主日礼拝

負けた者の香り

「負けた者の香り」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第126編1-6節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第2章12-17節  
・ 讃美歌:208、412、510

神様がわたしたちを導いてくださるということ、すなわち「神様の導き」という事柄をわたしたちは、勘違いをしているかもしれません。わたしたちは、神様の導きということをただのセーフティーネットのように考えていることはないでしょうか。神様が導いてくださるから、わたしたちは大丈夫だと、安心します。それは、正しいでしょう。しかし、それは、大事な事柄を表面的にしか見ていないと言えます。わたしたちは、自分たちがどのように導かれているのか。なぜ安心して、この世をわたしたちが歩めるのかのもう一度思い起こす必要があります。さらに、どのようにその導きの中に入れられたのか、なぜ導かれているのかをもう一度、思い起こす必要があります。 今日パウロも、その導きのことを、12節13節で語っています。トロアスという町に福音を伝道するために向かったら、主によって門が開かれたとあります。これは、町に入る門が開かれ、そして、町に入ることができたということだけでなく、町にいる人々の心の門を、主なる神様が開き、パウロが宣べ伝えているキリストの福音が受け入れられたということを意味しています。パウロの伝道の旅は順調に、主によって導かれ進めることができていました。しかし、13節にパウロの不安が書かれています。「不安な心を抱いたまま」マケドニア州に出発したとパウロは書いています。なぜパウロが不安になったのか。それは、パウロは、同僚テトスに会えなかったからです。パウロは、テトスに、2章4節ででてきた涙ながらにコリントの人々に書いた手紙を、預けていました。その手紙を受け取って、コリントの人々はどう思ったのか、どのように反応したのかなどは、テトスにしかわかりません。その手紙には、大変厳しい勧告の言葉が書いてあったとも言われています。厳しく叱ったことで、コリントの人々はパウロのことを拒絶して、またテトスも拒絶して、イエス様をも拒絶してしまうことになったしまったのではないか。パウロの不安は、わたしたちでも、想像できると思います。パウロは、その不安を抱えたまま、トロアスの町を出発しました。 主なる神様の導きを信じているパウロであっても、このように教会の人々との関係、兄弟姉妹との関係のことが心配になり、気が気でなくなることがあります。わたしたちも、自分の言葉が相手にどのように届いたのかと悩みます。特に厳しい言葉を、教会の兄弟や姉妹、または家族にぶつけてしまった時、わたしたちはその人たちとの関係が気になってしょうがなくなります。その時、パウロと同様に、不安になるでしょう。その人との関係が、そこでもう終わりかもしれないと不安になります。パウロは、コリントの人々の思いや気持ちがわからないので、コリントの教会にいくことを渋っていました。そのことが、1章15節以下で語られています。パウロはマケドニア州に行く前に、コリントを経由するつもりでしたが、2章13節を見るとわかるように、コリントによらずにマケドニア州に出発しました。この事実をわたしたちが聞くと、「なんだパウロも、会いたくない人にはあわないように、自分で計画を変えるんだ」と思ってしまいます。わたしたちも、会いたくない人や、気まずい人がいると、計画を変更することがあります。ですが、パウロはわたしたちのように、自分の思いを優先させて計画を変更したのではありません。使徒言行録16章8~11節によれば、パウロはトロアスで、マケドニア人の幻、それはマケドニア人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けて下さい」と言ったという幻を見たので、マケドニア州行ったと書かれています。パウロは、神様によって、神様に見せられた幻によって、行く道を決めました。ですから、パウロはその不安の中で、神様の導きに従って歩んだのです。 マケドニア州にわたってから、パウロはテトスと出会い、「コリントの人々がパウロの手紙を読み、パウロの言葉を真剣に聞いて、悲しんだけれども悔い改めて、パウロをいまでも慕って愛しているということが報告された」ということが、7章5節以下にかかれています。パウロは、マケドニア州でテトス出会い、コリントに行く前に、彼らとの関係がまだつながっているといること、彼らがもう一度イエス様の方に心を向けたこと、またパウロにも心を向けていること、彼らが仲間をゆるしたことを知ることができました。