主日礼拝

だれを捜しているのか

説 教 「だれを捜しているのか」 神学生 佐藤潤
旧 約 イザヤ書第43章8-15節
新 約 ヨハネによる福音節書第18章1-11

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<だれを捜しているのか>
 主イエスは、ご自分を捕らえて殺そうと迫ってきた敵対者たちに対して「だれを捜しているのか」と問いかけています。敵対者とは、ローマ軍の兵士たち、祭司長やファリサイ派の手下たち、そして裏切りのユダです。この「だれを捜しているのか」との問いかけは、これら敵対者たちに向けてだけでなく、読み手である私たちに向けてのものでもあるでしょう。
「捜している」とは「求めている」とも訳すことができる言葉です。ですから、主イエスは、私たちに「だれを求めているのか」と問いかけて下さっているとも言えます。
 私は、4年前にただ主イエスにのみ従って生きていきたい、キリストの体である教会に仕えていきたいという思いを強く与えられ東京神学大学に入学いたしました。神学校での学びは、主イエスをより深く知りたい、キリストの体である教会に仕えるとはどのようなことなのか深く知りたいという思いで始まったのでした。しかし、このような自分の思いや願いだけで4年間学び続けることはできなかったと思うのです。この4年間の神学生生活を振り返りますと、主イエスが歩み寄ってくださり、「あなたはだれを求めているのか」と私に問いかけ続けて下さっていたのです。私の神学生生活はまさにその問いかけに対しての答えを求める4年間でありました。
 私たちは毎主日にはこのようにして教会に招かれ、主イエスに礼拝を捧げています。この礼拝で、主イエスのみ前に立たせていただいています。主イエスが、私たちひとりひとりに歩み寄って下さり、「あなた方はだれを捜しているのか」「だれを求めているのか」と問いかけて下さっているのです。私たちは、この問いかけに対してどのようにお答えすればよいのでしょうか。

<この世の闇に生きる人々>
 本日の聖書箇所、4節と7節で主イエスは「あなたはだれを捜しているのか」と問いかけています。この問いかけを誰に語られたのかが3節にあります。「ユダは一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。」主イエスが問いかけられたのは、冒頭で申し上げました通り、ローマ軍の兵士たち、祭司長やファリサイ派に属する人々、そして裏切りのユダです。兵士とは、ローマ帝国に仕える兵士です。一隊とは600人もの兵士たちからなると言われています。主イエスお一人を捕らえるためだけに、これほど多くの兵士が導入されたのは、主イエスを逮捕するために、軍事的な行動として準備されたということです。それほどユダヤの祭司長やファリサイ派の宗教指導者たちは主イエスを恐れていたのです。なぜなら、主イエスは、人知を越えた奇跡を数多く行い、多くの民衆に支持されていたからです。これまで培ってきた自分たちの宗教指導者としての地位を失いかねないこと、自分たちこそが律法を守り神に従ってきたことの自信と誇りを失うことを非常に恐れていたのです。ですから、この世を暴力によって支配する政治権力と結託して、主イエスを殺すために万全の体制で捕らえにきたのです。
 これら敵対者たちの特徴は、規則や慣習、そして暴力によって人々を支配、コントロールしようとしているということです。彼らは、主イエスのまことの光を受けて愛と平和に生きるのではなく、自分のもっている松明、ともし火だけを頼りにして生きているのです。すなわち、自分のもっている明かりである、自分の思いや願い、力だけに頼って生きている人々です。他者を思いやり、大切にし、愛するのではなく、自分を守るために他者を暴力や束縛によって支配しようとしている人々です。彼らは、この世の闇に生きる人々を象徴しています。

<この世の闇の代表ユダ>
 そして、ユダは、この世の闇に生きる人々の代表としてこの福音書では語られています。例えば6章71節では、「ユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」とあり、また12章4節では「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダ」とあり、主イエスを裏切ることが前もって明らかにされています。同じ章の6節には、「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」とあり、ユダの金銭欲の強さが語られています。そして、13章に記されている最後の晩餐の場面では、主イエスからパン切れを受け取ったユダの中にサタンが入り、主イエスを裏切る行動へと駆り立てたことが語られています。これらユダについて語られていることは人ごとではありません。主イエスの弟子とされている私たちキリスト者にもあり得ることです。私たちの中にもサタンが入り、サタンの誘いによって主イエスを裏切る者になるということです。大変恐ろしいことです。サタンは、私たちの中に根強くある欲望、お金や名誉、権力を手に入れたいという欲求を利用して罪へと誘うのです。ユダは主イエスを受け入れて従うのではなく、お金への欲望に従っていったのです。このことによって、サタンが彼の中に入り、最終的に主イエスを裏切る行動をとらせたのです。これは、突然の出来事ではなく、ユダの心が徐々に神から離れていった結果です。神の恵みによって信仰を与えられ、主イエスに従う者とされている私たちも、油断し、この世の闇に身を任せて従い、主イエスから離れ続けるなら、サタンによって滅びに至る「滅びの子」となってしまうのです。

