夕礼拝

終わりはすぐには来ない

説 教 「終わりはすぐには来ない」副牧師 川嶋章弘
旧 約 エレミヤ書第29章4-9節
新 約 ルカによる福音書第21章5-19節

神殿の崩壊の予告
 ルカによる福音書21章に入り、本日は5節から19節を読み進めていきます。その冒頭5節に、「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると」とあります。「神殿」とは、エルサレム神殿のことです。主イエスがお生まれになったときのユダヤの王であったヘロデ大王が、紀元前20年頃から、エルサレム神殿の大がかりな増築工事を始めました。約80年間、ヘロデ大王の死後も工事は続き、紀元後63年頃にこの神殿は完成しました。その神殿の見事な石や奉納物にある人たちが見とれていたところから本日の箇所は始まります。エルサレムには外国から多くのユダヤ人が巡礼に来ていましたから、その人たちの中には、初めてあるいは久しぶりに神殿を見た人たちもいたと思います。彼らは神殿の立派さに驚嘆の声を上げて、見とれていたのかもしれません。しかしその様子は、私たちが観光名所で素晴らしい建築物を眺めるのとはいささか違いがあります。ユダヤ人にとってエルサレム神殿は信仰の中心であり、拠り所でした。ですからエルサレムに立派な神殿があることは彼らの信仰を支え、さらに言えば、彼らの世界を支えていたのです。この神殿さえあれば私たちは大丈夫だ、私たちの世界は大丈夫だ、と思えたのです。そのような思いに浸っていた人たちに、しかし主イエスは、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われました。神殿の立派さに見とれているけれど、この神殿が崩壊してしまう日が来る、と言われたのです。この主イエスのお言葉は、紀元後70年に、つまり神殿の増築工事が完成してから僅か7年ほど後に、現実のものとなりました。ユダヤ人がローマ帝国に対して反乱を起こしましたが、ローマ軍によって鎮圧され、エルサレムは滅ぼされ、神殿も破壊されたのです。

世の終わりが重ね合わせられている
 この主イエスのお言葉を聞いていた人たちが、主イエスに尋ねました。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」。5、6節からの流れで読めば、エルサレム神殿の崩壊はいつ起こるのか、神殿が崩壊するときにはどんな徴があるのか、と尋ねていることになります。21章を読み進めていくと、20節で「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」と言われていて、確かに主イエスはここで「神殿の終わり」ないし「エルサレムの終わり」について語っています。しかしここで主イエスは、「神殿の終わり」だけを見つめているのではありません。9節の終わりに「世の終わりはすぐには来ないからである」とあるように、本当に見つめているのは、「世の終わり」なのです。「世の終わり」とは、「終末」のことです。7節の前に小見出しがあり、そこに「終末の徴」とありますが、その「終末」です。聖書は神様がこの世界をお造りになり、そしてこの世界を終わらせられることを語っています。この世界の歴史には始まりと終わりがあるというのが聖書の世界観です。「終末」とは神様がこの世界とこの世界の歴史を終わらせられるときなのです。5節から21章の終わりまでは、この終末について語られています。その前半では、一見、「神殿の終わり」について語られているように思えますが、それと重ね合わせるようにして、「世の終わり」について語られているのです。もし神殿の終わりについてだけ語られているのだとしたら、神殿が破壊されてから約2000年後を生きている私たちには、主イエスのお言葉はまったく関係のないものになります。しかし世の終わりについて語られているならば、主イエスのお言葉は私たちに関係のある言葉、まさに私たちに語りかけられている言葉なのです。ですから7節は、神殿の終わりについて尋ねているだけでなく、それと重ね合わせるようにして、世の終わりはいつ起こるのか、世の終わりが来るときにはどんな徴があるのか、と尋ねているのです。

終わりはすぐには来ない
 ユダヤ人にとって神殿の崩壊は信仰の中心、拠り所を失うことであり、まるで「世の終わり」であるかのように思える出来事でした。つまり「神殿の終わり」は「世の終わり」の雛形となっている、と言えるのです。ユダヤ人にとって神殿の終わりについて考えることは、世の終わりについて考えることなのです。私たちの歩みにおいても、「世の終わり」を意識する出来事に直面することがあります。1991年にソビエト連邦が崩壊した時に、「歴史の終わり」ということが言われました。それは、聖書が語る「終末」について言われていたのではないとしても、当時の人々がソビエト連邦の崩壊に直面して「終わり」を意識せざるを得なかった、ということであったと思います。日本においても2011年の東日本大震災や2020年から始まった新型コロナ・ウイルス感染症は「終わり」を意識する出来事であったのではないでしょうか。また今年は「異常な暑さ」が続き、これまでにはなかったような自然災害が起こっているため、地球環境の変化によって「終わり」が近づいているのではないか、と思うこともあります。しかしこのような「終わり」を意識する出来事に直面する私たちに、主イエスは、「世の終わりはすぐには来ない」と言われるのです。

