「目から涙をぬぐいなさい」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:エレミヤ書 第31章15-20節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第2章13-23節
・ 讃美歌:
クリスマスの喜び
2021年のクリスマス礼拝をこうして共に守ることができ、心から感謝しています。昨年のクリスマス礼拝は、三回に分けて行われました。讃美歌を歌うこともできず、歌詞の朗読を聞くのみでした。それに比べて、今年のクリスマス礼拝は、二回になり、讃美歌を限定的にではあれ共に歌うことができ、そして何よりも今日は本当に久しぶりに聖餐にあずかることができます。昨年のことを思うと本当に感謝です。まだ愛餐会などはできませんし、24日の讃美夕礼拝も行えませんから、元通りには程遠いにせよ、クリスマスの喜びをある程度回復することができました。そして今日、一人の幼な子が幼児洗礼を受け、三人の方々が洗礼を受け、一人の方が転入会されます。「コロナ禍」の中でも、主なる神さまがこのようにみ業をおし進めていて下さることを目の当たりにすることができることも、大きな喜びです。
悲しみ嘆きの現実の中で迎えるクリスマス
このように今日私たちは、クリスマスの喜びをひさしぶりに味わっているわけですが、それと同時に、今この世界を覆っている深い苦しみ悲しみ嘆きを思わずにはおれません。この一年、新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るいました。日本においてもこの夏私たちは、感染爆発による医療崩壊ということを身近に感じました。感染して発症し、本当は入院しなければならないほど重症になっても、入院できずに自宅で待機しなければならず、その間に亡くなってしまう人が出ました。自分もいつそうなってしまうか分からない、また他の病気になってもちゃんと治療を受けられないかもしれない、という不安を感じました。そして世界中で、このウイルスによって本当に多くの人が亡くなりました。日本では、コロナで亡くなった人は、家族もちゃんと顔を見てお別れをすることができないまま火葬に付され、遺骨となって帰って来る、ということが起りました。愛する者を失った悲しみは、ちゃんとお別れをすることによってこそ、慰めを得て新しく歩み出すことができるものですが、コロナで亡くなった人の遺族はそれができずに、悲しみ、嘆きをいつまでも引きずっています。今世界中にそういう悲しみ、嘆きが満ちているのです。そういう深い悲しみや嘆きの現実の中で、私たちは今年のクリスマスを迎えているのです。
ヘロデによる幼児虐殺
今年のクリスマスに私たちが体験していることは、主イエス・キリストがこの世にお生まれになった、最初のクリスマスにおいて起ったこと重なります。マタイによる福音書を読むとそのことが分かります。マタイ福音書の第2章には、クリスマスに、東の国から占星術の学者たちが、星に導かれてやって来て、新しく生まれた王である主イエスの前にひれ伏し、黄金、乳香、没薬の贈り物をささげたことが語られています。占星術の学者たちは以前は「博士」と訳されていました。東の国の博士たちが、ラクダに乗ってはるばる旅をしてきて、黄金、乳香、没薬を主イエスにささげた、というのは子どもたちが演じるページェント(降誕劇)の大事な場面であり、微笑ましい、メルヘンチックな話です。しかしマタイ福音書の記述はそれで終わりではありません。彼ら学者たちは、ユダヤの王だったヘロデから、その子のことを調べて知らせてくれ、と頼まれていました。ヘロデは、ユダヤ人の新しい王の誕生を彼らから聞いて不安になり、彼らに調べさせてその子を見つけ出し、殺してしまおうとしていたのです。しかし彼ら学者たちは「ヘロデのところへ帰るな」という神のお告げを受けたので、ヘロデに報告せずに帰ってしまいました。その後のところが本日の箇所です。ヘロデは、学者たちが自分に報告せずに帰ってしまったことに大いに怒り、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。マタイによる福音書は、学者たちが主イエスの前にひれ伏して拝み、喜びにあふれた、というクリスマスの喜びを語ると共に、そのために何の罪もない幼児が虐殺されるという大きな悲劇が起り、深い悲しみ嘆きがこの地を覆ったことをも語っているのです。クリスマスの喜びと、深い悲しみと嘆きとが同時にある、その点において、この話は今私たちが体験していることと繋がるのです。
ラケルの嘆き悲しみ
