12月17日
説教 「あなたがたの天の父」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 イザヤ書第9章1-6節
新約聖書 マタイによる福音書第6章25-34節
思い悩むな
本日はアドベント、待降節の第三主日です。来週の主の日、24日にクリスマス礼拝が行われます。一週間前である本日の礼拝において、お二人の方の洗礼式を行い、聖餐にあずかります。来週のクリスマス礼拝には多くの方々の出席が予測されるので、洗礼と聖餐は本日の礼拝で行うことにしました。つまりは、二週続けてクリスマス礼拝を行うをのだと思えばよいでしょう。
本日のクリスマス礼拝一週目では、これまで読んできたマタイによる福音書第6章の続き、25節以下をご一緒に読みます。25節に、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」とあります。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という、私たちの日々の生活における思い悩みを主イエスは見つめておられるのです。この教えが語られた当時、その日の食物にも事欠く貧しい生活をしている人々が大勢いました。だからこれらのことは非常にに切実な思い悩みでした。今日の私たちの思い悩みは、当時とはかなり違っています。しかし現在でも、戦火にさらされているウクライナやガザ地区の人々はまさに、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という事態に直面しています。私たちは幸いなことにそういう状況にはいませんが、しかし私たちは私たちなりに、「自分の命と体」についての思い悩みを持っています。「命」は「魂」とも訳せる言葉です。物質的には豊かになった中で、私たちの魂はかえって「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という飢え渇きに陥っているのではないでしょうか。そして今、社会の高齢化に伴って、昔はなかったような新たな思い悩みが生じています。主イエスの時代の人々と私たちでは、思い悩みの内容はいろいろ違っていますが、しかし時代は変わっても、人間にいろいろな思い悩みがあるという現実は変わらないのです。
神が養って下さるから
その私たちに主イエスは、「思い悩むな」と語りかけておられ、そして「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」とおっしゃっています。これは分かるようで分からない言葉です。命の方がそれを養う食べ物よりも大切であり、体の方がそれを守る衣服より大切なのは当然です。しかしだからといって食べ物や衣服がなくてよいわけではありません。この言葉で主イエスは何を言おうとしておられるのでしょうか。さらに26節以下には、空の鳥を見なさい、野の花を見なさいとも語られています。空の鳥は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない、野の花は、働きもせず、紡ぎもしない、つまり、鳥も花も、明日のことを思い悩まずに生きている。そういう姿を見なさいと主イエスは言っておられるわけです。これは決して、鳥や花のように悩みなく暢気に生きなさい、ということではありません。主イエスが私たちに見つめさせようとしておられるのは、「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」、また「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」ということです。神が、鳥たちを養って下さり、野の花を、栄華を極めたソロモンにもまさって美しく装って下さっている、その神の養い、守りを、鳥や花を通して見つめなさい、と主イエスは言っておられるのです。そして、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」とか、「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と語られています。あなたがたは鳥や花よりもはるかに価値のあるものなのだから、神は必ずあなたがたを養って下さるのだ、と主イエスは言っておられるのです。
あなたがたの天の父
人間は鳥や花よりも価値ある、ということに対しては、「それは人間の傲慢だ、そういう考えから自然破壊が始まるのだ、人間も自然の一部だと考えるべきだ」と言う人がいます。しかしここに語られているのは、鳥や花と人間と、とちらがより価値があるかではありません。神が、私たち人間のことをどれだけ大事に思っておられるか、ということが語られているのです。神は、ご自分がお造りになった自然を、大事に養い、装って下さっています。空の鳥、野の花はその代表です。しかしそれ以上に、私たち人間を愛し、養い、守り、導いて下さっているのです。「あなたがたの天の父は」とあります。神は「あなたがたの天の父」なのです。私たちが鳥よりも価値あるものだというのは、神にとって、私たちが子であるということです。鳥や花は、神に創られた被造物です。私たち人間もそうですが、しかし神は、私たちを、他の被造物とは違って、ご自分の子と呼んで下さり、私たちの父となって下さっているのです。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」という言葉は、神のそういう特別な愛が私たちに注がれていることを語っているのです。
天の父である神にこそ目を向けなさい
