主日礼拝

祈りつつ生きる

「祈りつつ生きる」 牧師 藤掛 順一
旧約聖書 詩編 第42編1〜43編5節
新約聖書 マルコによる福音書 第15章33〜34節

神との交わりに生きる
 信仰をもって生きるとは、祈りつつ生きることです。祈るとは、神さまに向かって語りかけること、つまり神さまと対話し、コミュニケーションを取ること、神さまとの交わりに生きることです。神さまとの交わりがなかったら、そこにあるのは信仰ではなくて、単なる思想です。思想は自分の心の中だけで完結するものですから、そこに祈りは必要ないのです。しかし神を信じる信仰に生きることは、ある思想に共鳴するとか、一つの考え方に立つことではなくて、神さまに従って、神さまとの交わりに生きることです。つまり信仰には相手があるのであって、自分の心の中だけでは完結しないのです。相手からの語りかけ、つまり神のみ言葉を聞き、それに応答してこちらからも語りかける、そういう双方向の関係、やりとりがなされて初めて信仰に生きることができるのです。それゆえに祈りは信仰に不可欠なものです。信じているが祈っていない、という人がもしいるとしたら、その人は神を信じているのではなくて、自分の考え、思想をめぐらしているだけなのです。

祈ることの難しさ
 祈ることはこのように信仰に生きることにおいてなくてはならないことです。しかし祈ることはとても難しいことでもあります。なぜなら、生まれつきの私たちは、本当の意味で祈ることを知らないからです。祈り「のようなもの」は誰でも知っているし、することができます。例えば大自然の中で人間がいかにちっぽけな存在であるかを思わされる時に、私たちは人間を超えた何らかの存在に対する畏敬の念を抱きます。そこには祈り「のような」感覚が生まれます。そういう畏敬の念は、いわゆる神仏に対しても向けられるわけで、神社やお寺で手を合わせて、家族の健康や平安、あるいは入試の合格などを願うことも祈りの姿だと感じるのです。けれどもそれらのことは、祈り「のようなもの」であって、本当の意味での祈りではありません。本当の意味での祈りは、先ほど申しましたように、祈る相手との双方向の交わりを前提としているのです。大自然に対する畏敬は、宗教的な感情ではあっても、双方向の交わりにはなりません。神仏に手を合わせて平安や入試の合格を祈願している人たちは、自分が祈っている相手の神なり仏なりとの交わりに生きているのでしょうか。そうではなくてただ自分の願いを一方的に述べているだけなのではないでしょうか。仏教や神道の信仰においては、祈りとはそういうものなのかもしれません。しかし聖書の信仰においては、神との双方向の交わりが成り立っていない祈りは、本当の意味での祈りではない、祈り「のようなもの」に留まっているということになるのです。つまり聖書が教えているところの本当の意味での祈りには、祈る相手である神をはっきりと意識し、その神からの語りかけを聞き、それに応えていくという交わりがなければならないのです。そのような神との交わりを、生まれつきの私たちは知りません。宗教的感情や祈り「のようなもの」は人間の心に生まれつきあるものだと言えるでしょうが、本当の意味での祈りに生きることは、生まれつきの私たちは誰も知らないし、できないのです。だから祈ることは難しいのです。私たちがなかなか祈れないのは、どういう言葉で祈ったらよいか分からないからではなくて、神との双方向の交わりに生きることを基本的に知らないからなのです。

祈りつつ生きることを学ぶ
 ですから、祈ることは自然にはできません。私たちは祈ることを学ばなければならないのです。そして祈ることを学ぶとは、祈りの言葉を学ぶことではなくて、神との双方向の交わりに生きることを学ぶということです。主イエスが「主の祈り」を教えて下さったのも、祈りの言葉を教えて下さったと言うよりも、「あなたがたは神を天の父と呼ぶことができる神の子とされている。父と子という関係をもって神と共に生きることができる」ということを教えて下さったのだと言うべきでしょう。本日は、「祈りつつ生きる」、つまり神との双方向の交わりに生きるとはどのようなことなのかを、旧約聖書の詩編第42編と43編、そして新約聖書のマルコによる福音書第15章33、34節から学びたいと思います。

神への渇き
 先ず、詩編の42、43編です。この二つの詩は、本来は一つであったと思われます。そのことは、42編の6節から7節の始めと、最後の12節、そして43編の最後の5節が同じ言葉になっていることから分かります。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」。このリフレイン、折り返し句として三度語られている言葉が、この詩の基本的な調べとなっています。この詩人は、魂がうなだれ、呻くような苦しみの中にいるのです。その苦しみがこの詩にはいろいろな形で言い表されています。42編の最初の2節には「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」とあります。ここは以前の口語訳聖書では「しかが谷川を慕いあえぐように」となっていました。日本に住む私たちの感覚では、「谷川」と言えば、緑濃い山奥の谷間を流れる清流ですが、この詩が歌われた地にはそういう場所は殆どありません。新共同訳が語っているように、これは「涸れた谷」なのです。つまり雨期にはそこに川が流れるけれども、今は乾期でその川は涸れており、水がないのです。ですからそこには緑の木も草も全くありません。赤茶けた荒涼たる世界です。渇きに苦しむ鹿が、水を求めてその谷に降りて来るけれども、そこに水はない、それで鹿は悲痛な声をあげている、ここに歌われているのはそういう光景です。詩人はそのような、癒されない渇きの中にいます。それは神を求める魂の渇きです。3節の冒頭には「神に、命の神に、わたしの魂は渇く」とあります。彼の魂は命の神を渇き求めているのです。しかし涸れた谷に水を求める鹿のように、その渇きを癒すことができない。それゆえに彼の魂はうなだれ、呻いているのです。

