「神の祝福」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ルツ記 第4章1-22節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第1章1-17節
・ 讃美歌:4、409
これまでのあらすじ
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いておりまして、今ルツ記を読んでいます。本日はその最終回、第4章です。先ずはこれまでのあらすじを振り返っておきます。
ベツレヘム出身のエリメレクとナオミという夫婦が、イスラエルの地の飢饉を逃れて、死海の東に広がる異邦人の地モアブへと移住しました。そこで彼らの二人の息子、キルヨンとマフロンは、モアブの女性と結婚しましたが、エリメレクも二人の息子も相次いで亡くなり、姑のナオミと二人の嫁だけが遺されました。その嫁の一人がルツです。ルツはマフロンの嫁だったことが、4章10節において初めて明らかになっています。全てを失ったナオミは、二人の嫁を実家に帰して、一人で故郷ベツレヘムに帰ろうとしましたが、ルツだけは、どうしても彼女と一緒に行くと言って、ナオミと共にベツレヘムに来たのです。しかし彼女らには生きていく糧を得るすべがありません。ルツが他人の麦畑で落ち穂拾いをすることで、自分と姑の生活を支えていました。それはイスラエルにおいて、貧しい人のために認められていた、生きる手段だったのです。ある日ルツはボアズという人の畑で落ち穂を拾わせてもらうことになりました。ボアズはルツにとても親切にしてくれました。そのことを知ったナオミは、ボアズとルツを結婚させようと思うようになりました。それは神の掟、律法に適ったことでした。律法には、子どもがなくて夫に先立たれた嫁は、夫の親族の一人と結婚して子どもを産み、その家を絶やさないようにするという掟があったのです。その掟によれば、夫に死に別れた妻を引き取って妻とすべき第一の者は夫の兄弟です。しかしこの場合のように兄弟も死んでしまっている時には、一番近い親族が次の候補となります。幸いなことにボアズはエリメレクの親族の一人でした。それゆえにナオミは、ルツをボアズと結婚させようとしたのです。それは律法に適ったことであり、それによってルツは幸せになれる、そして子どもが生まれたなら、その子によってエリメレクの家を存続させることができるのです。
この計画を実現するためにナオミは、ルツの方からボアズに結婚を求めるようにさせました。それは決して、色仕掛けでボアズを誘惑させたということではなくて、ルツはボアズに、律法に従って親族としての責任を果たし、自分たちを守り支えてくれるように願ったのです。ボアズはルツのこの願いを喜んで受け入れ、きっとその通りにすると約束しました。しかしそれを実行するためには一つの障害がありました。それは、ボアズよりも近い親族が一人いたということです。ルツと結婚する責任は先ずその人にあったのです。ボアズが律法に従ってルツと結婚するためには、その人がその権利と義務を放棄しなければなりません。ボアズはルツに、そのための交渉を自分がすることを約束したのです。
交渉
これが第3章までのあらすじです。従って第4章は、ボアズがその親族の人と交渉する場面から始まります。1節に「ボアズが町の門のところへ上って行って座ると」とあります。「町の門のところ」は、人々が集まって商売の取引をしたり、裁判が行われる場所でした。ボアズはそこでその親戚の人を呼び止めました。またこのような権利と義務の譲渡の交渉には証人が必要です。そのためにボアズは町の長老十人を集めて、証人となってもらったのです。
この交渉において先ず持ち出されたのは、エリメレクの所有である畑を誰が買い取るかということでした。エリメレクの畑は男手が絶えてしまって、誰も耕すことができなくなっています。そういう場合、最も近い親族がそれを買い取ることが律法で定められているのです。その親戚は、「それではわたしがその責任を果たしましょう」と言いました。するとボアズはそれに続けてルツのことを持ち出しました。5節です。「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです」。エリメレクの畑を優先的に買い取る権利には、ルツとの結婚の義務が付属しているのだ、ということをボアズは示したのです。これを聞いたその親族は、「それは自分には負いかねる。そういう義務が伴うなら、私はその権利を放棄したい。あながたそれを負ってくれないか」と言い出しました。ボアズは、彼の方からのその申し出を受け入れ、彼の権利と義務とを共に譲り受けることを、証人である町の長老たちの前で宣言したのです。証人となった人々はこのことを認め、ボアズとルツを祝福しました。このようにしてボアズは、律法の定めにのっとって、正式にルツを妻とすることができたのです。
