「悲しみと喜び」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:詩編 第126編1-6節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第2章1-4節
・ 讃美歌:19、156、520
わたしたちが悲しんでいる時、主なる神様も悲しんでおられます。主なる神様は、わたしたちをその悲しみから救うために、涙を流され働かれております。主なる神様は、わたしたちが悲しみから脱しときに、喜んでくださいます。わたしたちはその神様の喜びを見て喜びます。 パウロは「わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれよう」とコリントの教会の人々に書きました。「わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれよう」この言葉は、なんだか、簡単に聞くと、大変横柄と言いますか、わがままな言葉に聞こえます。パウロが、なにかをしてしまって、コリントの人々を悲しませているのに、「自分が悲しませたあなたが、自分を喜ばせてくれるのだ」といっているからです。これは、ドラえもんに出てきます、ジャイアンがのび太を殴っておきながら、都合のいい時に「心の友よぉ」とのび太に感謝する、そのような関係と同じようなものです。実際パウロは、「わたしたちはそのような理不尽な関係である」ということを言いたいがために、手紙を書いたのかというと、そうではありません。 パウロが、コリントの人々を悲しませたのは、ある手紙を送ったことによります。その手紙は3節で「あのようなことを書いたのは」とあるところと、4節の「涙ながらに手紙を書きました」と言っているその手紙のことです。この手紙には、コリントの人々に対する、勧告や注意が書いてありました。この手紙を書いて、パウロはあることを注意しました。それは、コリントの人々が、パウロとの関係を切ろうとすること、それと教会内で党派を作り、互いに中傷し合い、分裂していたことに対する勧告でした。そして、そのことを勧告したために、コリントの人々が悲しんだのです。パウロが理不尽に、悲しませた、注意したのではなく、コリントの人々の一部の人が、先程申し上げことをしてパウロを悲しませたために、パウロは注意したのです。 「わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれよう」という言葉は、パウロの理不尽さを表すことばではなく、これはパウロとコリントの人々との密接関係を表している言葉でしょう。パウロがコリントの人々を悲しませる時は、パウロもコリントの人々によって、悲しみを与えられています。それを踏まえて、この2節を言い換えるならば「わたしが悲しませる」となっていますが「わたしを悲しませる人以外に、いったいだれがわたしを喜ばせてくれよう」ということも出来るでしょう。パウロとコリントの人々との密接な関係で近い関係だからこそ、時に、相手を悲しませるようなことが起こります。近い関係でなければ、このようなことは起こりません。互いに、無関係、無関心であれば、相手を悲しませることもなければ、相手から悲しませられることもありません。そもそも関わりがないからです。パウロが悲しませてしまうほどの関係、パウロをコリントの人々が悲しませてしまう関係というのは、とても近い、密接な関係なのです。 しかし、密接であり、近い関係であるからこそ、逆に相手を喜ばせることができる。更に言えば、共に喜ぶことができるとパウロは語ります。 3節「わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、」パウロは言います。パウロにとって、自分の喜びはコリントの人々の喜びであり、パウロにとってコリントの人々の喜びは自分の喜びとなります。これは、密接な関係よりも、さらに距離が近い、言うならば、結ばれている関係でしか起こらないことです。パウロとコリントの人々が、一つに結ばれており、一体となっているので、パウロに与えられた喜びが、コリントの人々の喜びとなると言うのです。このパウロの発言は、裏を返せば、パウロはコリントの人々と一体となっており、コリントの教会の人々が悲しめば、パウロもその悲しみに与るというということになります。パウロが、勧告をするための手紙で、コリントの人々を悲しませました。パウロはコリントの人が自分の手紙で悲しむと、同時に、パウロ自身も悲しみます。彼は、自分の言葉によって、自分もその悲しみに与ることになりました。 彼が4節「涙ながらに手紙を書いた」とあるように、彼は注意勧告をしながら、自分自身もコリントの人々の苦しみや悲しみを背負い、涙を流したのです。 彼はコリントの教会に訪問する前に、涙ながら手紙を書きました。彼は、「そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。」と書いています。本当は喜びを共有することのできる人たちよって、悲しい思いをさせられたくないから、この手紙を書いたといいます。では、なぜ彼は涙を流して手紙を書いたのでしょうか。彼がコリントの人々に涙を流しながら手紙を書いたのは、コリントの人々の信仰があまりにも不甲斐ないからではありません。また、自分のことをコリントの人々に疑われ悲しくなってので、泣きながら書いたのでもありません。コリントの人から信用を失ったから悔しくなって泣いたのでもありません。