「独り子をお与えになったほどに」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第7章14節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第3章16節
・ 讃美歌:255、249、271
独り子を与えて下さった神
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ヨハネによる福音書第3章16節のこの言葉は、クリスマスの出来事の意味と、そこに込められた神の愛のみ心を、はっきりと、また簡潔に表しています。クリスマスとは、神がその独り子である主イエス・キリストをこの世に、私たちに、与えて下さった、そのことを喜び祝う時です。主イエス・キリストの誕生とは、神の独り子が、つまりまことの神であられる方が、私たちのために人間となってこの世に生まれて下さった、という出来事だったのです。神の子であるイエス・キリストはこの世を一人の人間として生きて下さり、神の言葉を語って下さいました。父なる神による救いの福音を告げ知らせて下さったのです。そしてその救いのしるしとして様々な恵みのみ業を行なって下さいました。イエス・キリストのご生涯とみ言葉とみ業によって私たちは、漠然としたつかみ所のない「神さま」ではなくて、救い主イエス・キリストによって具体的な救いを与えて下さった神を信じることができるようになったのです。その恵みの始まりが、主イエスの誕生、クリスマスの出来事です。父なる神が、独り子である主イエスをこの世に与えて下さったおかげで、私たちは神による救いの恵みをはっきりと知り、信じることができるようになったのです。
主イエスのご生涯全体の意味
私たちは今、毎週の日曜日の礼拝において、基本的にヨハネによる福音書を読み進めつつ神さまのみ言葉を聞いています。そのヨハネによる福音書についての説教において私は毎週のように、この3章16節のみ言葉に触れています。ヨハネによる福音書のどの箇所にも、その根底には、この3章16節のメッセージが流れているのです。つまりこの3章16節は、クリスマスの出来事の意味を語っているだけではありません。主イエス・キリストのご生涯全体の意味と、そこに込められた神の愛のみ心が、この言葉に簡潔に、はっきりと語られているのです。
クリスマスの出来事
しかし本日は、特にクリスマスの出来事、主イエス・キリストのご降誕との関連で、このみ言葉を味わいたいと思います。主イエス・キリストは、当時ユダヤを支配していたヘロデ大王の子として生まれたのでも、そのヘロデをも支配下に置いていたローマ帝国の皇帝アウグストゥスの子として生まれたのでもなく、ダビデ王の子孫であるとは言え、辺境の地ガリラヤのナザレに住む一介の大工ヨセフの妻マリアの子として、つまり名もない貧しい家に生まれました。しかもヨセフは聖霊によって身ごもった妻マリアを連れて、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで旅をしなければならなかったのです。それは皇帝アウグストゥスの発した住民登録の勅令によることでした。その旅先のベツレヘムでマリアは初めての子を産んだのです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ので、生まれたばかりの主イエスは「飼い葉桶」に寝かされたとルカによる福音書は語っています。そこから、主イエス・キリストは馬小屋で生まれた、と言われるようになりました。旅先の、しかも馬小屋で初めての出産をしなければならないというのは、女性にとってこれ以上なくつらいことです。初めて出産する妻にそんな場所しか用意できなかったヨセフにとってもそれは、まことに惨めで悲しいことでした。主イエス・キリストはそのようにして、惨めさ、弱さ、貧しさの中でお生まれになったのです。ですからそれは、マリアやヨセフにとっては、また人間の感覚からしたら、喜ばしいことや祝うべきことではありません。むしろ悲しみ嘆かざるを得ないような出来事なのです。しかしルカによる福音書は、主イエスがお生まれになった夜、その地方で羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れたと語っています。天使は羊飼いたちに、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げたのです。主イエスの誕生は全ての人々に与えられた大きな喜びの出来事なのだ、ということです。そしてそこにはさらに天の大軍が現れて、「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美を歌ったのです。それは、天使たちが主イエスの誕生を喜び祝ったということです。ベツレヘムの馬小屋での主イエスの誕生は、人間にとってはつらく惨めな出来事としか感じることができませんでしたが、神さまは天使たちを通して、「あなたがたのための救い主が今日生まれたのだ」と告げ下さり、そのことを人間のために真っ先に喜び祝って下さったのです。
インマヌエル
