夕礼拝

エリヤからエリシャへ

説 教 「エリヤからエリシャへ」 牧師 藤掛順一
旧 約 列王記下第2章1-25節
新 約 使徒言行録第4章29-31節

列王記上下の区切り
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いていますが、本日から、列王記下に入ります。列王記はこのように上と下に分かれていますが、もともとのヘブライ語聖書ではそのように分けられてはいませんでした。上と下に分けられたのは、旧約聖書がギリシャ語に訳された時で、それも紀元前のことですが、それが後からヘブライ語聖書にも逆輸入されたのだそうです。ですから列王記は元々は一つの書物であって、区切りはないのです。しかし後からここに上と下の区切りが置かれた理由を強いて考えれば、一つにはここが全体のほぼ真ん中だった、ということもありますが、もう一つは、北王国イスラエルのアハブ王の死をもって上巻の終わりとした、ということが言えるかもしれません。列王記上の16章以降には、北王国イスラエルの王アハブのことが語られていて、最後の22章にそのアハブの死が語られています。このアハブは妻イゼベルと共に、イスラエルにバアルなどの異教の神々、偶像の神々を積極的に導入した人で、イスラエルの歴史において、主なる神の目に悪とされることを行った最悪の王とされています。そのアハブが死んで、その子が新しい王となったことに、一つの時代の区切りを見たと言えるかもしれません。そしてこのアハブの代替わりは、もう一つの代替わりと結びついています。北王国イスラエルにおいて、主にアハブ王の時代に活動し、アハブとイゼベルと対決した主なる神の預言者がエリヤでした。列王記上の18章には、エリヤが一人で、異教の神バアルの預言者450人に勝利したという劇的な場面が語られていました。このようにエリヤは主にアハブ王の時代に活動したのです。そのアハブが死んで新たな王が即位するのとほぼ時を同じくして、エリヤの働きを受け継ぐ新たな預言者が立てられます。それがエリシャでした。本日読む列王記下の第2章には、主なる神の預言者としての務めと力が、エリヤからエリシャへと継承されたことが語られています。列王記は、王の代替わりと並んで、預言者の代替わりをも語っているのです。そのことが、上巻と下巻の区切りとほぼ重なっているのです。

預言者の務めの継承
 エリヤの預言者としての務めがエリシャに継承されることが主なる神のみ心であることは、既に列王記上の19章16節に語られていました。バアルの預言者450人に勝利して彼らを殺したためにイゼベルの激しい怒りをかい、命を狙われていたエリヤは、イスラエルの南の荒れ野に逃れていって、神の山ホレブに至り、そこで主なる神の言葉を聞いたのです。主なる神は彼に、イスラエル王国にこれから起こる出来事に関わる三人の人に油を注いでそれぞれの務めに任命することを命じました。この命令は、イスラエル王国にこれから起こる大事な出来事が全て、主なる神のご意志、ご計画によってなされる、ということを意味しています。そのために選ばれ、任命された三人の内の一人は、イスラエルの隣国であるアラムすなわちシリアの王となるハザエルであり、もう一人は、アハブの子に対して謀反を起し、その一族を滅ぼして北王国イスラエルに新たな王朝を興すイエフです。そして三人目がエリシャでした。先の二人が政治的支配者、王となる人であるのに対して、エリシャは預言者です。エリシャに油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ、と16節に語られています。つまりエリシャがエリヤの後継者になるという主なる神のみ心がここで示されたのです。エリヤはこの主のみ言葉を受けてイスラエルに戻り、エリシャに会って、「自分の外套を彼に投げかけた」と19章19節にあります。外套を投げかけることが、その人を自分の後継者として指名することを意味していたのでしょう。この外套が本日のところでも大事な役割を果たしていきます。このように列王記下の第2章は、エリヤからエリシャへと、預言者としての務めが継承されたことを語っているのです。

