夕礼拝

それはあなただ

12月10日 夕礼拝
説教 「それはあなただ」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 サムエル記下第12章1-25節
新約聖書 コリントの信徒への手紙二第7章5-13a節

ダビデの罪
月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書サムエル記下よりみ言葉に聞いています。先月、第11章を読みました。そこには、ダビデ王の犯した大きな罪が赤裸々に描かれていました。ダビデは、自分の部下であるウリヤという将軍の妻バト・シェバを見初め、ウリヤが戦場に出ているのをいいことに、彼女を王宮に招いて関係を持ったのです。そして彼女が妊娠したことがわかると、自分との関係が明るみに出ることを防ぐために、ウリヤを呼び戻して家に帰らせようとしました。しかしそれがうまくいかなかったので、戦いの司令官であるヨアブに命じて、ウリヤを危険な戦場に出し、わざと戦死させるように仕向けます。ウリヤは戦死し、未亡人となったバト・シェバをダビデは迎え入れて妻としました。そして彼女は男の子を産んだのです。ダビデはこのようにして、自分の部下を殺してその妻を奪ったのでした。11章にはその罪の事実が淡々と語られており、最後のところに、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」とあります。主なる神はダビデのこの罪に対してお怒りになり、行動を起こされました。本日の第12章はそのことを語っているのです。

ナタンが語ったこと
12章1節に、「主はナタンをダビデのもとに遣わされた」とあります。ナタンは第7章から登場している、主なる神の預言者でした。ダビデはこのナタンを通して神のみ心を尋ねていたのです。そのナタンが主なる神に遣わされてダビデのもとに来ました。そして、自分が目撃したある事件を報告するように語り始めたのです。「ある町に二人の男が住んでいました。一人はとても豊かで、非常に多くの羊や牛を持っていました。しかしもう一人はとても貧しく、ようやくにして買った一匹の雌の小羊のほかには何も持っていませんでした。彼はその小羊を家族の一人のように愛していました。ところがある日、豊かな男のところに客がありましたが、彼は自分の羊や牛を殺すのを惜しんで、貧しい男の小羊を取り上げ、それを殺して客へのもてなしのごちそうにしてしまいました…」。ナタンはこんなことがあった、とダビデに報告したのです。

激怒するダビデ
それを聞いたダビデ王は激怒しました。そして「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから」と言ったのです。王は裁判を司る者でもありました。主の御心に従って、民の間のもめ事を公平に裁くことが王の務めの一つだったのです。ダビデは民を裁く者としての権威をもって、「そんなことをした男は死刑だ」と判決を下したのです。「主は生きておられる」という言葉には、主なる神はそんなことをした者を決して見過ごしにはしない、という思いが込められています。このようなことをした者は必ず罰せられる、とダビデは宣言したのです。

それはあなただ
するとナタンはダビデに、「その男はあなただ」と言いました。「その男はあなただ。多くのものを持っているのに、それを惜しんで、ただ一匹の小羊しか持たない人からそれを奪い取った極悪非道の男とは、あなたのことなのだ」。そして、主なる神のみ言葉を伝えたのです。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ』」。ここには、ダビデに対する主なる神の切々たる思いが語られています。「わたしはあなたを多くの者の中から選び、油を注いでイスラエルの王とした。あなたを守り導き、この国全体をあなたに与えたのだ。あなたが求めるなら、さらに多くの恵みをも与える用意がある。あなたは私の豊かな恵みに支えられて歩んできたのだ。それなのになぜ、自分より弱い者、貧しい者から、そのかけがえのないものを奪うのか。どうしてそのように弱い者をいじめるのか。それは私を侮り、私に背く罪だということが、どうしてわからないのか」。ダビデがしたことは、まさにこの豊かな男が貧しい男にしたような、とんでもない罪だったのです。ダビデが、「そんなことをした男は死罪だ」と判決を下したのは、まさに自分自身に対する判決だったのです。

自分のこととして受け止めることができるか
このことは、私たちにもあてはまる大事なことを示しています。それは、私たちは、人の犯している罪は、客観的に、正しく判断することができるのに、同じことを自分自身がしていることに全く気づかない、ということです。ダビデは、ナタンが語った豊かな男と貧しい男の話に激怒し「そんなやつは死刑だ」と言った時、それが自分のことだとは全く思っていません。自分のことは全く棚に上げて、人を裁いているのです。そういうことを私たちもしばしばしているのではないでしょうか。ナタンが語った話がとんでもないことだということは誰でも分かるのです。問題は、そのことを自分自身のこととして捉えることができない、ということです。私たちの現実は、この話よりも複雑で、いろいろな事情が絡んでいます。だからいろいろと言い訳をすることができるのです。ダビデだってそうでしょう。元はと言えば、バト・シェバが王宮からまる見えの所で肌も露わに水浴をして自分の気を引いたのだ、と思ったかもしれません。美しい女性に惹かれて間違いを犯すことは世間によくある、自分だけがしているわけではない、とも言えます。自分はウリヤとバト・シェバの家庭を破壊するつもりはなかった、そうならないように精一杯努力したが、ウリヤの方がその配慮を受け付けなかったのだ。確かに自分はウリヤを危険な戦場に送るように指示したが、しかし戦争に危険はつきものなのであって、その命令がなくてもウリヤは戦死したかもしれない。そして夫が戦死してよるべない身となった女性を引き取って妻にすることは、むしろ親切なことではないか…。これらはみんなダビデの身勝手な言い訳であり、屁理屈です。しかしそういう言い訳、屁理屈を並べているうちに、自分はそんなに悪いことをしてはいない、という気になっていく。自分のしたことと、あの豊かな男と貧しい男の話は全然違う、と思えてくる。そういうことが私たちの中でも起るのではないでしょうか。問われているのは、「それはあなただ」という指摘を自分のこととして受け止め、自分の罪を認めるかどうかなのです。

