夕礼拝

麦打ち場の夜

「麦打ち場の夜」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ルツ記 第2章23b-第3章18節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第7章7-12節
・ 讃美歌:113 、504

これまでのあらすじ
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いておりまして、今ルツ記を読んでいます。ルツ記は四章のみの大変短い書であり、一つの物語ですから、旧約聖書の中でも最も親しみやすい書であると言えるでしょう。本日はその第3章を読みます。この第3章がルツ記のクライマックスであると言うことができます。その内容に入る前に、これまでのあらすじを振り返っておきたいと思います。
 ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の人であるエリメレクとナオミという夫婦が、イスラエルの地の飢饉を逃れて、異国であるモアブの地に移住しました。二人の息子はモアブの女性と結婚しましたが、父エリメレクも二人の息子も相次いで亡くなり、ナオミと二人の嫁だけが遺されました。その嫁の一人がルツです。全てを失ったナオミは、二人の嫁を嫁という立場から解放して、モアブの地で再婚できるようにし、自分は一人で故郷であるベツレヘムに帰ろうとしましたが、ルツだけは、どうしても彼女と一緒に行くと言ってきかなかったので、ナオミとルツの二人でベツレヘムに帰って来たのです。帰って来てはみたものの、彼女たちには生活の糧を得るすべがありません。丁度大麦の刈り入れの時期だったので、ルツが他人の畑で落ち穂拾いをさせてもらって食べていくしかありませんでした。ある日ルツはボアズという人の畑で落ち穂を拾わせてもらうことになりました。ボアズはルツに並々ならぬ好意を示し、便宜をはかってくれました。こうしてルツは大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのもとで落ち穂を拾い、姑と自分の生活を支えていきました。それが第2章23節前半までのあらすじです。

麦打ち場の夜
 さてルツが毎日ボアズの畑で落ち穂を拾っている間、姑のナオミは何をしていたのでしょうか。3章1節に、「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました」とあります。ナオミはルツが幸せになる落ち着き先を探して、情報を収集していたのです。その結果ナオミが得た結論は、ルツをボアズと結婚させるのがよい、ということでした。ボアズがルツに好意を抱いていることは、落ち穂を拾わせてもらっているルツの話から明らかです。この二人を一緒にさせるのがルツのために最もよいことだ、とナオミは考えたのです。しかしそれはただ二人の男女の仲を取り持つ、という単純なことではありません。ルツはエリメレクの家の嫁です。彼女が夫の死後、ナオミと共にイスラエルの地に来たということは、嫁として生きる道を選んだということです。そしてイスラエルには、子どもがいなくて夫に先立たれた嫁の果たすべき定めがありました。それは夫の親族の一人と結婚して子どもを産み、家を絶やさないようにすることです。第一の候補は夫の兄弟ですが、もう死んでしまっていません。次は一番近い親族が候補となります。つまり子どもなくして夫に先立たれた嫁は誰とでも再婚できたわけではないのです。しかし幸いなことに、ボアズはエリメレクの親族の一人でした。2章20節でナオミは「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です」と言っています。イスラエルの掟において、ボアズはルツの結婚の相手となり得る人の一人だったのです。そのボアズがルツに好意を持ち、自分の畑でずっと落ち穂を拾えるようにしてくれたことを知ったので、ナオミはこの二人を結婚させようと思ったのです。しかしそこには二つの障害がありました。一つは、ボアズとルツの年の差です。おそらく二十五歳ぐらい違っていたのだろうと思われます。従ってボアズは、ルツに好意を示し、便宜をはかっていましたが、ルツと結婚できるとは思っていなかったようです。二つ目の障害は、ボアズよりもっと近い親族がいたことです。その人がルツの結婚相手の第一候補者ということになります。この二つの障害を乗り越えないと、ボアズとルツを結婚させることはできません。そのためにナオミは、一つの演出を考えたのです。それが2節後半から4節にかけて語られていることです。「あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい」。ルツはナオミの指示したこの演出の意味を完璧に理解し、その通りに行動しました。「衣の裾で」と訳されているところについて、新しい「聖書協会共同訳」には、これは直訳すると「足元をまくって」であるという注が付けられています。着物の足元をまくってそこにもぐり込む、ということです。この、かなり際どい行動の意味は、ルツの方からボアズに求婚する、ということです。9節の「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」という言葉がそのことを示しています。あなたが私と結婚して亡き夫の家を残す義務を果してください、とルツの方からボアズに願う、ナオミはそういう計略を練り、ルツはその指示通りに実行したのです。

