11月19日(日)主日礼拝
「キリスト者として苦しみを受ける」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第53章1-12節
新 約 ペトロの手紙一第4章12-19節
神によって愛されている人たちへ
私が主日礼拝の説教を担当するときには、ペトロの手紙一を読み進めています。前回お読みした箇所4章7-11節の終わりには、「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」とありました。ここにこの手紙の一つの区切りを見ることができます。この手紙の著者であるペトロは、あるいはペトロの名を借り、ペトロと一体であった著者は、2章11節から始まった大きなまとまりを、神をほめたたえて終えたのです。そして本日の箇所の冒頭4章12節から、いよいよ手紙の結論部分、結びの部分が始まります。この結びの部分は「愛する人たち」という呼びかけで始まっています。ペトロは結びの部分を記し始めるにあたり、改めて、小アジアの諸教会に連なる人たちに「愛する人たち」と呼びかけているのです。
この呼びかけは、パウロの手紙にも見られますし、ペトロの手紙二では3章の中だけで4回も使われています。手紙の著者は、自分が大切に思い、愛してやまない手紙の読み手に向かって「愛する人たち」と呼びかけ、大切なことを告げているのです。このように新約聖書の手紙で「愛する人たち」という呼びかけが使われていることもあり、私は神学校の説教演習の授業で、「愛する皆さん」と呼びかけて説教を語り始めたことがあります。そのとき授業を担当していた先生から、「愛する皆さん」と呼びかけるとき、それは誰が愛しているのか、誰が「愛する皆さん」と呼びかけているのか、と問われたことを今でもよく覚えています。もちろんペトロやパウロが手紙の読み手を愛していたに違いないように、説教者が会衆を愛して、「愛する皆さん」と呼びかけている、という面があります。しかしそれだけなら、説教者の愛によって「愛する皆さん」と呼びかけているだけなら、この呼びかけはまことに心もとないものになります。説教者自身の愛は、いえ私たちの愛は弱く、欠けの多い、揺らぎやすいものだからです。それは使徒ペトロやパウロであっても同じであったに違いありません。しかしペトロやパウロが「愛する人たち」と呼びかけるとき、あるいは説教者が「愛する皆さん」と呼びかけるとき、それはなによりも「神が愛してくださっている人たち」、「神によって愛されている皆さん」、という意味なのです。本日の箇所でも、神によって愛されている人たちに向かって、つまり私たちに向かって、み言葉が告げられています。独り子を十字架に架けるほどに愛してくださっている私たちに向かって、神が大切なことを告げているのです。私たちは神に愛されている一人ひとりとして、ペトロの言葉を通して神の語りかけを受け止めていきたいのです。
気後れする箇所
そのような思いをもって本日の箇所を読み始めても、私たちはたちまち心折れそうになるのではないでしょうか。14節では「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです」と言われ、16節でも「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません」と言われているからです。「幸いです」、「決して恥じてはなりません」と言われても、キリスト者は非難されることがある、キリスト者は苦しみを受けることがあると言われて、私たちは気後れせずにはいられません。できれば非難されたくないし、苦しみを受けたくないと思います。神が私たちを愛してくださっているなら、私たちが苦しまないようにしてくださっても良いはずだとも思います。しかし私たちに向かって「愛する人たち」と呼びかけられる神は、まことに厳しいことを私たちにお語りになります。愛する私たちに、「あなたたちはキリスト者だからこそ苦しみを受ける」と言われるのです。
キリスト者として苦しみを受けるとは
それゆえ本日の説教題を「キリスト者として苦しみを受ける」としました。ご存じのようにこの説教題は、教会の外の掲示板に先週一週間掲示されていました。多くの方が教会の前の通りを行き交いますが、掲示板に目を留める方も決して少なくありません。私は説教題を決めた後に、改めてこのことを思い起こし、「キリスト者として苦しみを受ける」という説教題は、誤解を与えてしまうかもしれないと思いました。この聖書箇所に適当でなかったということではありません。しかしキリスト教を知らない方、教会に来たことがない方が掲示板を見て、この説教題を見たらどう思うだろうかと考えてしまったのです。キリスト者になれば楽になれるというのであれば、教会に行ってみよう、礼拝に出席してみようと思うかもしれません。しかしキリスト者になったら苦しみを受けるというのであれば、なかなか教会に行ってみようとは思えないのではないでしょうか。