ある日突然子どもを殺された母親の悲しみが18節に語られています。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。この嘆きは、預言者エレミヤが語った預言の実現だ、と17節にあります。18節は先ほど朗読されたエレミヤ書第31章15節の引用なのです。エレミヤが語っているこの嘆き悲しみは、イスラエルの民がバビロニアによって国を滅ぼされ、バビロンに連れ去られた、いわゆるバビロン捕囚の嘆き悲しみです。ラケルは、主なる神からイスラエルという名を与えられたヤコブの妻であり、イスラエルの民の母である人です。そのラケルが、「子供たちがもういない」ことを嘆き悲しんでいる、それはイスラエルの民がバビロンに連れ去られてしまってもういない、ということです。イスラエルの民の母ラケルの嘆き悲しみが、子どもを殺された母親の悲しみと重ね合わされているのです。
救いと希望
マタイはこれによって、ヘロデによる幼児虐殺も神さまのみ心だった、と言おうとしているのではありません。彼は、子どもを殺された母親たちの嘆き悲しみをラケルの嘆き悲しみに重ねることによって、そのラケルに対して主なる神が語られたみ言葉が、このクリスマスの出来事においても響いていることを示そうとしているのです。エレミヤ書31章の16、17節にこうあります。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。主なる神は、嘆き悲しむラケルに、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい」と語りかけておられるのです。そして、連れ去られた息子たちは敵の国から帰って来る、だからあなたの未来には希望がある、と告げておられるのです。ヘロデによる幼児虐殺という、慰められることを拒むような深い悲しみの現実の中にも、神のこのような救いと希望が告げられていることをマタイは示そうとしているのです。
罪の赦しによる救い
エレミヤ書において主が告げておられる救いと希望は、バビロン捕囚からの解放と帰還です。「息子たちは、敵の国から、自分の国に帰って来る」と告げられています。バビロン捕囚とそこからの解放、帰還は、イスラエルの人々にとってどのような意味を持っていたのでしょうか。18、19節にこうあります。「わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。『あなたはわたしを懲らしめ/わたしは馴らされていない子牛のように/懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。わたしは背きましたが、後悔し/思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ/若いときのそしりを負って来ました」。「エフライム」というのはイスラエルの民のことです。彼らは、主なる神に背いたために懲らしめを受けたのです。彼らをエジプトにおける奴隷の苦しみから解放し、約束の地を与えて下さった主なる神を神として礼拝せず、従わず、他の神々を拝むようになってしまったことがイスラエルの民の罪です。バビロン捕囚はその罪に対する懲らしめだったのです。その苦しみの中で、彼らは後悔し、悔い改めて、「あなたは主、わたしの神」という信仰に立ち帰ったのです。そのイスラエルの民に対する主なる神の思いが20節に語られています。「エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる」。主なる神はイスラエルの民を、ご自分の民として、息子として、愛しておられるのです。その彼らの背きの罪のゆえに主は懲らしめを与えましたが、それは彼らを憎んでいるからではなく、愛しているからこそです。だから主は、懲らしめを与えつつ、彼らを憐れまずにはいられないのです。この主なる神の憐れみによって、捕囚からの解放と帰還が実現するのです。つまり、主が告げておられる救いと希望は、神に背く罪のために苦しみの中にいる民が、悔い改めて主に立ち帰り、神が憐れみをもって彼らを赦して、もう一度神の民として歩ませて下さる、という救いと希望です。「私は憐れみをもってあなたの罪を赦す。だから、泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの未来には希望がある」と主は語りかけて下さっているのです。
