説教題「神からの報い、人からの報い」 牧師 藤掛順一
詩編 第16編1~11節
マタイによる福音書 第6章1~4節
5章において語られてきたこと
礼拝において、マタイによる福音書を読み進めてまいりまして、本日から第6章に入ります。マタイによる福音書の5章から7章は「山上の説教」と呼ばれており、主イエスの教えが集められている部分です。その丁度真ん中のところに入って行くわけです。内容においても、この第6章は山上の説教の中心部分であると言うことができます。そこを読んでいく備えとして、これまでの5章に語られていたことを振り返っておきたいと思います。5章の冒頭には、八つの「幸いの教え」がありました。「あなたがたは幸いである」という主イエスの宣言によって山上の説教は始められたのです。その八つの幸いの最初と最後に「天の国はその人たちのものである」とありました。つまりこの幸いとは、「天の国」にあずかる幸いです。4章17節にあったように、主イエスは「天の国は近づいた」と言って伝道を始められました。天の国とは神のご支配です。主イエスがこの世に来られたことによって、天の国、神のご支配の実現が決定的に近づいたのです。その天の国、神のご支配にあずかる者とされているから、あなたがたは幸いだ、と主イエスは言われたのです。そして5章13節以下には、その幸いを与えられているあなたがたは、地の塩、世の光なのだ、と語られていました。そして、地の塩であるあなたがたはその塩味を失ってはならないし、世の光であるあなたがたはその光を隠したり消してしまってはならない、と教えられたのです。その塩味や光とは何かが5章20節に語られていました。そこには「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とあります。「義」とは「正しさ」です。天の国にあずかる者は、「律法学者やファリサイ派の人々にまさる正しさ」を持たなければならない。それが主イエスに従う弟子たち、つまり信仰者に求められている塩味であり光なのです。そして5章21節以下には、その「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」とはどのようなものかが、旧約聖書の律法を引用しつつ、「しかしわたしは言っておく」という仕方で語られてきました。律法を完成する主イエスの教えが語られたのです。それこそが「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」です。その最後のクライマックスが、先週読んだ「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という教えです。これが、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義、天の国、神のご支配にあずかる幸いな者が持つべき塩味や光の中心なのです。これまでの5章にはそういうことが語られてきたのです。
どのような思いで義を行うか
6章に入って、山上の説教は新しい展開を見せます。1節に、「見てもらおうとして,人の前で善行をしないように注意しなさい」とあります。この「善行」と訳されている言葉は、先程の「義」と同じ言葉です。「見てもらおうとして、人の前で義を行わないように」と言われているのです。つまり6章も、5章に続いて、私たちが天の国にあずかる者として持つべき義、正しさのことを語っています。しかし、5章においては、その義、正しさの内容が語られていたのに対して、この6章では、その義、正しさをどのような思いで行うべきかが語られているのです。
「見てもらおうとして,人の前で善行をしないように」。これが、どのような思いで義、正しいことを行うべきかの教えです。そしてこれが、6章1~18節に語られていること全体のタイトルとなっています。2節以下には、その善行、正しい行いの例として、施し、祈り、断食があげられていくのです。これらはみな、信仰にもとづく正しい行い、善行として重んじられていたことです。主イエスによってもたらされる天の国にあずかる者たちにおいても、これらは大切にすべき善い行いなのです。けれども、その正しい行い、善行も、どのような思いでするかによって、その意味が全く違ってきてしまいます。それを「見てもらおうとして、人の前で」するのでは、せっかくの正しい行いの意味が失われてしまうのです。
施しは人目につかないところでせよ
「見てもらおうとして、人の前で」善行をしようとする者たちのことを主イエスは2節で「偽善者たち」と言っておられます。彼らは、施しをする時に、人からほめられようと会堂や街角で、自分の前でラッパを吹き鳴らすのです。「ラッパを吹き鳴らす」というのは比喩的な表現と考えてよいでしょう。要するに、あの人は貧しい人々に施しをしている、ということをみんながよく分かるように、目立つ所で施しをするのです。そうすることによって、自分のしている施しを吹聴している、それが「自分の前でラッパを吹き鳴らす」ということの意味でしょう。あなたがたはそのような偽善者になるな、と主イエスは言っておられるのです。それでは施しをする時にはどうすればよいのか。それが3、4節です。「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」。「人目につかせない」という言葉は、「隠れたものとしておく」という意味です。施しは、人に見えるようにではなく、隠れたところでしなさい、と主イエスは言われたのです。偽善者たちは、自分の施しの業を、できるだけ人々に見せようとする、人々に吹聴しようとするのに対して、主イエスの弟子、天の国にあずかる者は、それを人に知らせずに隠しておけ、と主イエスは教えておられるのです。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われています。右の手と左の手が関係なくバラバラに行動するなんてことは実際にはあり得ません。そのような誇張的な表現を使ってまで、自分のする施しを人に知らせるな、隠しておけ、と主イエスはおっしゃっているのです。
