「地の塩、世の光」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第60章1-7節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章13-16節
主イエスは私たち皆に語っておられる
主日礼拝において、マタイによる福音書からみ言葉に聞いておりまして、今その第5章、主イエスがお語りになった「山上の説教」を読んでいます。山上の説教が語られた相手は、先ず第一には、主イエスに従っている弟子たちです。しかし弟子たちの周りには多くの群衆たちがいて、その人たちも主イエスに従って来た人々なのだ、ということが4章の終わりのところに語られていました。主イエスは山上の説教を、ご自分の弟子たちだけでなく、主イエスの教えを聞こうとして集まって来た人々に対しても語っておられるのです。それと同じことが、今この礼拝においても起っています。ここには勿論、洗礼を受けたクリスチャンたちが集っています。洗礼を受けたとは、主イエスの弟子になったということです。しかしこの礼拝には、まだ洗礼を受けておられない方々もおられます。まだ弟子になってはいないけれども、主イエスの教え、み言葉を聞こうとしてここに集まって来られた方々です。その方々を含めた私たち全ての者に、主イエスは語りかけておられるのです。
あなたがたは地の塩、世の光である
主イエスは本日の13節以下で私たちに、「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である」と語りかけておられます。塩は生活に必要不可欠なものです。塩の入っていない料理など食べられたものではありません。塩分の摂り過ぎは体に悪いですが、塩なしに人は生きていけません。また塩は物が腐るのを防ぎます。「あなたがたは地の塩である」とは、あなたがたは、この世に良い味をつけ、またこの社会の腐敗や堕落を防ぐ、なくてはならない働きをしている、ということです。「あなたがたは世の光である」とは、文字通り、あなたがたが光としてこの世を明るく照らしているということです。主イエスは私たちに、あなたがたはこの世になくてはならない塩であり光だ、と語りかけておられるのです。しかし私たちは、「はいそうです」とはなかなか言えません。自分が地の塩や世の光だとはとうてい言えない、と尻込みせずにはおれないのではないでしょうか。
努力目標ではなくて厳かな宣言
しかし私たちは案外平気でこの言葉を受け止めている、ということもあるかもしれません。それは、主イエスに従う信仰者は、地の塩、世の光としての働きを期待されているのだから、そうなれるように努力しよう、という意味においてです。「地の塩、世の光」という言葉を努力目標として捉えれば、すんなり受け入れることができるのです。地の塩や世の光になれるように頑張ろう、ということならけっこう簡単に言えるのです。けれどもそれは、主イエスがお語りになったこととは違います。主イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい、そのように努力しなさい」と言われたのではありません。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と言われたのです。主イエスは私たちに努力目標をお示しになったのではありません。弟子として、あるいはみ言葉を聞こうとしてこの礼拝に集っている私たち全ての者に、主イエスは、あなたがたは地の塩、世の光なのだ、と厳かに宣言しておられるのです。
塩、光としての働きをしっかり果たすように
主イエスはこの宣言に続いて、塩が塩気を失ってしまうことがあってはならない、光が升の下に置かれて隠されてしまってはならない、とも語っておられます。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」。これは、塩になるために努力しなさいという教えではなくて、既に塩である者が、その味を、塩としての性質を失ってしまうことへの警告です。私たちが塩であることが前提となっているのです。15節の「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」というみ言葉も同じです。ともし火になることが求められているのではありません。ともし火は既にともっているのです。問題はそれをどこに置くかです。升の下に置いたらともし火の役目は果たせません。ともし火の置かれるべきところは燭台の上です。そうすれば人々を照らすことができるのです。つまり主イエスは、ともし火になるように努力しなさい、と言っておられるのではなくて、16節にあるように「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言っておられるのです。14節後半の「山の上にある町は、隠れることができない」というみ言葉も、このことと繋がっています。世の光であるあなたがたは山の上にある町のようなものだ、山の上の町はどこからでも見える。そのようにあなたがたも、光である自分を隠しておくことはできない。その光を世に示し、世を照らさなければならない、ということです。このように主イエスは、あなたがたは地の塩、世の光なのだから、塩としての、光としての働きをしっかりと果たしなさい、と言っておられるのです。
成果を上げれば地の塩、世の光になれる?
