召天者記念

眠りについた人たち

2025年9月21日 召天者記念礼拝
説教題「眠りについた人たち」 牧師 藤掛順一

詩編 第16編1〜11節 
テサロニケの信徒への手紙一 第4章13〜18節

眠りについた人たち
 本日の礼拝は召天者記念礼拝です。この教会において信仰の生活を送り、先に天に召された方々のことを覚えてこの礼拝を守ります。お手元には召天者の名簿をお配りしました。これは1999年以降に天に召された方々の名簿です。この教会は今年151周年を迎えたのですから、これらの方々より以前に天に召された方々も沢山おられます。その数はもう正確には分かりません。まさに数えきれない人々が、この教会に連なって信仰の生涯を歩み、そして主のみもとに召されていったのです。その中に自分の家族がいる、という人もいるし、よく知っており、親しくしていた人たちがいる、という人も多いでしょう。しかしもう一方で、全く知らない、会ったこともない召天者もいます。それら全ての召天者の方々のことを覚えて私たちはこの礼拝を守っているのです。しかし、よく知っている人ならば、いろいろな思い出があり、覚えることができますが、何の記憶もなく、どんな人だったかを全く知らない多くの人たちについては、いったい何を覚えればよいのでしょうか。先ほど朗読されたテサロニケの信徒への手紙一の第4章13節以下がそのことを示してくれています。13節には、「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」とあります。「既に眠りについた人たち」、それが召天者のことです。召天者とは、「眠りについた人たち」なのです。私たちが召天者の方々について先ず覚えるべきことはこれです。それは、私たちがその方々のことを知っているかどうかとは関係なく、全ての召天者について共通して覚えることができることです。

死者の復活の希望
 そしてここには、その「既に眠りについた人たちについて」、「ぜひ次のことを知っておいてほしい」と語られています。眠りについた人たち、つまり召天者について、私たちが知っておかなければならないことがあるのです。それをしっかり知ることが、召天者を正しく覚えることになるのです。その「ぜひ知っておいてほしいこと」とは何なのでしょうか。それが14節に語られています。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。既に眠りについた召天者たちについて、私たちはこのことを知っておかなければならないのです。「イエスを信じて眠りについた人たち」と言われています。召天者たちは、イエスを信じて眠りについた。つまり主イエス・キリストを信じる信仰をもってこの世を生き、そして死んだのです。私たちが今日覚えている召天者は基本的にそういう人たちです。そしてここには、神がその人たちをも導き出して下さる、と語られています。神が導き出して下さるとはどういうことでしょうか。14節の前半には「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています」とあります。主イエス・キリストが十字架にかかって死んで復活した、教会はそのことを信じており、召天者の方々もそれを信じて教会に連なって歩み、そして眠りについたのです。主イエスの復活は、主イエスが自分の力で死に勝利して生き返ってきた、ということではありません。聖書は、父なる神が主イエスを復活させて下さったと語っています。つまり主イエスの復活は、父なる神のみ業であり、神が死の力に勝利して、主イエスを死の支配下から導き出して下さった、という出来事だったのです。私たちはそのイエスの復活を信じている。それゆえに、「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」とも信じているのです。ですからこの「導き出してくださる」は、死の支配下から導き出して、新しい命を与えてくださる、ということ、一言で言えば復活させて下さるということです。イエスを信じて眠りについた召天者の方々を、神は復活させて下さるのだ、と語られているのです。
 その根拠は、主イエスが死んで復活したことです。十字架にかかって死んだ主イエスを、父なる神が復活させて、新しい命、もはや死ぬことのない永遠の命を与えて下さった。それと同じように、イエスを信じて眠りについた者たちにも、つまり洗礼を受けて主イエス・キリストと結び合わされて地上を歩み、そして眠りについて今は死の支配下に置かれている召天者の方々にも、父なる神は、死の力を滅ぼして新しい命を与え、復活させて下さるのです。主イエスの復活によって私たちにはそういう希望が与えられている。そのことをぜひ知っておいてほしいと、この手紙を書いたパウロは語っているのです。