先ほどの「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」という言葉も、命と食べ物と、体と衣服と、どちらがより大切かという話ではありません。神はあなたがたを子として愛しておられ、あなたがたの命と体を養い、守り、はぐくんで下さっている、そうであるならば、その命のために必要な食物を、体のために必要な衣服を、必ず与えて下さるのだ、ということです。食物や衣服は命と体のためにあります。命と体こそが本質的なものであって、食物と衣服はそれを支えるための補助的なものです。本質的なものを守って下さる神は、補助的なものをも与えて下さるのです。そこから、「思い悩むな」という教えに込められた大事なメッセージが浮かび上がってきます。天の父なる神が、私たちを子として愛して下さり、命と体を養い、守り、はぐくんで下さることを信じる時に、私たちは、命と体を支え、充実させ、養っていくための補助的なものへの思い悩みから解放されるのです。主イエスは、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」とおっしゃることによって、補助的なものばかりに目を向け、その不足を嘆いている私たちに、あなたがたの命と体を養い、守り、はぐくんでおられるのは天の父なる神だ、その神にこそ目を向けなさい、と言っておられるのです。
天に富を積め
このことは、私たちがこの第6章の19節以下で読んできたことと繋がっています。そこには、地上にではなく天に富を積みなさい、と教えられていました。あなたがたは、神と富とに共に仕えることはできない、とも語られていました。それは、私たちを本当に支え、養い、導いてくれるのは、地上のもの、私たちが自分の手に握っている何かではなくて、天の父なる神の恵みなのだ、ということでした。地上の富、自分が持っている様々な意味での財産、力に目を向け、それにより頼んで生きるのが、地上に富を積み、富に仕える生き方です。それに対して、神の恵みをこそ見つめ、それにより頼んで生きるのが、天に富を積み、神に仕える生き方です。このことがそのまま、本日の個所にも繋がっています。私たちの命と体を養い、守り、はぐくんで下さる天の父なる神の恵みに目を向けることが求められているのです。それに対して、食物や衣服について思い悩むのは、自分が持っているもの、自分の富に目を向け、それにより頼んでいる、ということなのです。つまり、地上に富を積み、その自分の富に仕えて生きようとするところに、思い悩みが生じるのです。ですから「思い悩むな」という教えは、「天に富を積め」という教えと同じことを言っているのです。あなたがたの天の父である神の恵みを信じ、その恵みを見つめ、そこに拠り所を置いて歩みなさい、それによってあなたがたは思い悩みから解放されるのだ、ということなのです。
クリスマスの恵み
しかしどうしてそのようなことを信じることができるのでしょうか。神が私たちの天の父であられ、私たちのことを子として愛しておられ、養い、守り、はぐくんで下さることは、どうして分かるのでしょうか。このことこそが、クリスマスの恵みなのです。クリスマスは、神の独り子イエス・キリストが、人間となってこの世に生まれて下さったことを覚え、記念する時です。主イエス・キリストは神の独り子です。神を父と呼ぶことができるのは、本来この主イエスだけなのです。しかしその独り子主イエスが、人間となってこの世に生まれて下さいました。神の独り子主イエスが、ベツレヘムの馬小屋で、貧しさの極みの中で生まれ、私たちのところに来て下さったのです。それがクリスマスの恵みです。その主イエスが、ご自分の父である神を「あなたがたの天の父」と呼んで下さっているのです。私の弟子であるあなたがたも私と共に神の子となるのだと言って下さっているのです。私たちはこの主イエス・キリストによって、神を天の父と呼ぶことができます。主イエス・キリストによって、神は私たちの天の父となって下さり、私たちを子として愛して下さっているのです。独り子主イエスはそのことを私たちに知らせるために、この世に来て下さったのです。それがクリスマスの出来事なのです。
必要なものを与えて下さる天の父
「天の父が養って下さるのだから、思い悩むな」と語られた主イエス・キリストは、私たちの数々の思い悩み、苦しみ、悲しみを背負って歩まれました。主イエスご自身の歩みは、決して思い悩みや苦しみのない、暢気なものではなかったのです。そしてその歩みの果てに、主イエスは私たちの罪を背負って十字架にかかって死なれました。神の独り子が、罪人である私たちの身代わりとなって死んで下さったのです。神が私たちを、ご自分の子として愛して下さっている、その愛は、そこにまで至るものだったのです。クリスマスに始まり、十字架の死に至る主イエス・キリストのご生涯の全体を通して、神の天の父としての愛が私たちに注がれているのです。あなたがたはその天の父の愛の中にいるのだから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と思い悩むな、と主は言っておられます。「それはみな、異邦人が切に求めているものだ」。異邦人とは、まことの神を知らない人々です。独り子主イエスをこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって救いを与えて下さっているった天の父なる神を知らない人々は、自分で自分の命と体を守り、養い、支えていかなければならないのです。そのために様々な地上の富を得ようとして、思い悩むのです。しかし、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」。主イエス・キリストによって私たちの父となって下さった神の愛を知っている者は、神が、私たちの命と体を養って下さり、私たちに必要なものを全てご存じであり、それを与えて下さることを信じて生きることができるのです。
