「神との平和」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第98編1-3節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第5章1-11節
・ 讃美歌:18、265
主イエスの死を見つめる
昨年の11月まで、私が主日礼拝の説教を担当する日には、毎週の礼拝で告白している「使徒信条」に導かれつつ、聖書のみ言葉に聞いてきました。12月中はそれを中断して、アドベントからクリスマスに関する箇所をとりあげてきましたが、新しい年を迎えて、使徒信条に基づく説教を再開します。使徒信条は三つの部分から成っています。第一の部分は父なる神への信仰を語っており、第二の部分は子なる神キリストへの信仰を語っており、第三の部分は聖霊なる神への信仰を語っています。今は第二の部分、子なる神イエス・キリストへの信仰を語っているところを読み進めています。第二の部分は、「我はその独り子、イエス・キリストを信ず」と始まり、「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と語られています。11月末にそこまで行っていました。本日はその続きです。「十字架につけられ」の続きは「死にて葬られ」です。というわけで、本日と来週の二週にわたって、「死にて」という言葉をめぐって聖書から聞きたいと思います。
正月早々から主イエスの死の話かよ、と思うかもしれません。しかし主イエス・キリストの十字架の死によってこそ、私たちの救いが実現したのであって、毎週の説教でそのことに触れない日はありません。それはクリスマスでも同じです。現に先々週のクリスマス礼拝においても、主イエスは十字架にかかって死ぬことによって私たちを救って下さるために、この世にお生まれになったのだ、ということをお話ししました。主イエスが人間としてこの世に生まれて下さったというクリスマスの出来事は、十字架の死への歩みの始まりだったのです。教会の暦では1月6日までがクリスマスの期間です。その期間に主イエスの死を見つめるというのは、おかしなことではない、むしろ相応しいことなのです。
洗礼と聖餐
クリスマス礼拝では、一人の幼な子が幼児洗礼を受け、三人の方々が洗礼を受けました。洗礼を受けるとは、主イエスの死にあずかって、罪に支配されている生まれつきの古い自分が死んで、そして同時に主イエスの復活にあずかって、神の子とされた新しい自分が生き始める、つまり私たちが一旦死んで新しく生まれ変わるということです。ですから洗礼を受けたクリスチャンは誰もが、主イエスの死にあずかった者、主イエスと共に死んだ者なのです。そこにこそ私たちの救いがあるのです。
またあのクリスマス礼拝においては、新たに洗礼を受けた方々と共に、一年半以上あずかっていなかった聖餐にひさしぶりにあずかることができました。洗礼においてキリストと共に死んで、キリストと共に新しい命を生き始めた私たちは、聖餐のパンと杯にあずかることによって、キリストが肉を裂き、血を流して十字架の上で死んで下さったことによる救いを体をもって味わいます。その聖餐においては必ず、いわゆる「聖餐制定のみ言葉」、コリントの信徒への手紙一の第11章23節以下が読まれますが、その26節にはこう語られています。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。クリスマスに聖餐にあずかった私たちは、それによって主イエスの死を、そこにこそ私たちの救いがあることを、世の人々に証しし、告げ知らせたのです。このように、私たちが信じ、あずかっている救いも、また人々に告げ知らせ、伝道している福音、救いの知らせも、主イエスの死によって実現したのです。私たちは、神の独り子である主イエス・キリストが自分のために死んで下さったことをいつも覚えて感謝しつつ歩んでいるのです。迎えた新しい年、主の2022年も、主イエスの死によって生かされていくために、この年頭の礼拝において使徒信条の「死にて」という言葉に注目することは相応しいことなのです。
主イエスは罪人のために死んで下さった
さて本日は、ローマの信徒への手紙第5章1~11節を中心にみ言葉に聞きたいと思います。主イエス・キリストが私たちのために死んで下さったことがここの6節にこう語られています。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。主イエス・キリストは私たちのために死んで下さった、その「私たち」は「まだ弱かった、不信心な者だった」のです。弱かったのは体ではありません。不信心だったのです。信仰がなかった、神を信じていなかったのです。それは、この世界と自分自身を造り、命を与え、人生を導いて下さっている神を神として崇めず、感謝もせず、従おうとせず、自分の人生は自分のものだと思って、自分の思いや願いを実現すること、自分の欲望を満たすことを人生の目的として生きていた、ということです。それが聖書で言うところの「罪」です。「不信心な」というのは、信仰心がちょっと足りない、ということではなくて、罪を犯している、ということなのです。だから8節には「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と言われているのです。主イエス・キリストは、罪人である私たちのために死んで下さった、それが主イエスの十字架の死の意味なのです。
定められた時に