希望を持たないほかの人々
 13節に戻りますが、「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために」とあります。この「希望」とは、今申しました、イエスを信じて眠りについた人々を父なる神が導き出して下さる、復活させて下さるという希望です。イエスを信じて眠りについた人たちはそういう希望を与えられているのです。しかしイエスを信じていない人はそういう希望を持っていない、それが「希望を持たないほかの人々」です。このように言うと、信仰者とそうでない人々を差別している、という反発を受けるかもしれません。しかしこの復活の希望の根拠は、先ほども確認したように、「イエスが死んで復活したこと」です。イエス・キリストの十字架と復活による救いを信じて洗礼を受けた者にこの希望は与えられているのです。イエスを信じていない人は、この希望を持っていません。イエスを信じないというのは、復活の希望などないと考えているということですから、その人がこの希望を持っていないのは当然です。つまりパウロはここで、イエスを信じて眠りについた人たちには、イエスの復活にあずかって新しい命を生きる者とされるという明確な希望が与えられている。そこに、イエスを信じることなく死んだ人たちとの大きな違いがある。私たちはこの希望を与えられているのだから、既に眠りについた召天者たちについても、またいつかこの名簿に加えられていく自分自身のことについても、嘆き悲しむことはない、と言っているのです。

眠りについた者は目覚める
 イエスを信じて眠りについた人たちには、イエスと共に復活する希望が与えられている。召天者について私たちが覚えておくべき最も大切なことはこれです。ここで、死んだことが「眠りについた」と表現されているのは、その眠りつまり死から目覚めて復活する時が来る、ということを意識しているからなのです。ですから死ぬことを「永眠」と表現するのは、聖書の信仰においては間違っています。イエスを信じて眠りについた人たちは、永遠に眠り続けるのではなくて、そこから目覚めて新しい命、永遠の命を、主イエスと共に生きる者とされる時が来るのです。その時とは、復活して天に昇られた主イエスが、世の終わりにもう一度来られる、いわゆる再臨の時です。洗礼を受けてイエス・キリストの体である教会の一員とされ、主イエスの十字架と復活による救いにあずかって生きた信仰者は、死んで眠りについても、それで終わりではなく、世の終わりに主イエスがもう一度来られる救いの完成の時に、死の眠りから目覚めて、復活して永遠の命を生きる者とされる。そういう希望を与えられているのです。
自分の復活を信じないなら、信仰がないのと同じ
 パウロがここでそのことを「ぜひ知っておいてほしい」と言っているのは、そのことを知らない、つまり復活の希望を見つめていない信仰者が当時も多かった、ということでしょう。しかし復活の希望を知らなければ、信仰を持っていない他の人々と同じように嘆き悲しむことになってしまう、とパウロは言っているのです。つまり、イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを信じているとしても、神が自分にも復活と永遠の命の約束を与えて下さっていることを信じていないなら、それは神を信じているとは言えないのです。イエスが死んで復活されたと信じるとは、つまり主イエスの十字架と復活による救いを信じるとは、神が召天者の方々をも、そして今生きており、いつか召天者の群れに加えられる自分たちをも、世の終わりに復活させ、主イエスと共に永遠の命を生きる者として下さることを信じる、ということなのです。教会は、この信仰によって、召天者の方々のことを覚えているのです。