権利と義務
ルツ記第4章にはこの交渉の場面が丁寧に語られています。ここから二つのことを考えさせられます。一つは、権利と義務とは表裏一体であり、切り離すことはできない、ということです。それは信仰を離れても言える、この社会における常識でもあります。権利には義務が伴うのであって、権利を主張する者は義務をも果たさなければならない、権利のみを主張し、義務を負わないというのは単なる我儘であるわけです。世の中にはそういう我儘がけっこうはびこっているし、私たち自身も、権利の主張ばかりに走り、それに伴う義務をないがしろにしてしまうことがあるのではないか、と反省しなければならないでしょう。しかしこのことは、一般常識の中で言えることです。私たちは、神を信じ、主イエス・キリストによる救いにあずかっている者として、権利と義務ということについてより深く受け止めることが求められていると思います。つまり私たちは、権利には義務が伴うのだということを弁え、自分の権利を主張すると同時にそれに伴う義務もしっかり果たしていく、ということに努めるだけで事足れりとしてはならないのです。私たちの主であられるイエス・キリストはどうなさったのでしょうか。フィリピの信徒への手紙の第2章に語られていますが、主イエス・キリストは、神の子、つまりまことの神でありながら、神であることに固執することなく、ご自分を無にして、人間となって下さいました。それは私たち人間を救って下さるためでした。さらに主イエスは、ご自身は何の罪もないのに、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。これらのことは、主イエスが、罪人である私たちを救うために、ご自分の神としての権利を放棄して下さり、また自分の無実を主張して死刑から逃れる権利を放棄して下さったということです。主イエスのこの権利放棄によってこそ、罪人である私たちに救いが与えられたのです。その救いにあずかった私たちは、主イエスに従って、主イエスと共に歩みます。そこにおける私たちの生き方は、自分の権利はしっかり主張し、それに伴う義務も果たす、というだけのものではなくなるのです。主イエスに従う私たちはむしろ、他の人のために自分の権利を放棄する、という生き方を与えられるのです。パウロはまさにそのように生きました。彼は、自分はキリストによってあらゆる束縛から自由にされている、と言いました。自由にされているとは、何でもできる権利がある、ということです。私は自由に何でもすることができる、何にも縛られていない、とパウロは言ったのです。しかしそのパウロが、コリントの信徒への手紙一の第9章において、自分はその自由を、他の人の救いのために放棄する、と言っています。それは誰かに強制されて自由を放棄させられるのではありません。自らの自由によって、敢えて自分の当然の権利を放棄して、束縛の中に身を置くのです。主イエス・キリストに従うことによって彼はそのように生きることができる者とされているのです。主イエスご自身が自分の救いのためにそのようにして下さったことを知っており、その恵みに感謝しているからです。主イエスによる救いにあずかっている私たちは、このパウロのように、自分の権利を他の人のために放棄することができる、そういう自由を与えられているのです。それは決して、「そうしなければならない」という強制ではありません。あくまでも自由に、自発的に、喜んで、そのように生きる道が、主イエスによって開かれているのです。新約聖書において示されている主イエス・キリストによる救いをも合わせて読む時に私たちは、権利と義務について、そのような新しい捉え方をすることができるようになるのです。
主の導きに身を委ねたボアズ
この箇所から考えさせられる第二のことは、もっとこのルツ記の記述に即したことです。それは、この親族はなぜルツとの結婚を拒んだのだろうか、ということです。ルツ記を読むと私たちは、ルツというのはとても美しく心優しい素晴らしい女性であるに違いない、と想像します。そんな人と結婚するチャンスを放棄するなんて、この親族はなんともったいないことをしたのか、ひょっとしたら彼はルツのことを全く知らなかったのではないか、顔も見たことがなかったのではないか、もしも彼が一目でもルツを見たことがあったら、断ったりしなかったのではないか、そんな余計な想像をしたくなります。しかしここで注目すべきなのは、彼が「それではわたしの嗣業を損なうことになります」と言っていることです。