そのように考えると、キリスト教を知らない方、教会に来たことがない方からすると、私たちキリスト者はとっても不思議な人たち、ということにもなります。キリスト者であってもなくても、私たちの人生には多くの苦しみがあります。それにもかかわらず、わざわざ苦しみを受けるためにキリスト者になるなんて、どうかしていると思われているかもしれません。キリスト者と呼ばれる人たちは自虐的な人たちではないかと思われているかもしれません。いえ、私たち自身が、キリスト者なら苦しんで当然だ、というように考えているかもしれないのです。しかし私たちは苦しむためにキリスト者となったのでしょうか。キリスト者として苦しみを受けるとは、なにを見つめているのでしょうか。
火のような試練
改めて冒頭12節を見るとこのようにあります。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」。これまでにもお話ししてきたように、この手紙が書かれたと考えられている時代(紀元90年代)に、小アジアではローマ帝国によるキリスト者に対する迫害が起こり殉教者も出ました。ですから「火のような試練」とは、これらの迫害を指しているのかもしれません。しかしそれだけではないと思います。このこともこれまでにもお話ししてきたことですが、たとえ命の危険を感じるような迫害を受けなかったとしても、異教社会の中でキリスト者として生きることそれ自体が、「火のような試練」であったに違いないのです。小アジアのキリスト者の多くは、ごく最近まで異邦人として生きていました。しかし1章18-19節で言われていたように「キリストの尊い血」によって、「先祖伝来のむなしい生活から贖われ」てキリスト者となったのです。それだけに自分の身近な人たちがキリスト者でない、ということがありました。自分の夫や妻が、親が、友人や同僚がキリスト者でないことがあったのです。14節で「キリストの名のために非難される」と言われています。キリストのために非難されるということであり、キリスト者であるために非難され、悪口を言われ、陰口をたたかれるということです。その非難や悪口や陰口が、まったく知らない人からのものであれば、まだマシだったと思います。しかしおそらくそうではありませんでした。自分の身近な人から、自分の大切な人から非難され、悪口を言われ、陰口をたたかれることがあったのです。あからさまな非難とは限りません。言葉の端々や眼差しに非難が込められていることもあったのではないでしょうか。そのような状況の中で、日々の生活が続いていくことは「火のような試練」であったに違いないのです。
思いがけないことではない
しかし12節では、キリスト者が火のような試練に直面することだけでなく、それ以上に、そのような試練にたとえ直面しても、「何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんでは」ならない、ということが言われています。キリスト者がいつも火のような試練に直面している、と言われているのではありません。キリスト者はいつも苦しまなくてはならないということでもありません。苦しまなくて良いなら、苦しまないで生きて良いのです。あるいは苦しんでいないように見える信仰者に対して、あの人は苦しんでいないからキリスト者らしくない、と思うのは見当違いです。苦しみを受けずに過ごせるならば、私たちは神が与えてくださったその状況に感謝して生きたら良いのです。けれども、ひとたび私たちがキリスト者として苦しみを受けることになったら、このような試練があるとは思わなかった、このような苦しみを受けるとは思わなかった、と思いがけないことが起こったかのように驚いてはならないのです。なぜなら私たちがキリスト者として試練に直面し、苦しみを受けることは起こり得ることであり、決して思いがけないことではないからです。
社会のあり方を尊重して
私たちは人生の中で色々な苦しみを経験しますが、そのすべてがキリスト者として受ける苦しみだ、とペトロは言っているのではありません。15節には「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい」と言われています。人殺しをしたり、泥棒をしたり、悪事を働いたりして捕まって処罰されることは、キリスト者として苦しみを受けることではないのです。むしろそのようなことが起こらないようにしなければなりません。このことは積極的に受け止めるならば、私たちキリスト者は社会の制度や秩序を尊重して生きるということでもあります。この手紙の2章13節では「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」とも言われていました。キリスト者として生きるとは、社会の制度や秩序(あり方)を乱して生きることではなく尊重して生きることなのです。