「日々新たにされ 」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:イザヤ書第43章1-7節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二第4章13-18節
・ 讃美歌:18、464、402
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えて いくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。 葉によって励ましを受けた人はずいぶん多いと思います。この言葉を、わたしたち はどのように受け取っているでしょうか。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰 えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていく」普通に考 えますと、外なる人というのはわたしたちの体のことだ。体が年を取ってだんだん 衰えて、体力も、気力も、またいろんな能力も衰えていくけれども、内にある信仰 は毎日毎日新しくなって行く。精神は生き生きとしている。わたしたちはそういう 意味であると理解しているのではないかと思います。
もちろんこの外なる人というのは体のことも言っています。人は若い時には、自 分の体に自信を持っています。しかし、年を取ってきますと、目が見えにくくなり 、耳が聞こえにくくなり、体の自由がきかなくなる。またいろいろ調子の悪いとこ ろが出てきます。時には大変重い病気を持ったりします。そうなってきますと、本 当に体というものは、あてにならない。そして体が弱ると一緒に、自分も何かこう もう先が暗くなるような、だんだん先細りになる。そういう心細さを感じます。こ のわたしでさえ、10代の頃よりも、体が弱くなっていることを感じます。わたしよ り年上の方々は、なおさらなのではないかと思います。そのようなわたしたちが「 たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人 』は日々新たにされていく」というようなことを読みますと、なにか非常に励まさ れるのです。しかし「それでいいだろうか。それで本当に解決しているのだろうか 」という疑問を感じます。
信仰生活というものは、わたしたちが毎日生活をしている時に起こってくる疑問 、問題と関係ないとしてはだめでしょう。たてまえばかりで、立派なことを言って いても、実際の生活はそれとは無関係で、どこか違うところで行われているという ようなことでは、信仰が本当に生きた力にならない。ですからわたしたちが毎日の 生活で感じる問題や疑問というものを、正直にとらえて、それを聖書によって解決 をしていくということが大事でありましょう。
この外なる人というものを、ただ体。体は衰えても精神は若々しい。というよう な、そういう意味に取りますと、体が衰えると一緒にわたしたちの心も衰えていく 。そういう現実にぶつかった時に、さてわたしの救いはどうなるだろうという疑問 を感じてしまいます。もし、わたしが歳を取りまして、認知症になり、だれの人の 顔も分からない、となったとき。そのわたしが、神様のことも、イエス様のことも 、分からなくなる。そうなった時に、では、その時のわたしの救いはどうなるだろ うか。わたしは救われるのだろうかと不安になります。信仰によって救われるとい う言葉は、わたしたちの行いではない、信仰によって救われるのだといっておりま すので、わたしたちにとっては大きな励ましの言葉でありますが、また同時に、そ れではわたしの信仰がなくなったら、どうなるだろうかという大変切実な不安が起 こってきます。実はこの「外なる人」というのは、ただ体のことだけではありませ ん。わたしたちの精神も含まれています。わたしたちが自分の内を振り返ってみま すと、口には出さなくても、いろいろな汚れた思いであったり、悪い思いだったり が出てくることがあります。人に対して妬んでみたり、おこってみたり、あるいは 自分がどんなに自己中心であるかということを思い知らされることもあるし、時に 、問題に出会うと信仰がぐらぐらする。神様を信じていると言いながら狼狽すると いうことがしょっちゅうあります。そのような自分を見ると、「わたしのこのよう な信仰で、本当に救われるだろうか」というような疑問が起こってきます。ここで 「外なる人は滅びても」というのは、そのようなわたしたちの精神といいますか、 そのような心もすべて含まれています。体のことだけではありません。たとえ、わ たしたちが、イエス様のことが告白できない。まったく考える事ができなくなって も、わけが分からなくなっても、わたしたちは捨てられないのです。
