夕礼拝

闇の中に輝く光

説 教 「闇の中に輝く光」副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第8章23節-9章6節
新 約 ルカによる福音書第1章78-79節

クリスマスを間近に控えて
 待降節第三主日を迎えました。まもなくクリスマスを迎えようとしています。本日の夕礼拝では普段読み進めているルカによる福音書から離れて、旧約聖書イザヤ書8章23節から9章6節のみ言葉に聴きたいと思います。共に読まれた新約聖書ルカによる福音書1章78節、79節はクリスマス物語の一部、いわゆる「ザカリアの預言」の最後の部分で、主イエス・キリストの誕生についてこのように語っています。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」。その後半79節はイザヤ書9章1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」からの引用です。ザカリアは「高い所からあけぼのの光が…暗闇と死の陰に座している者たちを照らした」と語っていますが、それは主イエス・キリストの誕生においてこのイザヤの預言が実現したということです。クリスマスを間近に控えたこのとき、私たちはこのイザヤの預言を読み進めたいと思います。そのことを通して、クリスマスの出来事がどのような人のために起こったのかを示されていきたいのです。そのためにもイザヤ書8章23節以下が、もともとどのような歴史的状況の中で告げられたかに目を向けていきたいと思います。

8章23節から
 さて、お気づきのように、そして少々複雑な話になりますが、本日の聖書箇所を9章1節からではなく8章23節からとしました。8章23節から9章6節を一つのまとまりと考えたからです。しかしどこから新しいまとまりが始まるかについては色々と議論があり、9章1節から始まると考える人もいます。ただ、幾つかの翻訳聖書や注解書を見る限りでは、8章23節を新しいまとまりの始まりと見なしているものがほとんどでした。特に英訳聖書では、新共同訳の8章23節が9章1節になっていて、以下1節ずつずれています。その理由を詳しく調べることはできませんでしたが、これらの英訳聖書は新共同訳の8章23節以下を一つのまとまりと見なしていることは確かでしょう。実は、新共同訳でも8章23節以下を一つのまとまりと見なしていることが示されています。いわゆる小見出しが9章1節の前ではなく8章23節の前にあるからです。「ダビデの位」という小見出しです。新共同訳も8章23節から新しいまとまりが始まると考えているのです。ところがそれで話は終わりません。ややこしいことに、この小見出しは、よく見ると23節の前にあるのではなく23節の途中にあります。23節は「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」で始まり、その後、「ダビデの位」という小見出しを挟んで、「先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが」と続きます。つまり新共同訳は正確に言えば8章23節後半から新しいまとまりが始まると考えているのです。直前の22節では、「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」と言われていて、まさに闇に覆われた現実が見つめられています。新共同訳は23節の前半で闇に覆われた現実についての預言が終わり、23節の後半からその現実に到来する光についての預言が始まると考えているのです。

9章1節以下の導入
 長々とややこしい話をしてきました。この話はよく分からなくても構いません。しかし大切なことは、8章23節が、「苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」に覆われている現実を見つめている22節までと、その現実に光が到来することを預言している9章1節以下の橋渡しをしているということです。あるいは8章23節は、9章1節以下の導入となっているとも言えます。導入なしに9章1節以下を読むのではなく、導入を読んでから9章1節以下を読むことが大切です。そしてこの導入に、9章1節以下の預言の背後にある歴史的状況が示されているのです。