惑わされないように
 主イエスは8節で「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」と言われています。世の終わりを意識する出来事が起こると、主イエスを名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うのです。つまり自分は救い主だと名乗り、救いが近づいたと扇動する人たちが大勢現れるのです。私たちはこのような事態を度々経験しています。東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故においても、また記憶に新しい新型コロナ・ウイルス感染症においても、一方では不安を煽るような情報が飛び交い、その一方では根拠のない安全安心が喧伝されました。私たちは不安を煽る人にも、安全安心を喧伝する人にも、「惑わされないように気をつけ」なければなりません。自分の言う通りにすれば大丈夫だ、と言う人たちに「ついて行ってはならない」のです。

戦争によって世の終わりは来ない
 続けて主イエスはこのように言われています。「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」。主イエスは戦争や暴動は必ず起こる、と言われています。それは、この世界には戦争や暴動があっても良い、ということではありません。「平和を実現する人々は幸いである」と言われたのは、ほかならぬ主イエスだからです。二つの世界大戦を経験した人類は、約80年間、新たな世界大戦を起こさずに歩んできました。しかしそれでも戦争がなくなったわけではありません。繰り返し起こってきたのです。そして2022年2月にロシアによるウクライナ侵攻が始まり、2年半以上経った今も戦争は続いています。また2023年10月に始まったハマスとイスラエルの戦争も、さらに拡大しているように思えます。私たちはまさに今、主イエスが言われた通り、戦争は必ず起こるという現実に直面しているのです。この主イエスのお言葉は、主イエスの現実主義を示していると言えるかもしれません。主イエスは人間の現実を、人間の罪の現実を深く見つめておられたのです。ロシアとウクライナの戦争は、私たちに第三次世界大戦への恐れや、核兵器使用への恐れを引き起こし、世の終わりを意識させました。しかし主イエスは、戦争は必ず起こるが、「世の終わりはすぐには来ない」と言われます。それは、戦争によって世の終わりが来るのではない、ということです。だから主イエスは私たちに「おびえてはならない」と言われるのです。

キリストによって世の終わりは来る
 戦争によって世の終わりが来るのではないのなら、あるいは11節で言われているような地震や飢餓や疫病によって終わりが来るのではないのなら、どのようにして世の終わりは、終末は来るのでしょうか。そのことが来週読む21章15節以下に語られていて、その27節に「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」とあります。「人の子」とは、主イエス・キリストのことです。つまり主イエス・キリストが来てくださるときに、世の終わりが来るのです。主イエス・キリストは、私たちの罪をすべて背負って十字架に架かって死んでくださり、しかし三日目に復活され、天に昇られました。使徒信条が告白しているように、今、キリストは天におられ、「全能の父なる神の右に座し」ておられるのです。しかしそのキリストが、今、天におられるキリストが、再び私たちのところに来てくださるのです。そのとき、世の終わりが来るのです。私たちは、このようにして世の終わりが来ることにおびえなくてはならないのでしょうか。そうではありません。なぜなら世の終わりは、私たちの救いの完成のときだからです。私たちはすでにキリストの十字架と復活、昇天によって救われ、罪の支配から解放され、神様の恵みのご支配の下に入れられています。しかしキリストによる救いはまだ完成していないのです。まだ完成していないから、私たちの目に見える形で神様の恵みのご支配は実現していません。むしろ私たちの目に見えるのは、この世界に戦争や災害があり、多くの苦しみや悲しみがあるという現実です。しかしキリストが再び来てくださり、世の終わりが来て、キリストによる救いが完成するとき、神様の恵みのご支配は目に見える形で実現するのです。もはや戦争も災害もなくなり、あらゆる苦しみや悲しみもなくなるのです。だから私たちはおびえることなく、世の終わりが来て救いが完成するのを待ち望んで生きるのです。