<自ら進み出ていくイエス>
 主イエスは問いかけます。4節、「だれを捜しているのか」です。他の福音書ではユダの接吻が主イエスを捕らえる合図でした。しかし、ヨハネ福音書では、主イエスが自ら敵対者たちの前へと進み出ていきます。そして「あなた方はだれを捜しているのか」「だれを求めているのか」と問いかけたのです。冒頭で申し上げました通り、この問いかけは、この福音書の読み手である私たちに対しても向けられています。
 毎主日、教会の礼拝で主イエスのみ前に立つ私たちは、主イエスを本当に求めているのか、主イエスを自分の思いや願いを叶えてくれるようなお方、自分勝手に都合の良い救い主としているだけなのか。主イエスが私たちに罪の赦しの救いを与えてくださった救い主として、そのみ前に心から平伏しているのか。これらのことが私たちに問われているのです。
 4節以降に、この世の闇を生きる人々がどのように応答したかが示されています。主イエスから「だれを捜しているのか」と尋ねられた彼らは、「ナザレのイエスだ」と答えます。そして、主イエスは「わたしである」と言います。この問答が2度繰り返されています。
 まず、4節で主イエスは敵対者たちに向かって「だれを捜しているのか」と問いかけます。彼らは「ナザレのイエスだ」と主イエスをナザレの田舎者と見下しています。すると主イエスは「わたしである」とおっしゃいました。すると6節にあるように、ユダを含む敵対者たちは「後ずさりして、地に倒れた」のです。それは、主イエスが進み出ていき、彼らを奇跡のわざによって手を下されたのではありません。ただ「わたしである」という主イエスのみ言葉によって、彼らは驚き、畏れ、後ずさりして、地面に倒れ、ひれ伏したのです。600人以上もの敵対者を後ずさりさせ、地面に倒させた主イエスのみ言葉「わたしである」とは一体何を意味しているのでしょうか。

<わたしはある>
 ここで、主イエスは、単に「わたしである」と彼らに名乗り出たのではありません。「わたしである」は、「わたしはある」「わたしはここにある」とも訳すことができる言葉です。「わたしはある」には、主イエスご自身が神であり、絶対的な権威と力の持ち主であることが表されています。それは、旧約聖書の出エジプト記3章14 節にその背景があります。
このようにあります。『神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われた、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」この箇所で、神ご自身が「かつてあり、いまもあり、これからもある」永遠の存在、絶対的な存在であると宣言しています。この「わたしはある」神が、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放するためにモーセを遣わされたのです。
 ヨハネ福音書では例えば8章58節で主イエスは、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と語っています。この福音書では、1章1節「言は神と共にあった。言は神であった」と、言である主イエスが神であり、天地創造の前から神と共におられた方であることが強調されています。神主イエスを目の前にして、「わたしである」と宣言を聞いた敵対者たちは、神の絶対的権威に圧倒され、訳のわからぬままに、後ずさりして、地面に倒れ、ひれ伏したのです。

<繰り返し問いかける主イエス>
 次に、7節で主イエスは、「だれを捜しているのか」と地面に倒れた彼らに対して繰り返し同じ問いかけをされています。なぜでしょうか。それは、主イエスが、彼らに対して「あなた方は本当に何を求めているのか分かっているのか」と、彼ら自身の行動を、再確認させるためだったかもしれません。また、彼らがなぜ倒れたのかをしっかりと自覚させる意味もあったのではないでしょうか。けれども、彼らは主イエスが神であることを理解することなく、ただ主イエスに対して繰り返し「ナザレのイエスだ」と見下して答えています。この世の闇を生きる人々は、頑なであり、盲目であり、不信仰のままであり、悔い改めることなく、神主イエスを信じて、従うことはなかったのです。先の1章5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とある通り、主イエスのまことの光をこの世の闇を生きている人々は理解できなかったのです。
 さらに主イエスは続けておっしゃいます。8節です。『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」わたしこそが、あなた方が捜しているナザレのイエスだ、この人々は去らせて、わたしだけを捕らえなさいと要求されたのです。主イエスは、再びご自分が神であることを宣言し、弟子たちを守るために、「この人々を去らせなさい」とご自分と共に捕らえられ、処刑されるおそれのある弟子たちを守りました。弟子たち、そして私たちにまことの命を与えるためです。神との新しい関係に生き、神との交わりに生きる永遠の命を与えるためです。この世の闇の中で信仰の戦いにさらされていとも簡単に負けてしまう弱き罪人である私たちを守るために、十字架の死へとおひとり自ら進んでいかれたのです。ここに自らの命をささげる神主イエスの愛があります。

