クリスマス讃美夕礼拝

飼い葉桶の救い主

「飼い葉桶の救い主」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第42章1-4節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第2章1-21節
・ 讃美歌:260、256、247、265、267

2019年を振り返って
 皆さん、横浜指路教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。2019年もまもなく終わろうとしています。皆さんにとって今年はどのような年だったでしょうか。それぞれに様々なことがあり、喜ばしいことも、つらく悲しいこともあったでしょう。この指路教会の歩みを振り返って見ますと、今年あるいは今年度には、例年になく多くの結婚式が行われます。来月1月にも二組の結婚式が予定されていまして、2019年度は五回の結婚式が行われるのです。赤ちゃんの誕生も相次いでいます。赤ちゃんが生まれて、初めて教会に連れて来られ、みんなから祝福を受ける、それはとても幸せな良い時です。また今年の秋にはここでいくつかのコンサートを行うことができました。パイプオルガンや無伴奏の合唱の、それぞれ特色のあるコンサートとなり、多くの方々をこの礼拝堂へとお迎えすることができました。それをきっかけに、この讃美夕礼拝に来られた方もおられることと思います。多くの方々とこの場で良い時を共に過すことができたことはとても喜ばしいことでした。
 そのようにいくつかの喜ばしいことを体験してきましたが、勿論つらいこと、悲しいこともありました。この教会に連なっている人の中にも、病気の苦しみを味わった人、入院したり手術を受けた人が多くいます。今も厳しい闘病や、リハビリの中にある人々もいます。そして、天に召された方々もあり、愛する者を失った悲しみの中にある人々もいます。喜ばしいこともあれば、悲しいこともあるのが私たちの人生です。そして目をこの社会、世界に向ければ、今年も、と言わなければならないかと思いますが、明るいニュースよりもむしろ暗い、心痛めることの方が多かったように感じます。明るいニュースは、ラグビー日本代表のベスト8入りぐらいではないでしょうか。今年は何よりも、相次ぐ台風によって、広範囲に甚大な被害が出ました。この神奈川県、横浜にも、強風、高波、河川の氾濫などがありました。何十年に一度、という異常気象が毎年のように起るようになっています。まさに、地球温暖化が私たちの生活を脅かし始めていることを感じずにはおれません。温暖化の影響を今年世界で最も大きく受けたのは日本だったそうです。この温暖化の問題は、今の社会を築いている私たちの世代が、次の世代にどのような社会を、そしてどのような地球を残すのか、ということです。私自身も、世間ではそろそろ定年を迎えるという世代になってきています。その自分たちが、子や孫たちにどのような世界を残そうとしているのか、その責任を深く自覚しなければならないと思います。

憎しみの闇に覆われた世界
 またこの問題には、国と国との利害関係も絡んでいます。どの国の指導者も、国民の支持を失いたくないので、自国の利益を中心とする政策を取っています。そういう傾向が強まっており、それによって国と国との対立が深まっているし、そのために温暖化への対策もなかなか進まない、ということもあります。そのような国家のエゴを乗り越えて世界全体の将来を見据える真実の指導者が現れて欲しいと願いますが、それは指導者だけの問題ではなくて、私たち一人ひとりが利己的な思いを乗り越えて生きることができるかどうかが問われているわけです。
 日本と韓国の関係も戦後最悪の状態となっています。政府と政府とは意地の張り合いのようなことをしていますが、私たちはそれぞれの生活の中で、韓国出身の方々との交わりを持っています。この教会においてもそうです。その中で私たちは人と人として、お互いのことを大切にする良い関係を築いていきたいと願っているし、それができると信じています。そういう、いわゆる民間交流からこそ、平和が築かれて行くと信じているのです。しかし先日は、アフガニスタンにおいて、そういう働きの先駆者であった中村哲医師が銃撃されて命を落とすという本当に悲しい出来事がありました。現地の人々が自分たちの手で生活を安定させていくことの手助けをすることこそ、平和を築いていくための道だ、という信念の下にすばらしい働きをしておられたあのような人を憎み、殺そうとする者がいるとは、人間の心に巣食っている憎しみの闇の大きさを改めて見せつけられた思いがします。そのような憎しみの闇は、多かれ少なかれ、私たち一人ひとりの心の中にもあると言わなければならないでしょう。その憎しみは新たな憎しみを生み、それによって争い、対立の闇が深まっていくのです。だから、その憎しみに支配されてしまわないように、私たちは戦っていかなければなりません。憎しみに身を委ねてしまうことなく、愛することをこそ選び取っていきたいのです。そのようにして、自分たちの足下から、平和を築いて行く者となりたいのです。クリスマスは、私たちがそのような思いを新たにされる時です。なぜなら、クリスマスにこの世にお生まれになった主イエス・キリストは、私たちを憎しみの闇から解放して下さる方だからです。主イエスは、私たちが、闇に支配されることなく光の中を歩み、神と人とを愛しつつ生きる者となるために、この世に来て下さったのです。

