「摂理」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:創世記 第45章4-8節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章28節
・ 讃美歌:
「ハイデルベルク信仰問答」問26
8月から「使徒信条による教理説教」を始めています。毎週の礼拝において告白している「使徒信条」に沿って、み言葉を聞いていこうという試みです。それによって、教会が聖書に基づいて信じている教理の内容を確認していこうとしているのです。「使徒信条」の冒頭の言葉は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」です。この中の「天地の造り主」について、これまでの三週間、いろいろな聖書箇所からみ言葉に聞いてきました。本日も、このことと関連するあることを見つめていきたいと思います。
新型コロナウイルスの影響を受けるようになる前には、毎週の主日礼拝前に「求道者会」が行われていて、そこでは「ハイデルベルク信仰問答」を学んでいました。この信仰問答の第二部「人間の救いについて」のところの前半は「使徒信条」の解説です。「ハイデルベルク信仰問答」も、「使徒信条」に沿って、聖書がどのような救いを私たちに告げているのかを語っているのです。「使徒信条による教理説教」を始めたのは一つには、この求道者会を行うことができなくなっているからです。「ハイデルベルク信仰問答」において、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という使徒信条の言葉がどのように解説されているのかをここで改めて紹介したいと思います。それは問26です。「『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず』と唱える時、あなたは何を信じているのですか」という問いに対して、答えはこうなっています。「天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらを永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、ということです。わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間へいかなる災を下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです。」
今も保ち支配しておられる
長い答えで、いっぺんに全部は頭に入りませんから、少しずつ見ていきます。この答えで先ず語られているのは、神が天と地とその中にあるすべてのものを創造し、そしてお造りになったこの世界を「永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる」ということです。つまり、「天地の造り主」である神を信じるというのは、神がこの世界と私たち人間を最初にお造りになったことを信じるだけではなくて、その神が世界と人間とを「今も保ち支配しておられる」と信じることなのです。神はこの世界を最初に造って後は放ったらかしにしているのではなくて、今も、守り、保ち、導いて下さっているのです。そういう意味では、天地創造のみ業は今も続いているのです。神が今もこの世界を保ち支配して下さっているから、この世界はこうして存続しているのだし、私たちもこうして生きているのです。
必要なものすべてを備えてくださる
そしてそれは、私たちの命が守られ生き続けることができている、というだけのことではありません。今の答えの中に「この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださる」とありました。神は私を愛によって造り、命を与えて下さいました。その愛によって私に、体と魂に必要なものすべてを備えて下さっているのです。そのように愛をもって私を今も保ち支配して下さっているのです。天地の造り主を信じるとは、神が私たちを愛して命を与えて下さっただけでなく、私たちの人生を愛をもって導いて下さり、必要なものを全て与えて下さっていると信じることなのです。
創造者である神のご支配
しかしそこにはすぐに疑問、問いが生じます。私たちの人生に起ることは、良いことばかりではないからです。つらいこと、悲しいことも起ってきます。体や魂に必要なものが十分に備えられていない、と感じることもしばしばです。神が愛をもって自分の人生を導いて下さっているとは思えないような苦しみ悲しみを体験することがあります。そして、命が守られずに失われてしまうことだってあります。それが私たちの体験している人生の現実です。天地の造り主であられる神を信じるというのは、そういう現実にもかかわらず、私たちの人生を神が保ち支配しておられると信じることなのです。「保ち」だけでなく「支配しておられる」という言葉があることの意味がそこではっきりします。神は私たちの命と人生を保って下さっているだけでなく、それをみ心によって自由に支配しておられるのです。神は天地の造り主、創造者であり、私たちは造られたもの、被造物です。神は自由なみ心によって私たちを造り、命を与え、それぞれの人生を導き、そしてそれを終わらせる方なのです。私たちはそれに逆らうことはできません。造られた器が造った焼き物師に「どうしてわたしをこのように造ったのか」と文句を言うことはできない、ということが、先々週に読んだローマの信徒への手紙の第9章に語られていました。そのように私たちの命と人生は、造り主なる神の自由なみ心によるご支配の下にある、それが「天地の造り主」を信じるということです。そこには疑問や反発も当然生まれるのです。
神のご支配を信じることによって与えられる希望