人に見てもらいたいという思いは私たちも同じ
私たちは、この主イエスの教えに共感を覚えます。偽善者たちのように、わざと人が見ている所で施しをして、自分の善い行いを吹聴するというのは、私たちの感覚からしても、いやらしい、鼻持ちならないことです。そんなふうにはなりたくない、善いことをする時にはもっと控え目に、さりげなくするのがよい、と私たちも思っています。主イエスが言っておられるのは、そういう私たちの思いと同じことなのでしょうか。これ見よがしに善行をするのは、いやらしい、鼻持ちならないことだから、もっと控え目に、さりげなくしなさい、と主イエスは言っておられるのでしょうか。
私たちがこの偽善者たちのことを、いやらしい、鼻持ちならないと感じるのは、彼らが自分の施しを誇ろうとしていることが見え見えだからです。そういう人を私たちはかえって軽蔑します。そして、控え目に、目立たないところでさりげなく善い行いをしている人を見ると、この人こそ本当に立派な人だと思って尊敬し、自分もこの人のようになりたいと思うのです。そこには私たちなりのある価値観が働いています。これ見よがしに自分の善行を誇ろうとする人よりも、目立たないところでさりげなくそれをする人の方がより立派だ、という価値観です。そして自分もそのようになりたい、ということは、自分も人から、あの人は目立たない所で善いことをしている立派な人だ、と見られたいということです。つまり私たちは、どういう生き方がより人々に受け入れられ、尊敬されるか、ということを敏感に感じ取っていて、より尊敬される生き方をしたいと思っているのです。ですからどうでしょうか。目立たない所で、控え目に善い行いをする方がよいと私たちは思っていますが、その自分の善い行いを誰も見ておらず、それが人々に全く気づかれないとしたら、どう思うでしょうか。例えば誰も見ていないところで、ある人に親切にしたとして、私たちはそのことを人に吹聴しようとはしません。しかしその人が、「あの時あの人がこんなに親切にしてくれた」と感謝し、それを周りの人々に語ってくれたら、嬉しく思います。逆に、相手が全然感謝もせず、そのことを誰にも言わず、この人に世話になったという素振りも見せなかったら、私たちは、「あいつは何なんだ。受けた親切を何とも思っていないのか」と腹を立てるのではないでしょうか。私たちは、自分の善い行いを吹聴はしませんが、しかしそれが人々に知られ、「あの人は陰であんな善いことをしていたのか」と思われたいのです。自分のした善い行いが、誰にも全く知られず、誰からも少しも評価されなかったら、がっかりするのです。そういう私たちの思いは、見てもらおうとして人の前で善行をする人や、人からほめられようと会堂や街角で施しをし、自分の前でラッパを吹き鳴らす人と、いったいどれほど違っているでしょうか。
天の父からの報いを求める
主イエスが言っておられるのは、これ見よがしに善行をするよりも、目立たない所で控え目にする方が評判がいいぞ、ということではありません。主イエスは1節で、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と言われました。また4節にも、「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」とあります。主イエスは私たちに、天の父からの報いをこそ求めさせようとしておられるのです。天の父は、隠れたことを見ておられます。あなたがたの施しを人から隠れたものとしておけというのは、天の父なる神が見て下さるようにそれをしなさい、ということです。そうすることによって、天の父からの報いを求めなさい、と主イエスは言っておられるのです。
報いを誰から求めるか
主イエスがここで「報い」ということをはっきりと語っておられることに、私たちはある驚きを覚えます。善い行いをすれば、よい報いが与えられる、それは私たちが心の中で期待していることです。でも、それと同時に私たちは、報いを期待して善い行いをするというのは不純だ、本当の善い行いは、報いなど期待せずになされるものだ、とも思っているのではないでしょうか。だから私たちは、心の中では期待しつつも、善い行いの報いということはあまり口にしないのです。ところが主イエスはここではっきりと「報い」を語っておられます。報いを期待して善い行いをしなさい、と言っておられるのです。問題は、その報いを誰から求めるか、です。天の父から与えられる報いをこそ求めなさいと主イエスは言っておられるのです。2節には、会堂や街角で施しをする偽善者たちは、「既に報いを受けている」とあります。彼らが既に受けている報いは、天の父からの報いではありません。これは、あの人は立派な人だと人から評価されること、つまり人からの報いです。見てもらおうとして人の前で善行を行い、自分の善行を吹聴する者たちは、人からの評価、誉れという報いを求め、それを受けているのです。
既に報いを受けている
目立たない仕方でさりげなく善い行いをすることによって私たちが求めているのも、結局それと同じ報いなのではないでしょうか。自分の善い行いをあからさまに吹聴するのではなく、控え目に、目立たない仕方でする方が良い、と思う時に、私たちはやはり「あの人は目立たない所でこんな善いことをしていたのか」と誉めてもらう、という「人からの報い」を求めているのです。そういう私たちと、ここに描かれている偽善者たちとどこが違うのでしょうか。「人からの報い」を期待しているという点では、同じなのではないでしょうか。そして、「人からの報い」を求めている人は、「既に報いを受けている」のです。この「既に受けている」という言葉は、「領収書を書いてしまった」という意味です。つまり、「もう十分いただきました。これ以上いただく必要はありません」ということです。人からの報いを求める者は、人からほめられること、あの人は立派な人だと思われることで、つまり人からの評価を受けることでもう満足なのです。それ以上の報い、つまり、天の父なる神からの報いはいらないのです。人からの報い、評価こそが彼らにとっては全てなのです。