テサロニケ教会の動揺
 15節には「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」とあります。ここには、最初の頃の教会の人々が、主イエスの再臨による救いの完成が、自分たちが生きている間に実現する、と信じて期待していたことが反映しています。パウロ自身もそう考えていたことが、「主が来られる日まで生き残るわたしたち」という言葉からわかります。彼は自分が生きている間に主イエスがもう一度来て下さり、新しい命、永遠の命を与えて下さる時が来る、と信じていたのです。テサロニケ教会の人々もそのように信じ、そういう期待をもって歩んでいました。ところが、そのように歩む内に、教会のメンバーの中で、眠りにつく人、つまり死んでしまう人が出始めたのです。そのことが、教会の人々に動揺を与えました。救いの完成にあずかる前に死んでしまった人がいる、自分もそうなるかもしれない、そうなったら救いはどうなるのだろう、という心配が生まれてきたのです。15節のパウロの言葉は、そのように心配している人たちへの語りかけです。「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」。つまり、生きて主イエスの再臨を迎えなければ救いにあずかれないということはない、だから既に眠りについた人たちのことを心配する必要はないし、自分が再臨より前に死んでしまうことがあっても、そのことを嘆き悲しむ必要はない、再臨まで生き残るとしても、その前に死ぬとしても、私たちに与えられる救いは変わらないのだ、とパウロは言っているのです。
 その根拠が先ほどの14節の「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」ということです。主イエスを死人の中から復活させた神が、私たちをも、死人の中から導き出して、復活させ、永遠の命を与えて下さるのです。16、17節には、主イエスの再臨の時に、死んだ者たちがまず復活して、それから、生き残っている者たちも共に雲に包まれて引き上げられ、天から降って来られる主イエスをお迎えするのだ、と語られています。こうして、既に死んだ者もなお生き残っている者も、主イエスと共にいる者とされ、新しい命、永遠の命にあずかるのです。「イエスが死んで復活された」ことによる救いを信じる者にはそういう希望が与えられているのです。

信仰の中に死が位置づけられているか
 この手紙が書かれてからおよそ二千年後を生きている私たちは、もはやテサロニケの人々のように、主の再臨の前に死んでしまったらどうしよう、と心配してはいません。しかし彼らの心配、信仰の動揺は、より深く捉えるならば、彼らが、主イエス・キリストを信じる信仰の中に、死ぬことを位置づけることができていなかった、ということです。死んでしまったら神の救いが失われる、と彼らは思っていたのです。それに対してパウロは、「それは違う。死ぬこともまた、主イエスによる神の救いの恵みの中にあるのだ、死の力も、神の恵みから私たちを引き離すことはできないのだ」と言っているのです。
 テサロニケの人々は、主イエスを信じて「生きる」ことしか考えていませんでした。主イエスを信じて救いにあずかり、苦しみ悲しみに負けない者となって、喜ばしい人生を歩んでいく、彼らは信仰をそのように捉えていたのです。つまり信仰において「生きる」ことしか考えておらず、「死ぬ」ことを見つめていなかったのです。だから、死の現実が迫ってきたときに、動揺し、嘆き悲しみに陥ったのです。パウロはそれに対して、「死ぬ」ことも、主イエスを信じて生きる私たちの信仰の中に、ちゃんと位置を持っているのだ、死においても私たちは神の恵みの中にあるのだ、と教えているのです。彼がそのように語ることができた根拠が、「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています」ということです。主イエスの死と復活による神の救いを信じるならば、死を、あってはならないとんでもないこと、救いの恵みの喪失のように思ってあわてふためく必要はもはやないのです。私たちはいつか必ず死の力に捕えられ、その支配下に置かれます。けれども、神は最終的には死の力を滅ぼして、復活と永遠の命を与えて下さるのです。「生きる」ことにおいても、「死ぬ」ことにおいても、私たちは神の恵みの下にあり、復活と永遠の命という救いの完成の約束を与えられているのです。