先ず神の国と神の義を求めなさい
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と主イエスは言われました。「これらのもの」とは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という、命と体を支えるために必要なものです。それを自分の手に確保しようとして私たちは思い悩むのです。しかし主イエス・キリストによって神の子とされている私たちは、それらのものを得ようとしてあくせくするのではなくて、まず、神の国と神の義とを求めることができるのです。神の国とは神のご支配、神の義とは神と私たちとの正しい良い関係です。つまり私たちは、神のご支配と、私たちが神と良い関係をもって生きていくことをこそ求めていくのです。神が私たちを支配して下さり、神と私たちとの間に良い関係があることによってこそ、私たちの命と体は神によって支えられ、養われ、はぐくまれていくからです。つまり、思い悩むことなく生きるとは、先ず神の国と神の義を求めて生きるところにこそ与えられるのです。
この信仰に生きることは、この6章の少し前のところに教えられていた「主の祈り」を祈りつつ生きることでもあります。主の祈りにおいて私たちはまず、「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ります。それから、「私たちに必要な糧を今日与えて下さい」と祈るのです。つまりこの祈りは、先ず神の国と神の義を求める祈りなのです。そしてこの祈りの土台となっているのは、「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけです。主イエスによって神の子とされ、神を天の父よと呼ぶことができる恵みを与えられているので、私たちは、先ず神の御国と御心を求めていくことができるのだし、その天の父なる神が日用の糧を、私たちが生きるために必要なものを与えて下さることを信じて祈り求めていくことができるのです。
信頼の冒険
「思い悩むな」という教えは私たちに、天の父である神を信頼して生きることを求めています。信仰とは、神を信頼して生きることです。私たちに問われているのは、神を信頼して生きるのか、それとも自分の豊かさ、力、つまり地上の富を信頼して生きるのか、ということなのです。目に見えるものしか信頼しないのであれば、神の国と神の義とを先ず求めることはできません。信仰とは、目に見えない神の恵みに信頼して、目に見える支えではなく、まず神の国と神の義とを求めていくことです。それは神への信頼の冒険であると言えるでしょう。私たちがこの冒険を敢えてすることができるのは、神の独り子イエス・キリストがこの世に来て下さったからです。神は二千年前に、ご自分の独り子イエスを、ベツレヘムの馬小屋で生まれさせ、罪に満ちた、苦しみと悲しみに満ちたこの世に送って下さいました。そしてその主イエスが、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによって、私たちの罪を赦し、神の子として新しく生かして下さっているのです。神がその独り子主イエスをこの世に遣わして下さり、私たちをも神の子として下さっている、クリスマスに示されたこの神の愛のゆえに私たちは、神への信頼の冒険に旅立つことができるのです。
その日の苦労を背負って生きる
本日お二人の方が洗礼を受けてこの群れに加えられます。神がその独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、私たちの罪を赦して神の子として新しく生かして下さっていることを信じて、お二人は、神への信頼の冒険に旅立つのです。神に信頼して歩む私たちの信仰の旅は、思い悩みのない、暢気なものではありません。34節に「だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とあります。神を信じて、神に信頼して生きる歩みにも、思い悩みはあるのです。その日その日の苦労はあるのです。しかし私たちは、その思い悩み、苦労によって押しつぶされて、立ち上がることができなくなってしまうことはありません。主イエスによって私たちの天の父となって下さった神が、私たちに本当に必要なものをご存じであり、それを必ず与えて養い、守り、導いて下さるのです。私たちの地上の命が終わる時にも、神は父としての恵みをもって私たちをみもとに迎えて下さるのです。そのことを信じて生きる時に私たちは、その日の苦労をその日の苦労として背負っていく力を与えられます。思い悩みがなくなってしまうことはないけれども、しかし、自分の命と体のことを、天の父なる神にお任せして、思い悩みに負けてしまうことなく生きていくことができるのです。
聖餐に支えられて
その私たちの信仰の歩みを支え、力づけるために、主は聖餐を定めて下さいました。洗礼を受けて、主イエスと結び合わされた者は、聖餐のパンと杯とにあずかり、主イエスの十字架の死によって与えられた救いの恵みをこの体をもって味わいつつ生きるのです。それと共に、主イエスの復活によって神が約束して下さった世の終わりの復活と永遠の命の恵みを前もってほんの少し味わいつつ生きるのです。礼拝においてみ言葉を聞き、聖餐にあずかることによって、天の父である神に信頼して生きる私たちの歩みは力づけられ、支えられていきます。そこには、先ず神の国と神の義とを求めつつ、明日のことを思い悩むことなく、その日の苦労を主の支えによってしっかり背負っていく歩みが与えられていくのです。