主日礼拝

まことの神、まことの人

「まことの神、まことの人」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章13-14節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第2章1-11節
・ 讃美歌:13、280

まことの神でありまことの人である主イエス
 私たちが毎週の礼拝において告白している使徒信条には、教会の信仰の基本が語られています。その中の、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」から始まるところが、第二の部分、神の独り子であるイエス・キリストへの信仰を語っているところです。イエス・キリストを、神の独り子、我らの主と信じることが、教会の信仰の基本なのです。その主イエス・キリストについて使徒信条は、「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」と語っています。主イエスの母マリアは、婚約者ヨセフによってではなく、聖霊によって身ごもり、主イエスを出産しました。「聖霊による処女降誕」という奇跡です。聖書にそのように語られており、それが使徒信条においても告白されて、教会の信仰となっているわけですが、先週の礼拝において、この奇跡の意味、それが指し示している事柄は何かをみ言葉から聞きました。聖書はこの奇跡によって、主イエス・キリストが、人間ではなく聖霊の力によって、神の子としてお生まれになったこと、つまり主イエスはまことの神であられることを指し示しており、同時に、主イエスは人間の母マリアの出産によって生まれたこと、つまり主イエスは私たちと同じようにお母さんのお腹から一人の人間として生まれてきたことを指し示しているのです。「処女降誕」という奇跡から私たちが受け止めるべきことは、主イエスはまことの神であり、同時にまことの人間である方として生まれ、この世を生きた、ということです。使徒信条は、まことの神であり、同時にまことの人間である主イエス・キリストを救い主と信じることが教会の信仰の根本であることを語っています。このことは、キリスト教信仰の勘所です。本日は、このことについて聖書が語っていることを聞きたいと思います。

神が人間となって下さった
 主イエスがまことの神であり、まことの人間である、というのは、まことの神であられる方が人間となってこの世を生きて下さった、ということです。使徒信条が「父なる神の独り子、我らの主」であるイエス・キリストが、「聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」、と語っているのはそういうことです。神の独り子でありまことの神であられる方が、人間の女性から出産され、一人の人間となったのです。先週も申しましたが、それこそが驚くべき奇跡なのです。
 主イエスが神の子、御子であられることについては、しばらく前の説教において、コロサイの信徒への手紙第1章13?20節のみ言葉を聞きました。そこには、御子は、天地が造られる前に、父から生まれた方であり、万物は御子によって造られたのだと語られていました。御子主イエスは、マリアから誕生したことによって初めて存在するようになったのではなくて、天地創造において、既に父なる神の子としておられ、創造のみ業に関わっておられたのです。それと同じことをヨハネによる福音書はその冒頭において、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と語っています。初めに神と共にあり、ご自身が神であり、万物はその方によって成った「言」が見つめられているのです。そしてヨハネ福音書1章14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。ご自身が神である「言」が肉となって私たちの間に宿って下さった、その「言」こそ神の独り子イエス・キリストです。このように聖書は、主イエス・キリストの誕生を、神の独り子であり、まことの神である方が肉となって、つまり人間となって、この世に、私たちの間に、来て下さったという出来事として語っています。要するに、神が人間となって下さった、それがクリスマスの出来事なのです。

徹底的なへりくだり
 神が人間の姿に身をやつして、言わばお忍びでこの世を歩んだ、という話は世界のあちこちにあります。人々は相手が神であると知らずにその人と関わり、親切にした人は後から良い報いを受け、邪険に扱った人は罰を受けた、というような話です。しかし聖書が語っているのはそれとは全く違う話です。神の独り子が、イエスという人間の姿に身をやつしてこの世に現れたのではないのです。まことの神である御子が、まことの人間となられたのです。それが主イエス・キリストです。それは、神の独り子が徹底的にへりくだり、ご自分を低くして下さった、ということです。そのことを語っているのが、先ほど朗読されたフィリピの信徒への手紙第2章です。その6節以下にこうあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。主イエス・キリストは、神の身分だった、神と等しい者だった、つまりまことの神であられたのです。しかしそのことに固執せず、つまり神としての力や栄光にしがみつくのではなくて、自分を無にして僕となり、人間と同じ者になって下さったのです。それは神の独り子が徹底的にへりくだって下さった、ということです。つまり主イエスが人間としてこの世にお生まれになったのは、人間の姿に身をやつしてお忍びで現れて人間たちを試すためではなくて、へりくだって私たち人間と共に生きて下さるためだったのです。いや共に生きて下さっただけではなく、主イエスは十字架の死に至る道を歩まれたのです。それは、私たちが自分の罪のゆえに受けなければならない裁きを主イエスが代って背負って下さったということです。私たち人間は、神によって命を与えられ、生かされているのに、神に従おうとせず、自分が主人となって生きる罪に陥っています。神に敵対しているのです。主イエスはその私たちと共に生きて下さり、私たちが受けなければならない裁きを引き受けて、私たちの代わりに死んで下さったのです。つまり主イエスのへりくだりは、人間となって共に生きて下さっただけでなく、罪人である私たちに代って死んで下さるまでの徹底的なへりくだりでした。主イエスが人間としてこの世にお生まれになったのは、その徹底的なへりくだりの第一歩だったのです。
 また今のフィリピの信徒への手紙2章8節には、主イエスは十字架の死に至るまで「従順でした」とありました。つまり主イエスは父なる神のみ心に従って歩まれたのです。父なる神は、独り子主イエスをこの世に人間として生まれさせ、その主イエスが人々の罪を背負って十字架にかかって死ぬことによって、人々の罪を赦し、救いを与えようとお考えになったのです。独り子主イエスはその父なる神のみ心を受け止めてそれに従い、ご自分を低くして人間となってこの世を生き、そして十字架の死に至るまで父なる神に従順に歩まれたのです。父なる神の恵みのみ心と、そのみ心に従順に従った独り子主イエスのへりくだりとによって、罪人である私たちの救いが実現したのです。

