主日礼拝

タレントが生きる人生

説教「タレントが生きる人生」 副牧師 川島章弘
旧約聖書 詩編第84編11-13節
新約聖書 マタイによる福音書第25章14-30節

タレント
 「タレント」という言葉があります。誰もがこの言葉を知っているし、使っているのではないでしょうか。英語のtalentは、「能力」「才能」を意味し、さらには「能力のある人」「才能のある人」をも意味します。日本語では、そこから転じて、芸能人の方のことを「タレント」とか、「タレントさん」と呼んだりもします。ですから私たちは日々の何気ない会話の中でも、「あのタレントさん素敵だよね」とか、「このタレントが、ネットで話題になっていたよね」というように「タレント」という言葉を使っているのです。しかしそれだけではありません。私たちは何よりも、自分のタレントを生かして人生を歩みたい、と願っているのではないでしょうか。本日のお話の題は、「タレントが生きる人生」ですが、まさに自分のタレントが生きる人生を歩みたい、と私たちの誰もが願っているのです。そのように願い、そのためにそれぞれに頑張ったり、努力したりしつつも、しかし私たちはしばしば、自分のタレントを生かして人生を歩めていない、と思わずにはいられません。自分のタレントが足りないことに落ち込み、「自分にもっとタレントがあればよかったのに」と嘆いてしまうことがあります。あるいは自分のタレントとほかの人のタレントを比べて、「あの人と同じタレントがあれば良かったのに」とか、「どうしてあの人には、あれだけのタレントがあるのに自分にはないんだろう」とか、ほかの人の能力や才能をうらやみ、妬んでしまうこともあります。私たちは自分のタレントを生かして人生を歩みたいと願いつつも、その願いのために、かえって嘆いたり、うらやんだり、妬んだりしているのです。

「タラントン」から「タレント」
 誰もが知っているこの「タレント」という言葉は、実は、聖書から来ている言葉です。今日の聖書箇所の小見出しには「『タラントン』のたとえ」とありますし、先ほど朗読された聖書箇所の中でも、「五タラントン」「二タラントン」「一タラントン」という言葉が繰り返し出てきました。この「タラントン」から「タレント」という言葉が生まれました。とはいえ「タラントン」はもともと「重さ」を意味する言葉で、さらに通貨の単位を表す言葉となりました。「五タラントン」「二タラントン」「一タラントン」というのは金額を表しているのです。ということは「タラントン」という言葉そのものには、私たちが「タレント」という言葉を使うときの「能力」や「才能」という意味はない、ということになります。それでは、なぜ「タラントン」から「タレント」という言葉が生まれた、と言えるのでしょうか。それは、この箇所で語られている譬え話の内容によってです。ですから私たちが、自分のタレントを生かして人生を歩みたいと願うなら、私たちはこの譬え話が何を語っているかに耳を傾けていけばよい、ということになります。能力や才能を意味する「タレント」という言葉を生み出した、この譬え話が語っていることに聞くことを通してこそ、私たちは、本当に自分の「タレントが生きる人生」とは、どのような人生であるのかを示されるのです。

「タラントン」のたとえ
 この譬え話そのものは、そんなに難しい話ではありません。ある主人が旅に出かけるとき、僕たちを呼んで自分の財産を預けました。一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けました。主人が旅に出かけると、五タラントン受け取った者と二タラントン受け取った者は、すぐに出て行き、預かった財産で商売をして、それぞれに五タラントンと二タラントンを儲けました。ところが一タラントン受け取った者は、出て行くと、地面に穴を掘り、主人から預かった財産を隠したのです。さて、かなり日がたってから、主人が帰って来て、僕たちと清算を始めました。まず五タラントン受け取った者が進み出て、儲けた五タラントンを主人に差し出してこのように言いました。「ご主人様、五タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました」。主人は答えます。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい」。次に二タラントン受け取った者も進み出て、同じように言いました。すると主人も同じように答えました。最後に一タラントン受け取った者が進み出て、このように言いました。「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。これがあなたのお金です」。主人は答えます。「悪い臆病な僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私のお金を銀行に預けておくべきだった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」。そして主人は、その僕の一タラントンを取り上げさせると、十タラントン持っている者に与えるよう命じたのです。
 このように譬え話そのものは分かりやすい話です。しかし譬え話というのは、その譬えを用いて別の何かについて語っているものです。そしてそれは、譬え話そのものほど分かりやすいわけではありません。この譬え話は一体、何を見つめているのでしょうか。そのことを受けとめるために、私たちは改めてこの譬え話を丁寧に読み進めていきたいと思います。

