主日礼拝

とりなして下さっている主イエス

「とりなして下さっている主イエス」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第110編1-7節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章34節
・ 讃美歌:297、450

主イエスの現在を語っている言葉
 毎週の礼拝で告白している「使徒信条」に導かれてみ言葉に聞いておりまして、先週は「天に昇り」というところを取り上げました。復活なさった主イエスが天に昇ったと聖書は語っており、教会はそのことを信じ告白しているのです。使徒信条はそれに続いて「全能の父なる神の右に坐したまへり」と語っています。天に昇った主イエスは父なる神の右に座っておられるのです。本日はこのことについて、聖書が語っていることを聞きたいと思います。
 主イエスが天に昇り、父なる神の右の座に着かれたことは、先週も読みましたが、マルコによる福音書第16章19節に語られています。そこには「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」とあります。使徒言行録第2章33節にも、「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」とあります。またコロサイの信徒への手紙第3章1節には「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」と語られています。この箇所は、主イエスが今この時、神の右の座に着いておられると語っています。天に昇った主イエスは、今、父なる神の右に座っておられるのです。「天にのぼり」までは過去の出来事でしたが、「全能の父なる神の右に坐したまへり」は、主イエス・キリストの現在を語っています。そういう意味でこれはとても大事な言葉です。この関連で、使徒言行録第7章56節をも読んでおきたいと思います。ここは、最初の殉教者となったステファノが、主イエスこそ救い主であると宣べ伝えたことによってユダヤ人たちの激しい怒りにさらされている場面です。56節で彼は、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言いました。「人の子」とは主イエスのことです。この言葉に怒り狂ったユダヤ人たちによって彼は石で打ち殺されてしまったのですが、その迫害の中で彼は、主イエスが神の右に立っておられるのを見たのです。ここでは座っているではなくて立っていると語られています。それは主イエスが天においてただ彼を見下ろしているのではなくて、今まさに立ち上がって彼に手を差し伸べて支え、みもとへと迎えようとして下さっているお姿だと言えるでしょう。天におられる主イエスが今この時も自分を支えて下さっている、そのみ手の中でステファノは殉教の死を遂げたのです。主イエスが同じように今、立ち上がって、ウクライナにおける戦争のために苦しんでいる人々に手を差し伸べて支えて下さっていることを信じ、祈り願いたいと思います。

神の右とは
 復活して天に昇られた主イエスは今、神の右において私たちを支えて下さっています。その「右」について私たちは疑問を持ちます。右というのは、神から見て右なのか、それとも私たちから見て右、つまり神にとっては左なのか、という疑問です。この疑問について、ある本に語られていたことを紹介します。詩編第16編の8節にこうあります。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません」。ここには、「わたし」が主に相対している、つまり主が自分の正面におられるということと、主が自分の右にいて支えて下さっているという両方のことが語られています。同じ16編の11節の後半には「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます」とあります。主の右の御手は「わたし」から見たら左です。これらの言葉は、左右の位置関係を示しているのではなくて、「右」という言葉が、神の祝福、恵み、救い、それによる喜びがそこにあることを示していると考えるべきでしょう。マタイによる福音書の第25章31節以下には、世の終わりの裁きにおいて人の子主イエスが、救われる者と滅びる者とを右と左に分ける、ということが語られています。右が救われる人々、左が滅びる人々です。ここでも「右」は神の祝福、救いのある所を示しています。ですから主イエスが神の右の座に着かれたというのは、父なる神と主イエスの位置関係を語っているのではなくて、父なる神の祝福、救いの恵みを担う座に主イエスが着かれたことを意味しているのです。つまり、主イエスが天に昇って父なる神の右の座に着かれたことは、私たちにとって祝福、恵みの出来事なのです。主イエスは今、父なる神のもとで、私たちを祝福し、救いを与え、恵みを注いで下さっている。「全能の父なる神の右に坐したまへり」はそのことを語っているのです。

主イエスのご支配を信じる
 主イエスは復活して天に昇り、父なる神の右の座に着かれました。その父なる神は、使徒信条の第一の部分で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白されていた方です。天と地、この世界の全てを創造し、今も支配しておられる全能の神です。その父なる神の右の座に、独り子であられる主イエス・キリストが着かれたのです。それは、天地の全てを創り、保ち、導いておられる神のご支配を司る者となられたということです。言ってみれば、神が天において王として坐しておられる玉座の傍らで、そのご支配を王に代って執り行う大臣の座に主イエスが着かれたのです。この世界と私たちの造り主である神のご支配は、今や、主イエス・キリストを通してこの世界と私たちに及んでいるのです。この世界と私たちは今、主イエス・キリストのご支配の下にある。「全能の父なる神の右に坐したまへり」と信じることは、この主イエスのご支配を信じることなのです。