罪の赦しが与えられる
ダビデは、「その男はあなただ」という指摘を、ナタンを通して神から受けた時に、「わたしは主に罪を犯した」と言いました。つまり、まさに自分がその男であること、死刑に当る罪を犯したのは他ならぬ自分であることを認めたのです。この時に詠まれたダビデの歌として伝えられているのが、詩編第51編です。「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」と始まるこの歌によって、ダビデは自分の罪を認め、それを告白し、神に赦しを求めたのです。それに対してナタンはこう言いました。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」。ナタンがここで語ったのは、主があなたの罪を赦して下さる、ということです。「わたしは主に罪を犯した」と認め、告白したダビデに、「その主があなたの罪を取り除かれる」と告げられたのです。ダビデの罪は、彼が自分で下した判決において明らかなように、死に価するものです。しかし神は、彼の罪を取り除き、死の罰を免れさせて下さるのです。このように神は、死に値する罪を赦して下さる方です。しかしその赦しは、「それはあなただ」という指摘を聞いてそれを受け入れ、「わたしは主に罪を犯した」という告白がなされたところに与えられていることを見逃してはなりません。「それはあなただ、あなたこそ罪を犯している者だ」という厳しい指摘がなされ、それに対して「わたしは主に罪を犯しました」という罪の告白がなされることによってこそ、神からの赦しが与えられるのです。罪の指摘も告白もないところで、罪がいつのまにか見逃されるようなことはないのです。

罪の赦しに伴う苦しみ
しかしこの赦しの恵みには14節がつけ加えられています。「しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」。罪は赦される、しかしあなたの子は死ぬ、と主は言っておられるのです。これについては私たちは、疑問やつまずきを覚えます。生れてくる子供には何の罪もないではないか。親の犯した罪のために子供が死ななければならないとはどういうことか、と思うのです。これは、子供の人格を認め、その人権を尊重するという今日の感覚から生じる思いです。そういう今日の感覚で聖書を批判してもあまり意味はありません。聖書が書かれた当時の感覚においては、このことは、神はダビデの罪を赦して下さる、しかしその罪の赦しには苦しみが伴う、ということなのです。
このことから、この後、生れた子供が病気になって弱っていき、ついに死んでしまった時にダビデがとった行動の意味を理解することができます。彼は、子供が病気になり弱っていく間、断食をし、地面に横たわって夜を過ごすという苦行を続けて神に祈りました。家来たちが心配して食事をとらせようとしても断固として断り、祈り続けたのです。しかし七日目に子供は死にました。そのことを聞くとダビデは起き上がり、身を洗って神を礼拝し、食事をとったのです。子供が生きている間は断食して祈り続けたのに、子供が死んでしまうと、何事もなかったかのように食事を始める、その姿にあきれる家臣たちに対して、ダビデはこう言いました。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない」。この言葉は、「生きている間はまだ望みがあるが、死んでしまったらもうどうしようもないのだからあきらめるしかない」という意味に捉えられがちですが、そういうことではありません。ダビデは、子供の病気は、自分が犯した罪のゆえに神から自分に与えられている苦しみだ、と言っているのです。だから子供が病気である間、神が憐れみによってこの苦しみを軽くして下さり、子供の命を助けて下さることを願って祈り続けたのです。しかし死んでしまった。彼の祈りは聞かれず、神がナタンを通してお告げになった苦しみが彼に下されたのです。この苦しみと共に、彼の罪が赦されることをナタンの言葉は告げています。それゆえにダビデは、子供が死んだことを聞くと、まず主を礼拝し、そして日常の生活に戻ったのです。子供の人権とか、子供を愛する親の思い、ということからこの話を読むと理解できません。聖書がこの話を通して語っているのは、神は私たちの犯す罪を赦して下さる、しかしその赦しには神によって与えられる苦しみが伴う、ということなのです。