神がタレントを与えてくださる
 まず、この譬え話における主人というのは、主イエス・キリストを、またその父なる神を指しています。つまりこの譬え話は、主イエス・キリストの父なる神が、私たちにタレントを与えてくださっていることを語っているのです。私たちのタレントは、私たち自身が獲得したものではなく、神が与えてくださったものです。私たちはしばしば自分の力で、自分のタレントを獲得したかのように勘違いしてしまいます。もちろん私たちが頑張って、努力して、自分の能力や才能を磨く、ということはありますし、それはなくてはならないでしょう。しかし根本的には、私たちのタレントは、いえ、私たちの持っているものはすべて、神から与えられたものなのです。だから聖書はしばしば、神が私たちに与えてくださったタレントのことを「賜物」と呼びます。「神が賜る物」という意味です。神こそが私たちにタレントを、賜物を与えてくださる方なのです。

異なるタレント
 しかしこの譬え話が見つめているのはそれだけではありません。神が私たちに与えてくださるタレントは、人それぞれ異なる、ということをも見つめています。「五タラントン」「二タラントン」「一タラントン」は、神が私たちそれぞれに与えてくださるタレントが、異なることを示しているのです。そのように言われれると、「なぜ神様はすべての人に平等に、能力や才能を与えなかったのか」と思われるかもしれません。しかしもしそうであったなら、この譬え話は、私たちの現実とは関係ない話ということになるのではないでしょうか。ほかならぬ私たち自身が、私たちの能力や才能はそれぞれに異なる、ということを知っています。高い能力を持っている方もあれば、そうでない方もいます。多くの才能を持っている方もあれば、そうでない方もいるのです。そして私たちはまさにこの現実のゆえに苦しんでいます。この現実のゆえに私たちは、自分のタレントが足りないと嘆いたり、自分のタレントをほかの人のタレントと比べてうらやんだり、妬んだりしているのです。聖書は、私たちの現実と関係のないことを語っているのではなく、私たちの現実をしっかりと見つめています。確かに私たちはそれぞれに異なるタレントを、神から与えられているのです。

多くのタレントを与えられた者が成功する?
 そうであるならこの譬え話は、多くのタレントを与えられた人が成功することを語っているのでしょうか。五タラントン受け取った者が主人から褒められ、一タラントン受け取った者が主人から叱られたとは、そういうことなのでしょうか。そうなると、タレントは自分が獲得するものではなく神から与えられたものだとしても、成功する人は、神が多くのタレントを与えてくださった人だ、ということになります。それでは結局、私たちは、「なぜ神様は自分にもっと多くのタレントを与えてくださらないのか」と嘆いたり、「なぜ神様はあの人には、あんなに素晴らしいタレントを与えられるのか」とうらやんだり、妬んだりして生きることになるのです。自分のタレントは神から与えられたものだ、と受けとめていても、神から多くのタレントを与えられた者が成功する、と考えるなら、自分の「タレントを生かす人生」は、決して切り開かれることはありません。そこには嘆き、人をうらやみ、妬む人生しかないのです。それどころか、神が自分には十分なタレントを与えてくださらないから自分の人生はうまくいかない、と神のせいにして無気力に、無責任に生きてしまうことも起こるのです。

失敗を恐れて
 しかしこの譬え話は、神から多くのタレントを与えられた者が成功することを語っているわけではありません。では何を語っているのでしょうか。それは、24節以下で語られている、一タラントンを受け取った僕と主人との対話から示されていきます。この僕は主人に、25節で、「恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」と言っています。それに対して主人は、「悪い臆病な僕だ」と答えました。つまりこの僕は恐ろしかったから、臆病であったから、受け取ったタラントンを地面に穴を掘って隠したのです。すぐ分かるようにこの譬え話では商売の譬えが用いられています。第一と第二の僕は、受け取ったお金で商売をして儲けたのに、第三の僕は、受け取ったお金を地面の中に隠したので儲けることはできませんでした。商売ですから、儲かることもあれば、損をすることもあります。この僕は、損をすることを恐れて、臆病になり、受け取ったお金を隠していたのです。この僕の姿は、私たちが失敗を恐れて、与えられているタレントを生かそうとしない姿を見つめているのではないでしょうか。神から与えられたタレントを、能力や才能を用いて何かをするとき、商売がそうであるように、必ずうまくいくということはありません。むしろ私たちは神から与えられたタレントを用いて、しばしば間違え、失敗し、人間関係を壊し、そのために落ち込み、傷つき、苦しんでいます。もし失敗を完全に避けようとするなら、何もしなければ良いということになります。自分から積極的に何かをしなければ良いのです。この僕の姿は、神からタレントを与えられていても、失敗を恐れて、そのタレントを用いようとしない、生かそうとしない私たちの姿を語っているのです。