しかし先ほどの「ハイデルベルク信仰問答」の問26の答えは、私たちの人生を神が保ち支配しておられるという信仰によってこそ与えられる確信を語っていました。それは、「また、たとえこの涙の谷間へいかなる災を下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです」という確信です。私たちの人生が「涙の谷間」と表現されています。人生にはつらいこと、悲しいことが多いのです。そしてそこに「いかなる災を下されたとしても」とあります。その主語は神です。神が私たちの人生に災を下すのです。人生を支配しておられるのは神なのですから、神は少なくとも私たちに災が下ることを認めておられるのです。私たちはそれに疑問や反発を覚えますが、しかしこの答えは、だからこそ、「それらをわたしのために益としてくださる」と信じることができる、と語っているのです。私たちの人生は神のみ心のご支配の下にあり、災も神のみ心によって起っている、だからこそ同時に、神がその災をも私たちのために益となるようにして下さると信じることができるのです。災が、神以外の何らかの力によって起っているのだとしたら、災においては神のご支配が私たちに及んでいないことになります。神も手出しができない中で災が起っていることになるのです。それは絶望でしかありません。しかしその災の現実においても、支配しておられるのは神なのです。それが「天地の全てのものの造り主」を信じるということです。そこにおいてこそ、神が災をも私たちのために益として下さることを信じることができます。災の現実の中でも、神のご支配を信じて、希望を失わずに生きることができるのです。
万事を益となるようにして下さる
「ハイデルベルク信仰問答」のこの答えの元となっている聖書の箇所が、先ほど読まれたローマの信徒への手紙第8章28節です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」というのは、要するに信仰者たちのことです。私たちは、神のご計画によって召され、教会へと導かれ、主イエス・キリストによる救いにあずかり、主イエスの父である神が愛をもって私たちを支配して下さっていることを信じています。その神の愛を信じて私たちも神を愛する者として生きているのです。その信仰において私たちは、「万事が益となるように共に働く」ことを示されています。「万事」とは「全てのこと」ですから、良いこと、幸せなことだけでなく、苦しみや不幸もです。人生に起ってくる良いこと、幸せなことだけでなく、苦しみや悲しみや不幸も、神が、私たちにとって益となるようにして下さる、と私たちは信じているのです。それを信じることができるのは、神が私たちを愛してこの世界を造り、私たちに命を与えて下さっただけでなく、今もこの世界と私たちを保ち支配しておられると信じているからです。この8章28節は、神が万事を益となるようにして下さるのは、神を信じて愛している者にだけだ、というふうに、神が信仰者をえこひいきしていると読まれてしまうかもしれませんが、そうではありません。神が「万事」を、つまり苦しみや不幸をも益となるようにして下さるというのは、一般論として言えることでは全くなくて、神が天地を造り、今も保ち支配しておられることを信じる信仰によってのみ捉えることができることなのです。つまりこの8章28節が語っているのは、神が信仰者をえこひいきしているということではなくて、自分の人生を神が自由なみ心によって支配しておられると信じる信仰者のみが、苦しみの中でも「神が万事を益となるようにして下さる」という希望を見つめることができる、ということなのです。
摂理
神が今もこの世界と私たちを保ち、自由なみ心によって支配しておられることを「摂理」と言います。先ほどの答えにも、神がこの世界と私たちを、「永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる」とありました。摂理というのは、神がこの世界と私たちとを、み心によって保ち支配しておられることであり、しかもそのご支配は、場当たり的な、気まぐれなものではなくて、「永遠の熟慮」をもってなされている、ということです。神は私たちを愛して下さっており、その愛によってこの世界の全てを造り、整えて下さった、ということをこれまで見てきました。神がその愛によって、私たち一人ひとりの人生を、熟慮をもって導いて下さっている、それが摂理です。「ハイデルベルク信仰問答」は、問27においてこの「摂理」を取り上げています。「神の摂理について、あなたは何を理解していますか」という問いです。その答えはこうなっています。「全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです」。神が全ての被造物をその御手によって今なお保ち支配しておられる全能かつ現実の力、それが摂理です。神が天地の造り主であられると信じることは、その神の摂理によって自分の命と人生が導かれていることを信じることと一つなのです。それを信じることによって私たちは、人生に起る全てのことが、良いことも悪いことも、豊作の年も不作の年も、健康も病も、富も貧困も、父である神の愛の御手によって自分にもたらされている、と信じて生きることができるのです。
ヨセフの物語