彼が涙ながらにこの手紙を書いたのは、コリントの人々の悲しみが、彼にはわかるからなのです。一つにつながっているからこそ、パウロはコリントの人々の弱さ、苦悩、悲しみがわかるのです。 この手紙を送る前にコリントの人々は、ある来訪者に出会います。その来訪者たちは、コリント教会に来て、パウロが今まで教えてきたことと全く違うことを話しました。そして、その来訪者たちは、コリント教会を乗っ取ろうとして、まずコリントの人々をパウロから離そうと画策しました。その来訪者たちは、自分たちのことを「使徒」であると名乗り、パウロは使徒ではないと強調し始めました。そして、コリントの人々はパウロのことを疑い始めてしまった。そして、パウロに対する誹謗中傷を言うものまで現れ、その「使徒」と自分のことを名乗る来訪者側につき始めたものが現れました。そして、私は「使徒派である」と言って、一つであったコリントの教会の中で、徒党を組み、教会を分裂させてしまうものまで現れてしまったのです。 パウロは、そのようなこと聞き、最初に怒ったでしょう。そのような分裂を引き起こさせ、教会を乗っ取ろうとしている来訪者に、パウロは一番怒りを覚えているはずです。そして、その誘いに乗ってしまったコリントの教会の一部の人たちにも少なからず怒りを覚えたでしょう。しかし、怒ったのであれば、この手紙は、「涙ながら」ではなく、「怒りながら」書いた手紙となっていたはずでしょう。しかし、そうでははく、パウロが「涙ながら」にこの手紙を書いたのは、コリントの教会のある弱さと痛みを共有していたからです。パウロの感じた痛みとは、分裂の痛みです。コリント教会の中に起こっている、パウロ派だったり、使徒派だったりで分かれている分裂の現状を知ると、パウロは、一つの体が二つに裂けてしまっているような痛みを覚えるのです。またパウロは、パウロとコリントの人々の繋がりが、来訪者によって切られ、両者の関係が切れかかっているために、痛みを覚えるのです。例えるならば、パウロが手のひらで、コリントの人々が小指だとすると、その小指に、第一関節の所に、横に切れ目が入いり、第一関節から上が、今にも分かれてしまいそうな状態です。そんな状態は激痛以外にありえません。その痛みは、手のひらにだって伝わります。体全体に伝わります。教会は、キリストの体です。ですから(、頭であるイエス様にも伝わります。)彼らが、分裂することによって、パウロは自分の体が傷つけられ、また同時にイエス様の体が傷つけられていることを感じるので、涙をながすのです。 彼は、その分裂の痛みを感じると同時に、分裂を起こしてしまったコリントの一部の人たちの弱さを理解し、涙を流します。彼が弱さを理解できるのは、かつての自分が同じことをしていたからです。彼自身も、イエス様から、信仰者を分裂させ、引き剥がすようなことをしていました。パウロがかつて、熱心で盲目なユダヤ教徒であり、イエスを信じる者を、捕らえては、裁判にかけて、死刑を要求するものでした。イエス様を信じ洗礼をうけているものは、イエス様と繋がり、一つの体に結ばれています。その結ばれている信仰者を、傷つける、というのは、イエス様の体を傷つけることであり、死刑にするということは、体から引き剥がそうとしていたということです。パウロが、回心をするその時に、イエス様から「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と言われています。パウロは、その言葉で、自分がイエス様を傷つけていたのだということを知りました。パウロは、悔い改めて、洗礼を受けました。その時、彼は、イエス様に結ばれての体の一部となったのです。傷つけていた側の自分が、赦されて、結ばれるという経験を彼はしました。 パウロは自分がイエス様を傷つけているもので、またキリストの体を裂いてしまっていたこと知りました。そして、そのような者のために、イエス様は十字架で、その体を裂き、血を流され、涙を流され、忍耐をされて、死をもって、自分を赦してくださり、御自分の体に結びつけてくださったことを知ったのです。 この経験を持つパウロは、分裂を促そうとするコリントの一部の人々の弱さを理解しています。ですから、必ずその人々も、自分と同じように、その分裂の過ちに気付かされると確信しています。しかし、それでも、やはり分裂は痛い。いや、コリントの中での関係も、コリントとパウロの関係も、まだ完全に切れていません。いうならば「分裂しかけ」です。しかし、分裂しかけでも痛い。今、彼はその痛みを覚えながら、忍耐して、涙を流しながら、手紙を書いているのです。自分は、信仰者と神様との関係を切ろうと必死になっていいたものであったのに、イエス様の十字架の死、イエス様の愛と赦しによって、神様との関係が修復され、結ばされたのだから、まだ完全に切れていないコリントの人々との関係は、イエス様の愛と赦しによって、必ず修復されると信じているのです。だから、彼はその悲しみに耐えられる。忍耐できます。 パウロはこの手紙は、勧告だけを目的とした手紙ではないと言います。この手紙は4節にあるようにパウロがコリントの人々に「対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」パウロが持っている愛は、4節にあるように「溢れるほど抱いている愛」です。「溢れるほど」ということは、自分の器から、愛が溢れている状態です。自分の器から溢れるのは、その自分の器に絶え間なく愛が注がれているからです。