私たちはこのみ言葉の前に尻込みせずにはおれません。この私が、地の塩や世の光だなどとはとても言えない、自分はそんな働きはできていない、と思うのです。けれども私たちはそこで立ち止まってよく考えなければなりません。自分は地の塩、世の光だとはとても言えない、と思う時に、私たちが考えているのは、自分が、この世に、この社会に、良い味をつけたり、腐敗を防いだり、世の中を明るく照らしたり、そんなことは出来ていない、ということではないでしょうか。地の塩、世の光になりたいと願って努力はしているが、それが実を結び、成果があがっているとはとても言えない。だから、自分は地の塩、世の光だなどとは言えない、それが私たちの思いなのではないでしょうか。だとしたら、その努力が実を結んで成果を上げることができたら、地の塩、世の光になれるのでしょうか。例えば、私たちの伝道がもっと実を結んで、多くの人々が教会に来るようになり、主イエスの教えに従う人々が増えていけば、私たちは地の塩、世の光になったということなのでしょうか。あるいは私たちが、この社会の腐敗や不正を正すための運動を起し、それが次第に盛り上がり大きな力となって、ついに不正が取り除かれれば、地の塩となった、ということなのでしょうか。勿論私たちはそういうことを目指して努力します。多くの人々が教会に来て、主イエスを信じて喜びと感謝の生活を送るようになるために伝道するのです。社会の腐敗、不正が正されることを求めて声を上げるのも大事なことです。けれども、そういうことが出来れば地の塩、世の光だと言えるが、それができていない内は地の塩、世の光とは言えない、という思いは正しいのでしょうか。主イエスがここで「あなたがたは地の塩、世の光である」と語りかけた相手である弟子たちは、さらに主イエスの周りに集まって来ていた人々は、そのような意味で地の塩、世の光だったのでしょうか。決してそうではありません。彼らは、力強く伝道して多くの人々を信者にすることができていたのでもないし、社会の不正を正すことができていたのでもありません。主イエスは、彼らのこの世における目覚ましい働きぶりを見て、「あなたがたは地の塩、世の光だ」とおっしゃったわけではないのです。
迫害されている者への言葉
さらにこういうことも考えおく必要があります。私たちは、自分が「地の塩、世の光」になれたら、自分の言葉や行いが周囲の人々に良い影響を与え、人々を明るく照らし、人々が私たちの言葉に耳を傾け、私たちの行いを見て感化を受ける、ということが起るはずだと思っているのではないでしょうか。そうなってはいないから、自分が「地の塩、世の光」などとはとても言えない、と思っているのです。けれども弟子たちは、また群衆たちはそういう人々だったのでしょうか。彼らの言葉と行いは人々に喜ばれ、受け入れられ、よい感化を周囲に及ぼしていたのでしょうか。そんなことはありません。先週の礼拝で、10節から12節の、主イエスが語られた八つの幸いの教えの最後のところを読みました。それは「義のために迫害される人々の幸い」でした。迫害されるということは、11節にあったように「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」ということです。そういう人々に対して主イエスは「あなたがたは幸いである」と言われました。その「あなたがた」と、13節の「あなたがたは地の塩である」の「あなたがた」は同じ人々です。つまり、あなたがたは地の塩、世の光であると言われている人々は、主イエスに従っているためにののしられ、迫害され、悪口を浴びせられている人々なのです。ということは、周囲の人々が、あなたがたのおかげでこの社会に良い味がついているとか、この世が明るくなっているなどと認めて感謝してくれるなどということは全く起っていないのです。彼らはむしろ、おまえたちなど何の役にも立たない、おまえたちがいたってこの世が明るくなるわけではない、むしろ目ざわりだ、と言われて排斥されているのです。そういう信仰者に対して主イエスは、「あなたがたは地の塩である、世の光である」とおっしゃったのです。ですから私たちは、「地の塩、世の光」についてのイメージを改めなければなりません。主イエスが地の塩、世の光と言っておられるのは、何か立派なことをしていて、人々が「さすがにあの人は信仰者だ、やっぱり信仰のある人は違う」と尊敬し、影響や感化を受ける、というような人々ではないのです。