冷静にたんたんと生きる
 そのように私たちが、戦争や災害ではなく、キリストが再び来てくださることによって世の終わりが来る、と信じて生きるとき、私たちは世の終わりを意識する出来事に直面するときも、惑わされることなく、おびえることなく、むしろ冷静に歩んでいくことができるのです。共に読まれたエレミヤ書29章4節以下では、バビロンへ捕囚として連れて行かれた人たちに、捕囚の地でどのように生きるべきかが告げられています。偽預言者や占い師たちに騙されることなく、たんたんと日常生活を送るように、と言われているのです。故郷から遠く離れた地での囚われの身の生活ですから、目に見える現実は穏やかとは程遠いものであったに違いありません。しかしその現実のただ中で、神様の救いを待ち望んで、冷静にたんたんと生きるよう命じられているのです。同じように私たちも戦争や地震や疫病が起こり、今にも終わりが来るように感じられる現実のただ中にあって、不安を煽る人にも、根拠のない安全安心を喧伝する人にも惑わされずに、キリストが再び来てくださるときに世の終わりが来て、救いが完成するのを待ち望みつつ、おびえることなく、冷静にたんたんと日々を歩んでいくのです。

忍耐して生きる
 10、11節にも「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」とあります。戦争、地震、飢饉、疫病、異常現象(気象)。今まさに私たちが直面していることです。しかしそれですぐに世の終わりが来るわけではありません。世の終わりに至るまで、私たちはこのような戦争や災害や疫病に繰り返し直面していくのです。これらのことに直面するのは、キリスト者に限られたことではありません。しかし主イエスはキリスト者だけが経験することがある、とも言われます。そのことが12節以下で語られています。その終わり19節に「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」とあるように、世の終わりが来るまで私たちキリスト者は、救いの完成を待ち望み、おびえることなく、冷静にたんたんと歩んで生きるだけでなく、忍耐して歩んでもいくのです。「忍耐」という言葉は、もともと「下に留まる」ことを意味します。忍耐するとは、ある状況のもとに留まり続けることであり、そこから逃げないことなのです。

迫害のもとに留まる
 主イエスは12節後半でこのように言われています。「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」。要するにキリスト者は迫害を受ける、と言われているのです。「わたしの名のために」とは「主イエスの名のために」ということであり、主イエスを信じるために、ということです。キリスト者は主イエスを信じるために迫害を受けるのです。「会堂や牢に引き渡し」というのは、ユダヤ教からの迫害を指していて、「王や総督の前に引っ張って行く」というのは、ローマ帝国からの迫害を指しています。実際、ルカ福音書の続きである使徒言行録では、主イエスの弟子たちが迫害を受け、牢に入れられたり、総督や王の前に連れて行かれたりしたことが語られています。そして2000年のキリスト教の歴史においても、主イエスを信じるゆえに迫害を受けてきた人たちは大勢いたのです。キリスト者は、世の終わりが来るまで必ず迫害を受けるけれど、その迫害という状況のもとに留まり続け、そこから逃げることなく忍耐して歩むのです。

 私たちは今、この日本社会にあって、主イエスを信じるゆえにほかの宗教からの迫害や政治的な迫害を受けることは、ほとんどないでしょう。しかしほんの80年ほど前に、日本でも教会に対する国家による介入や統制がありましたし、これからも無いとは限りません。またそのような迫害はなかったとしても、キリスト者がマイノリティの日本にあって、私たちは日々、学校や職場や家庭で、主イエスを信じていることに対する無理解や無関心に直面しているのです。学校で共に学んでいる人や職場で共に働いている人から、そして家族から理解してもらえなかったり、関心を持ってもらえなかったりすることに直面するのです。自分の大切な人から理解されないことは本当につらいことです。いわゆる迫害はなかったとしても、私たちはそのような苦しみや葛藤を抱えつつ歩んでいるのです。しかし私たちはその苦しみと葛藤を抱えている状況のもとに留まり続け、そこから逃げることなく忍耐して歩むのです。