苦しみの闇の中での誕生
 先程は、ルカによる福音書第2章に語られているクリスマスの物語、主イエスの誕生の出来事が読まれました。イエス・キリストは、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。しかしその時ヨセフは、既に身ごもっていた妻マリアを連れて、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムまで、長い旅をしなければなりませんでした。その旅先でマリアは出産したのです。彼らがこのような旅をしなければならなかったのは、ローマ皇帝アウグストゥスが、全領土の住民に登録をせよとの勅令を出したからでした。住民登録は、税金を徴収するためになされます。そのために、貧しい庶民が苦しい旅を強いられる、そこには、この世の支配者によって搾取され、権力によって翻弄されて苦しむ弱い人々の姿があります。社会のこういう基本的な構図は、二千年前も今も、そう変わってはいないと言わなければならないでしょう。権力によって強いられた、望んではいない旅の中で、マリアは初めての出産をしたのです。
 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。そして生まれた主イエスは「飼い葉桶」に寝かされたとあります。そこから、主イエス・キリストは馬小屋で生まれたと言われるようになりました。人間の泊まる部屋に入ることができず、家畜の居場所で、マリアは初めてのお産をしたのです。それはこの上なくつらい、悲しいことだったでしょう。妻の出産のためにそんな場所しか用意できなかった夫ヨセフにとってもそれは、まことに惨めで悲しいことだったでしょう。ヨセフもマリアも、このような深い苦しみ悲しみを味わう中で、主イエス・キリストは生まれたのです。新しい命の誕生は、先ほども申しましたように喜ばしい出来事です。新しい命という小さな光がこの世に灯ったのです。しかし主イエスの誕生においては、その周囲を深い闇が覆っています。イエスという小さな光が灯っても、この世を覆っている圧倒的な闇の中では、その暗さがかえってはっきりとするだけではないか。主イエス・キリストの誕生はそのような出来事だったとルカによる福音書は語っているのです。

神が喜び祝った誕生
 しかしこの福音書はそれに続いて、その地方の野原でその夜に起ったことを伝えています。羊の群れの番をしていた羊飼いたちのところに天使が現れて、「今日ダビデの町で(ということはベツレヘムで)、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げたのです。そしてそこには天の大軍、つまり天使たちの群れが現れて「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と神への賛美を歌ったのです。天使とは神からの使いです。つまり神ご自身が、ベツレヘムの馬小屋で生まれたイエスこそ世の救い主なのだ、と告げて下さったのです。そしてこのイエスの誕生において、天においては神の栄光が現され、地上には人々の間に平和が築かれていく、つまり神の救いのみ業が実現していくことを天使たちは喜び歌ったのです。イエス・キリストの誕生は、ヨセフとマリアにとってはつらく悲しい体験であり、また私たち人間の感覚からしたら、この世を覆う闇の深さをますます思い知らされるような出来事です。しかし神はこのことを、全ての人のための救いの出来事として喜び祝って下さったのです。ルカによる福音書の語るクリスマスの物語はこのように、その前半と後半との間に大きなコントラストがあります。前半にはこの世を覆っている闇の深さが、後半には神による救いと栄光の輝きが描かれているのです。

飼い葉桶―闇と光を繋ぐ場所
 この全く正反対とも言える前半と後半とを繋いでいる言葉があります。それは、生まれたばかりのイエスが「飼い葉桶に寝かされた」と語られていることです。前半においては7節にそれが語られていて、それはまさに、マリアが人間の泊まる部屋ではなくて馬小屋で出産しなければならなかったことを示す言葉となっています。後半においては、12節の天使の言葉の中にそれが語られています。天使は、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と言いました。飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子こそがあなたがたのための救い主だ、と告げたのです。この天使のお告げを受けた羊飼いたちはベツレヘムに行きました。16節には、彼らは「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とあります。羊飼いたちは天使のお告げを受けて、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探したのです。立派な邸宅のベッドルームに寝ている赤ん坊ではなくて、飼い葉桶に寝かされている赤ん坊こそが、天使が告げてくれた救い主なのです。
 生まれたばかりのイエスが飼い葉桶に寝かされたことは、この世の支配者によって翻弄された貧しい夫婦が旅先で、しかも馬小屋で出産をしなければならなかったという、つらく悲しく惨めな出来事であり、この世を覆っている闇の深さがそこに示されています。しかしそれは同時に、神が私たち人間のために独り子を救い主として与えて下さったことのしるしでもあるのです。つまり主イエスが寝かされたこの飼い葉桶こそ、この世を覆っている人間の罪の闇、憎しみの闇の現れであると同時に、その闇の中に神の救いの光が、その栄光が輝いた場所でもあるのです。