主人を恐れて
 それではこの譬え話は、「失敗を恐れずに生きなさい」という教訓を語っているのでしょうか。「失敗を恐れずに生きなさい」というのは格好の良い、勇ましい言葉です。しかし私たちの多くは、そう言われても、やっぱり失敗は怖いし、失敗を恐れずに生きることなど到底できないと思います。ですから私たちは、受け取ったタラントンを地面の中に隠したこの僕に少なからず共感を覚えるのです。この僕は、主人のお金を横領したわけでも、目減りさせたわけでもありません。安全なところに隠しておいただけです。私たちも失敗して、落ち込み、傷つき、苦しむぐらいなら、何もしないほうが良いのではないかと思います。何もしなくても誰かに迷惑を掛けるわけではないではないか、と思うのです。けれどもこの譬え話を丁寧に読むと、この僕は損をすることだけを恐れて、お金を隠したのではないことが分かります。そうではなく損をしたら、主人に怒られることをこそ恐れて、お金を隠したのです。「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていました」とは、そのことを示しています。確かに世の中には、そのような厳しい主人や上司が、また指導者や為政者がいるかもしれません。しかし忘れてはなりません。この譬え話において、主人とは主イエス・キリストであり、その父なる神でした。そうであるならこの僕は、主人が、つまり主イエス・キリストの父なる神が、どのようなお方であるのか分かっていなかったのです。

独り子を十字架につけた神
 聖書は、神がその独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、私たちの罪の赦しために十字架につけてくださったことを語っています。神は独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって私たちの救いを実現してくださったのです。しかもその救いは、私たちが何か良いことをしたから、あるいは何か条件をクリアしたから与えられたのではありません。私たちは神に背いてばかりいたのに、自分勝手に生きていたのに、つまり罪人であったのに、それにもかかわらず、そのような私たちを救うために、神は独り子を十字架につけてくださったのです。聖書が語る神は、それほどまでに私たちを愛してくださる方です。クリスチャンというのは、このお方を主人として生きます。ほかの誰かや何かではなく、このお方だけを主人として生きるのです。そうであるなら、独り子を十字架につけるほどに私たちを愛してくださる神が、私たちの失敗を許さない方であるはずがありません。神に背いていた私たちをすら愛してくださる方は、私たちが神から与えられたタレントを用いて生きる中で、色々な失敗をしたとしても、お怒りになるはずがありません。与えられたタレントを用いて生きようとする私たちを、神は決して見捨てることなく、愛し続けてくださり、支え続けてくださるのです。あの僕は、主人がこのようなお方であることを知りませんでした。だから損をすることを恐れたのです。しかし私たちは神がこのようなお方であることを、聖書を通して、主イエス・キリストによって知ることができます。確かに私たちは、簡単に「失敗を恐れずに生きる」ことができる、などとは言えません。しかし、独り子を十字架につけるほどに私たちを愛し、私たちを決して見捨てることのない、この神が、私たちの人生の主人であるならば、私たちは「失敗を恐れずに生きる」ことができるのです。神から与えられたタレントを生かして、失敗を恐れずに生きることができるのです。もちろんその歩みの中で、私たちは間違いを犯すことがあり、失敗することがあり、そのために落ち込み、傷つき、苦しむことがあるに違いありません。しかしその私たちを、神は決して見捨てることなく、愛し続けてくださり、支え続けてくださるのです。そのことを信じて生きるとき、私たちは、失敗への恐れから解放されて、神から与えられた自分のタレントを本当に生かして、生きることができるのです。

豊かなタレントを与えられている
 しかもこの譬え話は、神が私たち一人ひとりに、豊かなタレントを与えてくださっていることをも見つめています。最初に「タラントン」というのは通貨の単位だと申しましたが、「一タラントン」というのは、当時の6000日分の賃金に当たります。大雑把に言えば、約20年分の賃金です。つまり一タラントンというのは、決してはした金ではなく、莫大なお金なのです。それほどのタレントを、賜物を、神は私たちに与えてくださっています。14節で、「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである」と言われていました。神は自分の全財産を預けるほどに私たちを信頼してくださり、私たち一人ひとりに、異なってはいても、豊かなタレントを与えてくださっているのです。

