夕礼拝

失われたものを捜す神

説教 「失われたものを捜す神」 伝道師 柳沼大輝
旧約聖書 詩編第130編1-8節
新約聖書 ルカによる福音書第19章1-10節

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。「失われたもの」、この表現は、聖書において、本来、あるべき神の御もとから、背を向けて遠く離れてしまっているものたちのことを言います。本日の箇所にも一人の「失われたもの」がいました。その名はザアカイ。彼は徴税人の頭でありました。
徴税人とは、当時、イスラエルを支配していたローマ帝国の管理下で、同胞であるユダヤ人たちから税金を取り立て、規定以上に取り立てたその差額で自らの私服を満たしていたものたちでした。当然、ユダヤ人たちからは、非難され、嫌われ、軽蔑されていました。
また、彼らは、異邦人たちと深い関わりを持ち、宗教的にも、神とはまるでかけ離れたような生活を送っていました。ザアカイはまさにそのような神に背き、神から遠く離れた生き方、「徴税人」になる道を自らで選び取った人物でありました。
徴税人という職業は、世襲制のように親から受け継いだり、誰かに依頼をされたりして就く仕事ではありません。徴税人になるには、その地方の監督者である総督がその地域の徴税人を募集する際に「徴税人」としての権利を、いわゆる現代のオークションのように誰よりも高額で落札する必要があります。つまり、ザアカイという人物は、誰かから依頼をされたり、頼まれたりしたわけではなくて、自らの意志で「徴税人」になることを決断し、その道を選択したのです。
彼は仲間たちから非難されようとも、軽蔑されようとも、そのリスクを負ってでも、金持ちになることを強く求めたのでした。神や他人のことなどそんなものは信用できない。信用できるのは自分、そして、目に見えるお金だけである。彼にとってはお金がすべてで、唯一の心の拠り所、自らが生きていくうえでの一番の心の支えでありました。
そうやって、彼は、神に背を向ける生き方を、神から遠く離れて行く生き方を自らで選び取ったのです。「ザアカイ」という名前には、ヘブライ語で「義しい」という意味が込められています。親が「ザアカイ」というその名前に託した「義しい人」、「純な人」とは、程遠い「失われたもの」としてのザアカイの姿がここにありました。
しかし、そんなザアカイの生き方を大きく変える一つの出来事が起こります。ある日、ザアカイは、主イエスという人物が自分の住んでいるエリコの町にやってくるという噂を聞きつけました。そして彼はぜひ、自分もその人を一目、見たいと願いました。新共同訳聖書では「イエスをどんな人か見ようとした」とありますが、厳密には「イエスを見ることを強く求めた、切望した」と訳すことのできる言葉です。 
彼は、徴税人たちのネットワークを駆使して主イエスという人物が今までに成し遂げられた出来事や奇跡、お語りになった言葉をいくらか聞き集めていたのでしょう。どうやら主イエスという人物が召し出した12人の弟子たちのなかには自分と同じレビという徴税人がいるということ。主イエスという人物は罪人や徴税人たちを招いて一緒に食事をしているということ。さらに主イエスがお語りになった羊飼いが99匹の羊を残して、迷い出た1匹を見つけ出すまで必死になって捜し回り、その失った1匹を見つけ出したら、皆で喜ぶというたとえ話。金持ちが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通り抜けるのよりも難しいというたとえ話。そして自らの涙と髪の毛で主イエスの足をぬぐった罪の女が赦されたという救いの出来事。
徴税人の仲間たちから掻き集めた、これら主イエスの驚くべき行動や言葉を聞いたとき、ザアカイ、彼のなかには、何か心揺さぶられるものがありました。今までの自分であったら、お金さえあれば、自分の心は十分に満たされていると感じていた。何にも心動かされるようなことはなかった。たとえ仲間たちから非難されようと、軽蔑されようと、まるで平気であった。神など、自分の人生とは関係ない存在だと思っていた。けれども今回は違う。主イエスというお方の話を聞くと、どうも心が落ち着かない。心が騒ぐ。この心のざわめきはいったい何だろうか。主イエスというお方を一目でよいから見てみたい。そのような魂の呻きを覚えながら、彼は「今日」という日を迎えました。
聖書ではこの途中のプロセスを一切、記しません。沈黙しています。後はその人物が取った行動によって判断せよと聖書は、私たちに語ります。今日という日、彼は主イエスとはいったいどのようなお方であるのか、どうしても一目、見てみたいと強く願いました。そうして、ザアカイはさぞかし立派であったであろう自らの豪邸を飛び出して、主イエスのもとへと急いで駆け出していきました。
けれども、いざ、通りに着くと、そこにはもうすでに大勢の群衆が押し寄せていました。ザアカイは群衆に遮られて、主イエスを見ることができません。彼は背が低かったからです。そんなザアカイに場所を譲ろうとする者など誰一人もいませんでした。ここにザアカイと群衆との関係性がよく現れています。日頃から、彼のことを憎み、嫌っていた多くの群衆がザアカイの前に立ちはだかって大きな「壁」となっています。そこで仕方なくザアカイはその壁を避けて、急いで走って先回りし、いちじく桑の木の上によじ登りました。