結果として証になる
 主イエスは、13節で「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」、と言っています。つまり迫害を受け、会堂や牢に引き渡されても、あるいは王や総督の前に引っ張って行かれても、それは証しをする機会となるのです。しかしそれは、そのような機会をしっかり捉えて、そこで主イエスを証ししなさい、ということではありません。迫害されるときこそ良い機会、絶好のチャンスだから、そこで頑張って主イエスを証ししなさいということではないのです。「機会となる」という言葉は、「結果としてこうなる」ということを表す言葉です。つまり迫害を受けたことが結果として証となる、会堂や牢に引き渡され、王や総督の前に引っ張って行かれることが結果として証となる、と言われているのです。そのように受けとめることによって、14節で主イエスが「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」と言われていることが腑に落ちます。もし迫害を受けるときこそ証しをする絶好のチャンスだというのであれば、「前もって弁明の準備をしなさい」と言われていたはずです。しかしそうではなく迫害を受けたことが結果として証になるのだから、迫害を受けたときにどのように弁明しようかと考えて準備する必要はない、むしろ準備しないと心に決めなさい、と言われているのです。さらに15節では、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」と言われています。迫害を受けたことが結果として証になるし、そのとき語るべき言葉や必要な知恵は、主イエスが授けてくださるのです。

 私たちはいわゆる迫害を受けることはなくても、主イエスを信じて生きることを自分の大切な人に理解してもらえないことがあります。そのような中にあって私たちは、それぞれが置かれた場で、大切な人たちに主イエスを証ししたいと願います。主イエスについて、キリスト教について、教会や聖書について伝えたいと願うのです。しかし多くの場合、そのようなことはなかなかハードルの高いことであり、私たちはそのようなことが出来ない自分自身に対して悩んだり、葛藤したりするのです。けれどもキリスト者が学校や職場や家庭にいることそれ自体が、結果として証となります。キリスト教に対する誤解を解かなくてはとか、聖書についてちゃんと説明しなくてはと考えなくて良いのです。たった一人でも、学校や職場や家庭にキリスト者がいること自体が、主イエスを信じ、主イエスによる救いの恵みに感謝して生きている者がいること自体が、結果として、主イエスを証しすることになるのです。私たちは大切な人が理解してくれない状況のもとに留まり、そこから逃げることなく忍耐して歩むことで、結果として主イエスを証ししているのです。キリスト教や教会について話す機会が与えられたときも、どう話したら良いかと悩む必要はありません。主イエスが言葉と知恵を授けてくださるからです。私たちの咄嗟に出る言葉を主イエスが授けてくださるのです。

命をかち取りなさい
 16節ではこのように言われています。「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる」。ここでの「親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる」というのは、キリスト者でない家族や友人が裏切るということではなく、むしろキリスト者である家族や友人が裏切る、ということだと思います。世の終わりに至るまで、キリスト者は迫害を受けるだけでなく、キリスト者同士の裏切りにも直面し、そのために殺されてしまう者もいるのです。しかし迫害を受け、キリスト者同士の裏切りに直面するキリスト者たちに、主イエスは「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と言われます。「殺される者もいる」と言っていたのに、「命をかち取りなさい」と言われていることは矛盾しているように思えます。しかし「命をかち取りなさい」と言われている、その「命」とは、肉体の死によって失われる命ではありません。主イエスによる救いにあずかった人たちに世の終わりに約束されている命です。私たちは世の終わりが来るまで、この地上の生涯において、キリスト者として苦しみを受けるときも忍耐して歩んでいきます。その私たちに、世の終わりが来て、救いが完成するときに、復活と永遠の命が与えられるのです。忍耐して地上の生涯を歩み、そして死を迎え、しかし世の終わりに私たちは復活して、永遠の命をかち取るのです。

神の絶対的な守りの中で
 私たちが世の終わりに至るまで、キリスト者であるゆえに苦しみを受けるときも忍耐して歩めるのは、自分の頑張りによるのではありません。そうではなく18節にあるように、主イエスが「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と約束してくださっているからです。「髪の毛の一本も決してなくならない」とは、神様の絶対的な守りを言い表しています。神様は私たちといつも共にいてくださり、私たちを守ってくださるのです。たとえ迫害を受けるときも、大切な人に理解されないときも、同じキリスト者の裏切りに遭うときも、そして死を迎えるときも、死を迎えた後も、神様は私たちを守っていてくださいます。どんなときも何があっても私たちは神様から引き離されることは決してないのです。この神様の絶対的な守りの中で、私たちは世の終わりが来るまで、救いの完成を待ち望みつつ、おびえることなく、冷静にたんたんと歩み、キリスト者であるゆえに苦しみを受けるときも、その状況に留まり、そこから逃げることなく忍耐して歩んでいくのです。

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