主日礼拝

裁き合うのはやめよう

2024年10月20日 伝道礼拝
説教題「裁き合うのはやめよう」 牧師 藤掛順一

コヘレトの言葉 第12章12〜14節
ローマの信徒への手紙 第14章7〜12節

裁き合っている私たち
 今日は、「裁き合うのはやめよう」という題でお話しをします。こういう題のお話しをすることの前提には、私たちはお互いにいつも裁き合っているのではないか、という思いがあります。裁きは裁判所でだけ行われているのではありません。私たちは人のことをいつもあれこれと評価し、判断しながら生きています。良く評価し、褒めることも勿論ありますが、どちらかというと悪く評価し、批判することの方が多いのではないでしょうか。そして自分が人に対して下した否定的な判断を、ただ自分の心の中だけに留めておくことはまずありません。私たちはいろいろな折にそれを他の人に語っていくのです。つまり人を批判し、悪口を言うのです。そのようにして「人を裁く」ことを、お互いどうしの間でいつもしている。私たちはお互いにいつも裁き合っているのではないか、というのはそういうことです。人のことを評価、判断することなしにこの社会は成り立ちません。入学試験にしても入社試験にしてもそういう評価、判断がなされているわけだし、今なされている選挙も、有権者が候補者のことを判断し、評価して投票するのです。人のことを判断、評価することなしにこの世を生きることはできないと言えるでしょう。しかしそういうことをしていく中で、私たちはしばしば人を裁き、裁き合い、お互いに傷つけ合ってしまいます。そこには悲しみが生じ、恨みが生まれ、それが殺人にまで至ってしまうことがあります。裁き合うことから、いろいろな苦しみ、悲しみ、不幸な出来事が生じていくのです。国と国の間でもそういうことが起こります。今世界のいろいろな所で対立が深まっています。それが激しくなると戦争が起こります。戦争においては、今まさに起っているように、お互いが相手が悪いと裁き合い、非難し合い、そしてやられたんだからやり返すのは当然だ、ということで戦いが激しくなっていくのです。そして一般市民が犠牲になっていきます。「裁き合う」ことは、私たちの個人的な生活にも、また国家間にも、苦しみや悲しみをもたらすと言わなければならないでしょう。「裁き合うのはやめよう」という題は、そういう苦しみ悲しみから抜け出したい、という思いでつけました。私たちが、裁き合うのをやめることこそが、この世界に平和をもたらすための最も大事な、そして有効な、一歩だと言えると思います。

人を人として大切にし、尊重する
 さて本日のこの礼拝では、新約聖書、ローマの信徒への手紙の第14勝7〜12節をご一緒に読むのですが、その10節に「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか」とあります。この手紙を書いたパウロはここで、「なぜあなたは自分の兄弟を裁くのか。裁き合うのはやめよう」と語りかけているのです。この聖書の教えを、本日は皆さんとご一緒に味わいたいのです。ここに、なぜ兄弟を裁くのですか、と並んで、なぜ兄弟を侮るのですか、とも語られています。人を裁くことはその人を侮ることだ、と言われているのです。これは、私たちが人を裁いてしまう時に何をしているのかを考えさせてくれる大事な指摘です。人のことを否定的に判断し、裁く時に私たちは、その人を侮っているのです。他の訳ではここは「軽んじる」となっています。人を侮り、軽んじることが、裁くことの中心にあります。人のことを判断し、評価することは、先ほども申しましたようにこの社会において避けて通ることがでません。学校においても、仕事においても、あるいは地域社会での生活においても、私たちは人のことを評価し、判断しながら、また人から評価され、判断されながら生きています。そういう評価や判断を全て停止してしまったら、この社会は回らなくなります。しかしそのように生活において不可欠な評価や判断に、人を侮り、軽んじるということがしばしば入り込むのです。そうすると、ここで言っているところの「裁き合う」ことが起こり、お互いに傷つけ合うことになり、恨みや憎しみが生まれていきます。「裁き合うのはやめよう」という勧めはそれゆえに、「人を侮り、軽んじることをやめよう」ことだと言うことができます。それは裏返して言えば、人のことを大切にしよう、ということです。人を人として大切にし、尊重する、そういう思いを持つことこそが、「裁き合うのをやめる」ために必要なのだと言えるでしょう。

