説教「クリスマスの星」 牧師 藤掛順一
新約聖書 マタイによる福音書第2章1-23節
世界は闇に覆われている
皆さん、横浜指路教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。今年はあいにく、冷たい雨の降るクリスマスとなりましたが、皆さんとご一緒に、イエス・キリストの誕生をお祝いすることができることを喜んでおります。
今、旧約聖書イザヤ書第60章1〜3節が朗読されました。その2節には「見よ、闇が地を覆い、密雲が諸国の民を包む」とありました。2025年が終わろうとしている今、この世界はまさに闇に覆われ、密雲に包まれています。ロシアのウクライナ侵攻による戦争はまもなく丸四年になろうとしていますが、なお停戦のめどが立っていません。イスラエルとハマスの戦いは一応停戦とはなっていても、なお犠牲者が出ており、この先どうなるのかはわからないし、ガザ地区の人々の生活は破壊されたままです。タイとカンボジアの間でも戦闘が起っており、多くの難民が出ています。その他にも内戦が起っているところ、対立が深まっている地域が世界のあちこちにあります。また、温暖化による気候変動が顕著に現れてきており、今年も大規模な水害が世界各地で起りました。日本でもまた大きな地震が起こり、東日本大震災クラスの巨大地震がいつ起っても不思議でない、と警告されています。本日も献金を募りますが、まもなく2年となろうとしている能登半島地震の被災地の復興はなかなか進みません。また今、多くの国々で、自国の利益だけを追求しようとする風潮が強まっており、それがぶつかり合っています。国の存立が脅かされるような事態が迫っている、と盛んに語られるので、軍事力を増強してそれに備えなければ、という主張が説得力を持って聞かれるようになり、その中で、日本も核兵器を持つべきだ、という発言が首相の周辺でなされました。このような発言は国々の緊張関係をますます深めていきます。今まさにこの世界は闇に覆われ、密雲に包まれて先の見えない状態になっているのです。
曙の輝きに向かって歩む
イザヤ書60章は、そのように闇と密雲に覆われている世界を見つめつつ、1節で、「起きよ、光を放て。あなたの光が来て/主の栄光があなたの上に昇ったのだから」と言っています。2節の後半にも「しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる」とあります。闇に覆われ、密雲に包まれているこの世に、主なる神が光を放って輝き出で、主の栄光が現れて、闇の中にいるあなたがたを明るく照らす、という希望を語っているのです。そして3節には、「国々はあなたの光に向かって歩み/王たちはあなたの曙の輝きに向かって歩む」とあります。ここに大事なことが語られています。つまりイザヤ書は「主の栄光が現れて、あなたを明るく照らす」という希望を語っていますが、その希望は、主なる神の栄光が現れれば、電灯のスイッチを入れると暗い部屋がパッと明るくなるように、闇も密雲も無い明るく平和な世界がたちまち実現する、というものではないのです。闇に覆われているあなたがたの上に、主の栄光が現れる、しかし、闇と密雲に覆われている地がその栄光によって明るく照らされることは、国々がその光に向かって歩み、王たちがその曙の輝きに向かって歩むことによって実現するのです。つまり主なる神の栄光は、突然パッと輝いて世界を明るく照らすのではなくて、曙の輝きとして次第に現れ始めるのです。その光を見た者が、そこに向かって歩んで行ってこそ、主の栄光は次第にはっきりと現れ出て、地を覆っている闇と密雲を一掃し、全地を照らすのです。だから国々の人々は、また国々を支配している王たちは、主なる神が示して下さった曙の輝きのもとに来て、主なる神の栄光に照らされて生きる者とならなければならないのです。私たちも、主なる神の栄光がある日突然輝いて、闇に覆われたこの世がパッと明るくなり、全てがハッピーになることを願い求めるのではなくて、主なる神が示して下さった曙の輝きを見つめ、そこに向かって一歩一歩歩んでいく者となることをこそ願い求めていきたいのです。
東方の博士たち
