「罪のゆるし」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第103編1-13節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第3章21-26節
・ 讃美歌:7、441
一人ひとりに与えられる救い
毎週の礼拝で告白している使徒信条の第三の部分に導かれて、み言葉に聞いています。使徒信条の第三の部分には、聖霊なる神への信仰が語られています。「我は聖霊を信ず」から始まり、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」というところまでをこれまで見て来ました。私たちは、聖霊なる神を信じており、その聖霊のお働きによって誕生し、歩んでいる聖なる公同の教会を信じています。それは繰り返し申して来ましたように、聖霊によって教会が存在していることを信じているというだけでなく、聖霊によって自分自身がその教会へと招かれ、その部分とされていることを信じているのです。そのように教会に連なって生きている私たちは、そこで聖徒の交わりに生きています。主なる神によって選ばれ、主のものとされたことによって聖徒、聖なる者とされた私たちは、同じように神の召しによって聖徒とされた兄弟姉妹との交わりに生きるのです。聖霊なる神を信じ、聖霊のお働きの中で、聖なる公同の教会の一員として、聖徒の交わりに生きる、これまでのところで私たちはそういう信仰を確認してきました。この「聖徒の交わり」までのところに語られていたのは、私たちを教会という共同体として生かして下さる聖霊のお働きであると言えます。本日はその次の「罪のゆるし」を取り上げるのですが、ここから先の、つまり「罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命」というところに語られているのは、聖霊が私たち一人ひとりに与えて下さる救いの恵みです。聖霊なる神は、信仰者の群れである教会を築き、私たちをそこに連らせ、交わりに生かして下さると共に、私たち一人ひとりにおいても「罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命」という救いのみ業を行なってに下さるのです。
罪を赦して下さる主
そこで本日は、「罪のゆるし」という救いのみ業についてです。神が私たちの罪を赦して下さることは、聖書に語られている神の救いの一つの中心です。本日の旧約聖書の箇所、詩編第103編にそのことが歌われています。その3節に「主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し」とあります。これらの主の御計らいを忘れてはならない、と2節に語られているのです。またこの詩の8節以下にも、「主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。」とあります。ここに語られているのは、主なる神は私たちの罪を決して見過ごしにはなさらない、罪に対してはお怒りになり、裁きを、罰をお与えになる、ということです。しかしそこにおいて主は、憐れみと恵みと慈しみをもって、忍耐強くあって下さる。罪をいつまでも責め続け、怒り続けるのではなく、赦しを与えて下さるのです。主がもし私たちを私たちの罪に応じてあしらい、悪に従って報いをお与えになるなら、私たちは滅ぼされてしまうしかありません。しかし主は憐れみと慈しみに満ちた方なので、それをなさらず、赦して下さるのです。恵みをもって罪を赦して下さる主なる神のお姿がここに示されているのです。
背きの罪
この12節に「背きの罪」とあります。これが、イスラエルの民が陥った罪です。イスラエルの人々の罪とは、道徳的に何か間違いを犯したということではありません。そういうこともありましたけれども、その根本にあったのは、主なる神への背きの罪です。彼らは、主なる神によって、エジプトで奴隷とされていた苦しみから救われたのです。そして主なる神によって荒れ野の旅路を導かれ、約束の地を与えられ、そこに定住して国を築くことができたのです。主なる神が彼らを愛して、ご自分の民として下さり、数々の御計らいを与えて下さったのです。それは、彼らもまた主なる神を愛して、主を礼拝し、主との間に愛し愛される良い関係をもって歩み、その祝福の中で互いに愛し合って生きる者となってほしい、という願い、期待を主が抱いておられたということです。しかし彼らは主なる神の期待に応えず、主に従わず、目に見える偶像の神々を拝むようになりました。主なる神が与えて下さった救いを忘れて、偶像の神々が約束している繁栄、豊かさに心を奪われたのです。目に見えない主なる神よりも、目に見える偶像の方が頼りになり、自分たちの願いをかなえてくれると思ったのです。それが彼らの「背きの罪」です。それは恩を仇で返したという罪なのですから、単なる道徳的な過ちよりもよほど深刻です。主がその罪に対してお怒りになるのは当然だし、主が彼らをその罪に応じてあしらわれるなら、彼らは滅ぼされずにはおれないのです。