神をあがめ、賛美しながら
 羊飼いたちはベツレヘムへ行って、飼い葉桶に寝かされた救い主イエス・キリストにお会いしました。彼ら羊飼いたちも、当時の社会において、人々から差別され、人並みに扱われない苦しみを負っていた人々でした。この世を覆っている闇の中で彼らも喘いでいたのです。飼い葉桶に寝かされた主イエス・キリストは、まさに彼らのために神がこの世に遣わして下さった救い主です。だからこそ神は彼らに真っ先に、天使たちを通して、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げて下さり、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」こそが「あなたがたへのしるしである」と語って下さったのです。天使が語ったこの神の言葉に導かれて彼らは、飼い葉桶の救い主にお会いすることができました。そして彼らは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と20節にあります。彼らは元の生活へと帰って行ったのです。それから彼らの日々の生活が変ったわけではありません。羊飼いとしての働きは続いていきます。人々から蔑まれているつらい苦しい現実も変ってはいないのです。しかし彼らは、自分たちを覆っている闇の中で、飼い葉桶の救い主に出会ったのです。神がその独り子を、闇に覆われた自分たちの現実のただ中に、救い主として遣わして下さった、その神の救いのみ業を見たのです。それによって彼らは、神をあがめ、賛美しつつ生きるという新しい歩みを与えられたのです。飼い葉桶の救い主と出会った者は、神をあがめ賛美しつつ生きる者となるのです。神をあがめ賛美しつつ生きる者は、闇に覆われたこの世の現実の中でも、その闇に支配されてしまうことはありません。憎しみに身を委ね、憎しみが新たな憎しみを生み、争い、対立が深まり、悲惨さが募って行くような歩みから解放されて、憎しみを捨てて愛に生き始めることができるのです。

まぶねのかたえに
 私たちは今宵天使の導きによってこのクリスマス讃美夕礼拝に集いました。私たちがここに来るきっかけを作ってくれた人、あるいは一枚のチラシ、あるいはホームページの案内かもしれません。それが、神さまの使いである天使です。その天使に導かれて来た私たちはここで、飼い葉桶の救い主イエス・キリストとお会いするのです。私たちのために、この世に一人の小さな赤ん坊として生まれ下さった救い主イエス・キリストが寝かされている飼い葉桶、まぶね、のかたえに立つのです。先程、讃美歌256番、「まぶねのかたえに」をご一緒に歌いました。主イエスの寝かされた飼い葉桶の傍らに立ってクリスマスを祝う私たちの歌です。その5節はこのような歌詞でした。「この世の栄えを望みまさず、われらに代わりて悩みたもう。とうとき貧しさ知りえしわが身は、いかにたたえまつらん」。飼い葉桶の救い主イエス・キリストは、私たちのために人間としてこの世を生きただけでなく、私たちの全ての罪を背負って、私たちに代って十字架の苦しみと死とを受けて下さった方です。十字架の死による救いを与えて下さるために、主イエスはクリスマスに、貧しい姿でこの世に生れて来られたのです。主イエスが寝かされた、薄汚れたみすぼらしい飼い葉桶、まぶねは、主イエスによって私たちに与えられている救いの象徴です。そしてこの讃美歌の6節で私たちはこう歌いました。「愛する主イエスよ、今ささぐるひとつの願いを聞きたまえや。この身と心を主のまぶねとなし、とわに宿りたまえ」。私たちを、主イエスの飼い葉桶にしてください、私たちの中に主イエスご自身が宿ってください、と願ったのです。飼い葉桶の救い主イエスは、罪にまみれ、薄汚れたみすぼらしい器である私たちの内にも喜んで宿って下さいます。そして私たちを神による救いの光で照らして下さり、この世を覆っている闇に支配されることのない、憎しみから解放されて、神と人とを愛して生きる者へと新しくして下さるのです。主イエスの飼い葉桶、主イエスが宿って下さる器となることによって、私たちは、憎しみのある所に愛をもたらして下さる、主の平和の器とされていくのです。そのことを信じて、今年も皆さんとご一緒に、アッシジのフランチェスコの「平和の祈り」を祈りたいと思います。

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