ですからパウロは、神様に、このマケドニア州に導いてくださったということを感謝したのでしょう。彼にとっては、その導きとその報告がただ有りがたく、嬉しい事でありました。 14節でパウロは「神に感謝します」と述べます。今回のこの導きのことを、神に感謝しますと述べているとも言えます。しかし、どうやら、ここでいわれている、神様への感謝は、マケドニア州に導いてくださったことだけではないようです。それはもっと本質的な神様の導きについての感謝でした。マケドニア州への導きも、パウロの全生涯においての導きも、神様のわたしたちへの導きも、この根本的な導きとつながっています。その本質的な導きとは、パウロが14節で語っている「キリストの勝利の行進」です。 わたしたちはこの世を歩む時も、兄弟姉妹、家族、友人と歩む時も、伝道を進めていく時も、困難な道のりを歩む時も、どのような時でも、いつも「キリストの勝利の行進」連ならせて頂いて、歩みを進めています。「キリストの勝利の行進」とは、イエス様が戦で勝利されて、御自分の国に勝利の凱旋するための行進です。イエス様が凱旋将軍となって、勝利の大行進をする、その凱旋の行列にわたしたちは、連ならせて頂いています。では、イエス様は何に勝利されたのかということが、わたしたちの気になる所です。イエス様は罪に勝利されました。罪に勝利され、罪の支配を終わらせました。では、イエス様は誰と戦っていたのでしょうか。それは、わたしたちです。わたしたちは、罪の支配下にあり、罪の力に動かされ、イエス様を攻撃していました。そのようなわたしたちと、イエス様は戦っておられました。「あれっ、さっき、イエス様の勝利の行進に連ならせて頂いているっていってたから、わたしたちは、イエス様側で、イエス様の味方だったんじゃないの」とわたしたちは疑問に思います。そこに、わたしたちの勘違いが有ります。わたしたちがこの勝利の行進に連なっている自分を想像する時に、自分はイエス様と共に戦った一人の兵士である、そう思い描くことが多いと思います。しかし、そうではないのです。わたしたちは、その行列の中にいる、鎖を繋がれている捕虜の中にいます。わたしたちは、わたしたちの親玉であった罪が滅ぼされ、戦に敗れ、行き場の失った兵士です。その兵士が、イエス様によって、捕らわれ捕虜となったのです。パウロはその捕虜のことを、救われた者と呼びます。パウロは自分のことをキリストの奴隷である。そして、キリストに捕らえられたものであると言っています。わたしたちも、キリストに敗けて、キリストに捕らえられて、救われました。わたしたちは、時に勘違いをしてしまいます。それは先ほどの勝利の行進の時に勘違いしていたように、わたしたちは、主とともに歩く、神様に導かれるという時に、どこか、勝利したイエス様のように、勝者のような振る舞いをして歩くのがふさわしいと考えます。イエス様の真似をすること、イエス様の教えをしっかり守ることしなければと思います。しかし、それは違うのです。わたしたちはイエス様に完全に負けた者で、イエス様に捕らわれたものなのです。役目が違うのです。この行進の中での、導きの中でのわたしたちの役目は、イエス様の勝利を証明することです。わたしたちこそが、イエス様の勝利の成果を示すものなのです。わたしたちはイエス様の分捕品といってもよいでしょう。それを見れば、イエス様が勝ったのだと、示すことができるものです。わたしたちが、イエス様の鎖につながっていることで、周りの人々に、「イエス様は罪に勝利されたのだ」ということを知らせることになるのです。わたしたちが、勝ち誇って勝利者のように歩いていれば、それを見た人は、罪が勝ったのか、イエス様が勝ったのか。どちらが勝ったのがわからないでしょう。だから、わたしたちは、負けたものとして歩きます。実際に、わたしたちはかつて、イエス様を傷つける側のものたちでした。そのわたしたちはイエス様に完敗して、イエス様の鎖に繋がれます。このように、聞くと、イエス様に救われるというのは、鎖で繋がれて、捕虜となって、奴隷となって、苦しまなければならない、そのようなきついことなのかなぁと思ってしまいます。しかし、それも違います。わたしたちにとって、この鎖は、恵みです。信仰という鎖です。自分を傷つけたり、他人を傷つけたり、神を攻撃する原因となっていた罪の支配から、解き放ってくださって、イエス様が「これはわたしのものだ。無くさないために、離さないために、しっかりと繋ぎ止める必要がある。」そのように思ってくださって、つなぎとめてくださった鎖なのです。これが、恵みの鎖です。わたしたちは、負けたものとしてこの鎖につながって歩む、恵みに支配されて歩む、これがわたしたちの歩みであり、導きであり、勝利の行進なのです。