主イエスが背負って下さった苦しみ
ダビデはこのように、罪を赦されることにおいて苦しみを受けました。それでは私たちはどうなのでしょうか。「それはあなただ」という罪の指摘を神から受け、「そうです、それは私です。私は罪を犯しました」と告白する時に、神は私たちの罪を赦してくださる。そこにおいて私たちも、ダビデと同じような苦しみを受けなければならないのでしょうか。その答えは、イエスであると同時にノーです。「ノー」ということから先に申します。私たちは、神によって罪を赦していただくのに際して、苦しみを受ける必要はありません。何故ならばその罪の赦しのための犠牲、苦しみを、神の独り子、主イエス・キリストが、私たちに代わって受けて下さったからです。ダビデの罪が赦された時、彼は子供の死という苦しみを受けました。しかし私たちにおいては、その苦しみを、神の独り子主イエス・キリストが代って引き受けて下さったのです。それが主イエスの十字架の死です。主イエスは、ご自身は何の罪もない方であられたのに、私たちのために、私たちの身代わりになって、十字架にかけられて死んで下さったのです。ダビデのあの子供は、何の罪もないのに、ダビデの罪を背負って死にました。その死は、主イエス・キリストの十字架の死を指し示している、と言うことができるでしょう。私たちの罪の赦しのために、本当は私たちが受けなければならない苦しみを、主イエスが私たちに代って引き受けて下さったのです。だから私たちは、神による罪の赦しをいただくために、苦しまなくてもよいのです。ダビデが味わった苦しみを、私たちは味わうことなく、神の赦しをいただくことができるのです。主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みとはそういうことなのです。

私たちが受けなければならない苦しみ
けれども、先ほど、答えはノーであると同時にイエスであると申しました。神が罪を赦して下さる時に、私たちが苦しみを受けなければならないことも確かなのです。それは、罪の償いのための苦しみではありません。その苦しみは、今申しましたように、主イエスが引き受けて下さったのです。それでは私たちがなおそこで受けなければならない苦しみとは何か。それは、神から「それはあなただ」と指摘され、「そうです、私は罪を犯しました」と認めることにおける苦しみです。ダビデは、ナタンから、あの豊かな男と貧しい男の話を聞いた時、激怒して、「主は生きておられる。そんなやつは死刑だ」と言いました。その時彼は、それが自分のことだとは全く思っていない、つまり、罪の自覚が全くなかったのです。しかし次の瞬間、ナタンに「それはあなただ」と言われ、あなたがウリヤを戦死させてその妻を奪ったことはこれと同じことなのだと指摘された時、彼の心には大きな苦しみと葛藤が生じたことでしょう。先ほど並べたようないろいろな言い訳が次から次へと浮んで来たかもしれません。しかし彼は、「わたしは主に罪を犯した」と言ったのです。「それは自分だ、自分こそ罪を犯している者だ」と認めることには、大きな苦しみが伴います。自分が守ってきた誇りやプライドを捨てなければならないのです。しかしその苦しみを通してこそ、神からの赦しの恵みが与えられるのです。この苦しみを避けていたら、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みにあずかることはできないのです。神に罪を赦していただく時に、私たちはそういう苦しみを受けなければならないのです。

神の御心に適った悲しみ
本日共に読まれた新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙二の第7章には、使徒パウロが、コリントの町の教会の人々に対して、そこで起っている罪を指摘し、悔い改めを迫る手紙を送ったことと、その後の展開について語られています。パウロは、大変厳しい口調で、教会の人々の罪を指摘したのです。その手紙は、コリントの教会の人々にある苦しみをもたらしました。そのことがここでは、「悲しませた」と言い表されています。8、9節にこうあります。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました」。罪を指摘し、「それはあなただ」と告げるパウロの手紙によって、コリント教会の人々は悲しみ、苦しんだのです。彼らの中にも葛藤があり、いろいろと言い訳したいことや理屈があったでしょう。しかしこの悲しみ苦しみを経て、彼らは悔い改めました。自分たちの罪を認めて、「わたしは主に罪を犯した」と告白したのです。そこに、神からの赦しの恵みが与えられ、彼らはもう一度新たに、主イエス・キリストの教会として歩み始めることができたのです。あなたがたを一時悲しませ、傷つけるような手紙を送ったけれども、そのことによってあなたがたが害を受けるのでなく、むしろ神の赦しの恵みに立ち帰ることができた、ということをパウロは喜んでいます。そして10節でこう語っているのです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。「神の御心に適った悲しみ」がある。「それはあなただ」という指摘によって起る悲しみ、苦しみがそれです。それは、「取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」るのです。神から、「それはあなただ」という指摘を受ける苦しみ悲しみは、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みへと繋がっているのです。それは、私たちを消耗させ、滅ぼしていく「世の悲しみ、苦しみ」とは違うものです。私たちはこの、神の御心に適った悲しみを避けてはならないのです。むしろそれを通してこそ、取り消されることのない、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しの恵みが与えられることを知っておくべきなのです。「それはあなただ」というみ言葉を、自分のこととして受け止めることには、確かに苦しみが伴います。しかしこのみ言葉を受け、「わたしは主に罪を犯した」と認めるところに、主イエスによる罪の赦しが与えられていくのです。

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