15節に「他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないように」という、少し不思議なみ言葉があります。「他人に干渉する者」と訳された言葉は新約聖書でここでしか使われていないために、その意味がよく分かりません。推測するしかないのですが、他人に干渉しないとは、キリスト者がキリスト者でない方と関わらないという意味ではなく、キリスト者でない方を尊重する、ということではないかと思います。一方的にキリスト者としての生き方を押しつけようとしたりしないのです。それは、伝道しないということでは決してありません。3章1節で「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」と言われていました。私たちはキリスト者としての生き方を一方的に押しつけることによってではなく、「無言の行い」によって救いを証ししていくのです。ペトロは、キリスト者としての生き方を押しつけることによって苦しみを受けないように、と言っているのではないでしょうか。
キリスト者として受ける苦しみ
このようにペトロは、キリスト者が社会の中で生きることを積極的に語ります。社会の制度や秩序を尊重し、同じ社会で暮らす方々と関わりを持ち、その生き方を尊重するように言うのです。しかしその一方で、そのように生きるキリスト者が、社会の中にあって確かにキリスト者として苦しみを受ける、とも語っています。そしてキリスト者として苦しみを受けることは、決して思いがけないことではない、と言っているのです。16節でこのように言われています。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」。私たちは確かにキリスト者として苦しみを受けることがあります。キリストを信じ、キリストに従って生きる中で、確かに苦しみを受けることがあるのです。この手紙の宛先である小アジアの諸教会に連なる人たちの状況は、つまり異教社会でキリスト者として生きる状況は、今、日本で生きる私たちキリスト者の状況と重なるところが多くあります。今、私たちはキリスト者という理由で迫害されることも、まして殉教することもないでしょう。しかし小アジアのキリスト者がそうであったように、私たちの身近な人たちがキリスト者でないことは、ごく普通のことです。その中で、自分の身近な人たちや大切な人たちから、自分がキリスト者として生きていることを理解してもらえなかったり、悪く言われたりすることがあります。あるいは先入観を持って見られることもあります。それは、私たちにとって本当に大きな苦しみです。身近な人、大切な人からだからこそ苦しみも大きいのです。
それとは別の苦しみを受けることもあります。私たちは社会の外ではなく社会の中で生きています。ペトロが言うように、社会のあり方を尊重し、同じ社会で暮らす方々の生き方を尊重して生きています。しかしこのことは、神の御心に従って生きようとするとき、キリストに従って生きようとするとき、しばしば私たちに多くの葛藤を引き起こします。社会のあり方を大事にしようとすると、神の御心から離れてしまいそうになり悩むことがあります。神の御心に従おうとして、社会のあり方に苦しむこともあります。しかも残念なことに、こうすればキリストに従いつつ、同時に社会のあり方も尊重できるという正解が、私たちに与えられているわけではありません。マニュアルはないのです。だから私たちはこの社会でキリスト者として生きるとき、それぞれが遣わされているところで、家庭や職場や学校で、葛藤し、悩み、苦しまなければならなりません。社会と隔絶して生きるなら、このような葛藤、悩み、苦しみとは無縁でしょう。しかし社会の中で、そこに暮らす人たちと関わりを持って生きるからこそ、私たちはキリスト者としてこのような苦しみを受けるのです。
キリストの苦しみにあずかる
私たちには身近な人から理解されない苦しみがあり、社会の中でキリストに従って生きようとするときの葛藤や悩みや苦しみがあります。しかしその苦しみを、葛藤や悩みを恥じてはならない、とペトロは言うのです。いえ、神が愛する私たち一人ひとりに、その苦しみを、葛藤や悩みを恥じてはならないと語りかけてくださっているのです。それどころか18節では「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」と言われています。私たちは間違えてはなりません。私たちキリスト者は、苦しみを受けることを喜んでいるのではないのです。そうではなくキリストの苦しみにあずかることを喜んでいるのです。私たちはキリスト者として苦しみを受けるとき、キリストの苦しみにあずかっていることをこそ喜ぶのです。