シリアーエフライム戦争
 その歴史的状況とは、いわゆる「シリア-エフライム戦争」(732年)がもたらした状況です。すでに12月の聖句についての奨励の中で、藤掛先生が「シリア-エフライム戦争」についてお話しくださいましたが、改めてこの戦争について見ておきます。「シリア-エフライム戦争」という言葉は聖書に出てくるわけではありませんが、この戦争への言及は多くの箇所に見いだせます。もっともこの戦争の経過を正確に再構築することは困難で、大体の流れを捉えることができるぐらいです。その最も重要な手がかりは列王記下にあります。当時イスラエルは、北王国イスラエルと南王国ユダに分かれていましたが、どちらも小国であり、時の大国の脅威にさらされていました。当時の大国とはアッシリア帝国です。「シリア-エフライム戦争」は、このアッシリアの脅威に対抗するために起こりました。列王記下16章5節に、「そのころ、アラムの王レツィンとイスラエルの王、レマルヤの子ペカがエルサレムを攻めようとして上って来た。彼らはアハズを包囲したが、戦いを仕掛けることができなかった」とあります。アラム(つまりシリア)とイスラエル(つまりエフライム)は、アッシリアの脅威に対抗するために、いわゆる「反アッシリア同盟」を結んでいました。その「反アッシリア同盟」に南王国ユダも加わるよう圧力をかけるために、アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカはエルサレムに攻め上ったのです。イザヤ書7章を読むと、彼らがユダの王アハズを失脚させて、自分たちに都合の良い王を即位させようとしていたことが分かります。このように「シリア-エフライム戦争」とは、シリアとエフライムの間の戦争ではなく、同盟国であるシリアとエフライム、つまりアラムと北王国イスラエルが、南王国ユダに攻め上った戦争です。結局、「彼らはアハズを包囲したが、戦いを仕掛けることができなかった」とあるように、アハズを失脚させることも、ユダを「反アッシリア同盟」に加えることもできませんでした。それどころかユダの王アハズが危機的状況に直面して、アッシリア王の助けを求めたのです。列王記下16章7節にこのようにあります。「アハズはアッシリアの王ティグラト・ピレセルに使者を遣わして言わせた。『わたしはあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、わたしを救い出してください』」。するとアッシリア王はアハズの願いを聞き入れ、ダマスコに攻め上ってレツィンを殺した、と9節にあります。さらにティグラト・ピレセルは北王国イスラエルも攻めました。列王記下の記述としては前後しますが、15章29節に「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った」とあります。アッシリアに対抗するために、アラムの王とイスラエルの王が起こした「シリア-エフライム戦争」でしたが、結局、逆にアッシリアによってイスラエルが攻められ、その領土の北部を奪われ、さらにアラム王レツィンが殺害されて完全に失敗に終わったのです。

戦争がもたらした状況
 このアッシリアに併合されたイスラエルの領土の北部の地名が、イザヤ書8章23節に記されている地名と考えられます。このように言われていました。「先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」。「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」とは、ゼブルンとナフタリがティグラト・ピレセルによってアッシリアに併合されたことを意味します。「海沿いの道」、「ヨルダン川のかなた」、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれている場所も、このとき同じように北王国の領土から割譲され、アッシリアに併合されました。先ほどの列王記下15章29節には「その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った」とも記されていました。北王国は大国アッシリアに攻められ、領土を奪われ、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去られたのです。アッシリアだけを悪者にすることはできないかもしれません。事の発端は、アラムと共に不用意に南王国に攻め込んだ北王国の外交政策の失敗にあったからです。この戦争によって北王国は著しく衰退します。そして約10年後の722年にアッシリアによって滅ばされるのです。しかしこの戦争によって最も深い傷を負ったのは、北王国に暮らしている人たちです。命を奪われた者があり、アッシリアに捕囚として連れ去られた者があります。家族や友人、大切な人を失った者、あるいは連れ去られた者もいたでしょう。土地が荒廃して飢えに苦しむ者も多かったに違いありません。まさに人々は、「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」という現実の中にいたのです。どこを見ても闇しか見えない、光がまったく見えない、希望がまったく見えない。そのような現実の中にあったのです。

闇から光へ
 けれども8章23節は、闇に覆われた現実だけを語っているのではありません。アッシリアの領土となったイスラエル北部の地が、「後には」、「栄光を受ける」と告げています。その意味で、23節は闇から光への転換点です。そして続く9章1節で預言者イザヤは、どこを見ても闇しか見えない、光がまったく見えない、希望がまったく見えない現実のただ中に生きる人たちに向かって、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と告げます。「死の陰の地に住む者」とは、死に瀕している人たちを意味します。戦争は自分自身と大切な人の死を身近なものとしたに違いありません。しかし文字通りに死に瀕している人たちだけでなく、深い絶望にとらわれ、自分が死んでいるように思える人たちも含まれていると思います。イザヤは闇に覆われた現実の中を歩む人たちが「大いなる光」を見たと、死に瀕している人たちの上に、深い絶望にとらわれている人たちの上に「光が輝いた」と告げているのです。

