主日礼拝

あなたを誇る

「あなたを誇る」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第5編5-13節
・ 新約聖書:コリントの信徒の手紙二 第2章12-14節  
・ 讃美歌:208、412、522

 わたしたちは、自分の何が誇れるのか。今日パウロは、わたしたちの誇りをこの手紙を通して提示しています。

 聖書の中でこれほど、「誇る」という言葉や、「誇り」という言葉が出てくる手紙は、このコリントの信徒への手紙二以外にはありません。パウロがこの手紙で、語っている誇りは、自分の素晴らしい行いや行いの成果のことではありません。パウロは、自分の行いを「誇る」ことを極端に嫌がっています、それは手紙の後半に出てきます。パウロは、自分自身のことについては、弱さ以外に誇るつもりはないと言います。しかし、今日の箇所では、誇っています。12節でパウロ自身の行いのことも誇っています。

 パウロは12節の最後の行で、「わたしたちの誇りです」といっている、その誇りは、自分と自分の仲間たちが行った、行動についてです。12節の頭に書かれている、「わたしたちは、世の中で、とりわけあなたがに対して、~(飛んで)~行動してきました。」「このことは、(中略)わたしたちの誇りです」と言っています。コリントの教会の人のために行動してきたことが、わたしたちの誇りであると、パウロは言います。ここだけ読むと、「あぁやっぱりパウロも、自分の行いを誇っているんだ」「そのような善い行いをコリントの教会の人たちにも知ってほしいんだ、自慢したいんだ」と簡単に読むとそのようにも読めます。
 しかし、ここでそのように簡単に読む人たちの考えに欠けていることがあります。それは、パウロが、コリントの教会の人のために「何を」したかということです。パウロは、この12節より前の箇所で、自分の受けた苦難と慰めのことを語ります。1章6節で「わたしたちが悩み苦しむ時、それはあなたがたの慰めと救いになります。」といっています。まずパウロは、コリントの教会の人のために、悩みと苦しんだと語ります。たしかに彼は実際、アジア州で、死を覚悟し絶望するほどの苦難にあっています。それが、彼のコリントの教会の人ためになっていると彼は考えています。この苦難は、パウロの意図しない時に、与えられました。彼は苦難を、意図的に、自分の意志で、苦難に飛び込んだりはしませんし、自虐的に自分で自分をわざと苦しめたわけでもありません。その与えられた苦しみにあったことが、パウロにとっての誇らしい行動、コリントの教会の人のための行動でした。もうひとつ、彼がコリントの教会の人のためにおこなったことがあります。それは、苦難にあった時に、慰めを受けたことです。これは神様から与えられた慰めのことです。死を覚悟したパウロはその時、死者を復活させてくださる神様を頼った、そして大きな死の危険から救われた、そして、希望も与えられました。それが、パウロが神様から与えられた慰めでした。この慰めを受けたこと、これがコリントの教会の人のために行ったもう一つのことです。
 ここで、なにかおかしいなと、わたしたちは疑問に思います。さっきから、パウロが行ったことということが、すべて、受け身の事柄であるということです。苦難にあうこと、救われ慰められること。これはどちらも、パウロ自身が行ったことではありません。すべて神様が行ったことです。
 そこでわたしたちは「行動したことが誇りであると言っているのに、パウロは何  もしていないじゃないか」と疑問に思います。そう思うのは、普通だと思います。
 そこで、もう少し詳しく、パウロの12節で語っていることを見てみましょう。パウロは、12節で、なにによって行動したかと言っているかというと、そこで「神様の恵み」をあげています。さらに、パウロが、同時に言っていることは、「自分たちは人間の知恵に頼らないで」、行動したという事を語っています。パウロは、「神様の恵みの下で」言い換えると神様の恵みを頼って行動しました。その恵みはなにであるかというと、それは「神様から頂いた純真と誠実」であるといっています。口語訳では、「神から受けた」ではなくて、ここは「神の」と訳されています。その事を踏まえてこの箇所を訳し直すとこうなります。「わたしたちが、あなたたちに対して、人間の知恵に頼らず、神の純真と誠実にたよって、神の恵みにたよって、行動してきたこと、それが、わたしたちの誇りである」となります。ここでなんども繰り返されているのは、頼るという言葉です。パウロは、なにに頼っているのか。パウロは、大きくいうと神様を頼っています。そのことは、1章9節に出てきています。死を覚悟するほどの苦難にあったときに、パウロは神様を頼ったと書いています。 実は、パウロの言う、コリントの教会の人に対しての誇らしい行動とは、神様に頼るということだったのです。