自分を高くすることによってではなく
 このように聖書は、神の独り子、まことの神であられる主イエスが、ご自分を低くして、徹底的にへりくだって、人間となって下さったことを語っています。神ご自身のこのへりくだりによって、罪人である私たちに救いが与えられたのです。ここに、聖書の信仰の勘所があります。それはつまり、聖書の語る救いは、人間が自分を高めていき、神に近づいていく、つまりより清く、正しく、立派な者になっていくことによって得られるのではなくて、神がご自分を徹底的に低くして下さり、へりくだって下さったことによって与えられている、ということです。これは驚くべきことです。私たちの普通の感覚からすれば、つまり人間の常識においては、神を信じる信仰というのは、あるいは宗教というものはと言ってもよいかもしれませんが、神であれ仏であれ何であれ、人間を超えた存在を信じることによって、人間が自分を高めていき、より清く正しく良い者になって、より良い生き方ができるようになる、ということを教えている、と思われているのです。世の中にはいかがわしい宗教もいろいろありますが、およそまともな宗教であれば、人間が自らを高めていく道を教えている、と私たちは思っているのです。ところが聖書は、人間が自らを高めていくことによる救いではなくて、神が自らを低くして下さったことにこそ救いがある、と語っているのです。
 神の独り子、まことの神であられる主イエスが、マリアから生まれて私たちと同じ一人の人間となって下さったことを信じるとは、神ご自身が徹底的にへりくだって人間となって下さったことにこそ私たちの救いがあると信じるということです。それは言い換えれば、私たちは、自分で自分を高めて、清く正しく良い者になることによって救いを得ることはできない、それほど深く罪に支配されてしまっている、と認めることです。私たちが自分で自分を高めて、清く正しい者となることで救いを得ることができないから、神がご自分を低くして人間となって下さり、救いを与えて下さったのです。

自分を高くしようとするところにも働く罪
 でも、と私たちは思います。確かに自分にいろいろ罪があることは認めるけれども、でもそういう私たちが、少しでも清くなろう、より良い人間になろう、罪から遠ざかって正しい歩みをしよう、それこそ自分を高めていこうと努力をする。そういう努力をもう少し認めてもよいのではないか。そのように自分を高めて神に近づいていこうとする人間の努力を励まし、勧めることが信仰の意味と役割ではないのか。そういう思いが当然起こって来るのです。それは自然なことだと思います。自分を高めていこうとする人間の思いや努力に意味がないわけではありません。けれども私たちは、そこで起っている現実をしっかり見つめなければならないでしょう。私たちは確かに、自分を高め、より清く正しくなろうと努力します。そしてある程度それに成功することもあります。しかしその時に私たちは、必ずとは言いませんが実にしばしば、その自分を人と見比べ始めるのではないでしょうか。自分は努力してこれだけ清く正しくなった、これだけ自分を高めることができたと思った途端、人が自分より低く見えてくるのです。そしていわゆる「上から目線」になって、人を批判したり裁いたりする思いが起って来るのです。いやそれはあなただけでしょう、私はそんな思いにはなりません、というのであればごめんなさい、ですが、でもおそらくそれは私だけではないと思います。努力して自分を高めようとすること自体は良いことだけれども、その良いことにおいても私たちはなお罪に深く捕えられてしまっているのではないでしょうか。フィリピの信徒への手紙第2章の3、4節に「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とありました。自分を高めようとする私たちの思いはしばしば、利己心や虚栄心と結びついてしまうのです。私たちは、「相手を自分よりも優れた者と考え」ることが嫌なのです。「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う」ことが苦手なのです。そういう私たちにこの手紙は、4節以下で、主イエス・キリストの徹底的なへりくだりを示しているのです。