主は私たちにも今日、この救いと希望を告げて下さっています。クリスマスを喜び祝う私たちの現実は、決して何の問題もなく、悩みも悲しみもない能天気なものではありません。この世には様々な苦しみ悲しみが満ちています。私たち人間の罪によって生じている、罪に対する懲らしめと言うべき苦しみも沢山あります。その苦しみ悲しみの中にいる私たちに、主なる神は「私があなたの罪を赦し、新しく生かす、だから泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの未来には希望がある」と告げて下さっているのです。主イエス・キリストの誕生が、その救いと希望を私たちにもたらしたのです。
十字架にかかって死ぬために
ヘロデは、主イエスを殺そうとして、ベツレヘム周辺一帯の二歳以下の男の子を皆殺しにしました。しかし主の天使がヨセフの夢に現れて「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と告げたので、ヨセフは幼子主イエスと母マリアを連れてエジプトに逃げました。それで主イエスは、ヘロデによる虐殺を免れたのです。イエスが誕生したために多くの罪のない幼児が殺され、イエス一人が神のお告げによって生き延びたというのは釈然としない、納得できない、という思いを私たちは抱きます。イエスはこうして生き延びて幸せになりました、という話だったら確かにそうです。しかし、クリスマスにこの世にお生まれになった主イエス・キリストのご生涯は、私たちの罪をご自分の身に背負い、その苦しみを共に担って下さる歩みでした。そして主イエスは最後には、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。それは私たちの身代わりとしての死でした。神に従うのでなく、自分の思いを神として生きている私たち罪人が本当はつけられなければならない十字架に、主イエスが代ってつけられ、死んで下さったことによって、私たちは罪を赦され、神の子として新しく生かされたのです。主イエスは十字架にかかって死ぬことによって私たちを救って下さるために、この世にお生まれになったのです。ですから、主イエスが神のお告げによってこの時ヘロデの虐殺を免れたのは、後に、私たちのために十字架にかかって死ぬためだった、と言うことができるのです。
幼児虐殺と主イエスの十字架は重なり合う
ヘロデは、あの学者たちのように主イエスを自分たちの新しい王として迎え、その前にひれ伏すのではなくて、あくまでも自分が王であり続けるために主イエスを殺そうとしました。そのヘロデの罪によって罪のない幼な子たちは殺されたのです。この幼な子の死は、神の独り子であり何の罪もない主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架につけられて殺されたことと重なり合います。あの幼児虐殺という、人間の深い罪による悲惨な出来事を、神の独り子主イエスの十字架の死と重ね合わせて見つめることによって私たちは、そこにも、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの未来には希望がある」という主のみ言葉が響いていることが分かるのです。
クリスマスの喜び
私たちは今年のクリスマスを、深い嘆き悲しみの現実の中で迎えています。それは実は今年だけの話ではありません。新型コロナウイルスがなくても、クリスマスを喜び祝う私たちの周りにはいつだって、人間の罪と、それによる様々な悲惨な現実があるのです。ヘロデによる幼児虐殺と同じようなことが、この世界には繰り返し起っています。この世界は、罪と、悲しみと嘆きで満ちており、呑気にクリスマスなんて祝ってる場合じゃない、とも思えるのです。しかしまさにその罪と悲しみと嘆きに満ちた現実のただ中に、神の独り子主イエス・キリストは来て下さいました。主イエスは、私たちが負っている苦しみ悲しみを共に背負って生きて下さり、そして私たちの全ての罪をご自分の身に負って、十字架にかかって死んで下さいました。この主イエスの十字架の死によって、神は私たちの罪を赦して下さり、私たちを神の民として新しく生かして下さるのです。洗礼を受け、主イエス・キリストと結び合わされ、キリストの体である教会の一員とされることによって私たちはこの救いにあずかります。その救いの喜びにあずかった私たちはなお、苦しみや悲しみの多い、人間の罪による悲惨な出来事に満ちているこの世を生きています。しかしその中で、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの未来には希望がある」という主なる神の語りかけを聞くことができるのです。その希望を与えるために、主イエス・キリストはこの世に生まれ、私たちのところに来て下さいました。クリスマスに私たちはそのことを喜び祝うのです。