主日礼拝

主イエスの権威

「主イエスの権威」 牧師 藤掛順一

イザヤ書 第55章8~11節
マタイによる福音書 第8章5~13節

百人隊長の願い
 マタイによる福音書の8章と9章には、主イエスが病気を癒したり、悪霊を追い出したりなさった、奇跡のみ業がまとめられています。本日の5節以下は第二のみ業です。主イエスがカファルナウムの町に入られると、一人の百人隊長が近づいて来たと5節にあります。カファルナウムの町には、この後の14節から分かるように、弟子のペトロの家があり、主イエスはそこをガリラヤにおける伝道の拠点としていました。5〜7章の「山上の説教」を語り終えて山を下りて来た主イエスがこのカファルナウムに帰って来ると、一人の百人隊長が近づいて来たのです。この「近づいて来て」は、前回読んだ2節に、重い皮膚病を患っている人が「イエスに近寄り」とあった、その「近寄り」と同じ言葉です。主イエスの後には従って来た多くの群衆がいます。重い皮膚病を患っている人は「汚れた者」とされていたので、多くの人と共にいる主イエスのもとに近寄るのは大変なことだったと前回申しましたが、この百人隊長が主イエスに近づいて来たのも、別の意味で驚くべきことでした。百人隊長はユダヤを征服して支配しているローマ帝国の軍人であり、当然ユダヤ人ではない異邦人です。その人が主イエスに、中風でひどく苦しんでいる自分の僕の癒しを懇願したのです。それは普通には考えられない、驚くべきことでした。

「わたしが行って、いやしてあげよう」?
 彼の願いを聞いた主イエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたと7節にあります。しかしこの言葉をどう訳すかは、議論があります。「わたしが行って彼をいやすのか」という疑問文と取ることもできるのです。そうするとこれは、「わたしにあなたの僕を癒せと言うのか、そんなことはできない」という拒絶の言葉になります。つまり主イエスは彼の願いを快く聞き入れたのか、それともそれを拒絶したのか、はっきりしないのです。主イエスがこのような願いを拒絶するはずはない、と私たちは考えますが、しかしこの福音書の15章21節以下には、そういう話があります。15章21節以下には、主イエスがティルスとシドンの地方に行かれた時に、一人のカナンの女が、悪霊に苦しめられている自分の娘の癒しを願ったことが語られています。カナンの女とは異邦人です。主イエスは彼女の願いに答えず、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言って拒絶なさったのです。自分はイスラエルの家、つまりユダヤ人の救いのために遣わされているのであって、異邦人に救いを与えることはできない、ということです。さらに主イエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とすらおっしゃいました。ユダヤ人は子供たちだが、異邦人は小犬だというのです。主イエスがそのように異邦人の救いの願いを冷たく拒絶したことが同じ福音書に語られているわけですから、同じ異邦人である百人隊長の願いには「わたしが行って、いやしてあげよう」とおっしゃったとはむしろ考えにくい。だから「わたしに行っていやせと言うのか、そんなことはできない」と解釈した方がよいのではないかとも思えるのです。

信仰の言葉を引き出す主イエス
 この7節をどう読むかによって、8節の百人隊長の言葉の意味も変わってきます。彼は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言いました。7節を「わたしが行って、いやしてあげよう」と読むなら、この言葉は「いいえ来て下さるには及びません。ひと言お言葉を下されば十分です」という意味になります。それはこの百人隊長が、「イエス様にわざわざ来ていただくなんてとんでもない、わたしはそんなことに相応しい者ではありません」と言ったということです。それは彼が謙虚な人だったと言うよりも、ユダヤ人と異邦人の関係をよくわきまえていたということです。ユダヤ人は異邦人と接触すると汚れると考えており、その家に入ることすら避けていたのです。そのことを知っているから彼は、「家に来ていただくなんてとんでもない、お言葉だけで十分です」と言ったのです。しかし第二の、「わたしに行っていやせと言うのか」という拒絶として7節を読むならば、彼の言葉はこういう意味になるのです。「主よ、おっしゃる通り、異邦人であるわたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。異邦人があなたの救いを求めることなどできないことは知っています。しかしせめて、お言葉を下さい。それだけで、私の僕は癒されます」。百人隊長の言葉をそのように読むなら、この話は先ほどの15章のカナンの女の話とさらに重なってきます。主イエスに「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われた彼女は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言ったのです。「人間様のための救いを犬に与えるわけにはいかない」、と言った主イエスに対して彼女は、「犬とは何だ、馬鹿にするな、もう頼まない」と怒って去って行ったのではなくて、「ごもっともです、私は確かに犬のような者です、あなたの救いにあずかれる者ではありません。しかしその犬が、主人の食卓から落ちるパン屑で養われるように、あなたの恵みのおこぼれにあずかりたいのです」と願ったのです。百人隊長の言葉も、それと同じだと言えるのではないでしょうか。この百人隊長も、あのカナンの女も、異邦人であるゆえに、主イエスの拒絶を受けたのです。おまえたちに与える救いはない、と言われたのです。しかし彼らはあきらめなかった。それはあきらめずに執拗に求め続けた、というのではなくて、彼らは、主イエスのお言葉を受け入れて、「おっしゃる通りです。私はあなたの救いに相応しい者ではありません」と認めたのです。その上で、「しかしせめて、あなたの救いのおこぼれにあずからせて下さい、それだけで私は救われます」と願ったのです。この彼らの願いを主イエスは受け止めて下さいました。カナンの女に対しては、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」とおっしゃり、その時娘は癒やされたのです。この百人隊長には、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とおっしゃり、13節で、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」とおっしゃったのです。その時、僕は癒やされました。つまり主イエスは彼らの中に、真実の信仰がある、と見て下さり、そして彼らに癒しを、救いを与えて下さったのです。このように、この二つの話は重なり合っています。ちなみに、百人隊長は自分の僕の癒しを願ったとありますが、この「僕」という言葉は「子供」とも訳せます。新しく出た「聖書協会共同訳」はここを「百人隊長の子」と訳しています。つまりこの二つの話は共に、自分の子供の癒しを求めて主イエスのもとに来た異邦人の話だと言えるのです。そして彼らは共に信仰によって主イエスの救いにあずかりました。主イエスの思いもそこにあったと言えるでしょう。異邦人の願いを冷たく拒絶される主イエスの姿は私たちをとまどわせます。主イエスは人を区別なさらず、誰でも受け入れて下さる方ではないのか、と思います。「わたしが行って、いやしてあげよう」という訳の方がそういう主イエスのイメージには合っています。しかしあのカナンの女の話からもわかるように、主イエスの拒絶は決して最終的なご意志ではないのです。むしろ主イエスは拒絶によって、彼女のあの信仰の言葉を引き出しておられるのだと言えます。この百人隊長の信仰の言葉も、主イエスの拒絶によって引き出された、と考えることもできるのです。