自分を高くしようとする思いからの解放
 この手紙がここで語っているのは、主イエス・キリストのへりくだりを模範として、あなたがたもへりくだって謙遜な者となりなさい、それこそが本当の意味で自分を高めること、清く正しくなることですよ、ということではありません。謙遜になることによってこそ自分を本当に高めることができる、と言っているのではなくて、神である主イエスがご自分を低くして下さり、徹底的にへりくだって下さったことにこそ私たちの救いがあるのだ、と言っているのです。謙遜になることによってであろうと、他の何によってであろうと、私たちが自分を高め、清く正しい立派な者となることによって救いを得ることができるのではなくて、神の独り子である主イエスが人間となって、私たちに代って十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによってこそ救いは与えられたのです。そのことを見つめなさい、とこの手紙は語っているのです。私たちの救いは、神の独り子が十字架の死に至るまで徹底的にへりくだって下さって、罪を赦して下さったことによって与えられたのです。この救いを与えられたことによって、自分を高め、清く正しく立派な者になることによって救いを得る必要はもうなくなったのです。それによって私たちは、自分を高めようとする思いと、そこにもまつわりついている利己心や虚栄心、自分の清さや正しさを人と比べて一喜一憂する思いから解放されるのです。相手を自分よりも優れた者と考えることによって落ち込まないですむようになるのです。自分のことだけでなく、他人のことにも喜んで注意を払って生きることができるようになるのです。ですからこの箇所が教えているのは、主イエスに倣ってへりくだり、謙遜な、立派な人になりましょう、ということではありません。神である主イエスがご自分を低くして、マリアから生まれて人間となり、十字架の死へと歩んで下さったことによって罪を赦して下さった、その主イエスのへりくだりによる救いをこそ見つめて歩みなさい、ということです。それによって私たちは、自分を高くすることによって救いを獲得しようとする思いから、それと結びついた虚栄心から解放されるのです。

「わたしはある」
 本日は、共に読まれる旧約聖書の箇所として、出エジプト記第3章13、14節を選びました。主なる神がモーセに、「わたしはある、わたしはあるという者だ」とおっしゃった箇所です。この箇所が本日のテーマ、まことの神がご自分を低くして人間となって下さったということとどう関係するのか、と思われるかもしれません。しかし主イエスご自身が、この「わたしはある」という言葉はご自分のことを言い表しているのだと言われたことが、ヨハネによる福音書第8章に語られています。その24節に「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とあります。また28節には「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」とあります。「わたしはある」ということを信じる、それは、主イエスが父なる神から遣わされた独り子なる神であると信じることです。そのことを信じるなら、罪のうちに死ぬことから救われる、つまり主イエスによる罪の赦しにあずかることができるのです。主イエス・キリストにおいて、出エジプト記第3章に示された「わたしはある」というみ言葉が実現しているのだ、とヨハネ福音書は語っているのです。

神の意志と決意
 この「わたしはある、わたしはあるという者だ」というみ言葉は、とても訳すのが難しい言葉です。「わたしはこういう者だ」と神の自己紹介のように訳されていますが、「者だ」に当たる言葉は原文にはありません。これは実は、神がご自分のお名前を語っている文章ではないのです。ある注解者はここを「わたしはあろうとして、わたしはあろうとするのだ」と訳しています。そして「神は、ご自身の揺るぎない意志と決意そのものを、モーセに向かってここで啓示しているのである」と解説しています。名前が語られているのではなくて、神の意志と決意がここには示されているのです。それはどのような意志であり決意なのでしょうか。主なる神は、奴隷として苦しめられているイスラエルの民をエジプトから解放し、救い出すという意志と決意をもってモーセと出会い、語りかけておられます。モーセをそのためにイスラエルの民の中へと遣わそうとしておられるのです。しかしモーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と言っています。それに対して神は12節で、「わたしは必ずあなたと共にいる」とおっしゃいました。ここにも、14節と同じ「わたしはある」という言葉があります。つまりこの12節にも、神の強い意志と決意が示されているのです。それは「わたしはあなたと共にいる」という意志であり決意です。モーセと、そしてご自分の民であるイスラエルの人々と、共にいて下さり、共に生きて下さるという神の強い意志と決意が「わたしはある」という言葉に込められているのです。

共に生きて下さる神
 この神の「わたしはあなたと共にいる」という意志と決意が、主イエス・キリストが人間となって下さったことにおいて実現したのです。先週読んだように、主イエスが「処女(おとめ)」であるマリアから生まれたことは、イザヤ書第7章14節の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」という預言の実現であるとマタイ福音書は語っていますが、その「インマヌエル」は「神は我々と共におられる」という意味です。主イエスにおいて、私たちと共に生きて下さろうとする神の意志と決意が実現したのです。それは、神の独り子でありまことの神であられる主イエスが、神であることに固執せずに、自分を無にして人間となって下さり、しかも私たちに代って十字架にかかって死んで下さるというへりくだりの意志であり決意でした。神がご自身を徹底的に低くして下さったことによって私たちは救われたのです。この主イエスと共に生きていくことによって私たちは、自分を高くしようとする思いと、そこにからみついている虚栄心、人と自分を比較して喜んだり悲しんだりすることから解放されるのです。

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