ルツと結婚すると、自分の嗣業を損なうことになる、それはどういうことなのでしょうか。ルツ記の前提となっている、子どもがなくして夫が死んだ妻は親族と結婚して夫の名を残す、という掟が実際のところどのように運用されたのかはよくわかりません。だから「それではわたしの嗣業を損なうことになります」という発言の意味もはっきりしないのですが、しかしここで一つ関係しているであろうことは、ルツが異邦人であるモアブの女だったことです。ルツと結婚すると、自分の家に、そして子孫に、異邦人の血が混じることになる、彼はそれを嫌ったのではないでしょうか。自分たちこそ神に選ばれた神の民だ、という思いを強く持っているユダヤ人は、純血、ということに強くこだわりを持っているのです。そこから逆に分かるのは、ルツとの結婚を望んだボアズは、そのことによって起って来るであろう様々な問題、リスクを全て引き受けようとした、ということです。それは、ボアズがそれだけルツに夢中だった、ルツはそれほどに魅力的な女性だったということかもしれません。しかしここに描かれているボアズの姿は、恋の情熱の虜となって他のことが何も見えなくなった男ではありません。彼は全く冷静に、律法に従って、手続きをきちんと踏んで行動しています。ルツとの結婚も、もし自分より近い親族がルツと結婚すると言うならそうさせよう、と言っているのです。つまり彼はルツとの結婚を心から願っているけれども、何がなんでもルツを自分のものにしなければもう生きていられない、というような思いでいるわけではないのです。このボアズのある意味で冷静な姿は、彼が自分の人生を主なる神の導きに委ねている、ということを表していると言えるでしょう。彼がルツに好意を抱くようになったのも、ルツがナオミの嫁としてモアブの地から共に帰り、ナオミを支えて働いている姿を見たからです。彼はそこに、全てを失った絶望の中にあったナオミの傍らに、その支え手としてルツを置いて下さったという主なる神の導きを見たのです。そしてそのナオミの家と自分とは親族である、従って自分にも、ルツと結婚する権利と義務がある、そのことにも主の導きがあることを感じたゆえに、ルツとの結婚を願うようになったのです。しかし自分よりも先にその権利と義務を負うべき人がいる。その人がその責任を負ってルツと結婚しようと言うなら、それが主なる神のみ心だからそれを受け入れよう、と彼は思っているのです。もしもその人がその権利を放棄するなら、その時こそ、自分がルツと結婚することが主のみ心であることが明確になる、つまり彼自身の願いと主なる神のみ心とが一致していることがそこで確認されるわけです。ボアズはそのように思い、行動しています。主なる神のみ心を確かめ、その導きに従って人生を歩もうとしているのです。これから先の将来のことについても同じです。ルツと結婚することによって自分の家族、子孫たちがどのようになっていくのか、異邦人の血がそこに入ることが何をもたらすのか、ボアズはそれらの全てを主なる神のみ心と導きに委ねているのです。あの親族とボアズの違いは、あの人は自分の家を、現在与えられている嗣業つまり相続財産を、損なってしまわないように自分で守ろうとしているのに対して、ボアズは、それらを全て主なる神の導きに委ねている、ということにあるのです。
神の祝福
このようにしてボアズとルツは結婚しました。この夫婦を神は祝福して下さいました。13節に「ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ」とあります。「主が身ごもらせたので」は直訳すれば「主が彼女に妊娠を与えた」です。結婚して子どもが生まれることは決して自然の成り行きではありません。主なる神が二人を祝福して下さって、子どもを与えて下さるのです。それは姑であるナオミにとっても、夫と二人の息子の死によって失った神の祝福の回復でした。ナオミはボアズとルツの間に生まれた男の子オベドを自分の子として、つまりエリメレクの家を嗣ぐ者として養い育てたのです。ルツ記の主人公の一人はナオミです。ルツ記は、ナオミが全てを失った絶望、虚しさの中から、異邦人の嫁ルツを通して、主なる神の祝福を回復され、人生の喜びを再び与えられた、という話でもあるのです。イスラエルの人々にとって、子どもが与えられること、家系の存続は、主なる神の祝福、恵みの最大のしるしでした。それは、イスラエルの最初の先祖であるアブラハムに主が与えて下さった祝福の約束、「あなたの子孫は空の星のように、海辺の砂のように多くなる、そして彼らは主なる神の祝福を担う民となり、地上の全ての人々が彼らによって祝福を受ける」という約束に、自分と自分の家族があずかっている、ということだったからです。ナオミも、ボアズも、ルツも、この祝福の約束にあずかる者とされたのです。