旧約聖書の預言
 神の独り子である主イエスがこのように父の右の座に着いて支配なさることは、旧約聖書において預言されていました。その一つの箇所が、本日共に読まれた詩編第110編です。その1節に「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」とあります。詩人が「わが主」と呼んでいる救い主に対して、主なる神が、「わたしの右の座に就くがよい」と言っておられます。そしてこの詩は、神の右の座に就く「わが主」が、全世界を支配することを語っています。「わが主」は世界の王となるのです。このことは、先週の礼拝において読まれた詩編第2編とつながります。先週はこの詩編に触れませんでしたが、第2編の6節で主はこう宣言しておられます。「『聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた』。そして次の7節には「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ』」。主なる神が、世界を支配する王を即位させ、その王に「お前はわたしの子」と言っておられるのです。この110編と2編の二つの詩編を合わせて読む時に、主なる神がご自分の右の座に、世界を支配する王として、ご自分の子を即位させる、という預言が見えてきます。神の独り子である主イエスが、天に昇り、父なる神の右の座に着いて、神のご支配を司る者となられることが、旧約聖書にこのように預言されていたのです。ちなみに詩編110編の5節には「主はあなたの右に立ち」とあります。その「あなた」は「わたしの右の座に就くがよい」と言われた「わが主」のことですから、主の右の座に「あなた」がいて、その右に主が立ち、というのはおかしいことになります。つまりここでも右という言葉は位置関係ではなくて、主なる神の祝福がそこにあり、そのご支配を委ねられている、という主との関係を意味しているのです。

この世界と人生の本当の支配者は誰か
 復活して天に昇った主イエス・キリストは今、父なる神の右に坐し、神のご支配を司っておられます。全能の父なる神は今、独り子主イエス・キリストを通してこの世界と私たちとを支配しておられるのです。このことは、私たちがこの世界と自分の人生を根本的にどのようなものとして捉えて生きるか、ということと関わっています。この世界を、そして私たちの人生を、本当に支配しているのは誰なのか、どのような力なのか、ということです。それによって、この世界の見え方、人生の捉え方は大きく変わります。この世界に起っている目に見える現実は、人間の権力に支配され、翻弄されています。今一つの国の指導者の決断によって戦争が起り、多くの人々が命を失い、傷つき、家を失い故郷から逃げ出さざるを得なくなって難民となっています。これはもはや局地的紛争の域を超えて、全世界がその対立に巻き込まれており、経済的な影響も世界に及んでいます。権力を握っている人たちの支配の下で、一般の人々はなすすべもなく苦しみの中に突き落とされているのです。この世界を支配しているのは、政治的、軍事的な人間の権力だ、としか思えないような現実が今、私たちを取り巻いているのです。また今これも世界中が、新型コロナウイルスのパンデミックの中で苦しんでいます。このウイルスが自然に発生したものなのか、人間が作り出したものなのかははっきりしていませんが、いずれにしても人間が制御できないウイルスが、自らを変異させつつ、私たちの命と生活とを脅かしています。私たちの生活の多くの部分が今このウイルスによって支配されているのです。
 この世界と私たちの人生はこのように、この世の権力やウイルスなどによって支配されており、私たちはその下でどうすることもできずに右往左往しています。しかし、主イエスが「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」と信じている私たちは、この世界と自分の人生を本当に支配しているのはそれらの力ではない、ということを知っているのです。人間の権力やウイルスがどれだけ猛威を振るい、私たちを翻弄し、苦しめ、命をすら奪うことがあっても、この世界と私たちを本当に支配し、導いておられるのは、天地の造り主であり全能の父である神なのです。その神が独り子イエス・キリストを天において王として即位させ、主イエスによってこの世界と私たちを支配し、導いておられるのです。そのご支配は今私たちの目には見えません。目に見える現実においては、人間の権力やウイルスこそが支配しているとしか思えません。しかしその背後に、主イエス・キリストによる神のご支配が、私たちを救って下さる恵みの力が、必ず働いているのです。目に見えている出来事だけが現実なのではない、目に見えている支配者が本当の支配者なのではない、それらの力は一時(いっとき)この世界を支配し、人々に塗炭の苦しみを与えるけれども、最終的には滅ぼされていくのです。主イエス・キリストによる神の救いの恵みのご支配こそが最後に勝利し、確立するのです。そのことが目に見える仕方で現実となるのは、使徒信条がこの後に語っている「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」ということにおいてです。「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」という告白において、主イエスの現在のご支配を信じている私たちは、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」という将来の終わりの時に、今は目に見えない主イエスのご支配があらわになり、救いが完成することを信じて、待ち望んでいるのです。この信仰によって、この世界と自分の人生についての私たちの見方は変わっていきます。目に見えるこの世の現実において、様々なこの世の力によってなすすべもなく翻弄されているとしても、その背後に、目に見えない主イエスのご支配があることを信じて、希望を失わずに、絶望せずに、救いの完成を待ち望み、現在の苦しみの中で忍耐しつつ生きることができるのです。主イエスが、復活して天に昇り、全能の父なる神の右に坐しておられることを信じることによって、そのような希望が私たちに与えられるのです。