 では彼がどのように神様に頼ったのでしょうか?12節では、「人の知恵によらず」とあります。これは、「人の力に頼らない」と考えても良いでしょう。「人の力」これは、他人の力ということではなく、「人間の能力」という意味での「人の力です」。彼は神様に頼るときに、人の持つ能力や、人の努力する力に頼ることをしません。それは1章9節にも書かれています。パウロは、死を覚悟するほどの苦難を受けた時、自分の力を頼ることをやめました。パウロは、死を感じるほど絶望を前にして、自分の力では死に対しては、自分の能力や努力ではどうにもならないことを知りました。
 わたしたちの場合、自分の力を頼ることを、やめるということを考えると、即「なにもしなくなることである」「すべて放棄してうごかなくなる」ということを思い浮かべると思います。確かに、わたしたちは、なにかわたしたちの力では、どうすることもできない、となると、そこでもがくか、なにもしなくなるということになると思います。足掻いても、もがいても、どうしようもできないことのまえでは、最終的になにもできなくなる。そして、次第に、何も考えなくなり、無感情になる。人形のようになる。そのようになることが嫌な人は、なにかをしないと思い、自分を信じて、がんばる。そうして頑張っても、またどうしようもなくなる。自分を信じて行動する、だめになってあきらめる、でもあきらめきれなくて努力する、このくりかえしです。パウロも、絶体絶命の時に、このあきらめてなにもしなくなるか、自分を信じて頑張るかという、この永遠に繰り返す救われない二択の前に立っていました。しかし、彼はもう一つの選択肢を見つけました。それは、「神様に頼る」という選択肢でした。自分の力で及ばない範囲、そこは、神様の力でしかどうにもできない、そういう領域があるということを彼は死を目の前にして知りました。   その時です、彼は神様の恵みを感じました。神様に頼って助けられるという恵みです。わたしたちも、生きていく中で自分の限界に出会います。それは、隣人との関係でも、わたしたちは自分の力だけでは、どうにもできません。それは家族の関係であっても、友人関係であっても、職場の関係であっても、恋人との関係で会っても、夫婦の関係であっても、関係が崩れた時に、わたしたちは自分たちの力でいくら努力しても、修復することは難しいという、現実を知っています。また、年を重ねることによって、自分の肉体、知能の限界を知らされます。肉体が衰えていくということは、死に近づいていくということです、その時人は、多くの限界を目の当たりにします。しかし、その時、わたしたちにはどうすることもできない壊れた関係を結び直して下さる方、衰えていく死の体を、活き活きとして生きる新しい体を与えてくださるのも神様と出会います。神様に出会ったその時に、パウロは「神様を頼る」という決断をしました。