あなたが信じたとおりになるように
 さて、この百人隊長は主イエスに、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言いました。普通、病の癒しは、その人に触れることによって行われます。3節の重い皮膚病の人の癒しも、この後の15節のペトロのしゅうとめの癒しも主イエスが手を触れることによって行われています。しかし本日の話では、主イエスのみ言葉のみによって、その場にいない人が癒やされたのです。13節で主イエスは「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」とおっしゃいました。「ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」のです。このように主イエスのお言葉によって癒しが行われたわけですが、そのお言葉は、「中風よ治れ」とか「病よ出ていけ」ではなくて、「あなたが信じたとおりになるように」でした。つまりこの癒しは、百人隊長の信仰によって実現したのです。彼が信じたことが、主イエスのみ言葉によって実現したのです。ですから、例えばもしも彼が、イエス様にお願いすれば、僕の(あるいは我が子の)病気も少しはよくなり、苦しみが和らげられる、と信じていたならば、病気は完全には治らず、症状が少し緩和されるだけだったのでしょう。しかし彼はそんな中途半端な癒しではなくて、主イエスの一言で、病気が完全に治る、全く健康になる、と信じていた。それゆえにその通りのことが起ったのです。

主イエスの権威
だとするとこの話は、信仰とは、主イエスが病気を癒し、苦しみを取り除く力を持っておられることを疑わずに信じることであって、その信仰によって、信じた通りの救いが与えられるのだ、ということを教えているのでしょうか。それは違います。そのような読み方は大変危険です。それは、ご利益を売り物にするいかがわしい宗教が語っているのと同じことです。信じれば病気が治る、苦しみも解消する、治らないのは、苦しみが解消されないのは、あなたの信じ方が足りないからだ、心の中に疑いが残っているからだ、という理屈です。そういう理屈で人を意のままにあやつる、ということが起っているのです。ここに語られているのはそういうことではありません。どこが違うかというと、「信じれば治る」という理屈において見つめられているのは、信じる自分の信仰心です。それがどれだけ純粋な、疑いのないものになっているか、が問題とされているのです。しかしこの話において見つめられている「信仰」とは、どれだけ疑わずに純粋に信じているか、ではありません。百人隊長が「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言ったのは、「私はあなたが病気を癒す力を持っておられることを疑うことなく信じています」ということをアピールしたのではなくて、彼はひたすら、主イエスの権威と力を見つめ、信じてそれによりすがったのです。そのことは9節から分かります。彼は「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」と言っています。彼は軍人として、権威の下に生きており、権威とは何かをよく知っているのです。軍隊においては、上官の権威は絶対であり、部下は必ずそれに従うのです。上官が「行け」といえば行き、「来い」と言えば来る、上官が「これをしろ」と命じれば部下はその通りにするのです。そういう権威が失われたら、軍隊は崩壊するのです。彼は主イエスの言葉が、この世界において、軍隊における上官の命令のような権威と力を持っていることを信じています。だから主イエスが一言おっしゃれば、その通りになる、僕の病気も癒されると信じているのです。主イエスの言葉にはそのような権威と力があり、語られたことは必ず実現する、そのことを信じていることが彼の信仰なのです。