執り成して下さっている主イエス
 しかし、そのような終わりの時の救いの完成への希望が与えられているのはよいとしても、主イエスが今天において父なる神の右の座に着いておられ、神のご支配を司っておられるなら、その主イエスは今私たちのために何をして下さっているのか、と私たちは思います。この世界と私たちの苦しみの現実を、主イエスはただ見ているだけで何もして下さっていないのではないか、と文句を言いたくなるのです。天に昇り、父なる神の右の座に着かれた主イエスは今何をしておられるのか、そのことを語っているのが、本日の新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第8章34節です。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。神の右に座っている主イエス・キリストは、今、私たちのために執り成して下さっているのです。つまり、神と私たちとの間を取り持ち、関係を修復して下さっているのです。それは私たちと神との関係が元々良くないからです。それは私たちの罪のゆえです。神が恵みによって私たちに命を与え、賜物を与えて人生を導いて下さっているのに、私たちはその神を無視して、従おうとせず、いやむしろ神と交わりを持とうとすらせず、自分の人生は自分のものだから自分の思い通りにするのだ、神に邪魔されたくない、という思いで生きています。それが罪です。そのような私たちは神によって罪に定められる他ないのです。その私たちのために、主イエス・キリストが今、神の右の座において、執り成して下さっているのです。主イエスの執り成しのおかげで、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」、つまりもはや誰も私たちを罪に定めることはできない、私たちの罪は赦されており、神との良い関係が回復されている、と言うことができるのです。

祭司としてのご支配
 主イエス・キリストは今、父なる神の右の座において、私たちのために執り成しをして下さっています。神と人間との間に立って執り成しをする、それは祭司の働きです。主イエスは天において私たちのための祭司となって下さっているのです。詩編110編4節には、「わたしの右の座に就くがよい」と言われた「わが主」に対して、主なる神が「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク」と宣言しておられます。神の右の座に就いて王となった「わが主」のご支配は、祭司としての支配です。つまりこの王は、神と人々との間に立って執り成しをすることによって人々を支配するのです。主なる神のこの宣言は、主イエス・キリストによる救いの預言です。そのことを語っているのが、ヘブライ人への手紙第5章5節以下です。そこにこう語られています。「同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の箇所で、『あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である』と言われています」。まさに詩編第2編と110編が主イエスの預言であり、主イエスこそメルキゼデクと同じ祭司であると語られています。神の右の座に着く王は祭司として支配する、その方こそ、天に昇られた主イエス・キリストなのです。

主イエスの執り成しによって
 ヘブライ人への手紙はさらに10章11節以下でこのように語っています。「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」。ここに「すべての祭司は」と言われているのは人間の祭司たちのことです。彼らは毎日動物のいけにえを献げることによって神と人との執り成しをしていました。しかしそれは「決して罪を除くことのできない」ものでした。動物のいけにえは、たとえ毎日献げられても、それで私たちの罪が取り除かれることはないのです。しかし主イエス・キリストは、「罪のために唯一のいけにえを献げて」下さいました。それは、ご自分が十字架にかかって死んで下さったということです。神の独り子である主イエスが、ご自分をいけにえとして献げて死んで下さったことによって、私たちの罪は赦されたのです。主イエスの十字架の死によって、神と人間との間の真実の執り成しがなされ、神と私たちの間に良い関係が回復され、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」と言うことができるようになったのです。十字架にかかって死ぬことによってこの真実の執り成しをして下さり、私たちのためのまことの祭司となって下さった主イエスが、復活して天に昇り、父なる神の右の座に着いて、そこで今、私たちのために執り成して下さっているのです。つまり主イエスは今、父なる神の右の座において、ご自分の十字架の苦しみと死に免じて、罪ある私たちを赦し、神の子として生かして下さるようにと父なる神に執り成して下さっているのです。この世界には、そして私たちの人生には、悲しいこと、辛く悲惨なことが沢山あります。その中には私たち人間の罪によって引き起こされていることも多くあります。今ウクライナで起っていることはまさにそうです。それに代表される、人間の罪のゆえの苦しみ、悲しみ、悲惨さを、主イエスは天からただ見下ろしておられるのではありません。人間としてこの世を生き、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによって、私たちが自分の罪のゆえに味わう苦しみ悲しみそしてその中での死を、主イエスご自身が引き受け、体験し、ご自身をいけにえとして献げることによって、その罪の赦しを実現して下さったのです。その主イエスが、復活して天に昇り、苦しみ悲しみの中にある私たちのために、父なる神に執り成しをしつつ、今まさにみ手を差し伸べて支えて下さっているのです。「全能の父なる神の右に坐したまへり」と信じるとは、この主イエスの執り成しによるご支配を信じることです。主イエスの、十字架の苦しみと死、そして復活による執り成しが、ステファノを支え、代々の教会を支え、今ウクライナにおいて苦しみの中にある人々を支え、パンデミックの苦しみの中にいる私たちを支えているのです。

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