主イエスは「定められた時に」死んでくださったと6節にありました。それは、父なる神がお定めになっていた時に、ということであり、主イエスの死は父なる神のみ心によることだった、ということを示しています。だから今の8節にあったように、キリストの死によって、「神はわたしたちに対する愛を示されました」と言えるのです。神はその愛する独り子主イエスを人間としてこの世に遣わして下さり、その主イエスがわたしたち罪人のために死んで下さったことによって、私たちへの愛を示して下さったのです。そのことは、ヨハネによる福音書3章16節の、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言葉にも語られています。主イエスの死は、神の私たちへの愛のみ心の現れだったのです。
誰かのために死ぬことは究極の愛
それがどんなに驚くべきことだったか、が6~8節に語られています。6?8節を続けて読みます。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまないものならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。キリストが私たちのために死んで下さった、そこに神の愛が示されています。誰かのために死ぬ、というのは、まさに究極の愛の行為です。そんなこと、めったにできることではありません。7節に「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません」とあります。あの人は正しい人だ、あの人の言っていることは正論だ、と思ったからと言って、その人のために死のうと思う人はほとんどいないのです。「善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」ともあります。自分に親切にしてくれた、自分のことを分かってくれた、親身になってくれた、この人は本当に善い人だ、と心から思うなら、その人のためなら命を惜しまない、という思いが起ることもあります。誰かのために命を投げ出すとか、その人のために死ぬというのは、本当に相手を愛していなければできることではないのです。例えば時々、親が自分の命を犠牲にして子供を守った、ということがあります。子供を本当に愛している親は、子供のために命を捨てることもあるのです。しかし時々、ごく稀にではありますが、見ず知らずの人のために自分の命を犠牲にした、という出来事が起ります。そういう話を聞くと私たちは感動を覚えます。そこには、相手がどういう人かによってではなくて、全く知らない人のために死ぬ、という真実な愛があります。そういう話を聞くと、相手がこういう人なら愛せるのに、などと思っている自分が恥ずかしくなります。自分にはとてもそんなことはできないな、と一方では思いながら、人間の中にはこのような真実な愛もないわけではないと思うと少しほっとするような気がするのです。
敵である私たちのために主イエスは死んで下さった
しかし主イエス・キリストが私たちのために死んで下さったことは、人間の中にも時折見られるそのように純粋で真実な愛をもはるかに超えています。主イエスは私たちが「正しい人」だから死んで下さったでは勿論ありません。私たちは正しい人どころか、数々の罪を犯している罪人です。また主イエスは、私たちが「善い人」だから死んで下さったのでもありません。私たちは、神や主イエスのために何か善いこと、親切なことをするどころか、むしろ神に背き逆らい、神を無視して自分勝手に生きているのです。つまり私たちは神にとって「善い人」どころか、敵なのです。私たちが罪人であるというのは、神の敵であるということです。その敵である私たちのために、キリストは死んで下さったのです。だから10節には「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば」と言われているのです。つまり、主イエス・キリストが私たちのために死んで下さったというのは、何の関係もない見ず知らずの人のために命を投げ出した、という純粋な愛をはるかに超えたことなのです。神は、ご自分が造り、命を与えたにもかかわらず、ご自分を無視して、むしろ邪魔者扱いして、共に歩もうとせず、自分の力で生きているかのように勘違いして、自分の欲望のために生きている、そういう恩知らずで、ご自分に敵対している私たち人間のために、愛する独り子の命を与えて下さり、主イエスはその父なる神のみ心に従って私たちのために死んで下さったのです。主イエス・キリストの十字架の死とは、そのように、とうていあり得ない、驚くべき、神の愛の出来事だったのです。
神との和解
このことによって私たちは、今読んだ10節にあったように、神と和解させていただいたのです。和解とは、敵対している関係が解消されて、良い関係が回復されることです。人間どうしの敵対関係であれば、お互いがお互いを傷つけているので、お互いに「悪かった」と謝って、赦し合うことによって和解が成り立ちます。しかし神と私たちの敵対関係は、私たちが一方的に神に背を向け、恩知らずに敵対しているのです。神が何か私たちを傷つけるようなことをなさったわけではありません。だから神との和解は、神と私たちがお互いに赦し合うのではなくて、私たちが神にお詫びをして、償いをして、神が怒りを収めて下さり、私たちの罪を赦して下さることによって実現するのです。その和解を、神の独り子である主イエス・キリストが、十字架にかかって死ぬことによって実現して下さったのです。つまり、神である主イエスが人間となって下さったのは、私たちに代って、私たちの代表として、神にお詫びをして、償いをして、神が怒りを収めて私たちの罪を赦して下さる和解を実現して下さるためだったのです。そのために主イエスは十字架にかかって死んで下さったのです。そこに、神の私たちに対する限りない愛が示されています。つまり神の愛とは、神に背いている罪人である私たちが、罪を赦していただいて、義としていただいて、神と和解して、神との良い関係を回復される、そのために必要な全てのことを、神の独り子主イエス・キリストが人間となって私たちに代って成し遂げて下さった、ということです。私たちはその和解のために、罪を赦していただくために、義とされるために、何もしていません。罪に支配され、神に敵対している私たちは、神との和解のために自分では何もできないのです。その私たちのために、全てのことを神ご自身がして下さったのです。だから私たちは、10節にあるように「御子の死によって神と和解させていただいた」のです。主イエス・キリストを救い主と信じるとは、このことを信じることです。主イエス・キリストを信じる信仰には、主イエスの様々な教えに従って生きるとか、主イエスが歩まれたように自分も生きる、などのことが含まれますが、中心はこのこと、つまり主イエスの十字架の死によって、罪人である自分が神と和解させていただいたことを信じることにあるのです。