主なる神によって取り去られたエリヤ
 その継承はどのようにして起ったのでしょうか。2章1節には「主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである」とあります。この第2章に語られているのは、エリヤが、主なる神の起こした嵐によって天に上げられた、ということです。つまりエリヤは、主なる神によってこの地上から取り去られたのです。エリシャはただ一人、そのことを目撃しました。それによって、エリヤからエリシャへの預言者としての務めの継承が実現したのです。つまりエリヤからエリシャへの継承は、主がエリヤを取り去り、エリシャをその後継者としてお立てになったという、主なる神のみ心による出来事です。エリヤが、「自分も年をとったから、隠退してこの人に自分の働きを受け継がせよう」と思ったことによって継承がなされたのではありません。主なる神がエリヤを取り去り、新たな人をお立てになったのです。「取り去る」という言葉が繰り返し語られています。3節では、ベテルの預言者の仲間たちがエリシャに「主が今日、あなたのご主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と言っていますし、5節でも、今後はエリコの預言者の仲間たちが同じことを言っています。「主が今日、エリヤを取り去られる」、その主のみ業によって、預言者の務めが次の世代の人へと継承され、それによって神の民の歴史が前進していくのです。このことをしっかりわきまえていることが大切です。エリシャが預言者の仲間たちの言葉に対して、「わたしも知っています。黙っていてください」と言ったのは、主なる神のこのみ業を、うろたえたり騒ぎ立てることなく、静かに受け止めよう、という思いの現れだと言えるのではないでしょうか。

エリヤによるテスト
 さて、エリヤが主なる神によって取り去られるその日、エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た、と1節にあります。しかし2節でエリヤは、「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言っています。連れて出たのに着いて来るなと言っているのです。不可解なことですが、エリヤはこれによって、エリシャを試した、テストしたのだと思います。エリシャはそれに対して、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えました。同じことが4節以下と6節以下にも語られていて、合計三度繰り返されています。つまりエリシャは、どこまでもあなたを離れず、着いて行きます、という強い意志を表明したのです。このことによってエリシャはエリヤのテストに合格した、と言えるでしょう。預言者としての務めと力の継承は、後継者となる人が、その預言者と常に共にいて、その歩みと働きをしっかり見ることによって、それは言い換えれば、その人を用いて主なる神がなさったみ業をしっかり見届けることによって実現するのです。モーセの後継者となったヨシュアが、常にモーセの側近くにおり、その歩みと働きを目の当たりにしていたことと重なります。

水が左右に分けられる奇跡
 エリシャがエリヤのテストに合格したことは、エリヤがこの後はもう、「あなたはここにとどまっていなさい」とは言わず、むしろエリシャを連れて歩んでいったことから分かります。そして二人は、ヨルダン川のほとりに立ちました。すると8節です。「エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った」。ヨルダン川の水が左右に分かれて、乾いた土が現れ、そこを通って二人は向こう岸に渡ったのです。このことは、ヨシュア記の第3章に語られていたことと重なります。モーセの死後、後継者ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、ヨルダン川を渡っていよいよ主が与えると約束してくださったカナンの地に入ったのです。その時にヨシュアは、主の契約の箱を担ぐ祭司たちに先ず川に足を踏み入れるように命じました。祭司たちの足が川の水に触れると、滔々と流れていたヨルダン川の水は左右に分かれて、イスラエルの民は乾いたところを通って渡ることができたのです。ヨシュアによるこの奇跡がエリヤによって再現されました。そしてこの奇跡はさらに、出エジプト記の第14章に語られていたこととも重なります。主なる神がモーセを通してエジプトに下した数々の災いのゆえに、ついにエジプト王ファラオもイスラエルの民の解放を認め、彼らはエジプトを出ることができました。しかしその後で心を変えたファラオは、戦車部隊を率いて彼らを追ってきました。前は海、後ろからはエジプトの戦車部隊が迫って来る、という絶体絶命の危機に、彼らは陥ったのです。その時モーセが、手を海に向かって差し伸べると、主なる神が激しい風によって海の水を左右に分け、イスラエルの人々はその間を通って向こう岸に渡ることができました。海の水は彼らの左右に壁となったと語られています。そして彼らが渡り終えると、海の水は元に戻り、彼らの後を追ってそこに入ってきたエジプトの戦車部隊は皆溺れ死んでしまいました。この奇跡によってイスラエルの人々はエジプトから完全に脱出することができたのです。水が左右に分かれて、その間の乾いたところを通って向こう岸に渡ることができた、というこの二つの奇跡は、エジプトからの脱出の時と、40年の荒れ野の旅を経ていよいよ約束の地カナンに入る時になされています。つまりこの奇跡は、主なる神がイスラエルの民をエジプトでの奴隷の苦しみから救って下さり、約束の地を与えて下さるという、主なる神による救いのみ業を代表しているのです。その奇跡が、エリヤによって再現されたのです。
 このことは、エリヤの預言者としての働きは、主なる神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放し、約束の地を与えて下さったという救いのみ業を受け継いでいることを示しています。言い換えれば、主なる神は、モーセとヨシュアを用いて行って下さった救いのみ業を、エリヤをも用いておし進めて下さっているのです。そしてそのみ業が今度はエリシャへと受け継がれるのです。13節以下には、エリヤが主なる神によって天へと取り去られた後、エリヤの外套がエリシャのもとに落ちてきたこと、エリシャがその外套を取ってヨルダン川の水を打つと、水は左右に分かれて、川を渡ることができたことが語られています。モーセからヨシュアへ、そしてエリヤへと受け継がれてきた、主なる神による救いのみ業を新たに担う者として、今度はエリシャが立てられたのです。主なる神の救いのみ業は、それまでそれを担ってきた人が取り去られ、新たな人が立てられることによって、受け継がれ、前進していく、そのことをこの話は教え示しているのです。