私たちの罪
このような罪は、イスラエルの民だけの問題ではありません。イスラエルの陥った恩知らずの罪に、私たち全ての人間が陥っているのです。私たちも、主なる神によって命を与えられ、人生を導かれています。そもそもこの世界を、人間が生きることのできる世界として造って下さったのは主なる神です。イスラエルの民だけでなく、全ての人間は神の恵みによって生かされており、神の愛を受けているのです。つまり神は私たち全ての者との間に良い関係を築こうとしておられるのです。しかし私たちはその神の恵みと愛に気づこうともせず、応えてもいません。神などいないかのように生きており、自分の命は自分のもの、自分の人生の主人は自分だと思って生きています。神を礼拝し、み言葉を聞き、神に従うのでなく、自分の思いや願い、欲望を実現することを第一としています。神に対する恩知らずの「背きの罪」に、私たち全ての者が陥っているのです。愛と期待をもって造り、命を与えた人間がこのように背きの罪に陥っていることに対して、主なる神がお怒りになるのは当然です。神がもし罪に応じて私たちをあしらい、悪に従って報いをお与えになるなら、全ての者は地上から滅ぼされてしまうしかないのです。しかし神はそうはなさらず、罪に対しては怒り、罰をお与えにはなるけれども、怒り続けるのではなく、大いなる憐れみと慈しみをもって背きの罪を赦して下さる、とこの詩編103編は語っているのです。
キリストを遣わして下さった神のみ心
主なる神のこの憐れみと慈しみによる罪の赦しは、神の独り子である主イエス・キリストによって実現しました。新約聖書はそのことを語っています。詩編103編は、主イエスによって実現する罪の赦しを前もって指し示す預言だったのです。詩編103編を読むことによって私たちは、主イエス・キリストによる罪の赦しが、主なる神のどのようなみ心によってなされたのかを知ることができます。主なる神は、私たち罪人を罪に応じて裁き滅ぼすのでなく、憐れみと慈しみをもって赦して下さるために、ご自分の独り子である主イエスをこの世に遣わして下さり、十字架の死にまで至らせて下さったのです。
キリストによる償い
さて新約聖書は、父なる神が主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さったことを、主なる神が罪人である私たちを義として下さった、と表現しています。その代表的な箇所が、本日の新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第3章21節以下です。その23、24節にこう語られています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている、つまり罪のゆえに滅びるしかないのが私たち全ての人です。その罪人である私たちが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して義とされる、それが、罪の赦しを与えられるということです。そのキリスト・イエスによる贖いの業はどのようになされたのかが、次の25節にこう語られています。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」。神がキリストを立てて、私たちの罪を償う供え物として下さったのです。その血によって、というのは、主イエスの十字架の死によって、ということです。主イエスの十字架の死を、神は私たちの罪の償いのための死として下さったのです。主イエスが私たちの罪を全て背負って、私たちの代わりに十字架にかかって死んで下さったことによって、罪の償いをして下さったのです。それによって、本当は私たち自身が死んで償いをしなければならないはずの罪が赦された。これが主イエス・キリストによる罪の赦しです。
キリストによる贖い