光の到来によって起こること
 この「大いなる光」が到来することによって、この「光が輝く」ことによって起こることが、2節から4節で告げられています。まず3、4節を見ると、このように言われています。「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を あなたはミディアンの日のように 折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく 火に投げ込まれ、焼き尽くされた」。戦争の終結が見つめられています。もう、地を踏み鳴らした兵士の靴音を聞くことはない、血にまみれた軍服を見ることはありません。しかしそれだけでは十分ではない。ただ戦争と支配が終わっただけでは十分ではありません。戦争で傷ついた人たちが癒やされなくてはならない。戦争は人々に軛を負わせました。軛というのは、牛や馬の首の後ろにかける横木のことです。軛によって人間は牛や馬を制御することができるわけですが、逆に牛や馬にとっては、軛があることで自由に動けなくなるのです。それゆえ軛は「自由を束縛するもの」を意味します。戦争は人々に軛を負わせ、人々から自由を奪いました。しかしその軛が折られた、と告げられています。「大いなる光」が到来し、「光が輝く」ことによって、軛を負い、自由を失って生きている者が、その軛を取り除かれ、自由を取り戻すのです。肩を打つ杖や虐げる者の鞭に傷ついている者が解放され、癒やされるのです。だからこそ2節で告げられているように、人々は「深い喜びと大きな楽しみ」を与えられて、神の御前で喜び祝うことができるのです。

ひとりのみどりご
 そうであるなら「大いなる光」とは、闇の中に輝く光とは、何を指しているのでしょうか。イザヤは漠然とした光を告げているのではなく、具体的な光を告げています。それが5節です。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」。ここではひとりの男の子が生まれ、王に即位することが見つめられています。「大いなる光」とは、闇の中に輝く光とは、この「ひとりのみどりご」のことです。6節では、この「ひとりのみどりご」が生まれ、王に即位することによって実現することが、このように告げられています。「ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる」。
すでに実現したかのように

 ところでイザヤは、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」た、「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」と、すでにこれらのことが実現したかのように告げています。しかし実際は、まだ実現したわけではありませんでした。イザヤの預言を聞いた者たちは、いぜんとして闇の中を歩んでいたのであり、闇の中に輝く光を見たわけではありませんでした。「ひとりのみどりご」もまだ生まれていなかったのです。それでもイザヤがすでに実現したかのように告げているのは、このことが将来必ず実現する、と確信していたからです。それは、イザヤ自身が確信していたというより、神がイザヤに確信を与えてくださったと言ったほうがよいかもしれません。預言者は自分の言葉を語るのではなく神から預かった言葉を語ります。神はイザヤを通して、すでに実現したかのように告げることによって、闇の中を歩む者たちが、将来、必ず「大いなる光」を見ることになる、と約束してくださったのです。

クリスマスは誰のために
 イスラエルの民はこの預言の実現を、この神の約束の実現を待ち望んできました。しかし私たちはすでにこの預言が実現したことを知らされています。共に読まれたルカ福音書1章78、79節で、ザカリアはこの預言が主イエス・キリストの誕生において、クリスマスの出来事において実現した、と語っています。闇の中に輝く光とは、クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストのことなのです。そうであればクリスマスの出来事は、戦争を始めとする悲惨な現実の中でうめき苦しんでいる人たちのために起こったと言ってよい。闇に覆われた現実に生きる人たちのために、闇しか見えず、光がまったく見えない、希望がまったく見えない現実のただ中に生きる人たちのために、死に瀕している人たちのために、深い絶望にとらわれている人たちのために、軛を負って苦しんでいる人たちのために、虐げる者の鞭に傷ついている人たちのために、主イエス・キリストは生まれてくださったのです。クリスマスプレゼントを楽しみにしている子どもたちがいます。クリスマスのデートに期待を膨らませている恋人たちがいます。家族や友だちとのクリスマスパーティーを予定している人たちがいます。私たちの社会では、クリスマスはそのような人たちのためにあると思われています。そのような人たちのためにあるのではない、とは言いません。しかしそのような人たちのためだけにあるのでもありません。むしろクリスマスは、闇に覆われた現実に生き、深い絶望にとらわれて生きている人たちのためにあるのです。主イエス・キリストは、闇に覆われた現実に生きている人たちのために、闇の中に輝く光として生まれてくださったのです。

闇に覆われている世界
 今、この世界は闇に覆われているように思えます。「シリア-エフライム戦争」は2700年以上前の出来事ですが、それにもかかわらず戦争がもたらす悲惨さは今も変わりありません。ロシアとウクライナの戦争は、2年10ヶ月以上に亘って続き、今も終わりが見えません。死傷者が推定で100万人を超えたという報道もあります。またハマスがイスラエルに大規模な襲撃を仕掛け、それに対してイスラエルがガザ地区への大規模な攻撃を始めてから一年以上が経ちましたが、この戦争も終わりが見えるどころか、隣国を巻き込みつつ拡大していっています。ガザ地区の死者は4万人以上と報道されています。多くの命が奪われ、とりわけ多くの子どもたちの命が奪われている悲惨な現実を思うとき、世界が闇に覆われていると思わないわけにはいかないのです。