ルツ記のクライマックス
 このルツからの求婚を受けてボアズはこう言いました。10節以下です。「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人が責任を果たすというならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい」。ボアズはルツの求婚を、思いがけない喜びとして聞きました。ルツの周りにはもっと若くて魅力的な男たちがいただろうに、自分のような、親子ほども年の離れている者をそのように見てくれたことは、驚きであり、喜びでした。そしてボアズは、必ずあなたが求めた通りにする、と約束します。もう一つの障害である、自分より近い親族がいるということも、自分が何とかするから安心しなさい、と言ったのです。この麦打ち場の夜の出来事、ボアズとルツの本当の意味での出会い、結婚の約束が、ルツ記のクライマックスです。映画ならさぞかしロマンチックな、そしてちょっときわどい場面になることでしょう。しかしボアズはあくまでも慎重に、順序を踏んで事を進めます。彼はルツをまだ暗いうちに帰しました。それはルツが、夜中に男のところに通うふしだらな女と思われることがあってはならないという配慮です。そして彼はルツに六杯の大麦を贈り物として持たせます。帰ったルツから一部始終を聞き、贈り物を見たナオミは、すべてが自分の思惑通りに運んだことを知り、こう言います。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう」。こうなれば、後はボアズが自分で事を進めるだろう、こちらはただじっと待っていればよい。ナオミは、いてもたってもいられなくなっているボアズの心を見抜いているのです。

積極的なナオミ
 これが第3章の内容です。ここでは、表の主人公はルツでありボアズですが、その背後で全てを考え、演出しているのはナオミです。ナオミが情報を集め、計画を立て、ルツはそれに従って行動し、ボアズは、まんまとと言うよりも本人も喜んでその計画に乗ったのです。ここにはまことに積極的なナオミの姿が描かれています。このナオミは、ベツレヘムに帰って来た時にはどうだったのでしょうか。そのことが1章20節以下の彼女の言葉に示されていました。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに」。彼女は異国の地で夫と二人の息子を失い、つまり全てを失って帰って来たのです。主なる神が自分をひどい目に遭わせ、全てを奪った、そういう神への恨みつらみを彼女は語っていたのです。そういう絶望の内にいた彼女が、この第3章ではこんなに積極的に、つまり希望を抱いて行動しています。彼女をそのように変えたのはいったい何だったのでしょうか。それは、嫁ルツの存在です。全てを失い、もう希望は何も残されていないとナオミは思っていました。しかしその彼女の傍らに、ルツがいたのです。それは、嫁だから仕方なくいたのではありません。イスラエルの地に帰ることを決断した時点でナオミは、二人の嫁をその立場から解放して実家に帰らせようとしたのです。つまりナオミにとっては嫁たちももう失われた者だったのです。しかしルツは自分の意志でナオミについて行きました。その思いは、主なる神が彼女に与えたと言うしかありません。つまり、全てを失った絶望の中にいたナオミの傍らに、主が、ルツを置いて下さったのです。そのルツの存在がナオミを変えたのです。ルツがいたことによって、ナオミは新しく、積極的に生きていく力を得たのです。

他の人の幸せを願うことによってこそ
 そのことをさらに深く見つめるなら、ナオミは、ルツが幸せになる落ち着き先を探すことの中で、絶望の淵から救われていったのです。夫を失ったのに、姑である自分について、見ず知らずの異国であるイスラエルにやって来た、そのルツを何とか幸せにしてやりたい、ナオミはそう思って情報を集め、計画を立て、それを実行していったのです。そのことの中で、彼女自身が絶望から解放され、新しく生きる力を与えられていったのです。このことは、人は自分の幸せの回復のために努力することによって苦しみや絶望から抜け出すことができるのではなくて、むしろ自分の傍らに神が置いて下さった他の人の幸せを願い、そのために労することによってこそ、自分自身も苦しみや絶望を乗り越え、新しく生きる力を与えられるのだ、ということを教えています。ナオミにとってルツは息子の嫁であり、基本的には他人です。自分の子のように自然に愛し、心配する相手ではありません。そのことは、彼女を実家に帰そうとしたことから分かります。ルツはやさしい嫁だから一緒に連れて行きたいと思っていたわけではないのです。しかしそのルツが、まさに神のみ心によって自分の傍らに残された、そのルツの幸せを願い、その行く末を思うことがナオミを立ち直らせたのです。主なる神がルツをナオミの傍らに置いて下さったのはそういうことのためだったのです。もしもナオミが、ルツの将来や幸せを考えずに、自分の老後の世話をさせることだけを考え、また自分の苦しみ、絶望、愚痴のはけ口とするだけだったなら、ナオミ自身がいつまでも絶望、苦しみから抜け出すことはできなかったでしょう。ですからナオミは、主なる神がルツを自分の傍らに残して下さった、そのみ心に正しく応えたのです。ルツの幸せを熱心に探し求めたことこそが、主のみ心に正しく応えることだったのです。

主イエスの教え
 先程共に読んだ新約聖書の箇所は、マタイによる福音書第7章7節以下の主イエス・キリストの教えです。そこには「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」とありました。熱心に求めるなら、それは必ず与えられる、と主イエスはおっしゃったのです。でもそれは、何でも欲しいものがあったらお祈りすれば手に入る、ということではありません。私たちが熱心に祈り求めるべきことは、共に生きている他者の幸せなのです。それを熱心に祈り求める時、その求めは必ず聞かれると主イエスは約束なさったのです。それゆえに、この「求めなさい」という教えに続く12節には、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と語られているのです。自分がしてもらいたいことを先ず人に対してしていく、自分が望む幸せが先ず人に与えられることを祈り求めていく、その求めが神によって聞き届けられることによって、自分にも、神の豊かな恵みが与えられていくのです。