わたしはこの問題を考えておりました時に、与えられた一つの確かな保証という ものを今日共に聞きましたイザヤ書43章の1節の御言葉で与えられました。「恐れ るな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。」この言葉は、わたしがこ うであったら救われるというような条件が全くありません。「わたしはあなたを贖 う」と神様は言われる。「贖う」ということは、全部の問題、わたしがたとえ年老 いて神様のことが分からなくなっても、神様はわたしのために全てをなさって下さ る。それが贖いです。そのために神様は主イエス・キリストをお与えになりました 。わたしたちが神様に背いて、どうしてもいうことを聞かないわたしたちのために 、イエス様が十字架にかかって、罪をあがなって下さった。これほど、重大な問題 は他にありません。造り主である神様に背いているということ以上に、わたしたち にとって大きな問題はありません。体が弱ることであろうと、病気であろうと、失 敗であろうと、何であろうとも、それらは「神様に背いている」ということ以上の 大きな問題ではない。そのわたしたちの大問題である罪をさえも、神様はイエス様 において解決して下さったのです。そのほかのどんなことも、同様に、神様は「こ のような条件をクリアしないとダメだ」とはおっしゃらない。その神様の憐れみが 、わたしたちに与えられている救いの約束であります。
そして神様はイザヤ書43章1節で続けて「わたしはあなたの名を呼ぶ。」と言わ れます。名を呼んだということは、ある基準に合わせて、ここから上の者は救って やるけれども、ここから下は駄目だというような、そのようなことをしないという ことでもあります。名を呼ぶということは、一人ひとりを神様が一対一で覚えてい て下さるということです。ですから、わたしがちゃんとした信仰生活をしていよう と、あるいは年老いてすべてがわからなくなっても、駄目になっても、そのことを 神様は、その人のすべてを知って「わたしはおまえのことは引き受けた」とそう言 って下さる。それが「名を呼ぶ」ということにあらわれていることです。「あなた はわたしのものだ」と言われる神様が、わたしたちのことを全部自分のこととして 引き受けて下さっている。これがわたしたちに対する神様の絶対の保証であります 。
信仰とは、このような、どのような事柄、どのような問題によっても崩されない のです。パウロがあのローマの信徒への手紙の8章の最後でこう言いました。「わた しは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来 のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな 被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたし たちを引き離すことはできないのです。」その神様の愛を具体的に語っているもの が、聖書であり、またより具体的語っているのがこの福音の説教です。ですから、 たとえわたしたちの体、心がどんな状態になっても、わたしたちは決して滅びるこ とはない。神様の愛の中にちゃんと受けとめられている。そのことを知らされ、信 じるのが信仰であります。ですから信仰というものは、これは何か人間の素質とか 、あるいは修行してこういう信念を得ましたとか、そういうことではありません。 わたしが全く駄目であっても、神様がわたしのことをちゃんと引き受けて救って下 さる、というその知らせ、その福音を聞いて「ああ、そうか。ありがとうございま す」と言って受け取る。いわばこの空っぽの入れ物である「わたし」の中へ、神様 の恵みを受け取ることが信仰であります。
もちろんその信仰を得るためには、聖書を学び、説教を聞き、またいろいろ考え るということも、大事なことでありますが、しかし、その最後の行き着くところは 「ああわたしのほうの条件ではない。神様が全部引き受けて下さったんだ」という そのことを知ることであります。これが「内なる人は日ごとに新しくされていく」 ということの内容であります。どうして「日ごとに新しくされていく」のかと言い ますと、わたしたちは今言った信仰をもって生きておりますけれども、しかし、い つでもそういう信仰が、はっきりしているかというとそうではありません。いろん な出来事にぶつかっては、ぐらぐらぐらぐら信仰が揺らぎます。「ああ、もうわた しは駄目じゃないだろうか」「こんな人間は駄目だろう」いろんなことを考えます 。しかし、逆に、わたしたちはつい、自分の信じる力を頼り、またそのような自分 を誇ろうとする気持ちが出てくる時があります。順調にいっておりますと、いつの まにか自分の信じる力に頼ってしまう。「わたしにはしっかりとした信仰がある」 というような思いになって。ところが、そのような自分の信じる力に頼って生きて いる自分が、困難な問題にぶつかりますと、ぐらぐらとその自分の信じる力という 土台は揺れて、終いに「ああ、わたしの信仰は駄目だなあ」「もう自分は駄目じゃ ないだろうか」と思うのです。そのような、絶望と言いますか、自己不信と言いま すか、そのようなものの中からもういっぺん神様の恵みはいったい何かということ を考えさせられる。ただ考えるだけではなく。そのような自己不信という絶望の中 にいるわたしたちに、神様が近寄ってきて下さり語りかけられる。わたしも何度も 、自分の罪故にいろいろなことにぶつかり、あのイザヤ書の43章の1節だとか、41 章10節の「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたし はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支え る。」また使徒言行録の2章25節「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主が わたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。」この言葉で何遍、駄目 だなあと思うところから、救い出されてきたか分かりません。そのようにして、わ たしたちが何か事あるたびに、神様の御言葉を聞いて、そして、信仰に立ち直る。 それが、クリスチャンの毎日の生活です。そのことによってわたしたちは古い水た まりのような信仰でなくて、こんこんと湧き出て来る泉のような、生き生きとした 信仰、神様の御言葉を聞いてまた新しく生まれ変わるというような、そういう経験 を続けていくのです。「内なる人は日ごとに新しくされていく」という言葉はそう いうことを言っています。ですから、わたしたちが躓いても、倒れても、どんなこ とがあっても、そこからまた立ち上がってくることができるのであります。