裁き合うことから抜け出すには
 しかし私たちは皆既にそういうことを知っています。人のことを侮ったり軽んじたりするのでなく、大切にするべきだ、ということは、多少なりとも道徳的な生き方を志している人なら誰でも思っていることです。多くの人がそうしよう、そうしたいと思っているのです。しかしそれでも、私たちは裁き合ってしまいます。私たちにはそれぞれ譲れない思いがあって、それによっていろいろな対立が起こっていきます。意見の違いがあることはむしろ当たり前であって、健全なことだとも言えますが、そこにはどうしても、人を侮り軽んじる思いが入って来てしまうのです。それによって、裁き合い、傷つけ合うことが起こる。私たちはそういうことから抜け出せずにいるのです。人を侮ったり軽んじたりせずに大切にすべきだと思いつつ、それでも裁き合ってしまう、それが私たちの現実なのだと言わなければならないでしょう。どうしたらそこから抜け出して、人のことを本当に大切にし、尊重する者となることができるのでしょうか。

主のために生き、主のために死ぬ?
 聖書は、「裁き合うのはやめよう」という勧めの根拠として、一見それとは全く関係がないように思われる、びっくりするようなことを語っています。それが本日の箇所の7、8節です。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。これは驚くべき発言ですよね。生まれつきの私たちは皆、自分のために生きています。それが当たり前だと思っています。自分の人生は自分のものであり、自分の願いや望みを叶えることが人生の目的だ、というのは私たちの常識です。自分の人生を、ちゃんと自分のために生きることが大事だ。しっかり自分のために生きているなら、たとえ願いや望みを達成できずに道半ばで死ぬことがあっても、それは仕方がない、本望だ、と思えるだろう。自分のために生きている、という実感が持てれば、充実感のある人生を歩める。自分のために生きることができていないと、不本意な人生になる。私たちはそう思っているのではないでしょうか。しかしここにはそれとは丸切り逆のことが語られています。わたしたちは自分のために生き、自分のために死ぬのではなくて、主のために生き、主のために死ぬのだ、と言われているのです。

自分の人生は誰のものか?
 そしてこのことは「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」とまとめられています。つまり問題は、この自分は、自分の人生は、誰のものなのか、ということなのです。それは自分のものだ、というのが私たちの常識です。しかしパウロは、自分は、自分の人生は、主のものだ、と語っているのです。ここには人生の捉え方の大きな転換があります。私たちは、自分の人生は自分のものであり、その主人は自分だと思っています。自分が主人である人生を、自分の思いによって、自分の願いを実現するために、自分の力で切り開いていく、それが生きることであって、そのような人生を確立することができるかどうかで、良い人生を送れるか、不本意な人生となってしまうかが決まる、と思って日々生きています。しかしパウロは、自分の人生の主人はもはや自分ではない。自分の人生は主のものとなっている、人生の主人が、自分から主へと転換していると言っているのです。

キリストが主となられた
 その「主」とは誰のことでしょうか。それが9節に語られています。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。主とはイエス・キリストです。キリストが死んで、そして生きた、それは十字架にかかって死んで、そして復活した、ということです。そのことによってキリストは、死んだ人にも生きている人にも、つまりすべての人の主となられたのです。だから今やこのキリストが私たちの主であって、私たちは、私たちの人生は、この主であるキリストのものとされている。私たちはこのキリストのために生き、キリストのために死ぬ者となっているのだ、とパウロは言っているのです。