ここに主イエスをどうしても一目見たいと強く願いながらも、それでも直接、主イエスと出会おうとはしないザアカイの姿があります。彼はこのとき強引に群衆の波をかきわけて、主イエスに近づくこともできたかもしれません。直前の第18章に登場する一人の盲人のように「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」としきりに大声で叫び続け、主イエスを呼ぶこともできたかもしれません。しかし彼はそのような大胆な行動に出ることはしませんでした。ただ遠くから、ただ程よい距離に隠れて、一目、主イエスを見ることができれば、ただそれだけで、彼は十分でありました。
ザアカイはこのとき、直接的には、主イエスとの出会いを求めてはいませんでした。彼はまだ自らの魂が上げている神への憐れみ、救いを求める叫びに気づいてはいなかったのです。けれどもここで彼はけっしてどうでもよいと思っていることをしているわけではありません。自分では、まだ気づいていないけれども、彼の心の奥底には、彼の心を揺さぶる、神の憐れみを求める思い、神に救いを求めるたしかな叫びがありました。いい歳をしたおじさんが、慌てて走って行って木によじ登っている。この光景は傍から見たら、たいそう滑稽に映ったことでしょう。そんなことは、ある程度の立場と身分を持っているザアカイであれば、よくわかっていることでありました。しかし、ザアカイは主イエスのことをそこまでしても、どうしても一目でいいから、この目で見たいと強く願った。この主イエスを求めるうちなる叫びが、彼をこのような異常な行動へと駆り立てたのです。
突然、そんなザアカイに目を留めて、主イエスは、立ち止まり、彼のことをじっと見つめます。そして、木の下から彼に向かって語りかけられました。「ザアカイ」。彼は、主イエスから紛いもない自分の名前が呼ばれたとき、それはもうたいそう驚いたことでしょう。どうしてこの人は一度も会ったことがないはずの自分の名前を知っているのだろうか。どうして、この人は、神から離れてしまった、仲間からも嫌われている、こんな自分の名前なんか呼んでくれるのだろうか。「ザアカイ」と人からその名前を呼ばれる度に、どこか後ろめたさを感じてきた。その名の通りに「義しく」生きることのできない自分に苦しんできた。このままではいけないと感じながらも、もはや、自分の力ではどうすることもできなかった。そんな自分の名前を主イエスはたしかにこのとき呼んでくださった。
ザアカイはこのとき主イエスを一目、見ようと自分が主イエスよりも先回りしていると思っていました。しかし、実際はそうではなかったようです。神の御子である主イエスが自分よりも先回りして、自分のことを知ってくださっていた。自分の存在をずっと見てくださっていた。あの苦しかった過去も、傷みも、葛藤も、すべて知ってくださっているお方がここにいた。あの噂で聞いていた、たとえ話に登場する羊飼いのように、群れから離れてしまった1匹、失われた1匹を必死になって捜し回り、御自分のもとに連れ帰そうとしてくださっているお方がここにいた。
このとき、人の子、つまり、イエス・キリストは、失われたザアカイのことを捜し、救い出そうとしてくださっていました。主イエスはこう続けます。「急いで降りて来なさい」。乱暴に言うならば「そんな程よい距離に隠れていないで御自分のもとに早く来い。」主イエスからの強烈な命令です。主イエスは御自分のもとに「来い」とザアカイのことを招いてくださっている。
さらに、主イエスは続けます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。この言葉は、単なる主イエスの願望を表すような言葉ではありません。そうではなくて、この言葉は「あなたの家に泊まることになっている」、「泊まらなければならない」とすでに約束されている決定事項に基づく言葉であります。
つまり、主イエスがザアカイの名を呼び「降りて来なさい」と語りかけられた、その根拠は、神の救いの計画にあるのです。神の大いなるご計画のなかで、ザアカイの家に泊まることは、もうすでに決まっている。わたしは神の計画に従って、あなたの家に泊まらなければならない。そして、その計画はけっして誰も邪魔することはできない。いかなるものであっても、それを妨げることはできない。
ザアカイはこの主イエスの言葉を聞いたとき、はじめ、そんなの嘘ではないかと疑ったことでしょう。まさかこんな汚れた自分のところに、神に背を向けて、神から遠く離れて生きてきた自分のところに、主イエスが来てくださるなんて、そんなことありえるはずがない。何故なら主イエスと自分との間には、あの自分と群衆との間にあった壁のように、絶対に超えることのできない大きな壁があったではないか。しかし、主イエスはその高い壁を乗り越えて、ザアカイのもとにたしかに来て、彼に語りかけてくださいました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。」