エリヤからエリシャへ
 さて少し先回りしてしまいましたが、エリシャと共にヨルダン川を渡ったエリヤは9節でエリシャに「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」と言いました。エリシャはそれに答えて「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言いました。「あなたの霊の二つの分」という言葉が何を意味しているのか、いろいろ説があるようですが、要するにエリシャは、エリヤに与えられていた霊を、つまり預言者としての働きとその力を受け継ぐことを願ったのです。それに対してエリヤは「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない」と言いました。これは要するに、自分に与えられている霊は、つまり預言者としての務めは、何かの持ち物を自分の一存で誰かに譲るような仕方で受け継がせることができるものではない、ということでしょう。それを受け継がせることができるのは主なる神のみであって、そのことは、自分が主によって取り去られるのをあなたが見ることによってこそ実現する、とエリヤは言ったのです。主の霊を与えられ、主のみ業を担ってきた人と最後まで共にいてその働きを目の当たりにし、そして主がその人を取り去るのを見届けることによってこそ、主の霊の継承は実現するのです。エリシャはまさにそのように、エリヤが主によって取り去られるのを見届けました。11節「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」。この場面はよく、エリヤが火の馬に引かれた火の戦車に乗って天に上って行ったように絵に描かれたりしますが、それは間違いです。火の戦車と火の馬は、エリヤとエリシャの間を隔てたのであって、エリヤが天に上った、つまり取り去られたのは、主が起こした嵐によってです。2章1節に「主が嵐を起こしてエリヤを天にあげられたときのことである」と語られている通りです。つまりエリヤは、火の戦車を自分で操縦して天に上って行ったのではなくて、主なる神によって天へと上げられ、地上から取り去られたのです。そして12節に「もうエリヤは見えなかった」とあります。主なる神がエリヤを取り去ったので、エリシャはもうエリヤの姿を見ることができなくなったのです。そこに、エリヤの外套が落ちて来ました。かつてエリヤが自分に投げかけ、あなたが主なる神の預言者としての働きを受け継ぐのだと告げたあの外套です。彼はそれを取ってヨルダン川の水を打ち「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言いました。すると水は左右に分かれた。エリヤが行ったあの奇跡が、エリシャによっても行われたのです。それは、この外套に宿っている魔術的な力によることではありません。エリシャは、エリヤを用いてみ業を行ってこられた主なる神を、「どこにおられますか」と呼び求めたのです。それに対して主は、水を左右に分けるという奇跡によって、「わたしはあなたと共にいる」ということを示して下さったのです。エリシャは、目には見えない主が、しかし確かに共にいてみ業を行って下さることを示されたことによって、預言者としての務めを受け継いで歩み始めたのです。モーセからヨシュアへ、そしてエリヤへと受け継がれた主なる神の救いのみ業が、こうしてエリシャへと受け継がれたのです。エリシャからの継承については聖書に語られてはいません。しかし旧約聖書は、天に上げられたエリヤがもう一度来て、救い主の到来の道備えをする、という預言を語っています。その実現として、洗礼者ヨハネが現れ、そして救い主イエス・キリストが来られたのです。エリヤからエリシャへと受け継がれた主なる神の救いのみ業は、それで終わりになったわけではなくて、主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって実現したのです。私たちは今、その救いにあずかって歩んでいるのです。