 裁き合いからの解放
 このことを受けて10節に「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、兄弟を侮るのですか」と語られているのです。「裁き合うのはやめよう」という勧めの根拠は、今やキリストが私たちの主であって、私たちはキリストのものとされている、ということなのです。これはそう簡単に「分かりました」と納得できることではありません。そもそも私たちは、自分がもはや自分のものではなくてキリストのものとされている、という転換を納得して受け入れることができません。キリストを救い主と信じていない人がそんなことを受け入れられないのは当然ですが、洗礼を受けてクリスチャンとなっている人だって、このことを本当に納得して受け入れているかといったら、心もとないのではないでしょうか。キリストを救い主と信じて、その救いにあずかって生きていても、人生の主人はやっぱり自分であって、自分が、自分のものであるこの人生を、より豊かに、喜ばしく、慰めと支えを与えられて、あるいはより正しく生きるための助けをキリストが与えてくれる、そのように思っていることが多いと思います。そこには、パウロがここで語っている、人生の主人の転換は起こっていません。自分がもはや自分のものではなくてキリストのものとされている、という転換は、クリスチャンにだって、そう簡単に納得できることではないのです。けれども、だからこそ私たちは、互いに裁き合うことから抜け出すことができないのだ、とパウロは言っているのです。裁き合うことからの解放は、人生の主人が自分からキリストへと転換することによってこそ起こるのです。

裁く者から神によって裁かれる者へ
 自分の主はキリストであり、自分はもはや自分のものではなく主のものだ、ということが、どうして「互いに裁き合う」ことからの解放をもたらすのでしょうか。10節の後半にそのことが示されています。そこには、「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」とあります。私たちは皆、神の裁きの座の前にいつか立たなければならない。そのことは17節にも語られています。「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」。神の裁きの座の前に立って、一人ひとりが自分のことを神に申し述べることになる。自分がそのように神に裁かれる日が来ることを見つめなさいとパウロは言っているのです。自分がもはや自分のものではなくなって、キリストのものとなる、自分の主人がキリストになる、という転換は、このことをもたらすのです。キリストのものとなった私たちは、神によって裁かれる者となるのです。ではそれまではどうだったのか。それまでは、自分が裁く者だったのです。人生が自分のものであり、自分が主人であるというのは、自分が裁く者として生きている、ということです。生まれつきの私たちは、自分が人生の主人であり、自分の人生は自分のものだと思って生きている、それは言い換えれば、自分が裁く者として生きている、自分がいろいろなことを、良いとか悪いとか評価し、判断しながら生きているということです。そういうことをお互いがしているのですから、そこに、裁き合うことが生まれていくのは当然なのです。ですから先ほど、自分の人生は誰のものなのか、ということが問題なのだと申しましたが、それは、自分のことを、また人のことを、本当に裁くことができるのは誰なのか、という問題なのです。そしてあの人生の主人の転換、自分がもはや自分のものではなく、キリストのものとなる、キリストが自分の主人となるという転換は、裁く者が自分からキリストに、ということは神に、転換する、自分は裁く者ではなくて裁かれる者だということを受け入れることなのです。

神が自分を裁く方であることを受け入れる
 キリストを信じて、キリストのものとなり、自分がもはや主人でなくなったら、神によって裁かれる者になる。そんなことは恐ろしいし、嫌だ、と思うかもしれません。しかしこれは、キリストのものにならなければ神に裁かれなくてすむ、という話ではありません。神はこの世界をお造りになり、私たちに命をお与えになった方です。私たち一人ひとりをこの世に生まれさせ、人生を導いておられるのも神です。そして私たちの人生は、この神のみ心によって、神がお定めになっている時に終わるのです。つまり私たちは、この人生は、信じようと信じまいと、既に神のもの、神のご支配の下にあるのです。そして私たちは誰もが、終わりの時に、神の裁きの座の前に立ち、一人ひとり、自分のことについて神に申し述べることになるのです。天地の全てをお造りになり支配しておられる神は、この世界を終わらせる方でもあり、そこにおいて私たちを裁く方でもあられる、というのが、聖書が根本的に教えていることです。先ほど共に読まれた旧約聖書の、コヘレトの言葉12章12節以下もそのことを語っています。私たちは、神を信じることによって初めて神に裁かれるようになるのではありません。それまでは自分が裁く者として生きているというのは、そのように錯覚して、神による裁きを見失っている、ということです。人のことであれ、自分自身のことであれ、根本的に裁いて良し悪しを決めることなど私たちにはできません。本当に裁くことができるのは、元々神のみなのです。神を信じるとは、神こそが自分をも人をもお裁きになる方だということを信じて受け入れることです。あの人生の転換は、本当に裁くことができるのは神お一人だった、ということ、つまり自分の人生の本当の主人は神であり、自分は自分のものではなくて神のものだった、ということに気づいて、その事実を受け入れることなのです。
 そして、神こそが裁く方であり、自分は裁く者ではなくてむしろ神によって裁かれる者なのだ、ということを知る所にこそ、裁き合うことから抜け出していく道が開かれます。私たちは、お互いに裁き合うのはやめよう、お互いのことを大切にし、尊重しよう、といくら努力していっても、自分が裁く者である限り、自分が人生の主人であり、自分の人生は自分のものだと思っている限り、裁き合うことから解放されることはないでしょう。裁き合うことからの解放は、人生の主人が自分からキリストへと転換することによってこそ得られるのです。