コロサイの信徒への手紙2章15節で、パウロは、神様はわたしたちの「もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」と語ります。まさにこのことなのです。キリストの勝利の列に連なって、わたしたちは、公然とさらしものになるのです。「罪人」から、今度は「救われた人」に変えられたということを示すために、さらしものになるのです。わたしたちは救われた時、自分を高めるためであったり、自分を守るためであったり、他人に勝つためであったりするプライドや、地位や名誉、功績というそのような武装品は、イエス様によって、武装解除されています。だから、勝利の行進に連なっているわたしたちは、そのようものをもたないのです。わたしたちは、武装解除され、鎖に繋がっているからこそ、イエス様と関係があるのです。自分のプライドや、名誉や功績を頼りにして、独り立ちしていて自分の力で歩んでいるならば、その人はまだ、キリストと戦っているでしょう。敗けて恵みとつながる時、わたしたちは、イエス様と本当の関係になるのです。 当時の凱旋将軍の勝利の行進には、ひとつの行事がありました。それは、凱旋時ににおいの良い香りを振りまくということでした。その香りがしてくると、将軍が勝利されたということを、皆が知るのです。その香りは遠くまで広がっていきます。パウロはそのことを知っていました。だから、パウロは、神様は「わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」と言います。神様は「キリストの捕虜であるわたしたちを通して、キリストを知るという知識の香りを至る所に漂わせてくださる」というのです。神様は、わたしたちの存在を通して、わたしたちの周囲にいる人々に、イエス様の勝利を周りに知らせ、またイエス様の存在をお知らせになられます。その方法は香りによってです。わたしたちは負けたものです。しかし、この世を、歩む時に、イエス様の捕虜であるということが、見ればわかるというものではありません。わたしたちの首に鎖が着いていて、天とその鎖が繋がっていれば、わたしたちの周りの人が「ああこの人は、神様に捕らえられているなぁ」と思ってくれる人がいるかもしれませんが、そのようなことはありません。わたしたちが、イエス様に捕らえられているという事実は、目には見えていません。その捕らえられたわたしたちを通して、香りを与え、周りの人にイエス様を気づかせるとはどういうことなのでしょうか。香りというのは、気にしていなくても、突然迫ってきて匂ってくるものです。その香りを発するものの姿が見えていなくても、その者の香りだけが匂ってくることもあります。このキリストを知るという知識の香りとは、まさにイエス様だけが放つことのできる香りでしょう。ですから、この香りを嗅げばイエス様が近くにこられている、存在しているということがわかります。 そのキリストの香りは、自分の力で醸し出すことはできません。誠実にしていれば、品行方正していれば、信仰熱心にしていれば、イエス様の生き方を真似ていれば、キリストの香りを放つことができるのではありません。時にわたしたちは、キリストの香りを漂わせるために、どのようにすればいいんだ?と悩みます。品行方正に、礼儀正しく、信仰熱心に、教えをしっかり守れば、キリストの香りをわたしたちが漂わすことができるのかと思う時があります。そうではないのです。わたしたちがこの香りを自分自身で、香水をふりかけるように付けることはできません。その香りを付けてくださるのは、神様です。ですから、わたしたちが、自分たちが努力して醸し出そうとしているイエス様の香りというのは、自分が勝手に作り上げた匂いです。(その匂いは熱心な努力の汗の匂いかもしれません)その努力の香水を自分にふりかけたのならば、神様がつけてくださる本物のイエス様の香りとわたしたちの匂いと混ざって、変な匂いになります。 負けた捕らえられたものは、なにももっていないのです。自分の持っていた香水はもはやないのです。また罪の支配下にあった時に匂わせていた、がむしゃらに努力していた時の汗の匂い、いつも怖れたときにかいていた冷や汗の匂いは、もう身体からはでません。負けたものは、なにももっていないからこそ、ただキリストの香りを漂わせることができるのです。 15節後半で、「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」とあります。原文に近つげて訳すと、「わたしたちは、神に対してのキリストの香りです」と訳すことができます。神様に対して、献げられたキリストの香りとは、まさにイエス様の犠牲の香りです。それは、焼きつくす献げ物となった神の子羊の焼ける匂い、または十字架の上で流されたイエス様の血の匂いです。