偽善者
このように、人からの報い、人からの誉れのみを求め、天の父なる神からの報いを求めていない人のことを、主イエスは「偽善者」と呼んでおられるのです。これは私たちが普通に考える「偽善者」という言葉の意味とは大分違います。しかしこの偽善者と訳されている言葉の元々の意味は、俳優、演技する人ということです。俳優は、舞台の上で、観客を前にして、様々な役柄になって演技をします。それを客に見せるのです。観客がどう見てくれるか、自分の演技をどう評価してくれるか、が俳優にとっての勝負です。俳優というのはそのように、自分が人からどのように見られているかを常に気にしながら生きているのです。それが、偽善者の本質です。俳優は偽善者だということではなくて、私たち一人一人が、いつも人の目を気にしながら、人が自分をどう見ているかを気にしながら生きている偽善者なのではないでしょうか。これ見よがしに人前で善行をしていようと、目立たない所でさりげなくしていようと、私たちが人から誉められることを願い、人の目に左右されて生きているならば、私たちは人の前で自分を取り繕っている偽善者なのです。
神の評価
主イエスはそのような私たちに、天の父なる神からの報いをこそ求めよと言っておられます。それは、私たちが、人の目を気にし、人からの評価を気にして周りの人々のことばかりをキョロキョロと見回しているその目を、天の父なる神の方へと向けなさいということです。そして、人からの評価、それは良い評価であったり悪い評価であったりするわけですが、それが最後決定的なものではない、天の父なる神が自分をどう見ておられ、どう評価なさるかこそが決定的なのだということをわきまえなさいということです。天の父なる神は私たちのことをどのように見ておられ、評価しておられるのでしょうか。先ほども見たように天の父は、「隠れたことを見ておられる」方です。それは、私たちが人知れずしている善い行いを見ていてくださる、ということでもありますが、同時に、私たちが人には隠している様々な失敗や罪、悪いことをも神はちゃんと見ておられる、ということでもあります。私たちの、良い所も悪い所も、天の父なる神は全て知っておられるのです。その神の前で私たちは、何をどう取り繕っても仕方がありません。私たちの偽善など神の前では通用しないのです。けれども神は、私たちのために独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。そして主イエスはこの山上の説教の冒頭で、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と宣言して下さったのです。「心の貧しい人々」。それは自分の中に、神に対して誇り得るどんな豊かさをも持っていない、神の前で、無一物の乞食のような者のことです。神に評価していただけるようなどんな善いものも自分の中にはない、それが「心の貧しい者」です。そのような者に主イエスは、「あなたがたは幸いだ。天の国はあなたがたのものだ」と言って下さったのです。神は私たちをこのように見ておられ、このように評価しておられます。つまり神は、私たちの良い所も悪い所も全て知った上で、その私たちを、天の国にあずかる幸いな者として選び、立て、遣わして下さっているのです。この恵みは主イエス・キリストによって実現しています。神の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、私たちは、全く貧しい罪人であるのに、天の国、神のご支配にあずかる神の子として新しく生かされているのです。
人の評価を気にする偽善から解放されて生きる
この神の恵みをわきまえ、天の父となって下さった神の子として生きる時に私たちは、人の目、人の評価を気にする偽善から解放されます。人からの報いではなく、天の父からの報いをこそ求めて生きる者とされるのです。天の父からの報いは、いわゆる現世的なご利益ではありません。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって私たちの罪を赦して下さり、神に背き逆らっている罪人である私たちを、神の子として新しく生かして下さる、その天の父なる神と共に生きることこそが、神からの報いなのです。この報いは、人からの誉れや評価、つまり人からの報いを求めている間は得られません。しかし私たちが人から目を離し、主イエス・キリストの父なる神を見つめていく時、そこには、主イエスによって神が既にすばらしい報いを与えて下さっていることが見えてくるのです。この報いは、私たちの善い行いによって獲得されるのではありません。善い行いなど何もできていない私たちが、主イエスによって、天の国に、神のご支配に、神の救いの恵みにあずかるのです。その恵みに応えて、私たちも善い行いに励みます。そこではもう、人の目、人からの評価から自由になって、善い行いをすることができるのです。誰も見ていなくても、誰も自分の善い行いを誉めてくれなくても、あるいはそれによって何かこの世での幸福が得られることはなくても、それでいいのです。主イエスの父であり、私たちの天の父となって下さった神が、私たちの隠された善い行いを見ていて下さり、それを喜んで下さり、「あなたは、天の国にあずかる幸いな者として生きているね。あなたを選び、立て、遣わした私の思いをわきまえて、地の塩、世の光としての働きをしてくれているね。嬉しいよ」と語りかけて下さるのです。それだけで私たちは十分なのです。