自分とほかの人を比べるのではなく
 一タラントン受け取った僕は、主人が自分を信頼し、自分に莫大なお金を預けたことをしっかり受けとめられませんでした。それは、この僕が自分のタラントンとほかの僕のタラントンを比べていたからではないでしょうか。自分とほかの僕のタラントンを比べて、自分のタラントンをちっぽけだと決めつけ、与えられたタラントンを生かそうとしなかったのです。この僕は、主人を恐れていただけでなく、自分とほかの人を比べて、自分のタラントンを用いることに臆病になっていたのです。確かにこの譬え話は、私たちに異なるタレントが与えられていることを見つめています。しかしこの譬え話は、多くのタレントを与えられた者が、より多くの成果を得ることを語りたいのではありません。それは、五タラントン儲けた僕にも、二タラントン儲けた僕にも、主人がまったく同じ言葉を語りかけていることから分かります。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい」。この主人は、ということは、神は、成果を比べて、二タラントン儲けた僕より、五タラントン儲けた僕を褒めたのではありません。どちらの僕もまったく同じように褒めたのです。この二人の僕が、神から与えられたタレントに感謝し、神の愛と守りに信頼して、失敗を恐れず、そのタレントを精一杯生かしたからです。特に、二タラントン受け取った僕は、自分と五タラントン受け取った僕とを比べて、相手をうらやんだり、妬んだりしませんでした。また一タラントン受け取った僕と比べて、自分を誇ったりもしませんでした。ただ神が自分を信頼して、自分に預けてくださったタレントを、神から決して見捨てられることはないという安心の中で、失敗を恐れず、精一杯生かしたのです。しかし一タラントン受け取った僕は、そうではなかった。自分とほかの僕を比べて、自分のタレントをちっぽけだと決めつけました。でも本当は、そのタレントは、決してちっぽけなものではなかった。実に豊かなタレントであったのです。私たちは自分のタレントとほかの人のタレントとを比べている間は、神が自分に与えてくださったタレントの豊かさに気づくことができず、ほかの人をうらやんだり、妬んだりするばかりで、そのタレントを生かすことができません。ほかの人と比べるのをやめて、神から与えられたタレントをしっかり受けとめ、そのタレントに感謝して、神の愛と守りに信頼して歩むことを通してこそ、私たちは失敗を恐れることなく、自分に与えられた豊かなタレントを本当に生かして生きていくことができるのです。

神の喜びに入れられて
 30節には、主人の厳しい言葉がこのように語られています。「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。この主人の、そして神の厳しさに私たちは畏れを覚えます。確かに神は、私たちを愛してくださる方であるだけでなく、私たちを甘やかさない方でもあります。神は、私たちが神から与えられたタレントを生かそうとしないこと、無駄にしてしまうことにお怒りになる方でもあるのです。けれどもこの厳しい言葉を通して、神が私たちに語りかけているのは、「一タラントン受け取った僕のように生きないでほしい」ということです。そのように生きるのではなく、神から与えられたタレントに感謝し、ほかの人と比べるのではなく、独り子を十字架にかけるほどの神の愛の中で、失敗を恐れず、自分のタレントを本当に生かして生きてほしい、ということなのです。主人は、五タラントンと二タラントン儲けた僕たちに、「主人の祝宴に入りなさい」と語っていました。「祝宴」と訳された言葉は、「喜び」という言葉です。神は、私たちが神から与えられたタレントを精一杯生かして生きることを喜んでくださいます。この神の喜びに入れられて生きなさいと、神は私たち一人ひとりを招いておられるのです。

タレントが生きる人生
 独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに私たちを愛してくださる神は、私たち一人ひとりに、異なってはいても、豊かなタレントを与えてくださっています。そしてそのタレントを用いて生きようとする私たちを決してお見捨てになりません。私たちは御子キリストの父なる神を信じ、自分とほかの人を比べるのではなく、神の愛と守りに信頼して、自分に与えられたタレントを本当に生かして生きていくのです。このように生きることこそが、「タレントが生きる人生」です。その人生は、様々な苦しみや悲しみに直面することがあっても、まことに幸いな、神が喜んでくださる、充実した人生に違いないのです。

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