お前の神はどこにいる
 命の神を渇き求める彼の思いは3節の2行目から4節にかけてさらに具体的に示されています。「いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/『お前の神はどこにいる』と」。神の御前に出て御顔を仰ぎ見たいと彼は願っています。しかしそれができないので、彼は昼も夜も涙を流してばかりです。その彼の苦しみと悲しみをよりいっそう深めているのは、人々が「お前の神はどこにいる」と絶え間なく攻めることです。この「お前の神はどこにいる」という言葉は11節にも語られています。「わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/『お前の神はどこにいる』と」。「お前の神はどこにいる」という人々の嘲りがこの詩人の苦しみの中心にあるのです。何か苦しい悲しいつらい出来事があって、そこからの救いを神さまに祈り求めたのだけれども、救いがなかなか与えられない、ということがこの詩人の苦しみの中心なのではありません。むしろそういう現実の中で、「お前の信じている神はどこにいるのか。どこにもいないではないか。何もしてくれないではないか。そんな神はいないのと同じだ、いたとしても全然力がなくて、頼りにはならないのだ」と人々から嘲られていることが、彼の苦しみの中心なのです。

 神を信じて生きようとする時、私たちも同じ苦しみを覚えます。神を信じたら全てがうまくいき、ハッピーになってしまうということはありません。神を信じている人にも、いろいろな苦しみや悲しみが襲って来ます。それを見て神を信じていない周囲の人々は言い出します。「お前の信じている神はどこにいるのか。いないではないか。だから言ったろう。神など信じるのは無駄なことなのだ。それよりも、自分の力で一生懸命人生を切り開いていく方が確かなのだ。いやこの世の中それしかないのだ」。信仰者は世間の人々のそういう思いや声に取り囲まれて生きていると言えるでしょう。そしてそれは、世間の人々がそう言っているというだけではなくて、自分自身もそう感じるのです。「私の神はどこにいるのだろうか。本当に共にいて下さるのだろうか。結局私を守り支えては下さらないのではないだろうか」。そう感じずにはおれない現実が私たちを取り巻いているのです。その中でこの詩人は10節にあるように、「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか」と言っています。また43編の2節にも「なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ行き来するのか」とあります。神は私を忘れてしまったのではないか、見放してしまったのではないか、私を苦しめている敵の「お前の神などどこにもいないではないか」という嘲りの言葉の方がひょっとしたら真実なのではないだろうか、そういう疑いが自分の心にどうしようもなく湧きあがって来ることを詩人は感じているのです。そのために彼の魂はうなだれ、命の神への渇きに呻いているのです。

信仰者であるがゆえにこそ
 この詩人は、そういう渇きに呻きつつ、以前のことを思い起こしています。5節に「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを」とあります。「祭りに集う人の群れと共に神の家に入り、ひれ伏した」、つまり人々と共に神殿の祭りに集い、そこで神のみ前にひれ伏して礼拝をした、その時のことを思い起こしているのです。「喜び歌い感謝をささげる声の中を」ともあります。その礼拝には喜びと感謝が溢れていた、神の恵みを豊かに受け、喜びの内に神を賛美していたのです。この詩人はそのような喜びに満ちた礼拝を体験したことがある。神のみ前に出て、恵みをいただいた記憶がある。つまり彼は神の恵みを知っている、体験しているのです。つまり彼は神を信じている信仰者なのです。だから彼は、彼の魂は、神を求め、神に渇いているのです。もしも彼が神を知らず、喜びをもって神を礼拝した経験がなかったなら、つまり信仰者でなかったなら、このように神に渇くことはなかったでしょう。彼のこの渇きは、神を知っており信じているからこそ、神と共に歩んだ幸いな体験を持っているからこそ起っているのです。だから彼は「いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか」という嘆きの中にいるのです。神を信じて生きていく中で、私たちも同じような嘆きに陥ることがしばしばあります。それは、信仰者として生きているからこそ経験する嘆きです。信仰がなければ、このような嘆き苦しみ、渇きを味わうことはないのです。