受け身であるルツ
 さて、このルツ記第3章を読んでいて感じるのは、ナオミがルツの幸せのために積極的にまた計画的に行動しているのに対して、当の本人であるルツは、ナオミの指示に従っているだけであるように見えるということです。ルツはボアズと結婚するのがよい、というのはナオミの考えであって、ルツの意志はどうだったのかには全く触れられていません。この第3章は読みようによっては、姑が嫁の再婚相手を勝手に決めて、親子ほども年の差のある男との話をどんどん進めていった、とも取れるのです。ルツはナオミの指示に従って、あの麦打ち場の夜の演出を完璧に演じたわけですから、彼女自身も、親切にしてくれているボアズに心を寄せていたことは確かでしょう。しかしこの第3章におけるルツのあり方は、ナオミに比べるとまことに受け身であり、ナオミに従い、自分の将来をナオミに委ねてしまっているようにも感じられるのです。
 しかし、ルツがここで身を委ね従っているのは、実はナオミではありません。彼女は、先程触れた、子どもなくして夫に先立たれた妻は最も近い親族の男と結婚してその家を絶やさないようにしなければならない、というイスラエルの掟に従おうとしているのです。その掟によれば、ルツが再婚できる相手はエリメレクの親族の一人に限られています。その掟を無視して他の男と結び付くこともできたのかもしれません。10節のボアズの言葉はそういう可能性があったことを示しています。その場合には、ルツはもはやナオミの嫁という立場を捨てることになります。ナオミのもとを離れて一人の自由な女として生きて行くという道もあったのです。しかしルツは第1章において、ナオミの嫁として生きることを選びました。それは、再婚においてもイスラエルの掟に従い、夫の親族の誰かと結婚し、家を絶やさないようにする義務を負うということを意味しています。第3章においてルツが受け身であるように見えるのはそのためです。つまりルツは、1章において自分が選び取った生き方に忠実に歩もうとしているのです。ナオミの計画はその掟にかなったものでしたから、ルツは5節にあるように「言われるとおりにします」と言ってその通りにしたのです。

主のみ心に従い、身を委ねる
 このルツの姿は、さらに深く見つめるならば、主なる神のみ心に従い、その導きに自分の行く末を委ねている、ということです。姑ナオミについてイスラエルの地に行くということにおいて、彼女はそういう決断をしたのです。前回読んだ2章12節でボアズは「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように」と言っていました。ルツはイスラエルの神、主の御翼のもとに逃れ、その主のみ心に身を委ねたのです。その彼女に、主が豊かな恵みを与え、祝福を与えて下さったのです。
 ボアズもまた、主なる神のみ心に従って歩もうとしています。彼はルツからの求婚を喜び、「きっと、あなたが言うとおりにします」と約束しました。ルツとの結婚を心から願っているのです。しかし彼はそのことを、神の定めに従ってなそうとしています。彼よりも近い親族がいる、もしその人がルツを妻にすると言うなら、それを受け入れ、自分は身を引く、と言っているのです。それも、主なる神のみ心に従い、その導きに身を委ねる、という思いの現れです。
 そしてそれはナオミもまた同じです。彼女がルツの幸せのために立てた計画は、主なる神の掟に基づいているものです。主のみ心に従い、それに身を委ねることの中で、彼女はルツのために積極的に行動しているのです。つまりこの第3章に出て来る三人の人々は誰もが、主なる神のみ心に従い、その導きに身を委ねつつ、自分にできる精一杯のことをして生きているのです。そのような歩みの中で、それぞれが主から素晴しい恵み、祝福を与えられました。ルツには幸せな落ち着き先が、ボアズにはすばらしい妻が、ナオミには新しい家族が、主から与えられたのです。

うつろな心を満たして下さる主
 ベツレヘムに帰って来た時にナオミは、「出て行ったときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせた」と主なる神への恨み言を言っていました。その「うつろ」と同じ言葉が本日の17節にあります。ルツとの結婚を約束したボアズが、麦打ち場から夜明けに帰るルツに持たせた六杯の大麦の贈り物について「あなたのしゅうとめのところへ手ぶらで帰すわけにはいなかい」と言ったとあります。その「手ぶら」という言葉が、「うつろ」と同じ言葉なのです。ナオミは、主が自分から全てを奪ってしまった、自分の手にはもう何もない、うつろだ、という絶望の内にベツレヘムに帰って来ました。しかし主はその彼女のもとにルツを置いて下さっていました。そしてルツとボアズとの出会いを通して、彼女のうつろな手を豊かな贈り物で満たして下さったのです。ボアズが贈った六杯の大麦は、主なる神がルツを通してナオミのうつろな心に満たして下さった豊かな祝福を表しているのです。
 それからおよそ一千年後、このボアズとルツの子孫として、ベツレヘムに、主イエス・キリストがお生まれになりました。自分と人との罪のために苦しんでおり、虚しさと絶望の中にいる私たちのうつろな心を、神はその独り子というすばらしい贈り物で満たして下さったのです。

関連記事

TOP