<本来の私たちの姿>
 しかし、この場にいた弟子のペテロは、主イエスが守ってくださっているにもかかわらず、持っていた剣を抜き、振り回して、敵対者の1人であるマルコスに襲い掛かり右の耳を切り落としたのです。このペテロの姿は私たちの姿でもあるでしょう。私たちもペテロのように目の前にある脅威に対し、立ち向かっていかなければならない時もあるかもしれません。しかし、このように自分の力、目に見える力に頼ることは、「わたしである」神主イエスのみ言葉を信じ、主イエスが共にあって、守り支えてくださっていることを信じていないということです。主イエスの愛に生きるのではなく、自分を傷つけ、他人を傷つけ、互いに傷つけ合っているのです。このような弱さと罪にあるペテロそして私たちに主イエスはこのようにおっしゃいます。11節です。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」目の前にある脅威に怯え、剣を振り回して、他人を傷つけてしまう、弱い罪人である私たちのために、まったく罪のない神主イエスが、十字架の死を成し遂げること、父がお与えになった杯を飲み干す覚悟をもって進み出ていかれたのです。主イエスは、私たちに罪の赦しによる救いを与えるために十字架の死という苦い杯を飲み干してくださったのです。

<主イエスの証人とされている>
 先ほどお読みいただいたイザヤ書43章8節から15節に、「わたしである」神主イエスが、弟子たちを守り、自ら進んで出て行かれたのは、私たちキリスト者を、僕として選び、ご自分を証しする者として用いるためだ、ということが語られています。10節にこのようにあります。「わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう、わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。」ここにある「わたしこそ主」とある言葉は、聖書協会共同訳では、「それが私である」と訳されています。ここに、「わたしである」神が表されています。このイザヤ書の箇所で、「わたしである」神こそ救い主であり、目があっても見えない、耳があっても聞こえないあなたたちを選び、私の証人としたのだ、と宣言しています。しかし、そのようなことを言われても困ってしまうと思うかもしれません。この世の闇の中で主イエスを証ししていくことには多くの困難があるばかりでなく、サタンの猛攻撃によって、誘惑による信仰の戦いにもさらされているからです。私たちは、自分の力でサタンの攻撃から信仰を守り、主イエスを証ししていくことなど到底できません。いまだこの世の闇を歩み続けなければならない中で、苦しみや悲しみ、誘惑や試練があるといとも簡単に神から離れてしまう弱き罪人であるからです。主イエスは、このような私たちを救い、守り、支え、ご自分を証しするものとして用いるため、そして、主イエスのまことの光のもとに生きるのでなく、自分の持つ松明や灯火を頼りに生きている人々、主イエスの平和と愛に生きることを知らない人々、ユダをも含む、この世の闇を生きる全ての人々を愛し、その罪を赦すために、十字架の死へと自らの意志で進み出ていかれたのです。

<「だれを捜しているのか」への応答>
 私たちキリスト者は、神の恵みの選びによってすでに救いを与えられているけれども、いまだこの世の闇を生きており、さまざまな誘惑、試練にさらされています。ユダのようにこの世の闇に身を任せて、主イエスから離れ、サタンによって支配されてしまう危険に常にさらされています。ペテロのように自分の力に頼って、主イエスが守ってくださっていることを信じることができない罪と弱さにあります。このような私たちを、父なる神は、主イエスの十字架の死と復活によって、神の子としてくださり、キリストの体である教会へと今日も招いてくださっています。主イエスにひれ伏し、礼拝を捧げる者として下さっています。復活して今も天におられる主イエスが聖霊を与え続けてくださり、いつも私たちのそばにいて見守ってくださり、助け、支えてくださっています。この主イエスが、私たちに「あなた方はだれを捜しているのか」と問いかけ続けてくださっているのです。
 この主イエスの問いかけに対して、いまだこの世の闇を歩んでいる私たちをいつも守り、支えて下さり、もう1度この世に戻ってこられる日には、神と共に生きる永遠の命を与えてくださる救い主イエスです、と心の底から信頼して従っていくのです。この世の闇から救い出す命の光、世の光である主イエスのまことの光を受けて「光の子」とされている私たちキリスト者は、主イエスの光のもとを歩み、主イエスの愛と恵みを人々に届けていく者とされています。このことに感謝しつつ主イエスの十字架の受難を覚えるレントの時を歩んでいきたいのです。

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