あなたがたの天の父をあがめるようになる
しかし16節には「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とあります。あなたがたの光を人々の前に輝かすというのは、立派な行いをして、それを人々が見て感化を受けることだと主イエスも言っておられるのではないか、と思うかもしれません。しかしここでもよく考えなければなりません。もしも私たちが立派な行いをして、さすがにあの人はクリスチャンだ、と尊敬されるようになって、人々が感化を受けるようになったとして、それで人々が、「あなたがたの天の父をあがめるようになる」でしょうか。そこで起るのはむしろ、私たち自身がほめられ、尊敬される、ということでしかないのではないでしょうか。私たちの立派な行いが人々に感化を与えるとしたら、そこで起るのは、天の父なる神の栄光が表され、天の父なる神があがめられることではなくて、私たち自身の栄光が表され、私たちが誉れを受ける、ということなのです。しかし本当に地の塩、世の光である生き方は、それによって人々が「あなたがたの天の父をあがめるようになる」ような生き方です。人間が褒め称えられるのではなくて、天の父なる神こそがあがめられるような生き方です。そのような、本当に地の塩、世の光である生き方というのはどうしたらできるのでしょうか。
「幸いの教え」との繋がり
主イエスは、人々に尊敬されるような立派な行いをしている人に対してではなく、主イエスを信じて従っているがゆえに人々にののしられ、迫害されている人々に、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と宣言なさいました。そのような宣言は、これまで読んできた「幸いの教え」と通じるものです。3節から12節に語られていた幸いの教えは、「このようにすれば幸いになれる」という、幸いを得るための手段ではなくて、「このような人々は幸いである」という主イエスの宣言でした。そこに語られていたことは、この世の尺度からして、決して幸いとは言えないようなことばかりでした。先ほど見た「義のために迫害される」こともその一つです。迫害を受けることを幸いだと思う者はいないのです。しかし主イエスは、主イエスを信じて、その信仰のゆえに迫害、ののしりや悪口を受ける人々に対して「あなたがたは幸いである」と宣言して下さったのです。そしてその人々に、「あなたがたは地の塩、世の光である」とも宣言して下さったのです。つまり、地の塩、世の光として生きるとはどういうことかを知るためには、今まで読んできた、あの幸いの教えをふりかえればよいのです。そこに語られていた幸いに生きている人こそが、地の塩、世の光なのです。
八つの幸い
八つの幸いの教えを振り返ってみましょう。それぞれの教えの二行目に、その人々がなぜ幸いなのかが語られていました。最初と最後のところ、3節と10節の、「心の貧しい人々」と「義のために迫害される人々」の幸いは、「天の国はその人たちのものである」ということでした。天の国、つまり神のご支配の下に置かれることが、ここに示されている幸いの根本です。「心の貧しい人々」というのは、自分の心の中に、依り頼むべき豊かさが全くない、ただ神の恵みと憐れみにすがるしかない人々です。その人々を神が主イエスの十字架と復活による救いにあずからせて、ご自分のご支配の下に置いて下さるのです。「義のために迫害される人々」も同じです。迫害されるとは、神に敵対する力がこの世を支配しているために、信仰を持って生きていることが人々に受け入れられず、社会によって否定されてしまうことです。その苦しみの中で私たちは、今は隠されている神のご支配を待ち望むしかありません。神はその私たちを、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現している、ご自分のご支配の下に置いて下さるのです。この二つの幸いに共通しているのは、自分ではどうすることもできない苦しみ悲しみの中で、神のご支配の下で生かされる、ということです。それが「天の国はその人たちのものである」という幸いなのです。