主なる神がご自身の栄光を表し、曙の輝きを示して下さった、それがクリスマスの出来事、神の独り子主イエス・キリストの誕生です。先ほど、イザヤ書60章と並んでマタイによる福音書第2章の、イエス・キリスト誕生の物語が朗読されました。そこには、イエス・キリストがこの世にお生まれになった時に、イエス・キリストのもとへとはるばる歩んで来た人々がいたことが語られていました。それは東方の博士たちです。彼らは、神の民であるユダヤ人の王の誕生を、ということは世界の救い主の誕生を知って、その方を拝むために、遠い東の国からはるばる旅をしてきたのです。そして幼子イエスをひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。よく「三人の博士」と言われますが、聖書に三人とは書かれていません。彼らが献げた贈り物が三つだったので三人だろうと思われているのです。イエス・キリストの誕生を、つまりクリスマスを、世界で最初に喜び祝ったのは、マタイによる福音書においてはこの東方の博士たちでした。そして伝説によれば、この博士たちは、東の国の王たちだったとも言われています。だとしたら彼らの来訪は、イザヤ書が語っていた「王たちはあなたの曙の輝きに向かって歩む」という預言の実現だったと言えます。闇と密雲に覆われたこの世界に、主なる神が独り子イエス・キリストを生まれさせて、その栄光を輝かし始めて下さった時、その曙の輝きに向かって、この王たち、博士たちは遠くの地からはるばる歩んで来たのです。先ほど、私たちも、主なる神が示して下さった曙の輝きに向かって歩んで行く者となることをこそ願い求めたい、と申しました。つまり私たちも、この博士たちのように、イエス・キリストのもとへと歩んで行きたいのです。そのことはもう実現しています。私たちは今宵、それぞれの生活の場から、お生まれになった主イエス・キリストを礼拝するために、この讃美夕礼拝にやって来たのです。私たちも、東方の博士たちと同じように、主が示して下さった曙の輝きに向かって歩んで来たのです。今私たちは、この東方の博士たちと同じことをしているのです。
星に導かれて
博士たちは、ユダヤ人の王である救い主の誕生を、星によって示されました。彼らは毎日星を見上げて観測していたのです。それによって、世界や国々に起ることを知るためです。だから彼らは「占星術の学者たち」とも言われています。それが当時の最先端の学問であり、それはまた彼らが王として国を治めるために必要なことでもありました。そのように彼らは、星を見上げていて救い主の誕生を知ったのですが、それは自然の観察によって救い主の誕生を突き止めた、ということではありません。この星は彼らが発見したのではなくて、神が彼らに示して下さったのです。この話はそのことを語っています。彼らはエルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねました。当時ユダヤの王だったヘロデは、彼らの言葉によって、将来自分の王位を奪う者が生まれたという不安を抱きました。祭司長や律法学者たちに調べさせて、メシアはベツレヘムに生まれるという預言を知ったヘロデは、博士たちに、幼子の居所を突き止めて自分に知らせることを依頼して、彼らをベツレヘムに送り出しました。新たに生まれた王を今のうちに殺してしまうためです。すると、彼らが東方で見たあの星が再び現れて、彼らに先立って進み、幼子のいる場所の上に止まった、と9節にあります。このようにこの星は、いつも見えていたわけではありません。現れたかと思ったら見えなくなり、本当に必要な時に再び現れて彼らを幼子イエスのもとに導いたのです。つまり彼らは神が輝かせて下さった星によって救い主の誕生を知り、その星に導かれて主イエスのもとに来たのです。私たちにも同じことが起っているのではないでしょうか。私たちが今こうしてこの讃美夕礼拝に集っているのは、神が私たちそれぞれに星を示して下さったことによってです。私たちはそれぞれが生活している場で、星を見たのです。家族や友人の誰かが、このクリスマス讃美夕礼拝に誘ってくれたことによってその星を見たのかもしれません。教会が配っている讃美夕礼拝のチラシによってこの星を見たのかもしれません。あるいはクリスマスをどう過ごそうかと自分でいろいろ調べ検索していて、この教会のホームページと出会い、讃美夕礼拝のことを知った、そのようにして星を見たのかもしれません。神さまが、何らかの仕方で示して下さった星に導かれて、私たちはそれぞれの日常の生活から、この讃美夕礼拝の場へと旅をしてきたのです。つまり東方の博士たちと同じことが今私たちにも起っているのです。
『まぶねのかたえに』の中の祈り
今年出版された素敵なクリスマスの本をある方が私にプレゼントして下さいました。『祈りのクリスマス・カレンダー まぶねのかたえに』という小さな本です。クリスマスに関係する美しい写真と共に、12月1日から25日までの毎日の祈りの言葉が記されています。その祈りを書いたのは、今年教会の牧師を隠退なさった小島誠志先生という方です。24日、つまり本日の祈りに、東方の博士たちのことがとりあげているので、それをご紹介したいと思います。