この神の摂理を描いている代表的な話が、旧約聖書、創世記37章以下の「ヨセフの物語」です。ヨセフは父ヤコブに特別にかわいがられていたために兄たちに妬まれ、奴隷として売られ、エジプトに連れて行かれてしまいました。そこでようやく主人の信頼を得たと思ったのも束の間、濡れ衣を着せられて牢に囚われてしまいました。何重にも重なる苦しみのどん底に彼は突き落とされたのです。しかし神は彼に、夢の意味を解き明かす力を与えて下さっていました。それによって彼はエジプト王ファラオの夢の意味を解くことができました。その夢の意味は、これから七年の間大豊作が続くが、その後の七年は全く作物が獲れない凶作となる、ということでした。ヨセフは、その豊作のうちに穀物を蓄えて凶作に備えることを王に進言したのです。それによって、囚人だったヨセフが抜擢されて王に次ぐ大臣の地位を与えられました。七年の豊作が終わり凶作になると、ヨセフの父と兄弟たちも食べ物が無くなり、エジプトには蓄えがあると聞いてそれを求めて兄たちがエジプトにやって来ました。彼らは目の間のエジプトの大臣が弟ヨセフであることに気づかず、ヨセフも始めは正体を隠していましたが、最後に、「わたしはあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです」と身を明かしたのです。それが先ほど読まれた45章4節以下です。ヨセフは兄たちにこう言っています。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」。また8節にも「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」とあります。兄たちはヨセフを妬み、奴隷に売ってしまい、父には、ヨセフは野獣に食い殺されたと思わせました。兄たちのその罪によってヨセフはまさに塗炭の苦しみを受けました。奴隷に売られたという逆境の中でも、ようやく主人に信頼されて家の切り盛りを任されるまでになったのに、今度は無実の罪で牢に入れられてしまったのです。まさにもう絶望するしかない、という苦しみを彼は味わいました。しかしその苦しみは全て、神のご計画の中にあったのです。神はこのヨセフの苦しみを通して、彼をエジプトの大臣にし、それによってエジプトの人々を飢え死にから救うと共に、ヨセフの父ヤコブとヨセフの兄弟たちをも生き延びさせて下さり、アブラハム以来の神の民の血筋を守って下さったのです。ヤコブの12人の息子たちから、イスラエルの12の部族が広がっていったのです。ヨセフが味わった大きな苦しみは、神のこの救いのご計画によることでした。「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」というヨセフの言葉は、その神のご計画、み心を感謝をもって振り返っているのです。このような神の恵みのご計画による導きが「摂理」です。ヨセフの人生は神の摂理によって導かれていたのです。
摂理は信じるもの
この話から分かるように、神の摂理は、苦しみの中にある時にそれと分かったり信じられたりするわけではありません。ヨセフは奴隷に売られた時や牢に入れられた時に、「これは神の摂理だ、神のご計画だ」などと思ったわけではありません。その時には、「なぜ自分がこんな苦しみを受けなければならないのか、この世に神などいないのではないか」と思ったでしょう。しかしその苦しみでしかない目に見える現実の背後に、神の摂理が、愛のみ心によるご計画が、確かにあったのです。そのことは後から気づくことです。「あの時あの苦しみが自分に与えられたのは、神のこういうご計画によってだったのだ」ということに気付かされる時に、私たちは神の摂理を知るのです。ですから神の摂理は、最初から分かっているものではありません。それは信じるべきものです。信じて歩む中で後から分かるようになるのです。そして私たちがその摂理を信じることができるのは、神がみ心によって天地の全てをお造りになったと信じているからです。神が私たちへの愛によってこの世界を造り、私たちに命を与えて下さったことを信じるからこそ、その神がこの世界と私たちを今も保ち、私たちの人生を愛をもって支配し、導いて下さっていることを、つまり摂理を、信じることができるのです。天地の造り主なる神を信じることと、神の摂理を信じることは、このように一つなのです。
主イエスによって父となって下さった神のご支配
しかし、教会において使徒信条を告白している私たちには、神の摂理を信じることができるもう一つの大事な根拠が与えられています。あの「ハイデルベルク信仰問答」問26の答えにおいても、天地の全てを永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる神が、「わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父」であり、その方が「御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる」と語られていました。つまり私たちには、神の独り子であられる主イエス・キリストによる救いが与えられているのです。その主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、主イエスの父である神が私たちの父となって下さったのです。私たちの人生を支配し、導いておられるのは、主イエスによって私たちの父となって下さった神なのです。それゆえに私たちは、「豊作の年も不作の年も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです」と信じることができます。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と言うことができます。つまり神の摂理を信じることができるのです。
摂理を信じることができる幸い
「ハイデルベルク信仰問答」の問28は「神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか」です。その答えは「わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです」となっています。神の愛による天地創造と摂理とを信じる私たちは、苦しみや悲しみの中では忍耐強く生きることができます。喜びにおいては神に感謝することができます。そして、神の愛から自分を引き離すことができるものは何一つないことを信じて、自分の将来を神にお委ねすることができるのです。私たちは今まさに新型コロナウイルスの感染爆発の中にあり、希望が見えない中を歩んでいます。しかし私たちは、神の摂理を信じて生きることができるのです。それは何と幸いなことでしょうか。