「悲しむ人々」の幸いは「慰められる」でした。私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスが、悲しむ者たちの傍らにいて、慰めを与えて下さるのです。「柔和な人々」の幸いは「地を受け継ぐ」でした。柔和なとは、苦しみの中で、怒りや苛立ちに捕われることなく、沈黙して神を仰ぎ、神に望みを置くことです。主イエスご自身がその柔和さに生きて下さり、それによって「地を受け継」がれました。つまり十字架にかかって死んで、復活した主イエスが、今やこの世界と私たちを支配しておられるのです。柔和な方である主イエスの下で生きるところに、苦しみに勝利して主イエスと共に地を受け継ぐ幸いがあるのです。「義に飢え渇く人々」の幸いは「その人たちは満たされる」でした。神の義は、主イエスの十字架と復活において満たされ、実現しています。それゆえに私たちは、義がなかなか貫かれないこの世において、希望を失うことなく、義に飢え渇きつつ生きることができるのです。「憐れみ深い人々」の幸いは「その人たちは憐れみを受ける」でした。主イエス・キリストが私たちの罪を赦すために十字架にかかって死んで下さったという神の大きな憐れみを私たちは受けています。その憐れみの中で、私たちも、憐れみ深い者として生きる幸いにあずかるのです。「心の清い人々」の幸いは「神を見る」でした。心が清いとは、主イエスの十字架と復活による罪の赦しによりすがって、神をまっすぐに見つめ、「罪人の私を憐れんでください」と祈ることです。その祈りにおいてこそ私たちは神を見ることが、神と共に生きることができるのです。「平和を実現する人々」の幸いは「神の子と呼ばれる」でした。神の独り子主イエスは、人々の敵意をご自分の身に引き受けて十字架にかかり、復活によってその敵意を滅ぼして下さいました。その主イエスと共に歩むことによって私たちも、平和を実現する神の子とされるのです。
人々の前に輝かすべき光とは
主イエスはこれらの八つの幸いを私たちに与えようとしておられます。これらの幸いに生きることこそが、地の塩、世の光として生きることです。それは、何か立派なことをすることではなくて、私たちがそれぞれの日々の生活の中で、主イエス・キリストの十字架の死と復活による神の救いに支えられて、心の貧しい者として、悲しむ者として、柔和な者として、義に飢え渇く者として、憐れみ深い者として、心の清い者として、平和を実現する者として、義のために迫害される者として生きることです。これらのことこそ、私たちが人々の前に輝かすべき光です。人々の前に示せと言われている立派な行いとは、この八つの幸いに生きることなのです。そしてこれらはどれも、決して私たちの栄光や誉れにはなりません。これらの幸いは、どれ一つとして、人に誇ったり、自慢できるようなものではないからです。しかし私たちが主イエスによってこれらの幸いにあずかって生きるなら、そこには、天の父なる神によって、驚くべき光が輝かされていくのです。そして、人々が、この幸いに生きている私たちを見て、私たちをではなく、天の父なる神をあがめるようになるのです。
主イエスこそまことの地の塩、世の光
言い換えるならば、主イエスこそまことの地の塩、世の光です。このまことの地の塩によって味つけられ、まことの世の光に照らされることによって、私たちも地の塩、世の光となるのです。しかし主イエスがここで警告しておられるように、私たちはその塩としての味を失ってしまうことがありあす。そうなったら、何の役にも立たない者になってしまいます。それは、生まれつきの自分に戻ってしまうということです。生れつきの私たちは、神の前で、何の役にも立たない者でした。その私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったまことの地の塩、まことの世の光であられる主イエス・キリストの恵みによって新しく生かされることによって、私たちは地の塩、世の光とされたのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられたこの塩味を、光を、失うことなく歩んでいきたいのです。そのために、まことの地の塩、世の光であられる主イエス・キリストのもとに常に集い、主イエスのもとを離れずに歩んでいきたいのです。