主日礼拝

教会はキリストの体

「教会はキリストの体」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第7章6-8節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一 第12章12-27節
・ 讃美歌:

聖霊を信じる者は教会を信じる
 毎週の礼拝で告白している使徒信条に基づいてみ言葉に聞いておりまして、今はその第三の部分、聖霊なる神への信仰が語られているところです。五月には四回にわたって、聖霊なる神とはどのような方で、どのようなみ業をなさるのか、について聖書から聞いてきました。そして六月に入り、先週はペンテコステ、聖霊降臨日でした。聖霊が降って教会が誕生したことを、先週私たちは喜び祝ったのです。聖霊はこの世に教会を誕生させて下さいました。そのみ業は今も続いています。使徒信条は、「我は聖霊を信ず」に続いて「聖なる公同の教会」と語ることによって、そのことを示しています。聖霊を信じることは、教会を信じることへと繋がっているのです。それを結びつけているのが、聖霊が降って教会が誕生したペンテコステの出来事です。ですから、「我は聖霊を信ず」について五月にみ言葉に聞いてきた私たちが、ペンテコステを挟んで、その翌週から今度は「聖なる公同の教会」についてみ言葉に聞いていくというのはまことに相応しいことであり、そこに主の導きを感じます。

聖霊を信じることと教会を信じること
 ところで、「聖なる公同の教会」以下のところに語られているいくつかのことも、これらのことを「信ず」と言われているわけですから、私たちが信じている事柄です。しかし「聖霊を信ず」と「教会を信ず」では、同じ「信ず」でも意味が違うことは言うまでもありません。私たちは聖霊を神として信じています。父なる神、その独り子イエス・キリストと並んで、聖霊なる神を信じているのです。しかも三人の神々ではなくて、父と子と聖霊という三つの存在であるけれどもお一人の神を、つまりいわゆる「三位一体の神」を信じているのです。聖霊を信じるというのはそのように神として信じることですが、教会を信じるというのはそれとは違います。教会を神として信じているわけではありません。私たちは教会を神として拝んでいるのではなくて、教会において、父と子と聖霊なる神を拝んでいるのです。では教会を「信じる」とはどういうことなのでしょうか。それについては「ハイデルベルク信仰問答」が適切な答えを語ってくれています。その問54は、「『聖なる公同の教会』について、あなたは何を信じていますか」という問いであり、その答えはこうなっています。「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれるということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです」。この答えの言葉は来週以降も味わっていきたいと思っていますが、本日は、この問答において、「聖なる公同の教会を信ず」と告白する時にあなたは何を信じているのか、という問いに対して、神の御子イエス・キリストが、全人類の中から、御自分の群れを、選び、集め、守り、保って下さっていることを信じているのだ、と答えていること、そしてもう一つ、自分がその群れの一人とされていることをも信じているのだ、と答えていることに目を向けたいと思います。「聖なる公同の教会を信ず」という告白によって私たちが信じているのは、神が、主イエスによる救いにあずからせるために教会という群れを選び、集め、守り、保って下さっていることです。そしてさらに、そういう群れが世界のどこかに存在している、というのではなくて、まさにこの自分がその群れに加えられていること、神が自分をキリストによる救いにあずからせるために選び、集め、守り、保って下さっていることを信じているのです。「聖なる公同の教会」以降に語られていることはどれも、神が私たちのために与えて下さっており、また将来与えると約束して下さっている救いです。私たちはそれらを信じています。それは、これらの救いが確かに実現しているというだけでなく、この自分に与えられていることを信じているのです。

聖霊のみ業
 私たちがそのように信じることができるのは、聖霊のお働きによることです。「真理の霊」である聖霊こそが、神が独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架の死と復活によって実現して下さった救いの真理を私たちに悟らせ、信じさせて下さるのです。そして聖霊は、私たちを神の子として新しく生かして下さる「命の霊、神の子とする霊」です。聖霊こそが私たちを主イエス・キリストと結び合わせ、主イエスと共に神の子として生きる新しい命を与えて下さるのです。また聖霊は、教会を誕生させ、私たちをその一員として下さる霊です。ペンテコステに教会を誕生させた聖霊が、今私たちにも働いて、私たちを教会へと導いて下さっているのです。そして聖霊は、教会に連なって生きる私たち一人ひとりに、主イエスによる救いを証しする新しい言葉を与えて下さり、主イエスの証人、証しする人として下さいます。つまり教会は、聖霊によって立てられた主イエスの証人の群れです。聖霊によって教会へと導かれた私たちは、その証人たちの証しの言葉を聞きます。そして私たちも主イエスを信じる者とされ、洗礼を受けて教会に加えられます。すると今度はその私たちが、聖霊に満たされて、主イエスを証しする者とされていくのです。そのように、聖霊によって誕生した教会において、聖霊のみ業が次々に起こり、新たな人々が教会へと招かれ、主イエスによる救いにあずかって新しい命に生かされ、主イエスの証人とされていくのです。神の救いのみ業はこのようにして、世代から世代へと伝えられ、また全世界へと広げられてきたのです。それは全て聖霊のみ業です。「我は聖霊を信ず」という信仰によってこそ私たちは、「聖なる公同の教会」を信じ、自分がその一員として選ばれ、集められ、守られ、保たれていることを信じて歩むことができるのです。