キリストはほかならぬ私たちのために苦しんでくださいました。私たちのために、私たちより先に苦しんでくださいました。この手紙を読み進める中で、何度か、本日共に読まれた旧約聖書イザヤ書53章を読みました。それは、ここにキリストの苦しみが指し示されているからです。6節に「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた」とあります。私たちは羊飼いである神のもとから離れ、道を間違えて、好き勝手な方向に散って行き、神に背いて自分勝手に生きていました。しかし神はその私たちの罪を、私たちにまったく負わせることなく、キリストに負わせられたのです。12節の終わりに「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」とあります。キリストは私たちの罪を担って、私たちの代わりに十字架で死なれることによって、私たちのために執り成しをしてくださいました。神と私たちの間に立ち、私たちの罪によって壊れてしまっていた神と私たちの関係を回復してくださったのです。キリストが受けた十字架の死という苦しみによって、私たちは罪を赦され、救われました。キリスト者として苦しみを受けるとは、このキリストの苦しみにあずかって生きることです。キリストの十字架によって赦され、キリストと共に生きるようにされた私たちは、このキリストの苦しみにあずかって生きるのです。
復活と永遠の命の約束によって慰められている苦しみ
そしてキリストの苦しみにあずかって生きる歩みは、決して苦しみで終わるものではありません。「キリストの栄光が現れるときに」、つまり世の終わりに、「喜びに満ちあふれる」という約束が、私たちに与えられているからです。キリストは十字架で苦しまれ、死なれました。しかしそれで終わりであったのではありません。神が十字架で死なれたキリストを死者の中から復活させてくださったからです。キリストと共に生きるとは、その苦しみにあずかるだけでなく、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えられて生きることです。世の終わりに、救いの完成のときに「喜びに満ちあふれる」という約束が与えられているからこそ、私たちはキリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜ぶことができるのです。それは、私たちにとって苦しみの意味が変わるということです。苦しみそのものは変わらないとしても、私たちがキリスト者として受ける苦しみは、キリストの苦しみにあずかる苦しみであり、キリストが共に担ってくださる苦しみであり、世の終わりの復活と永遠の命の約束によって慰められている苦しみなのです。
キリスト者
16節に「むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」と言われています。私たちは「キリスト者」という言葉を当たり前のように使っています。本日の説教の中でも繰り返しこの言葉を用いてきました。しかし新約聖書で「キリスト者」という言葉が使われているのは、この箇所のほかには二箇所だけです(使徒言行録11章26節、26章28節)。そしてこの言葉を最初に使ったのは、キリストを信じる者たちではありませんでした。キリストを信じる者たちが、自分たちのことを言い表すのにこの言葉を用いたのではないのです。そうではなく周りの人たちがキリストを信じて生きる人たちを見て、「キリスト者」と呼びました。そこには、蔑みの思いが込められていたに違いありません。十字架で苦しみを受けて死なれたイエスを、キリスト、救い主と信じるなんて、どうかしているという軽蔑の思いが込められていたのです。ローマ帝国を滅ぼすような強い人物を救い主と信じるのではなく、十字架で苦しまれ死なれるという、弱いとしか思えない人物を救い主として信じていたからです。しかしキリストを信じる者たちは、この「キリスト者」という呼び名を喜んで受け入れました。キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめたのです。弱さの極みとしか思えないキリストの十字架の苦しみと死において、自分たちは救われたと信じていたからです。私たちもキリスト者と呼ばれることを喜んで受け入れたいのです。自分たちのことをキリスト者と呼び、周りの人たちからキリスト者と呼ばれることに感謝して、神をほめたたえるのです。自分たちのことをキリスト者と呼び、周りの人からキリスト者と呼ばれることそれ自体が私たちの証です。私たちには身近な人から理解されない苦しみがあり、社会の中でキリストに従って生きようとするときの葛藤や悩みや苦しみがあります。しかしその中で、私たちがキリスト者として生きるとき、私たちはキリストの十字架の苦しみと死に救いがあることを証しして生きることになるのです。私たちはキリスト者として苦しみを受け、キリストの苦しみにあずかり、キリストの十字架の苦しみと死にこそ救いがあると証しして生きるのです。
今日、神は、愛する私たち一人ひとりに、こう呼びかけておられます。「愛する人たち、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」。