神を待ち望め
 このような信仰のゆえの嘆き、苦しみ、渇きの中で詩人は、あのリフレインの言葉を三度繰り返しています。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」。「なぜうなだれるのか。なぜ呻くのか」。それは「うなだれることはない、呻くことはない」ということです。彼は自分の魂に向かってそう語りかけています。それは、「つらいけれどもうなだれずに、呻かずに頑張ろう」と自分で自分を励ましているのではありません。「神を待ち望め」という言葉が、この語りかけの根拠です。「うなだれることはない、呻くことはない」と彼が自分の魂に向かって言うことができるのは、神を待ち望むことによってこそなのです。神を待ち望むことの中で、「御顔こそ、わたしの救い」と告白することができる、そこに彼は慰め、励まし、希望を見出しているのです。

わたしの神への祈り
 神は私のことを忘れ、見放してしまったのではないか、という嘆き苦しみの中にいる詩人が、どうして神を待ち望むことができるのでしょうか。「御顔こそ、わたしの救い」と告白することはどうしてできるのでしょうか。それは不可解なことのように思われます。しかしまさにそこに、「祈り」の意味と力があるのです。そのことを示しているのが42編の9節です。「昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが」。主が慈しみを送って下さっているというこの言葉は、嘆きに満ちているこの詩において場違いのようにも感じます。次の10節には「なぜ、わたしをお忘れになったのか」と語られているのですから、矛盾している、とも思われます。けれどもそのように感じるのは、私たちがこの詩を人間の思想として、自分の心の中で完結する「考え」として捉えているからです。この詩人は、自分の考えや思想を語っているのではありません。彼は、「わたしの神よ」と神に語りかけているのです。しかも、何となく人間を超えた漠然とした存在にではなくて、「わたしの命の神」と呼べるはっきりとした相手に向かって「あなた」と語りかけているのです。つまり彼は神との間に、「わたしとあなた」という交わりを持って生きているのです。42編の2節も「神よ、わたしの魂はあなたを求める」となっています。7節の2行目も、「わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす」です。「なぜ、わたしをお忘れになったのか、なぜ、わたしを見放されたのか」という嘆きも、「わたしの神」に向かって語られています。神に見捨てられてしまったと感じるような苦しみの中で、彼はなお、「わたしの神」に「あなた」と語りかけ、自分の渇きを、呻きを、苦しみ悲しみを訴えているのです。そこには神との双方向の交わりがあります。それが祈りです。「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり」という現実の中で、詩人は夜ごとに「わたしの命の神への祈り」を主に向かって語りかけているのです。その彼に、主は昼ごとに慈しみを送って下さっているのです。その慈しみによって彼は、涙の現実の中でなお、「御顔こそ、わたしの救い」と告白しつつ、神を待ち望むことができるのです。43編の3、4節にこうあります。「あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ」。「神を待ち望む」とはこのような希望に生きることです。祈りつつ生きることによって、つまり神との双方向の交わりに生きることによって、私たちは深い嘆き、渇きの中でなお神を待ち望み、神の遣わして下さる光に導かれて、神のみ前に近づいて礼拝をし、そのことによって喜びと感謝と希望を与えられるのです。

主イエスの祈り
 主イエス・キリストご自身がまさにこのような神との双方向の交わりに生きた方でした。先ほど朗読したマルコによる福音書の15章33、34節は、主イエスが十字架の上で亡くなる直前に、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたことを語っています。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。主イエスはこのように叫んで、十字架の上で死なれたのです。十字架の死というのは、神に見捨てられてしまったという苦しみ、絶望の中での死です。その苦しみと絶望は、神を無視し、背き逆らっている罪人である私たちこそが本来受けなければならないものでした。それを主イエスが代って引き受けて下さったのです。しかし主イエスはただ苦しみと絶望の中で死んだのではありません。この叫びは、「わが神、わが神」という、神に向けての叫びです。主イエスは十字架の死の苦しみ、絶望の中で、「わたしの神よ」と神に語りかけたのです。つまり祈ったのです。祈りにおける父なる神との交わりの中で主イエスは死なれたのです。この主イエス・キリストの死が、私たちのための身代わりとしての死であり、主イエスのこの十字架の死によって、私たちの罪は赦され、罪によって失われていた神との交わりが回復されました。主イエスの十字架の死によって私たちは、主イエスが父なる神との間に持っておられた交わりの中へと招き入れられているのです。「天にまします我らの父よ」と呼びかける「主の祈り」を主イエスが教えて下さったのも、あなたがたも私の父である神を天の父と呼び、この父の子として生きることができる、ということです。またこの主イエス・キリストによって私たちは、祈る相手である神のことを、具体的に、はっきりと示されています。私たちは、何だかよく分からない漠然とした存在に向かって祈っているのではなくて、独り子を人間としてこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さり、私たちをも神の子として下さり、また主イエスを復活させることによって私たちにも、復活と永遠の命を約束して下さった、そのようにして私たちの父となって下さった神に向かって祈り、この神との双方向の交わりに生きているのです。この神に祈りつつ生きることが私たちの信仰です。祈りにおいてこの神との交わりに生きる者は、神に見捨てられてしまったと感じるような苦しみ悲しみに魂がうなだれ、呻く時にも、神を待ち望み、「御顔こそ、わたしの救い」と告白することができるのです。

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