます。主イエスの復活をなかなか信じられなかった弟子たちが、主イエスが天に昇られた後、主イエスの十字架と復活を力強く証ししていくのです。生ける復活の主イエスと出会ったからです。体を持って復活された主イエスと出会い、交わりを持つことができたからです。霊における復活であるなら、弟子たちの記憶の中で生き続けたというようなことであるなら、弟子たちは主イエスのために命をかけることはなかったでしょう。「なかった」というより「できなかった」と言ったほうが良い。体を持って復活された主イエスとの交わりに生きたからこそ、彼らは生きて働かれる復活の主イエスを証しし、宣べ伝えることができたのです。弟子たちが復活の主イエスとの交わりに生きたのは、四十日間だけのことではありません。主イエスは四十日に亘って、弟子たちに現れた後、天に昇られましたが、しかし天におられる主イエスは、聖霊のお働きによって、弟子たちといつも共にいてくださったのです。弟子たちは、聖霊のお働きによって、いつも共にいてくださる目に見えない復活の主イエスを信じ、その主イエスと交わりを持って生きました。その中で、死の先にある復活と永遠の命の希望を繰り返し示され、確かなものとされて歩んだのです。だからこそ彼らは、その希望に支えられて、困難の多い中にあっても絶望することなく、それどころか喜びを持って、主イエス・キリストの救いを「地の果てに至るまで」宣べ伝えたのです。

平和があるように
 復活の主イエスは弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。これはユダヤ人にとっては、「おはよう」とか「こんにちは」という普通の挨拶です。しかしここで主イエスは単なる挨拶をしたのではないでしょう。「復活の主イエスを信じるところに与えられるまことの平和が、あなたがたにあるように」と仰ったのです。まことの平和、まことの平安は、私たちが復活の主イエスを信じ、復活の主イエスと共に生きるところに与えられます。今も生きて働かれる主イエス・キリストと共に生きることによってこそ、私たちは死んだらどうなるか分からないという恐れや動揺や疑いから解放されて、安心して生きることができるのです。死を迎えた先で、世の終わりに復活と永遠の命にあずかる約束が与えられているからです。主イエスと同じように体を持って復活させられ、同一の自分で復活させられ、「まさしく私です」と言うことができる、と約束されているからです。今、天におられる主イエスは、聖霊のお働きによって私たちと共にいてくださいます。体を持った復活の主イエスが、聖霊のお働きによって、いつでもどこでも私たちと共にいてくださり、交わりを持っていてくださるのです。それこそ焼いた魚を食べるような、ごくありふれた日常生活の中で、私たちは復活の主イエスと交わりを持って生きていきます。そのようにして復活の主イエスとの交わりに生きる中で、私たちは繰り返し世の終わりの復活と永遠の命の希望を示され、その希望を確かにされ、なお苦しみや悲しみに溢れている地上の生涯を、絶望することなく歩んでいくのです。復活の主イエスとの交わりに生きる中で、私たちは主イエス・キリストのために命をかけて生き、神様に自分を献げて生きていくのです。

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