 しかし、なんだかパウロは「神様に頼ってばっかりの人生で」何が誇らしいのかとお考えになるかたが、いるかもしれません。神様に頼るなんて、弱い人間のすることだと考える人もいます。時々、「神様に頼る」ということは、思考を停止させて、人形のようになることであると勘違いする人がいますが、それは違います。神様を頼っているパウロは、彼は、人間の限界、肉体の限界、自分の能力の限界を知った上で、旅をし続けます。伝道のために、教会で生きている人のために、異邦人のために考え、手紙を送ります。そのパウロは、理性を持って、思考しています。決して思考は停止していません。神様の力に頼ってなにもしなくなったかというと、そうではなく、むしろ彼は動きます。あるときは教会のある場所へ、またある時は、教会がない地域に行きそこでイエス様の話をし、教会を立てる、かれは、自分の足で地中海の歩きまわります。生涯を、そのことに費やします。 神様を信じ頼って生きた、彼の人生の歩みは、決して、動かない人形のような人生ではありません。 「神様に頼りながら生きる」生き方、これをパウロは誇らしい生き方であると考えていました。
 このパウロの「神様に頼りながら生きる」という生活の、支えになっているのは、イエス様の救いです。パウロもわたしたちも、イエス様に救われて、神様のもの、神様の所有物であり、神様の子どもとされました。しかし、救われて神様の子どもになったといっても、わたしたちは、いまでも、神にふさわしくないものであることは、変わりありません。しかし、わたしたちは、神様の救いによって、ふさわしくないものが、神様のものとして生かされています。しかし、そこに感謝と、喜び、誇れることがあると、パウロは考えています。なぜならパウロは、その経験をしています。ふさわしくない自分が救われ、神様のものとして生かされ、さらに伝道するために、神様の伝道の手段として、わたしが用いられているということに喜びを感じています。パウロは、昔、罪人でした。パウロはイエス様を信じているというだけで、何も罪のない人を、死刑にするために、裁判所に無理やり連れて行っていました。自分が正しいと思い、他人をさばいていました。しかし、イエス様に出会って、自分のしてきたことで、どれほど、人が傷ついたか、イエス様御自身をきずつけてしまったのか、ということを知りました。しかし、そのような、自分の罪ためにが、神の御子イエス様が十字架にかかってくださり、自分の罪がゆるされた。神様の子である、イエス様を傷つけていた、神様の恵みを受けるにもっとふさわしくない自分が、神様のものにされた。今度は、神様からその救いを、異邦人に宣べ伝えるために選ばれた。その恵みの下で、生かされている。その実感がパウロにはありました。パウロは、この一方的に与えられる神様の恵みに生かされて歩む生き方を誇りにしています。
 パウロは実際、キリストに救われた事が、誇りであると思っています。