16節の初めに「だから、わたしたちは落胆しません」とパウロは言っています 。「落胆する」というこの言葉は、やっても、やっても駄目だから、もういやにな った。やる気がなくなった。そういう意味です。パウロという人は何度かそういう 目にあっています。このコリントの教会のことだけ考えてみましても、もうさんざ んひどい目にあわされています。しかし、彼はそういう落胆するような目にあった 中から、自分の力でなくて、神様が生きて御業をなさっておられるということを、 また改めて知らされたのです。前に共に聞いたところですが、このコリントの信徒 への手紙二の初めのところを見ていただきたいと思います。1章の3節4節「わたし たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる 神がほめたたえられますように。 くださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中 にある人々を慰めることができます。」パウロはここで、本当に神様に感謝をして います。これはたてまえではありません。彼がこのコリントの教会のことで悩み悩 んで、もう絶望していた時に、神様がどんなにして、このコリント教会の問題を解 決して下さったか。あの絶望的な状態のなかで生きて働きたもう神様の御業を見た 。彼はもう心の底から感謝して喜んでいます。さらに1章の8節、9節を見ますとこ うあります。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っ ていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ 失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、 自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになり ました。」 人を甦らせて下さる神様を信頼することができた。そしてパウロは救われたのです 。パウロの信仰の一番根源にあるものは何か。神様はあの十字架につけられたキリ ストを甦らせなさった。そして、その神様はわたしたちをも甦らせて下さる。死の 絶望の中から、神様はその全能の力をもって、わたしたちを救い出して下さる。そ の確信であります。今日読みましたところの4章の14節にそのことが書かれており ます。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あな たがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 たちは天地の造り主なる全能の神様を信じております。そして、礼拝のたびにこの ことを告白しています。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白して います。
しかしわたしたち、その神様を見たことはありません。その神様が働いておられ るそのお姿を見たことはない。見ないで信じているのです。その神様が、わたした ちの救いのために、イエス様を送って下さった。そしてわたしたちの罪を贖うため に十字架につけられた。わたしたちをそれ見ましたか。イエス様が十字架にかかっ て死なれる。それはその時、その場にいた人はイエス様の死を見ました。しかし、 それがわたしたちの罪の贖いのための死であるということは、誰にも見えなかった のです。その本当に大切な事実が隠されて、イエス様が十字架にかかることによっ てわたしたちも、共に十字架にかけられて、そして、罪の奴隷である古いわたした ちが死んで、イエス様の復活と共に新しい人間にさせられた。わたしたちはそれを 信じています。しかし、それを見ていません。イエス様と共にわたしが十字架につ けられているなんていうことは、どこにも見えない。見えないけれどもわたしたち はそれを信じる。そのことによって、どんな時にも望みを失わない人になるのです