神との平和
5章1節もこのことを語っています。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とあります。「信仰によって義とされた」とは、今見たように、主イエスの死によって神と和解させていただいたことを信じて、罪を赦されて義とされたということです。それによって私たちは、神との間に平和を得ています。神と私たちの関係は、もはや敵対する関係ではなくて、平和な関係となっているのです。主イエスの死によって、その平和が与えられたのです。
希望、苦難、忍耐、練達、希望
神との間に平和を得ているとは具体的にはどんなことなのか。そのことが、2節以下に語られています。2節に「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」とあります。神との間に平和が与えられているなら、「神の栄光にあずかる希望」に生きることができるのです。そのことは3節以下と繋がっています。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」。苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む、これが、神との間に平和が与えられている私たちに起ることです。ここに語られているのは、「苦難によって鍛えられて人間は成長する」というようなことではありません。3節以下の前提は、2節の「神の栄光にあずかる希望」です。その希望が与えられているから、苦難をも忍耐することができるのです。そしてその忍耐から練達が生まれ、そしてその練達が、希望をさらに確かなものとしていくのです。希望から始まり、苦難、忍耐、練達、そして再び希望に至る、という循環が見つめられているのです。神との間に平和を得ている者は、このように歩むことができるのです。5節の後半には、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とあります。神との平和は、聖霊によって神の愛を心に注がれているところに与えられるのです。神との平和とは、神が自分を愛して下さっていることが分かることだからです。それが分かるからこそ、「神の栄光にあずかる希望」を持つことができ、その希望に支えられて、苦難、忍耐、練達を与えられ、その結果希望がさらに増し加えられていくのです。だから神との平和は、神の愛が自分に注がれていることを聖霊によって示され、分かるようになるところに与えられるのです。そしてその神の愛は、6節以下に語られていたように、主イエス・キリストの十字架の死においてこそ示され、与えられているのです。
神の愛が分かるのは
神の愛が自分に注がれていることは、何が良いことがあることによって分かるのではありません。自分の願いがかなうことが、神が自分を愛して下さっていることのしるしなのではありません。そのように考えていたら、苦難を忍耐することはできないでしょう。苦難があることは神が愛してくれていないことになってしまいますから。しかし神の愛は、主イエス・キリストがこの私のために十字架にかかって死んで下さったことにこそ示されているのです。その神の愛は、聖霊によって私たちの心に注がれています。つまり神の愛が分かるようになるのは聖霊のお働きによるのです。するとそこには、やはり聖霊のお働きによって、「神の栄光にあずかる希望」が見えてきます。希望は、今ここにある現実ではありません。将来約束されていることです。今あるのはむしろ苦難の現実なのです。しかし主イエスの死によって神の愛を示されている私たちは、神の栄光が将来必ず現れるという希望を見つめることができ、それに支えられて苦難を忍耐することができます。そこに信仰の練達が与えられていき、それによって希望はますます確かなものとなるのです。主イエス・キリストを信じて生きる私たちには、聖霊なる神がこのような歩みを与えて下さるのです。その歩みの最初の一歩は、主イエス・キリストがこの自分のために十字架にかかって死んで下さったことを信じることなのです。
新しい歌を主に向かって歌え
新年の礼拝であることを意識して、詩編第98編を共に読みました。「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた」。主が成し遂げて下さった驚くべき救いのみ業、それは独り子主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことだと言えるでしょう。この驚くべき救いのみ業こそが、私たちを新しく生かすのです。迎えた主の2022年、私たちは、主イエスの死という驚くべき救いのみ業を見つめつつ、そこに示されている神の愛による希望に支えられて、苦難を忍耐し、忍耐によって信仰の練達を与えられ、そして神の愛を信じる希望をさらに深められていきたいと願います。聖霊なる神さまが、神の真実な愛を私たちに注いで下さることによって、私たちは新しい歌を主に向かって歌いつつこの年を歩んでいくことができるのです。