 「神様に頼って生きる」歩みは、神様に生きる道を決定していただきながら歩む生活です。
 そのよう生活はどのようにしたらできるのか。神様のものとなって、神様に導かれて歩む生活は、人の知恵ではできないとパウロは語ります。12節で人の知恵と神様の恵みが、並べられています。人の知恵ではなくてということは、それは、人の利口さ知識ではなくて、神様の知恵、神様の御心に頼ってということです。人の知恵でなく、神様の知恵や御心に頼るというのは、やはり神様にすべてを委ねるということです。
 神様にすべてを委ねて生きるということは、たとえるならば、わたしたちが、体をピンッと真っすぐ伸ばし、直立で立って、その直立のまま、神様の支えを信じて後ろに倒れるということです。これが神様に、身を献げるということです。わたしたちは、自分の経験するところからもわかるように、誰かが後ろにいるとわかっていて「倒れて来てもちゃんと支えてあげるよ」と約束されていても、簡単には後ろに倒れることはできません。なにか受け止める側のミスが生じ、そのまま倒れてしまうのではないか。自分の体が重すぎて後ろに立っている人が支えきれないのではないか。また後ろにいる人は本当に自分を支えてくれるだろうか?あの約束は口だけの約束で、実際倒れた時は手を伸ばしてくれないのではないか?と不安なったりと疑いをもったりします。同じように、わたしたちは、神様を頼りたいと思っていても、この例えと同じように、簡単に神様に身を預けことができません。このように、わたしたちが、神様に委ね切ることができない原因は、わたしたちの神様に対する過小評価と、自分の罪に対する過大評価にあるといえるでしょう。私たちは、後ろにお立ちになっている神様が、受け止めるときにミスをするのではないか、または、「倒れてもちゃんと支えてあげるよ」言ってくださった神様の約束はただの口約束で実際は支えてくれないのではないかと、疑いを持つのが最初だと思います。12節に、「神様から受けた誠実」ということが書かれています。神様は真に誠実な方です。一度結んだ約束を、破ったりはなさりません。神様は、主イエス・キリストを通して、「罪のある、あなたたちを赦し、救う」「そして聖霊をこの世に送って、今も、これからも、いつの日も、支え、守り、導く」ということをおっしゃってくださいました。主イエス・キリストを通してその「約束」を、明らかにしてくださいました。その約束を、父なる神様は破ったりはなさりません。わたしたちはその約束を時に忘れて、「神様は今わたしを支えてくださっていないのでは」と不審に思ったりもします。その疑いが、どこからくるのかというと、それは、わたしたちの罪に対する過大評価からです。わたしたちは、自分が罪を犯してしまった、今日も神様の事を考えずに自分勝手に行動してしまった、隣人のことを思うよりも、自分を優先して、自己中心になって、隣人を傷つけてしまったなどの、罪を重ねると、自分の罪の重さ、苦しくなります。それは、色々忙しくて、イライラして、甘いもの、脂っこいものを食べて、後日なんだか体が重いなぁと思って、体重計に乗ると、かなり体重が増量しており、ショックを受け、心が苦しくなるのと似ています。 わたしたちは、罪を犯し、その罪が体や心にまとわりつき、体も心も重くなってしまった時に、このようなことを思います。「あぁ自分の罪によって、重くなった私の体を、神様は支えられないのではないだろうか」、「この心も体も醜くなった私に、嫌気がさして受け止めてくださらないのではないだろうか」と私たちは考えてしまいます。この時、わたしたちは忘れてはなりません。神様の御腕は力強く、その御手は大きいことを。わたしたちが、とんでもなく重い、罪の荷を背負っていても、神様の方に身をゆだねて倒れるとき、神様はその力強い御腕で、その御手で必ず支えてくださります。わたしたちの罪が神様の恵み勝つことができるでしょうか。できるはずがありません。神様は、どんと私に身を委ねさないと言われております。それは言葉を変えれば「私を頼りなさい」ということです。
 パウロは、この呼びかけに応えて、神様に頼りきって、行動しました。それが、パウロの誇りです。なぜならパウロは、人が褒めてくれるようなことがあっても、評価されても、それは、すべて神様の御名が褒め称えられるようになっているからです。自分が苦難にあったときには、神様の慰めと愛が隣の人に伝えられるからです。この誇りは、パウロを輝かせません。だから、パウロは、うれしいのです。誇りなのです。
 人が神様を信じ、神様に頼りきった時、その人の生活において見えてくるの、神様の働きです。神様の御業がそこに現れる、神様の御心がそこに現れされる。わたしたちが、苦難に会うような、弱っている時、わたしたちが神様に頼りきった時、そこに、神様の憐れみと愛が、示されます。わたしたちが罪で体が重くなっていても、神様に頼る時に、そこに示されるのは神様の御腕の力強さ御手の大きさです。 わたしたちは自分がそのように、本当に神様に委ねることができるのか不安になります。しかし、パウロは13節14節の「わたしたちにとってもあなたがたは誇りである」といっています。これはわたしたち一人一人に向けられている言葉です。「わたしにとってあなたは誇りである」とパウロはわたしたちに言います。わたしたちが、パウロの誇りとなるのは、なぜか。それは、パウロの目は、13節にあるように、「主イエスの来られる日」終末の時に向いています。今は、わたしたちは、自分の力に頼って、生きる、傲慢なものであります。そして、未来においても、その自分を頼るということを、完全に拭い去ることはできません。しかし、終わりの時、頼るべき方を目の前にしたとき、パウロは、わたしたちが完全に神様に委ね、神様に従うものになるということを見ています。わたしたちには、その希望が与えられています。終わりへと時は進んでいます。わたしたちの希望は、近づいてきます。イエス様にお会いできる日が近くなってきています。
 その希望をもって、御国を目指して、この世の旅を神様を頼りながら続けましょう。

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