前回のところでパウロはこう言ってます。「わたしたちは、四方から苦しめられ ても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 「せんかたつくれども望みを失わず」となっております。もう「せんかたつきる」 ということは、これはわかる言葉でいえば望みがなくなったということでしょう。 望みがなくなった。その時にも望みを失わない。というのは、これは論理的に言え ば矛盾しています。しかし、そこにキリスト教の大事なことがある。「せんかたつ きる」というのは、わたしたちの努力も能力も工夫も、あるいは人の助けも、もう 何もかも駄目だ。もう滅びるしかないということです。そういう場面で、わたした ちは神様を見上げることができる。神様の御言葉を聞いて、それを信じることがで きるという、ほかの人の持っていないただ一つの恵みを持っています。ですから、 せんかたつきた時でも「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろ ぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手で あなたを支える。」そうおっしゃって下さる神様のお言葉を聞いて「ああ、そうだ 」と本当の望みが出て来るのです。
「信じる」とは、わたしたちが自分のうちや、自分のまわりや、世の中のことや いろんなものを分析したり、考えたり、あるいはいろいろ工夫したりして「なるほ ど、こうなりそうだ」とするように、なにか先を予測できる力ではありません。「 信仰」とは、そういう分析や推量する力とは違います。18節を見ますとこうあります。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」信仰と は、見えないものに目を注ぐことです。見えない神様。神様がイエス様においてな さって下さった救い。それらのものに目を注いで生きるのです。
やがてわたしたちが年老いてなにもわからなくなり、信じることも、告白もでき ないようになる時が来るかもしれません。しかし、今はできます。今は、わたした ちが御言葉を聞いて信じ、そして、自分のいっさいの、これからのことを、救いの ことを「神様、おゆだねします」と言うことができます。そうすればわたしたちの うちに、たとえこれから先どんなことがあっても大丈夫という、そういう平安が与 えられる。神様はわたしたちのほうが駄目になっても、「あなたを救う」と約束し ておられます。そして、その神様の絶対の恵みを知ることができ、信じることがで き、それによって本当に喜びを持ち、平安を持つことができるということは、今わ たしたちに与えられている恵みであります。これは、どんなになっても神様は救っ て下さるから、何もしなくていい、信じなくていい、ということではありません。 何故ならば今ここでわたしたちがその恵みを知ることができるのは、神様の賜物を 与えられているからです。神様がわたしたちのうちに親しく言葉をかけて下さって おり、そして、その言葉を福音として、受け取らせて理解させてくださる聖霊が賜 物として与えられている。その親しき語りかけと聖霊という賜物が与えられている のに、わたしたちのほうがその恵みを拒否することはいかんのです。それらの恵み を素直に受け取ったとき、それによってあのパウロが「わたしたちの主イエス・キ リストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられ ますように。のです。
やがて、もうどうすることもできなくなった時のために、今ここで、わたしたち は本当に神様との深い交わりを持ちたいと思います。そして、わたしたちがこの礼 拝に集って、御言葉を聞き、御名を讃美するということは、お勤めではなくて、な くてはならないものです。神様の語りかけを本当に聞くこと、それは実に実に幸い な時であります。わたしたちが日頃持っている問題を、この場に持ってきて、神様 と出会い、神様の御言葉によって、本当にそれを解きほぐして頂いて、新しい喜び と平安を持って、また自分の一週間の生活を神様と共に出て行く。そういう力の源 泉として、わたしたちの礼拝は守られるようにと切に思います。礼拝に出て来るこ とが困難になった時に、初めてわたしたちは礼拝に出るということがどんなに幸い なことであったか、礼拝に出るということがどんなに大きな神様の恵みであるかと いうことを思い知らされます。しかし、体が健康で、出て来ることができる時には あまりそのことを思わない。だんだんそれが困難になって、礼拝に出るということ が大きな戦いになって来た時に、それは大きな恵みだということを、改めて知らさ れる。「わたしたちの外なる人は衰えても、内なる人は日ごとに新しくされていく 」新しくされるというのは、自分で新しくなるのではありません。神様が新しくし て下さる。「だから、わたしたちは落胆しない」どうかわたしたちが「どんなこと があっても、わたしたちは落胆しない」そう言いきれる生活を、始めることができ ますように。
お祈りしましょう。
全能の父なる神様。新しい年を恵みのうちに迎えさせていただきまして一週間経 ちました。また、ここへ召し集めて下さいまして、どんな時にもわたしたちを捨て ないと、約束して下さいました神様の恵みを、もう一度聞かせていただきまして、 ありがとうございます。わたしたちはたえず動揺したり、躓いたり、倒れたり、ま た時にあなたのことを忘れたりいたします。しかしあなたはいつでも、わたしたち の名を呼んで、わたしたちのことを覚えていて下さいます。そして、どんな状態に なっても決して捨てないと、約束下さいました。わたしたちは安心して、これから の人生を、あなたのみ手にお委ねいたします。どうぞ、わたしたちが意志しうるか ぎり、神様の御名を讃美し続けることができますようにお守り下さい。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。