わたしたちの内側から愛が溢れでるのは、イエス様とつながることで、イエス様から絶え間なく、泉のように溢れでている、その愛を注がれているからです。 パウロが、4節でその手紙を書いたのは、「わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」と書いています。ここでパウロがコリントの人々に知ってもらいたかったのは、コリントの人に向けての個人的なパウロの愛情ではありません。イエス様の愛です。パウロが自分自身に与えられた愛を、コリントの人々にも知ってもらいたかったのです。パウロは、この涙の手紙で、あなたがたは、イエス様を傷つけている、そしてイエス様が悲しまれている、ということと、「だが、イエス様は苦しまれ、悲しまれて、そのことをお赦しになっているのだ」ということを知ってもらいたかった。それが愛なのだ。その愛をパウロはコリントの人々に知ってもらいたかったのです。 特に、分裂を促そうとしていたコリントの人々に、その愛によって、自分は赦されたのだ、だからあなたがたもその愛によって、赦されている。だから、その罪を、そして過ちを犯してしまったことを、共に悲しみ、共に悔い改めて共に立ち帰って、イエス様の赦しと愛を共に受けて、共にその救いと赦しの恵みを喜びたいと願っている。とパウロは考えていました。 このパウロとコリントの人々の関係からわたしたちが教えられることがあります。 わたしたちの教会の中の関係も、パウロたちとの関係と全く一緒です。パウロとコリントの人々と、わたしたちと隣にいる兄弟姉妹との関係は一緒です。共にイエス様に繋がれている、密接であり、互いにつながり合っている関係です。ですから、最初に教えられることは、わたしたちは、一方的に勧告するだけの関係になることに気をつけなければいけないとうことです。注意をするだけで、その他の交わりがない関係は、主に在る関係ではありません。それは、共に悲しみ、共に喜び合う関係になっていません。注意をしなければいけない状態というのは、非常に悲しい状態です。その状態とは、その注意をされる人が、イエス様を忘れてしまって、自分勝手にやっているような状態です。しかし、注意する人が、その状態を改めさせなければいけないという、義務感だけでしていたのならば、本当の注意にはならないでしょう。注意や勧告をする前に、その罪に対して、悲しむこと。なぜそうなったのか考える事。その罪が自分の内にもあるかどうか吟味すること。もし自分も、そのようなことをしてしまったことがあるのならば、自分も同じ罪で嘆いて、悲しんだ。そして、その罪を赦してくださった方との出会いを思い出す。そうしてから、その人、罪の赦しをイエス様に共に祈り、共に悔い改め、共にゆるしを経験する。それがパウロが望んでいた、コリントの人々との関係です。 わたしたちは、なにか少し出来ていない人を見ると、その人は改まらないといけない、あの人は悔い改める必要があると、自分はその関係者ではなく、第三者のような視点で、隣人を見ることが有ります。しかし、それは、キリストの体から自分が出て、そこから注意しているのと同じです。兄弟姉妹が悔い改めなければいけないことがあるのならば、わたしたちはその人と共に、その共に罪の赦しを祈り、共に悔い改めるものたちなのです。なぜならば、一つの体だからです。わたしたちは、喜びだけを共有する共同体ではありません。悲しみも罪をも共有します。しかし、その悲しみが、悲しみのままに終わらず、喜びになることを聖書は語ります。そして、聖書は、その悲しみと喜びの背後におられる方のことを語ります。 今日共に聞きました旧約聖書の詩編126編では「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」とあります。これは、福音の種まきのことで、涙を流しながら種まきをするが、刈り入れの時にはその実りに感謝して喜ぶことが書かれています。この場合、わたしたちは種です。わたしたちが、苦しみ、悲しんでいる状態は、種が地にまかれて、目を出そうしてもがいている状態です。その背後では、蒔く人が涙を流しながらまいています。やがて、芽吹き、実をつける時、わたしたちは新たなものになり、刈り取ってくださる人のものになります。そこにわたしたちの喜びが有ります。さらに、種をまいて下さった方はその実りを見て、喜んで刈り取ってくださいます。 放蕩息子の例えもそうです。息子がわたしたちです。その息子は、ほうとうの限りを尽くして、そのために飢えや貧困、自分の罪によって苦しみます。その息子のことを、父親は心配し涙を流して、悲しんでいます。これが、悲しみの時です。 息子が悔い改めて、父親の僕になるつもりで家に帰ってきた。その時、父親は怒るどころか、息子の帰ってきたことを喜びました。息子以上に喜んでいたと思います。これが喜びの時です。 神様はわたしたちが苦しんでいるときに、悲しんで下さり、立ち帰ったときにわたしたち以上に大いに喜んでくださいます。 わたしたちがより多くの悲しみを共有することによって、わたしたちは自分の分だけでなくより多く、涙を流しながら背後で働いてくださっている神様の働きを知ることができます。また悲しみを共有することで、その悲しみが喜びになるとき、彼や彼女、自分が神様に立ち帰った時に、わたしたちは神様がお喜びになっていることをより深くしることができるのです。 互いに悲しみを背負い、互いにゆるしあい、互いに愛し、互いに喜びあいましょう。 それがわたしたちの主にある関係です。