祝福の継承
神の祝福がどのように継承されていくか、がイスラエルの人々にとって大きな関心事でした。それゆえに聖書にはしばしば系図が出て来るのです。ルツ記の最後、18節以下にも、ボアズの先祖であるペレツ以下の系図があります。最初のペレツは、アブラハムの孫であり、イスラエルという名を与えられたヤコブの息子たちの一人であるユダの子供です。ナオミの夫エリメレクも、ボアズも、このユダを先祖とするユダ族の人々なのです。ペレツがユダの子として生まれたいきさつもなかなか大変なことです。12節では、ボアズとルツの結婚を祝福した人々が「タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように」と言っています。ペレツの母親はタマルという人だったわけですが、ユダとタマルの間にペレツが生まれたことは、創世記38章に語られています。そこを読むと、これはとんでもない話だったことが分かります。タマルはユダの妻ではありません。ユダの息子の嫁だったのです。タマルにとってユダは義理の父、舅なのです。タマルが義理の父の子を生んだ、そのいきさつはある点でルツ記と重なっています。つまり、タマルはユダの息子の嫁となったが、子どもがないままに夫は死んだのです。それであの掟に従って夫の弟が彼女と結婚しましたが、彼もまた子をもうけずに死にました。三人目の息子はまだ子供だったので、舅ユダはタマルに、その子が成人するまで待つように言ったのです。ところがその子が成人しても、ユダは彼とタマルを結婚させようとしませんでした。そこでタマルは、何と娼婦に変装してユダを誘い、関係を持ったのです。そして生まれたのがペレツでした。ユダは、自分がタマルに律法で定められている権利を認めず、息子の嫁としなかったためにこのようなことが起ったのだと自分の非を認めて、ペレツを息子として受け入れたのです。ユダからペレツへの祝福の継承はこのように、息子の嫁との関係によって起りました。つまりそこには人間の深い罪があったのです。そのペレツの子孫がボアズです。そのボアズが今度は、タマルが主張したのと同じ掟に基づいて、モアブの女ルツを妻としたのです。そしてイスラエルとモアブの混血である息子オベドが生まれたのです。親から子への世代の交替はこのように、人間の様々な苦しみや悲しみを内にはらみながら、またおぞましい罪をも伴いながらなされていくのです。しかし、人間の目から見たら問題に満ちたその継承において、主なる神の祝福が受け継がれていきます。22節に「オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた」とあります。オベドはダビデ王の祖父なのです。ボアズとルツの結婚を主なる神が祝福して下さった、その祝福は、三代後になってすばらしい実りを生んだのです。ボアズが、自分の人生を、そして自分の家族の将来をも、主に委ね、主のみ心を求めて生きた、その信仰は、三代後になって、そこに与えられる祝福が明らかになったのです。私たちも、信仰においてそのような視野、あるいは展望を持ちたいものです。自分が今主を信じ、信仰者として、教会に連なって生きている、そのことは自分自身の人生においてのみ意味があるのではありません。主なる神の祝福は、自分の子孫たちに、あるいは自分には子どもが与えられなくても、教会において神の家族とされている後の世代の人々に、引き継がれていくのです。その祝福が、いつかどこかですばらしい実りを生むことを、私たちは信じて生きることができるのです。
主イエスにおける祝福の成就
ボアズとルツに与えられた祝福は、ダビデの誕生において豊かな実を結びました。しかしそれで終りではありません。本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書第1章には、主イエス・キリストの系図があります。その5節に「ボアズはルツによってオベドを」とあります。その少し前の3節には「ユダはタマルによってペレツとゼラを」ともあります。様々な苦しみや悲しみを伴い、罪にまみれてすらいる親から子への継承において、主なる神の祝福が受け継がれていったことがここに示されているのです。そしてその継承は全て、主イエス・キリストへと流れ込んでいます。主イエスにおいて、その十字架の死と復活によって、人間の苦しみや悲しみ、そして罪に勝利する主の祝福の約束は成就、実現しました。私たちは、その主イエス・キリストによる神の祝福、救いの恵みの中で生かされています。その救いの実りが、自分の人生に、さらには後の世代の人々にも、豊かに与えられることを望み見つつ、主イエス・キリストの父なる神に身を委ねて歩もうではありませんか。