ザアカイは、喜んで、急いで木の上から降りてきて、主イエスを自らの家に迎え入れようとしました。しかし、この光景を見ていた群衆は皆、揃ってこうつぶやきます。「あの人は罪深い男のところに行って宿を取った」。そこにいた人たちは皆、つまり、すべてのものたちが、ザアカイのもとへ行かれる主イエスの行動を批判しました。このときザアカイは感じたことでしょう。やはり自分は主イエスと出会うにふさわしい存在ではないのだ。こんな自分にそれほどの価値はない。今まで、あんなに神に背を向けてきた、神から離れて身勝手に生きてきた、仲間だって平気で裏切って、たくさん傷つけてきた、そんなどうしようもない自分が、今さら神に救われるなんて、そんな調子のよい話があっていいはずがない。思っていた通りだ。人間はそう簡単には変われないのだ。
けれども、この日、主イエスは、そんなことまるでお構いなしといった様子で、ザアカイの家のなかにたしかに入って来られました。そして、そこに留まりました。あなたが今までどんな罪に塗れた人生を歩んできたかなんて、わたしにはそんなの関係ない。わたしは他でもないあなたを捜してここに来たのだ。あなたをここから救い出さなければならないのだ。今、あなたに本当の生きる意味を、真実の愛を伝えなくてはならないのだ。だから主イエスは周りの批判など気にすることなく力強く宣言します。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい!」
今まで、ザアカイはずっとお金さえあれば、自分は一人でよいと思っていました。自分の力だけで十分に生きていけるとそう信じていました。自分には神など必要ないとそう自負していました。しかし、主イエスと出会ったとき、彼は気がつきました。自分の魂が上げている救いを求めるうちなる叫びに。そうです。ザアカイはずっと「孤独」であった。彼は、知らず知らずのうちに自らで築き上げた高い壁のなかで一人もがき苦しんでいました。道をさまよい、生きる意味を見失っていました。しかし、自分の力ではその壁を越えることも、壊すことも到底できなかった。けれども、主イエスが彼の名前を呼び「来い!」と語りかけ、御手を差し伸べてくださった、まさにそのとき、音を立てて壁が崩れ始めた。真っ暗闇であった、彼の世界にまるで朝日が昇るかのように、夜明けを告げる救いの朝が来た。このとき、生きる意味が、まことの道が、ザアカイの目の前に開かれました。
私自身、主イエスと出会う前、このザアカイと同じように、自らの力だけに頼って生きていました。神の支えなどいらない。神なんて自分の人生とは何の関係もない。そのように感じていました。神なしでも自分は十分に満たされているとそう信じでいました。しかし、高校二年生のとき、先天性の目の病気が悪化し、生きることに困難を抱え、埋めることのできない激しい空しさに襲われました。
そうして人生に行き詰まったとき、幼いころ、クリスチャンであった父親に連れられて通っていた地元の教会の礼拝に久しぶりに参加しました。そこで御言葉が語られたとき、不思議と涙が溢れて止まらなかったことを今でもはっきりと覚えています。
わたしはずっと自分の力だけで頑張って生きていると思っていました。しかし、心のどこかで、自分はずっと一人ぼっちだと感じていました。けれども実際はそうではなかった。神が先回りして、失われたわたしのことを捜し出し、そこからずっとわたしの名前を呼び続けてくださっていた。「来い!」と語りかけてくださっていた。神に背を向けて、神から離れて、神との間に大きな壁を築いていたのは他でもない、このわたしであるはずなのに、主イエスはわたしがいくら神から離れようと、それでもわたしと共にいてくださった。だからわたしは一人ではなかった。主イエスが、わたしの名前を呼び、わたしのことを招き続けてくださっていた。「早く降りて来なさい!」と。
木から降りてきたザアカイは、周りの批判にも負けず勇気をもって立ち上がり、主イエスに言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」彼は立ち上がって、もはや隠れることなく、主イエスと正面から向き合って宣言します。自分の唯一の拠り所であった財産の半分を貧しい人々に施します、と。
全額でなくて、半分でよいのかと感じる方もいるかもしれません。しかしここで問題となっているのは、その額ではありません。大切なのはザアカイが今まで強く握り締めていた、自分の心を支配していた財産を手放して、本当の意味で自分を生かしてくれる主イエスの愛、真実の愛を受け取ろうとしているということです。「来い!」と、自分を呼んでくださった主イエスに自らの身を、自分の人生を委ねよう、明け渡そうとしているということです。ここに主イエスによって、大きく変えられた、救われたザアカイの姿があります。「壁」を取り除かれて、新しく生きようとしているザアカイの姿があります。初めてその名前の通り「義しい人」となったザアカイの姿がここにあります。