主の宝の民
 神が私たちを選び、集め、教会に連なる者として守り、保って下さっている。それが聖霊のみ業です。聖霊は私たちに、あなたは神によって選ばれた、神の民なのだ、と告げて下さっているのです。それは、先ほど読まれた旧約聖書の箇所、申命記第7章6節以下の主のみ言葉が、聖霊によって私たちにも告げられているということです。6節に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」とあります。教会は、つまり私たちは、主の聖なる民とされているのです。主なる神が、地上のすべての人々の中から、私たちを選び、御自分の宝の民として下さったのです。それは私たちが他の人たちより力強く、立派で、清く正しい者だからではありません。7、8節にそのことが語られています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。イスラエルの民は、他の民族よりも数が多い、力強い民だったのではありません。むしろ他のどの民よりも貧弱だったのです。そのイスラエルを、主なる神が、どういうわけか愛して下さり、選んで下さり、エジプトの奴隷状態から救い出して、ご自分の宝の民として集め、守り、保って下さったのです。それと同じように私たちも、主が宝の民として下さるようなとりえは全くありません。私たちはむしろ神に背き逆らってばかりいる罪人です。その私たちを、神は愛して下さり、私たちの救いのために、独り子主イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活による救いを与えて下さったのです。聖霊は私たちにそのことを告げて下さっています。聖霊によって私たちは、全く相応しくないのに、選ばれ、集められて、主の宝の民として守られ、保たれているのです。

キリストの体
 さてそのように聖霊によって選ばれ、集められ、守られ、保たれている神の宝の民である教会は、「キリストの体」であると聖書に語られています。エフェソの信徒への手紙の第1章22、23節に「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」とあります。またコロサイの信徒への手紙の第1章18節にも、「また、御子はその体である教会の頭です」とあります。教会はキリストの体であり、その体の頭(かしら、あたま)はキリストなのです。聖書は教会を「体」というイメージで捉えています。それは、キリストという頭のもとに手や足が結び合わされている、というイメージです。主イエス・キリストのもとに、多くの者たちが選ばれ、集められ、守られ、保たれて、一つの体として生きているのです。そのようなキリストの体である教会を築いているのは聖霊なのだ、ということが、本日の聖書箇所、コリントの信徒への手紙一の第12章の13節にも語られています。そこには、「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」とあります。ユダヤ人だったりギリシア人だったり、奴隷だったり自由な身分の者だったり、という様々な違いをもった者たちが、一つの霊によって結び合わされて一つの体とされているのです。その前の12節には「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」と語られているわけですから、13節の「一つの体」は「キリストの体」です。様々な違いのある人間たちが、一つの霊、聖霊のお働きによって、キリストという頭のもとに集められ、結び合わされて一つのキリストの体とされている、それが教会なのです。そしてそのキリストの体に私たちが結び合わされるのは洗礼においてです。「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」とあります。洗礼によって、聖霊が私たちの内に宿って下さり、私たちを、キリストという頭に結びつけ、一つのキリストの体として下さっているのです。つまり洗礼を受けるというのは、私たちが信仰の決意表明をする、というだけのことではありません。そこにおいて聖霊が私たちの内に宿り、働いて下さって、私たちをキリストの体の部分として下さっているのです。

全体と部分
 聖霊によって誕生した教会はキリストの体であり、私たちは聖霊に導かれて洗礼を受けることによって、そのキリストの体の部分とされます。聖霊は、キリストの体である教会を築いて下さると共に、私たち一人ひとりをその部分として生かして下さるのです。つまり聖霊のお働きは、全体としての一つのキリストの体を築くと共に、その部分である私たち一人ひとりをも生かすものです。その全体と部分の関係、そして部分どうしの関係のことが、本日の箇所であるコリントの信徒への手紙一の12章12節以下に語られているのです。12節には、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように」とあります。一つの体に多くの部分がある、体というのはそういうものです。キリストの体である教会もそうだ、ということが見つめられているのです。その多くの部分がある、ということが、13節では、「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」と語られています。つまり、部分の数が多いということだけでなく、いろいろな点で異なった人々がいて、それらの人々が皆キリストという頭に結び合わされて、一つのキリストの体とされていることが見つめられているのです。