その香りにわたしたちが包まれるのです。イエス様に捕らわれた者に、その犠牲の香りが付けられるのです。その香りは、わたしたちの周りの人に、キリストの存在を知らしめる香りであると共に、神様に対しての香りです。この香りをわたしたちにつけるために、イエス様は十字架で犠牲となってくださいました。その十字架で流された血の匂いをわたしたちは身に帯びています。また神の子羊が焼かれた肉の匂いがわたしたちに染み付いています。神様はわたしたちたちに付けられたそのイエス様の犠牲の香りを嗅がれ、喜ばれます。神様はイエス様の命と引き換えに、わたしたちの罪を赦し、その罪の支配から解放してくださいました。わたしたちからその香りが神様へと立ち上る時に、愛する子どもたちが、罪の支配から解かれて、自分の元に戻ってきたことを知ることができるからです。イエス様がわたしたちと戦われた一番の目的は、わたしたちを取り戻すためです。神様のもとではなく、罪の下に行ってしまった子どもたちを、取り戻し、赦し、再び神様の子どもたちとするためです。イエス様が死なれ犠牲の香りが立ち上る時、わたしたちを罪から取り戻し、赦されたことが、神様にも明らかになりました。わたしたちからイエス様の香りがするのは、わたしたちはそのイエス様の香りがうつってしまうほどイエス様と近くにいるからです。鎖で繋がれて、イエスはわたしたちを離さず近くにおいてくださいます。そのわたしたちから放たれる、そのイエス様の香りを神様が嗅がれる時、その勝利の行進の中に、わたしたちがちゃんとそこに連なっているということを知ってくださり、喜んでくださるのです。 わたしたちの身に帯びるこの犠牲の香りは、滅びる者には、死から死に至らせる香りとなり、救われる者には、命から命へと至らせる香りとなるとパウロは16節で述べます。イエス様に負けた者たちで、イエス様に捕らえられてものの中で、その敗北がただの敗北のままで、いつまでもイエス様の敵であり続けるのならば、その者とっては、このイエス様の勝利の犠牲の香りは、敗北感と喪失感、絶望と死の香りにしかならないでしょう。イエス様に負けた者で、自分はイエス様のものである、この敗北が自分にとって本当の恵みであって、その恵みにより罪から解放され、そして罪の結果である死からの解放された者である信じる者にとっては、負けた者であっても、このイエス様の香りは、命から命へと至る香りなのです。 パウロは16節後半で、「このような務めはだれがふさわしいでしょうか」と問います。キリストの香りを漂わせる務めをするものは誰がふさわしいかとパウロは問うています。それは、わたしたちです。イエス様に敗けて捕らえられて、イエス様を信じて鎖につながっているこのわたしたちです。17節で、「多くの人々のように神の言葉を売り物にせず」とあります。この売り物にせずと言う言葉は、「商いをする」という言葉が元の意味で、さらにこの「商いをする」という言葉は、「酒に水を割る」という意味でも用いられます。「神の言葉を売り物にする」というのは、自分の利益のために、神の言葉を自分のという水で薄めて、世に示すということです。これは先ほど話した、自分の匂いとキリストの香りを混ぜてしまったという話しと似ています。神様の言葉を水割りにするというのは、キリストの香りを、自分の香りとまぜて、「これが神様の香りだ」と偽ることといっしょです。自分の努力の匂いや、自分の名誉や功績という香水を、神様の香りと偽って、売るのです、それは、神様の権威を、自分のためにもちいていることにもなります。わたしたちは、そのような努力の匂いや、名誉や功績の香水を、イエス様につながる時に捨てられました。その名誉や功績という香水を手に入れために、わたしたちは、他者傷つけ、自分を苦しめることをしてきました。 しかし、イエス様に敗れたわたしたちは、もう一度、それらの香水に手を伸ばす必要はありません。なぜなら、この世で最高の香りを与えられているからです。なぜなら、最高の香りがわたしたちに全員与えられているからです。それは、わたしたちを罪の支配から解き放ったこと、赦されたこと、神様の子どもであることを証明してくれる、最高のイエス様の犠牲の香りです。 わたしたちは、イエス様に捕らえられています。イエス様に敗けて捕らえられています。その負けたものに与えられた、最高の香りに感謝しながら、イエス様に繋がれて、今日も歩みます。そのわたしたちに与えられた香りを、神様がわたしたちの隣人に、至る所に漂わせてくださいます。ですから、わたしたちは、歩きまわりましょう。とどまっていては、その場所の範囲でしか、匂いが届きません。歩きまわって、神様に至る所に香り漂わせて頂きましょう。 主に感謝して祈ります。

関連記事

TOP