私たちが抱えている闇
 戦争を始めとする悲惨な現実によって、世界が闇で覆われているだけではありません。ほかならぬ私たち自身も闇を抱えています。幸いなことに、今は、私たちの身近なところで戦争が起こっているわけではありません。しかしあの「シリア-エフライム戦争」で多くの人々が深い傷を負ったように、私たちも日々の生活の中で深い傷を負いつつ、闇を抱えつつ生きています。人間関係の破れに苦しんでいます。学校、職場、家庭で様々な葛藤を抱えています。精神的な軛を負って、自由を失っています。孤立と不安の中にいます。この時期、街がイルミネーションで彩られているからこそ、自分の闇が深くなるように思えます。イルミネーションの光では、自分の闇の中に光を灯すことなどできないからでしょう。しかしそれでもイルミネーションを見たいとも思います。それはきっと、自分の内には光がないと、自分の力では光を作り出すことができないと分かっているからです。だからせめて作り物の光でも良いから、イルミネーションを見たくなるのです。しかしそれは、私たちが闇の中を歩んでいることを、私たちが闇を抱えて生きていることを、私たち自身が認めているということではないでしょうか。

神の独り子が人間となった
 私たちこそ「闇の中を歩む民」です。私たちこそ「死の陰の地に住む者」です。闇に覆われた世界に生き、自分の内にも闇を抱え、希望を失い、絶望にとらわれて生きています。しかしその私たちのために、主イエス・キリストが生まれてくださったのです。闇の中を歩む私たちが、主イエス・キリストという「大いなる光」を見、絶望にとらわれている私たちの上に、主イエス・キリストという光が輝いたのです。イザヤが「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」と預言したとき、イザヤ自身は、人間の子どもを思い浮かべていたかもしれません。しかしイザヤの預言はイザヤの思いを超えて成就します。人間の子どもが生まれたのではなくて、神の独り子が人間となって生まれてくださったのです。「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」とは、神にこそふさわしい称号です。神の独り子であり、まことの神であるイエス・キリストにこそふさわしい称号なのです。6節の終わりに「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」とあります。神の熱意が、神の私たちへの熱い愛が、独り子イエス・キリストを私たちのために人間の子どもとして生まれさせてくださったのです。

闇の中に輝く光
 私たちが負っている軛とは、突きつめれば罪と死による支配です。罪と死の支配が私たちから自由を奪い、隣人との関係の破れを生み、孤立と不安を生みます。しかしその罪と死という軛を、御子キリストが折ってくださり、取り除いてくださったのです。御子キリストがクリスマスにお生まれになり、十字架で死んで復活されることによって、私たちは罪と死の支配から解放されているのです。すでに主イエス・キリストという光は、闇の中に輝いています。私たちの世界を覆う闇がどれほど深いとしても、私たち自身が抱える闇がどれほど深いとしても、キリストという光は闇に負けることはありません。将来、救いの完成のときに、この光は闇に完全に勝利するのです。だから私たちは、自分の内に光がないからといって、光を探し出す必要はありません。自分の力で自分の内に光を作り出す必要もありません。すでに与えられている光に、神が熱意をもって、熱い愛をもって私たちに与えてくださった光に目を向ければよいのです。闇に覆われた現実に生きているように思えるときも、深い絶望にとらわれて生きているように思えるときも、すでに与えられている御子キリストという光に目を向けます。そうすることによって、イルミネーションが決して与えることのできない、「深い喜びと大きな楽しみ」が私たちに与えられます。神が私たち一人ひとりを愛してくださっていることを知る「深い喜びと大きな楽しみ」が与えられるのです。

 今、闇に覆われた現実に生きている私たちのために、希望の見えない現実に生きている私たちのために、深い絶望にとらわれて生きている私たちのために、御子キリストは生まれてくださいました。闇の中に輝く光として、御子キリストはクリスマスに生まれてくださったのです。私たちは闇の中を歩むときも、死の陰の谷を行くときも、その御子キリストを、闇の中に輝く光である御子キリストを見つめて生きるのです。

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