死を見つめつつ希望に生きる
 私たちも、信仰において「生きる」ことしか見つめていない、という間違いに陥ってはいないでしょうか。主イエスを信じる信仰によって、苦しみや悲しみの中でも神の恵みに支えられて生きることができる、それは勿論、信仰によって与えられる大きな恵みです。けれども神の恵みはさらに深く、広いのです。主イエスを信じてその救いにあずかるならば、私たちは、神の恵みの中で生きることができるだけでなく、神の恵みの中で死ぬことができるのです。神が死の力を滅ぼして復活の命と体を与えて下さるという希望の中で肉体の死を迎えることができるのです。主イエス・キリストを信じて生きる信仰は、死に目を塞いで、見ないようにするところに成り立つのではありません。主イエスを信じる者は、死をしっかり見つめつつ、神の恵みの中を喜んで、希望をもって生きることができるのです。このことをぜひ知っておいてほしい、とパウロは言っているのです。
絶望と希望
 主イエスの十字架と復活による救いは信じるけれども、自分自身の復活は信じられないとしたら、それは私たちが、テサロニケの人々と同じように、信仰において「生きる」ことしか見つめていない、ということです。この世の人生において慰めを与えられ、喜びと感謝の内に生きることだけを求めているなら、世の終わりにおける復活と永遠の命などはピンと来ないし、そんなものには魅力を感じないでしょう。しかしそこに働いているのは、この世の何十年かの人生において、信仰が何がしかの慰めや安らぎを与えてくれればそれでよい、という思いです。それは、私たちを最終的に支配するのは死の力だ、ということを動かし難い事実として受け入れて、死ぬまでの間の人生を、信仰によって何とか平安に歩もうとしている、ということです。死んだら天国だか極楽浄土だかというところに行って安らかに暮らせる、という教えもそれと同じです。天国も極楽浄土も、死が最終的な支配者であることをあきらめて受け入れるために人間が考え出した教えです。その根本にあるのは、死の圧倒的な力の前での、形を変えたあきらめと絶望でしかありません。
 けれども聖書は、あなたがたの人生の最後の支配者は死ではない、死を打ち滅ぼし、新しい命を与えて下さる神がおられるのだ、と語っています。あなたがたを、そしてこの世界を、本当に支配しているのはこの神の恵みだ。だからあなたがたは、希望をもって生きることができるし、希望の中で死ぬことができる、と聖書は宣言しているのです。その希望が、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現し、私たちに与えられているのです。

いつまでも主と共にいることになる
 主イエスの十字架の死と復活によって実現し、私たちに約束されている復活と永遠の命は、復活して天に昇られた主イエスが父なる神のもとからもう一度来られる主の再臨において実現します。その時には、「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響く」とあります。これらのことは、主イエスがこの世界を支配し、裁く方として来られることを言い表しています。十字架の死と復活によって実現したけれども今は隠されている、主イエス・キリストによる神の恵みのご支配が、再臨においてあらわになり、完成するのです。その時、私たちを今支配している死の力も滅ぼされて、永遠の命を生きる新しい体が与えられるのです。それはどんな体で、どんなふうに復活するのか、ということは私たちにはわかりません。ただ一つはっきり語られているのは、17節の後半、「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」ということです。主イエスの再臨において死の力が滅ぼされ、復活の恵みにあずかる時、私たちは、死から目覚めて、いつまでも主イエスと共にいる者とされるのです。ここに、私たちの究極の希望があるのです。

希望を共有している召天者と私たち
 18節には、「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」とあります。教会は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神が私たちにも復活と永遠の命を与えて下さるという究極の希望に生きる群れです。教会において私たちは、この信仰によって互いに励まし合うのです。人生には様々な苦しみ悲しみがあります。神のご支配は隠されていて、死の力の方がむしろ強いのではないか、と感じられることが多々あります。最後に支配するのはやはり死の力なのではないか、だからむしろそれを受け入れて、その中で平安、安らぎを求めていった方が現実的なのではないかという、実は絶望への誘いを受けることがしばしばです。そのような中で私たちは、「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」というみ言葉によってお互いに励まし合い、絶望と戦っていくのです。召天者の方々も、教会に連なって、この信仰により励ましを受けつつ生きたのです。み言葉によるこの励ましを受けることによって私たちは、死を「眠りにつくこと」と捉えることができるようになります。それは主が私たちを目覚めさせ、いつまでも主と共にいるようにして下さるという約束が、主イエスの再臨において実現することを示されるからです。私たちはこの希望によって信仰の人生を歩み、そして主の定めたもう時に、その希望の内に眠りにつくのです。先に眠りについた召天者の方々と私たちを結びつけているのは、私たちがその方々のことをどれだけ知っているか、懐かしく覚えているか、ではなくて、彼らも私たちも、死の支配から解放されて復活の命を与えられ、いつまでも主イエスと共にいる者とされる、という究極の希望を共有していることなのです。主イエスを信じる信仰によるこの希望こそ、彼らが私たちに遺してくれた信仰の遺産です。それを受け継いで、私たちも、死の力が滅ぼされて復活と永遠の命が与えられる、世の終わりの救いの完成を待ち望みつつ、自分に与えられている人生を走り抜いていきたいのです。

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