主のみ業の二つの面
 19節以下には、エリヤの霊を受け継いだエリシャによってなされた二つの奇跡が語られています。一つは、水が悪く、土地が不毛だったエリコの町の水源を清めた、ということです。エリコは、ヨシュアに率いられたイスラエルの民がカナンの地に入って最初に滅ぼした町でした。その時ヨシュアがこの町を呪ったことがヨシュア記第6章26節に語られています。「ヨシュアは、このとき、誓って言った。『この町エリコを再建しようとする者は/主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い/城門を建てたときに末子を失う』」。この町の水が悪く、土地が不毛だったのは、この呪いのためだったのです。エリシャはこの水の源を清め、「もはやここから死も不毛も起こらない」と告げました。それはこの呪いを取り除いたということです。そういう救いのみ業を行う力が、エリヤからエリシャへと受け継がれたのです。
 もう一つの奇跡は、彼に対して「はげ頭、上って行け」と嘲った小さい子どもたちを彼が呪うと、熊が現れて42人の子どもたちを引き裂いた、という話です。何とも残酷な話であり、これを合理的に説明することなどとうていできません。ただこの二つの奇跡が、主なる神のみ業の二つの面を現していると言うことはできます。一つは呪いを取り去り、癒しと救いを実現するみ業であり、もう一つは、神の怒りによる呪いと滅びのみ業です。主なる神のみ業にはその両方の面がある、ということを私たちは見失ってはなりません。救いと癒しのみ業を行って下さる神は、怒りをもって私たちを裁き、滅ぼすことがおできになる方でもあるのです。私たちはそのことを見つめなければなりません。それによってこそ、罪人である私たちへの神の怒りと裁き、呪いを、神の独り子イエス・キリストが全て背負って、私たちに代って十字架にかかって死んで下さったことによって、その怒りと呪いを取り除いて下さった、という救いが見えてくるのです。

主の新しいみ業を受け止めることによって
 さて、エリコの預言者の仲間たちは、エリヤの霊がエリシャの上にとどまっているのを見ました。つまりエリヤからエリシャへと、預言者の務めと力が継承されたことを見たのです。しかし彼らはなおエリヤを探そうとした、ということが15節以下に語られています。エリヤが主によって取り去られて天に上げられたことを目撃したのはエリシャだけで、彼らはそれを見ていないのです。だからなお地上のどこかにエリヤがいるのではないかと思って、そんなことをしても無駄だというエリシャの言葉を聞かずにその姿を探し求めたのです。このことも象徴的な意味を持っています。主の救いのみ業が、主なる神によって立てられた預言者を通して行われます。しかしその預言者の働きには終わりがあり、主はどこかでその人を取り去られるのです。そして主は、その人に代わる新たな預言者を立て、用いていかれるのです。そのようにして、主なる神の救いのみ業は受け継がれ、前進していくのです。このことをしっかり受け止めないと、預言者の務めの継承がスムーズになされません。それまでの預言者がどんなに良い働きをしていたとしても、いつまでもその人の姿を追い求めていてはならないのです。主がそれまでの預言者を取り去り、新しい預言者をお立てになる、主がなさるその新しいみ業をしっかり受け止めることによってこそ、主の救いのみ業は力強く前進していくのです。

関連記事

TOP