それは「贖いの業」だったとあります。贖いとは、捕われている者、捕虜になっている者を、身代金を払って取り戻し、解放することです。罪に陥っている私たちは、その支配下に置かれていて、自分でそこから抜け出すことができません。罪の捕虜、奴隷になってしまっているのです。その私たちのために、主イエス・キリストが、ご自分の命を身代金として与えて下さって、私たちを罪の支配から取り戻し、解放して下さったのです。しかもそれは主イエスの父である神のみ心によることでした。父なる神が主イエスを立てて、私たちを罪の支配から取り戻し、解放するための身代金として下さったのです。私たちはこのようにして、父なる神の恵みのみ心によって、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しを与えられました。父なる神が、背きの罪に陥って、神から離れて罪に支配されている私たちを贖い、ご自分のもとに取り戻して下さったのです。
無償で
これは全て父なる神とその独り子主イエスがして下さったことです。この罪の赦しの実現のために、私たちにできることは何もありません。私たちが多少なりとも自分の罪の償いをするとか、罪を帳消しにできるような善い行いを積むことによって罪の赦しが得られるのではないのです。罪の赦しは、ただ神の恵みによって与えられています。そのことを語っているのが24節の「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」ということころです。罪の赦しは、神の恵みにより、無償で、与えられているのです。無償で、つまりタダでです。罪の赦しは、私たちが何かをすることに対する見返りとして獲得されるのではありません。神が、恵みによって、タダで、罪の赦しを与えて下さるのです。それは、神の独り子主イエスが、十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪の償いを全てして下さったからです。主イエスがこの自分のために十字架にかかって死んで下さったので、自分の罪の償いはもう全てすんでいる、この主イエスによる救いを信じることによって、私たちは罪の赦しを与えられ、義とされるのです。そのことが22節の「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」というところに語られています。神の義は、つまり罪の赦しは、イエス・キリストを信じることによって、信じる者全てに、何の差別もなく与えられるのです。何の差別もない、とはどういうことかが、23節と24節に語られています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」、これが第一のことです。人間の目から見てどんなに立派な人でも、「背きの罪」を犯しているのであって、そのままでは神の栄光を受ける、つまり救いを得ることはできず、滅びていくしかないのです。その点において人間の間には何の差別もないのです。そして第二のことが24節です。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。罪によって滅びるしかない私たち全ての者が、主イエスによる贖いの業によって、神の恵みにより無償で義される。その救いも、何の差別もなく与えられるのです。自分の罪の償いのためにどれくらい善い行いをしているか、などということは関係なく、イエス・キリストを信じるすべての者の罪が赦され、神の義が与えられるのです。罪に陥っていることにおいて人間の間には何の差別もないと共に、罪の赦しを無償で得ることにおいても人間の間に何の差別もないのです。
信仰によって義とされるとは
神の恵みにより無償で与えられる罪の赦しを得るために必要なのは、イエス・キリストを信じる、ということだけです。神の義は、22節にあるように、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられるのです。しかしそのイエス・キリストを信じることを、イエス・キリストを信じて信仰者になる、という代価を払うことによって罪の赦しが得られる、というふうに考えてしまったら、それは結局無償ではないことになります。やっぱりタダではなくて、洗礼を受けてキリスト信者になる、という善い行いをしなければ罪の赦しを得られないのね、ということになるのです。私たち信仰者自身もそのように考えてしまうことがあります。そうなると、私たちは洗礼を受けてキリスト信者になったことによって罪の赦しを獲得した、ということになり、信仰を自分の手柄として誇るようなことが起こります。イエス・キリストを信じる信仰者になったことで、何か人より立派な人になったかのような錯覚に陥るのです。しかし、イエス・キリストを信じることによって救われるというのは、そういうことでは全くありません。イエス・キリストを信じるとは、私は罪を赦されて救われるために自分では何もできません。