み言葉の権威と力
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書55章8節以下には、神のみ言葉がそのような権威と力を持っていることが語られています。10、11節をもう一度読んでみます。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。百人隊長は主イエスのお言葉に、ここに語られているような、むなしく消えてしまうことなく、望むことを成し遂げる権威と力とがあることを信じ、そのお言葉を切に求めたのです。主イエスはその彼の思いを見て、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言って下さいました。その信仰とは、「イエス様にお願いすれば、病気も必ず治る」と疑わずに信じたことではなくて、彼が、主イエスのみ言葉の権威と力を信じて、そのみ言葉を求めたことです。主イエスがその信仰を受け止めて「あなたが信じたとおりになるように」と言って下さったことによって、彼の僕の、あるいは子供の、癒しが実現したのです。救いは信仰によって実現します。それは、主イエスによる救いを疑わずに信じる純粋な心を持つことによって救われる、ということではなくて、主イエスのみ言葉に権威があり力があることを信じて、そのみ言葉に拠り頼むところでこそ、み言葉の権威と力が発揮されて、救いのみ業が実現する、ということなのです。

救いにあずかる者とは
 11、12節にはこう語られています。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。「天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」、それは神の民としての救いにあずかるということです。その恵みは、主イエスのみ言葉の権威と力を信じ、それを求めていくことによって与えられます。東や西から大勢の人が来て、つまりこの百人隊長やあのカナンの女のような異邦人たちが来て、この信仰のゆえに、救いにあずかるのです。しかし「御国の子ら」、つまりもともと神の民とされていたはずのユダヤ人たち、イスラエルの民は、その救いに入ることができない、それは、主イエスのみ言葉の権威と力を信じないからです。主イエスのみ言葉によってではなく、自分が律法を守って良い行いをすることによって救いを得ることができると思っていると、神の民としての救いにあずかることができないのです。

主イエスの権威に驚いた人々
 主イエスは10節から12節にかけてのこのお言葉を、「従っていた人々に言われた」と10節にあります。主イエスに従っていた多くの人々の存在がここにも見つめられています。1節以下の重い皮膚病の人の癒しの場面にも同じように、主イエスに従っていた大勢の群衆がいました。本日の百人隊長の僕の癒しも、主イエスに従っていた人々の前でなされたのです。この大勢の群衆は、5〜7章の山上の説教を聞いた人々です。その人々が、山を下りる主イエスに従って来たのです。その「山上の説教」の最後のところについて説教をした時に、私が敢えてふれなかった箇所があります。それは7章28節以下です。そこにはこう語られていました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。あの時この箇所に触れなかったのは、ここは、本日の8章5節以下を読む時に合わせて読むのがよいと思ったからです。ここには、山上の説教を聞いた群衆たちが、「驚いた」ことが語られています。何故驚いたかというと、主イエスが、律法学者たちとは違う、「権威ある者」としてお語りになったからです。律法学者たちは、律法の解釈を語り、律法にこう語られているからこうしなさい、と教えていたのです。つまり権威は律法にあり、彼ら自身にはないのです。しかし主イエスは、ご自身が権威を持っている者として、つまり神から遣わされた独り子としてお語りになりました。そこに、律法学者たちとの根本的な違いがあり、群衆はその権威あるみ言葉に驚いたのです。この群衆が、山を下りる主イエスに従ってきたのです。主イエスが10節以下の言葉を語りかけたのは」この人々なのです。

私たちへの問いかけ
 そうするとここには、主イエスのみ言葉の権威をめぐって、二種類の人々が対比されていることが見えてきます。一方は、主イエスの権威あるみ言葉に驚いて、従ってきた群衆たちです。もう一方は、主イエスのみ言葉の権威を信じて、そのみ言葉による救いをひたすら求めている百人隊長です。この二種類の人々の中で、主イエスのみ言葉の権威を信じて救いを求めた異邦人である百人隊長こそが、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着き、救いにあずかる、しかし主イエスの権威ある教えに驚いて従って来た群衆たちは、その救いにあずかることができない、と語られているのです。これは私たちへの問いかけです。私たちは、山上の説教において、主イエスの権威あるお言葉、神の子、救い主としてのお言葉を聞いてきました。そのみ言葉は私たちを驚かせました。「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」とか「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というお言葉は驚きです。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな。あなたがたの天の父は、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」というみ言葉も驚きです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」も驚きです。山上の説教を読むことは、そのような驚きの連続でした。群衆たちと同じように私たちも、主イエスのみ言葉に驚いて、こうして主イエスのもとに、礼拝に集ってきていると言えるでしょう。しかし、み言葉の権威に驚いているだけでは、そのみ言葉による救いにあずかることはできません。私たちに求められているのは、主イエスのみ言葉に驚くことからさらに進んで、そのみ言葉にこそ自分を救う権威と力があることを信じて、み言葉を求めていくことです。私たちは主イエスの救いに相応しい者ではないし、主イエスを自分の屋根の下にお迎えできるような者でもありません。しかし自分がどのように救いに相応しくない罪人であったとしても、私たちを救う権威と力を持っておられる主イエスのみ言葉を求めて主イエスのもとに集うなら、主イエスはそれを私たちの信仰と受け止めて下さり、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」というみ言葉を与えて私たちをこの礼拝からそれぞれの生活へと送り出して下さるのです。 

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