私たちのために徹底的に弁護して下さる方
 自分は神によって裁かれる者だ、ということを知って、そのことを見つめて生きることがここに教えられています。それは恐ろしいことだ。「こんなことをしたら神に裁かれて、滅ぼされてしまうかもしれない」といつもビクビクしながら生きることではないか、と感じるかもしれません。でもそれは全く違います。私たちは、キリストのものとされているのです。キリストが私たちの主人となって下さっているのです。そのキリストは、私たちのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方です。それによってキリストは私たちの罪を赦して下さったのです。そして父なる神はキリストを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。それは私たちにも永遠の命を与えて下さるためです。そのキリストが私たちの主となって下さったのです。9節の「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」というみ言葉はそのことを語っています。私たちの主となって下さったキリストは、十字架の死と復活によって、私たちに罪の赦しと、永遠の命の約束を与えて下さっているのです。そのキリストのものとされている私たちは、神の裁きを恐れてビクビクしながら生きる必要はありません。確かに私たちはいつか神の裁きの座の前に立って、自分のことについて神に申し述べることになるでしょう。その時私たちは、「自分はこんな良いことをしました。神さまの栄光を表す働きをしました」などと申し述べることができることはほとんどありません。むしろ、「こんな悪いことをしてしまいました。神さまのみ栄えを汚してしまいました」と言わざるを得ないことばかりです。しかしそこで主イエス・キリストが、「この人は私のものです。この人の主人は私です。その私が、この人の罪を全て背負って十字架にかかって死にました。だからこの人を赦して、永遠の命にあずからせて下さい」と弁護して下さるのです。人生の主人が転換して、自分がキリストのものとされ、キリストが自分の主人となっているというのは、このように私たちのために徹底的に弁護して下さる方が与えられた、ということです。この転換によって私たちは、喜んでこの人生を生き、そして死ぬことができるようになるのです。その喜びを語っているのが、7、8節です。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。これは、「自分のために生きてはならない」という掟を語っているのではなくて、この方のために生きるところにこそ、本当の喜びがある、という喜びの宣言なのです。生きるにしても死ぬにしても失われることのないこの喜びを与えられることによってこそ、私たちは、裁き合うことから解放され、裁きを神にお委ねして、人を大切にし、尊重する者となっていくことができるのです。

主イエスとの出会いの場である礼拝
 この人生の主人の転換は、頭で考えていて分かることでも起こることでもありません。十字架にかかって死んで、そして復活することによって私たちの主となって下さったイエス・キリストと出会うことによってこそそれは起こります。その出会いが起こる場が教会の礼拝です。その出会いを求めて、引き続き礼拝に集っていただきたいと心から願っています。裁き合ってしまうことからの解放への道はなお遠いと言わざるを得ませんが、主イエス・キリストと出会うことによって、その最初の一歩を踏み出すことができるのです。

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