それどころか日々罪を犯し続けている者です、と認めることです。その私のために、主イエス・キリストが十字架の死によって、罪の償いを全てして下さったので、その主イエスによる贖いによって、神が私の罪を赦し、義として下さったことを信じます、ということです。つまり、信じるという私たちの行為によって罪の赦しが得られるのではなくて、主イエス・キリストによって神が実現して下さっている罪の赦しが、それを信じることによって私たちの現実となり、その救いを受けて生きることができるのです。イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる、とはそういうことです。ですから、イエス・キリストを信じる信仰は私たちが自分の手柄として誇れるようなものでは全くないのです。
罪の赦しに対する誤解
このように私たちは、罪の赦しを、神の恵みによって、無償で与えられています。主イエス・キリストを信じるだけでその救いにあずかることができるのです。こんなに有難いことはありません。でも私たちはそこで不安を覚えます。そんな簡単に罪が赦されてしまってよいのだろうか、自分では何もしないで、ただイエス・キリストを信じるだけで赦されるのだとしたら、誰も自分の罪を深刻に受け止め、悔い改めようとはしなくなるのではないだろうか、そしてむしろ世の中に罪がのさばり、広まってしまうのではないだろうか、そんなふうに思うかもしれません。しかしそれは、罪の赦しに対する誤解です。そのことをはっきりさせるために、神が恵みによって私たちの罪を赦して下さることが、本日のローマの信徒への手紙において、「神の義が与えられ、人が義とされる」と言い表わされていることに注目したいと思います。義とされる、というのは、これまで犯してきた罪を赦されて、チャラにされて、まっさらな白紙の状態になって、後は好きなように生きていける、ということではありません。義とは、神との正しい、良い関係を意味しています。神との正しい、良い関係とは、神の愛を受け止め、自分も神を愛し、神と共に生きていくことです。神が大いなる愛と期待をもって私たちを造って下さった、そのみ心を私たちが受け止めて、それに応えて、神に従い、そのみ心を大切にして生きること、と言ってもよいでしょう。義とされる、とは、神とそういう関係をもって生きる者となることなのです。神が先ず、そのような良い関係を私たちとの間に築こうとして下さっています。それが「神の義」です。その神の義が、独り子イエス・キリストによって示され、与えられて、私たちが義とされる、つまり私たちも神と良い関係をもって生きる者となるのです。
聖霊によって義とされて生きる
そのことは私たちの努力や頑張りによってはできません。私たちは背きの罪を犯しているのですから、その罪を神が先ず赦して下さらなければ、神と良い関係をもって生きることはできないのです。つまり、罪の赦しが与えられてこそ、神の義、神との良い関係に生きることが可能になるのです。そのことを、神が、独り子イエス・キリストの血による、つまり十字架の死による償いによってして下さいました。神がイエス・キリストによって、罪に支配されている私たちを贖って、ご自分のもとに取り戻して下さったのです。自分の力や努力で罪を償って帳消しにすることができない私たちのために、神がキリストによる罪の赦しを、無償で、タダで、与えて下さったのです。そのことを信じて、感謝して受け止めることから、私たちと神との正しい、良い関係が始まります。そこには決して、罪は赦されるんだから好き勝手にしていいんだ、ということは起こりません。神による罪の赦しをタダで与えられて、神と共に生き始めた者は、その神との交わりを大切にして歩むのです。神の愛と期待に応えようとするのです。それが良い関係ということです。勿論私たちは弱い者であり、誘惑に陥りやすい者ですから、その歩みの中でも繰り返し罪を犯してしまいます。神の愛にちゃんと応えられずに背いてしまいます。でもその都度、神が無償で与えて下さっている罪の赦しの恵みに立ち帰って、悔い改めて、神と共に生き続けるのです。私たちの信仰の歩みはそういうことの繰り返しです。そのような私たち一人ひとりの歩みを導き、支えて下さっているのが、聖霊なる神なのです。聖霊のお働きによって私たちは、罪を赦され、義とされて生きるのです。聖霊を信じるという、使徒信条の第三の部分の中で「罪の赦し」が語られているのはそのためです。私たちは聖霊のお働きを受けて神による罪の赦しの恵みにあずかり、なお弱さや罪をかかえながらも、感謝と悔い改めの中で、神との良い交わりに生かされていくのです。