(著作権上の問題があるため、祈りの言葉は省略)
ただ星を見上げて旅をする喜びと平安
東方の博士たちは、地図を持たず、道案内もなく、ただ星を見上げて旅をしました。それはまことに危うい、不用心な旅でした。しかもその星は、先ほど申しましたように、いつも見えていたわけではありません。見えなくなってしまって、いつ現れるか分からない、つまりいつも道を示してくれているわけではない不確かなものなのです。また星は、明るい光の中ではなく、闇に覆われている現実の中でこそ輝きます。ヘロデが彼らをベツレヘムへと送り出したのは、幼子イエスを捜し出して殺してしまうためでした。博士たちは、ヘロデの憎しみの闇に飲み込まれ、利用されようとしていたのです。しかしその闇の深まりの中で、神さまがあの星を再び輝かせて下さり、彼らを幼子主イエスのもとに導いて下さったのです。「博士たちはその星を見て喜びに溢れた」と10節にあります。これほど危うい不用心な旅はないと思われる、ただ星を見上げての旅によって彼らは、救い主を捜し当てた喜びに溢れ、携えてきた献げ物をささげ、まるで生涯の大事をなし終えたように、安らかに帰って行くことができました。神が夢で彼らに「ヘロデのところへ帰るな」と告げて下さったので、イエスを殺そうとしているヘロデの闇に飲み込まれ、利用されずにすんだのです。
喜び、平安を失っている私たち
この東方の博士たちの姿は、神さまが示して下さった星を見上げ、神さまに導かれて曙の輝きに向かって旅をしていくところにこそ与えられるまことの喜び、平安を示しています。それに比べて私はというと、とこの祈りは語っています。私はというと、足元に気を配りながら、地図をにらみながら、しかし結局はどこにも辿り着けない旅をしているのではないだろうか。今の私たちには地図だけでなくGPSだってあります。カーナビに目的地を入力すれば、途中どこを走っているのかは全然分からなくても、目的地に到着できてしまうのです。そのように確かな道案内があるはずなのに、私たちの人生の旅路にはあの喜びや平安が失われています。この旅を続けても結局どこにも辿り着けないのではないか、という不安を感じているのではないでしょうか。
平和の祈りを祈りつつ
この讃美夕礼拝で私たちは毎年、世界の平和を祈り願っています。私たちだけでなく、世界中の人々が平和を願って祈っており、そのための努力もなされています。でも平和はなかなか実現しません。いくら努力しても、結局平和に辿り着くことはできないのではないか、と不安に思います。だから私たちも、あの博士たちのように、神さまが示して下さった星を見上げて歩むところに与えられる喜びと平安にあずかりたいと願うのです。この祈りの最後の、「神さま、私にも博士たちを導いたあの星を見上げさせてください」という願いは、私たち皆の願いだと言えるでしょう。しかし先ほどから申していますように、その願いは既に叶えられています。神さまは私たちにもあの星を示し、見上げさせて下さって、私たちをそれぞれの生活の場からこの讃美夕礼拝へと歩ませて下さったのです。そして救い主イエス・キリストを礼拝する喜びを与えて下さったのです。私たちは確かに、闇に覆われた現実の中を生きています。私たち自身の中にも、ヘロデと同じように、自分が王であり続けようとする思いがあり、邪魔になる主イエスを無視し、抹殺してしまおうとする罪があります。そのような私たちの罪の闇こそが、平和を妨げているのです。この闇の現実の中に、神さまは独り子主イエス・キリストを生まれさせて、クリスマスの星を輝かせて下さいました。クリスマスに生まれた主イエスは、父なる神のみ心に従って、私たちの罪を全て背負って下さって、十字架の死に至るご生涯を歩まれました。そして復活して今も生きておられる方として私たちと共にいて下さいます。主イエスは既に罪と死の力に勝利して下さっているのです。クリスマスの星に導かれて主イエスを礼拝するためにここに集った私たちは、その主イエスに導かれて、なお罪の闇に覆われており、平和への道が見えないこの世を、しかし希望を失うことなく旅していくことができるのです。
その旅路を導いてくれる、アッシジのフランチェスコの「平和の祈り」を今年もご一緒に祈りたいと思います。この祈りを祈りつつ歩むことこそが、主が示して下さった曙の輝きに向かって歩むことです。私たちがそのように歩んでいくところにこそ、主の栄光が輝き出で、闇と密雲に覆われた地が明るく照らされ、主による平和がもたらされていくのです。