さらにザアカイは「誰かから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返す」と、旧約聖書の律法に定められた規定以上の償いを約束します。ここに自らの過ちを顧み、生きる向きを変えて、隣人と共に主イエスの救いのなかを生きようとしているザアカイの姿があります。到底、人間は変わることなんかできないと思っていた。しかしそれは違った。主イエスとの出会いが、神に背いていた、神から遠く離れて、自らの力だけに頼って生きていた「失われた」ザアカイを、神と、そして隣人と共に生きる者へと大きく変えてくださった。まさに今日、彼の家に救いが訪れました。
主イエスは自らで築き上げた孤独という高い壁のなかで、自分では気づくことのできなかった魂の底から救いを求めて、声にならない叫びを上げていた、失われたザアカイを捜し、救ってくださいました。主イエスはザアカイと同じように失われた私たち一人ひとりの救いのためにも、そして、あなたの救いのためにも、この地上に人の子として生まれ、私たちと同じように誘惑を受けて、十字架にかかり、血を流し、傷みに叫び、死に渡されました。しかし三日目に復活し、今も生きてここに働いておられます。
主イエスは、今日、このときもこの礼拝を通して、神のもとから遠く離れてしまった、失われた私たち一人ひとりを捜し出そうと救いの計画を進めています。今日、この場においても、主イエスの救いの出来事がまさに起ころうとしています。
主イエスは、今日も、私たち一人ひとりの名を呼び「急いで降りて来い!」と語りかけてくださっています。それは十字架の赦しを備え、復活の主によって、新しい命を受けよとの、私たち一人ひとりへの神からの招きです。その主の招きに応えて、主イエスを喜んで自らのなかに迎え入れること、主イエスと一つに結ばれること、それが「洗礼」であります。9月初めの創立150周年記念礼拝では、1名の青年の洗礼入会と1名の青年の信仰告白を教会の仲間たちと共に喜び祝ったという嬉しい報告をお聞きしています。そのように主イエスは今日、このときもあなたの名前を呼んで、あなたに「来い!」と語りかけてくださっています。失われたあなたのことを必死になって捜し、どうにかして救い出そうとしてくださっています。人の子、主イエス・キリストが今日、この礼拝の場においても、私たちの救いのために、あなたの救いのためにたしかに生きて働いておられる。
今日まで続く、御言葉に心揺さぶられ、神に見出されたわたしの、そして皆さん一人ひとりの信仰の旅路は、ザアカイと同じようにたしかに今も神の大いなる救いの計画のなかにあります。その歩みはときに痛みを覚え、自らの弱さと向き合わされるような歩みであったかもしれない。苦しみを抱え、ときに涙し、深い孤独に心打ちひしがれそうな歩みであったかもしれない。しかしその歩みは「今日」というこの日にたしかに繋がっています。
自らで築き上げた高い壁のなかで一人もがき苦しんでいた、救いを求めて嘆き、ずっと心のなかで孤独に叫んでいた、そんな神から遠く離れ、失われていた私たちのことを捜し出し、神と共に、隣人と共に生きるものへと大きく変えてくださった、恵みに満ちた神の救いの計画、その御業が、あなたが、今日まで歩んできた人生の一歩一歩にたしかに証しされています。だからもうそんな高いところで一人、隠れている必要なんてありません。大丈夫、早く降りて来なさい。そして共に生きよう。共に笑おう。共に歩き出そう。
次週からいよいよ主のご降誕・クリスマスを待ち望むアドベントに入ります。主は失われたものを捜して救うために、この世に来てくださいました。そして私たちの名を呼び、わたしに、あなたに今日このようにして出会ってくださった。ここに神の救いがあります。生きる喜びがあります。「今日」この日まで主が伴い、守り導いてくださった神の恵みに感謝しつつ、共々に私たちを招く主の御声に「喜んで」応答していきたい。そして声高らかに宣言したい。「今日、救いがこの家を訪れた。あなたもアブラハムの子、神の子であります。」

私たちの名を呼び、私たちに「来い」と語りかけてくださる主イエス・キリストの父なる御神、
今日という日を、この礼拝のときを感謝いたします。
私たちはあなたに背を向け、あなたから遠く離れ、まさに失われたものでありました。しかし、あなたがそんな失われた私たちのことを捜し、救い出してくださった。わたしのもとに急いで来いとその御手を差し伸べてくださった。神様、ありがとうございます。あなたが「今日」まで与え続けてくださった、そのくすしき恵みと慈しみを思います。あなたの恵みがあったから、わたしは「今日」ここに生きております。今週もあなたの御声に聞き従い、あなたに信頼する歩みをなしていくことができますように。「今日」も私たちを守り、支え導いてください。クリスマスの主であられ、インマヌエルの主であられるあなたがいつも私たちと共にいてください。
この願いと感謝、私たちの救い主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン

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