キリストの体の危機
 そのことによって、キリストの体である教会においても、いろいろな問題が生じて来ることが15節以下に語られているのです。「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」とあります。また21節には「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって、『お前たちは要らない』とも言えません」とあります。一つの体に共に連なっている部分どうしの間で、その関係がぎくしゃくしてしまうことが起るのです。21節に語られているのは、「お前は役に立たない、いやむしろ邪魔になるから、お前なんかいない方がいい」ということです。教会においても、そんな思いを抱いてしまうことがある、あるいは、周囲の人がそう思っていると自分が思い込んでしまう、ということもあります。そういうことで、人を傷つけたり、傷つけられてしまうことが、教会においても起るのです。15、16節の「わたしは○○でないから体の一部ではない」ということの意味はいろいろに捉えることができます。「どうせ私なんて役に立たないから体の一部だなんて言えません」という僻みの言葉とも取れるし、むしろ逆に、「私はこんな人たちと一緒にやっていくのは嫌だ、私は一人で信仰者として生きていく」という、プライドの高さの現れとも取れます。いずれにしても、キリストの体の部分である私たちが、他の部分と共に歩めなくなってしまうという危機が見つめられているのです。つまり、キリストの体である教会は、綺麗事ではない、そこにいろいろな問題が起るという現実をパウロは見つめているのです。

聖霊のみ業をこそ見つめよ
 パウロが13節で「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」と語っているのは、この危機を見つめているからです。キリストの体である教会に問題が起り、共に歩めなくなってしまう、そのような危機において見つめるべきことは、聖霊のお働きなのだ、とパウロは言っているのです。教会は一つの霊、聖霊によってキリストの体とされており、私たちは聖霊によってその部分として選ばれ、集められ、守られ、保たれているのです。聖霊のお働きによって、多くの部分から成っている一つの体が築かれているのです。つまり教会は、私たちの思いや願いによって、あるいは共に歩もうとする決意によって存在しているのではないのです。教会は、神が、聖霊の働きによって、キリストという頭のもとに、選び、集め、守り、保って下さっている群れなのであって、私たちは聖霊によってキリストの体の部分とされているのです。私たちの思いや願いが食い違ってしまったり、共に歩もうとする決意が失われてしまうことがあっても、この聖霊のみ業が失われてしまうことはないのです。私たちは、この聖霊のみ業をこそ見つめ、そのみ業に従っていかなければならないのです。

互いに配慮し合う交わり
 聖霊のみ業を見つめ、それに従っていくことによって示されること、それが18節の「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」ということです。私たちがキリストの体の部分とされ、他の部分と共に一つの体を築く者とされているのは、神のみ心によるのです。自分がどういう働きをする部分なのかも、自分が何をしたいかによってではなくて、神のみ心によって定められているのです。そのことを受け止めることによって、22節のことも示されていきます。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。部分である私たちの間にはいろいろな違いがあり、人間の目には、他よりも弱く見える部分もあります。でもその部分も、神がみ心によって置かれたのであって、決して要らないものではない、むしろ神はその部分こそかえって必要だと考えておられるのです。その神のみ心を受け止め、それに従うことが必要なのです。それによって、23節にあるように「わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします」ということがなされていくのです。それは25節に語られているように、「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」ということです。神がみ心のままにそれぞれの部分を必要なものとして置かれ、それによってキリストの体を築いておられる、その神のみ心を受け止めるなら、そこには、各部分が互いに配慮し合う交わりが生まれるのです。そこにおける基本的な思いは、26節の「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」ということです。教会はキリストの体であり、私たち一人ひとりはその部分とされている、というのは、このような思いをもって共に生きる交わりへと、神が私たちを招いて下さっているということです。聖霊なる神を信じ、聖霊によって築かれている聖なる公同の教会を信じる私たちは、主イエス・キリストのもとに一つの体とされている教会を神がこの地上に築いて下さっていることを信じ、そして全くふさわしくない罪人であるこの自分を、神が、キリストの体の部分として選び、集め、守り、保って下さっていることを信じるのです。その神のみ心を受け止めるなら、私たちは、同じ神によって選ばれ、集められ、守られ、保たれている兄弟姉妹と、苦しみをも喜びをも共有する交わりを築いていくことができるのです。

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