このクリスマスの出来事が示しているのは、神の独り子イエス・キリストが、弱さや貧しさの中で様々な苦しみ、悲しみ、惨めさをかかえて生きている私たちのところに、私たちと同じ弱さや貧しさの中で生きる一人の人間として生まれて下さった、ということです。それは、「インマヌエル」という恵みが実現した、ということでもあります。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第7章14節には、おとめマリアが主イエスを生む、というクリスマスの出来事の預言がなされています。マタイによる福音書第1章23節では天使が、このイザヤの預言の成就として主イエスがお生まれになるのだと告げています。そしてそこには、「インマヌエル」という言葉の意味が記されています。それは「神は我々と共におられる」ということです。神の独り子主イエスが人間としてこの世に生まれて下さったことによって、神が、様々な苦しみ、悲しみ、惨めさをかかえて生きている私たちのところに来て下さり、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という恵みを実現して下さったのです。しかもそのことを、神ご自身が心から喜び祝って下さったのです。神はそれほどに、この世を、私たちを、愛して下さっているのです。
神のみ心によって実現した愛
3章16節は、このクリスマスの出来事が神ご自身のみ心によって実現したことを語っています。神が先ず、世を愛して下さったのです。私たちが神のみ心に適う何かをしたから、それに応えて神が救いを与えて下さったのではありません。私たちは神に従わず、神を神として敬っていない罪人です。その罪の結果として、私たちの人生にはいろいろな苦しみ悲しみが生じています。この世界全体にも、人間の罪が原因となっているいろいろな問題があります。私たちは自分たちの罪の結果である苦しみの中で喘いでいるのです。しかしそれでもなお神に従おうとはせず、自分の力でどうにかしようとあくせくしており、結局どうすることもできずに行き詰まってしまう、それが私たちの現実です。そのような私たちと、私たちが築いているこの世を、神が愛して下さって、独り子を遣わして下さったのです。神に愛される資格など全くない罪人である私たちを、神はその強いみ心によって愛して下さったのです。独り子主イエス・キリストの誕生はその神の私たちへの愛の具体的な現れなのです。
独り子への愛を私たちにも
その神の愛は、独り子を与えて下さる愛です。主イエス・キリストは神の独り子です。そのことは、父である神と子である主イエスとの関係を示しています。父である神は子である主イエスを心から愛しておられ、子である主イエスも父である神を心から愛しておられるのです。その愛する独り子をこの世に、私たちのもとに遣わすことによって、父なる神は、独り子主イエスへの愛を私たちにも向けて下さったのです。主イエスを人間としてこの世に生まれさせることによって、神は私たちを主イエスと結び合わせ、そのことによって、主イエスに対する愛を私たちにも及ぼそうとして下さっているのです。要するに神は、主イエスとの間にある父と子としての愛の関係を、私たちとも結ぼうとして下さっているのです。私たちの父となって下さり、私たちを主イエスと共に神の子としようとして下さっているのです。
私たちの罪を乗り越えて
そのことを妨げているのは、私たちの罪です。私たちは主イエスのように元々神の子なのではなくて、神によって造られたもの、被造物です。それなのに神に従わず、敬おうとせず、神のみ心など無視して自分勝手に、つまり自分が主人となって生きています。そのような罪の中にある私たちが、神の子とされ、神に愛されることなどあるはずはない、それが私たち人間の常識的感覚です。しかし神の愛は、私たちの罪という妨げを乗り越えて私たちに及んでいるのです。神が独り子をお与えになったのは、私たちの罪という妨げを乗り越えて私たちをも神の子として下さるためだったのです。人間となって下さった独り子主イエスは、私たちが神に背き逆らっているその罪をご自分の身に全て背負って、それを丸ごと取り除いて下さいました。そのために主イエスは、私たちの代りに十字架の死刑を受けて下さったのです。私たちの罪を全て代って償って下さったのです。神さまとの良い関係を妨げている私たちの罪が赦され、取り除かれて、神さまと私たちの間にも、父と子としての関係を築いて下さるために、ご自分は何の罪もない神の独り子であられる主イエスが十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。神はこの独り子主イエスと私たちとを結び合わせることによって、私たちをも神の子として下さるのです。つまり独り子を与えて下さった神の愛は、クリスマスの出来事だけで終わるのではなくて、むしろそれは始まりであって、主イエスの十字架の死にまで及んでいるのです。神は、独り子を十字架の死に引き渡すことまでして、私たちの罪という妨げを乗り越えて、私たちをも神の子として下さったのです。独り子をお与えになったほどに世を愛されたというのは、主イエスの誕生から十字架の死に至るご生涯の全体を指しているのです。
永遠の命を生きる者となる
この神の独り子主イエスと結び合わされることによって私たちも神の子とされます。そして神の子とされた私たちにも永遠の命が与えられるのです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言葉はそのことを語っています。私たちの罪が赦され、私たちも神の子とされるために十字架にかかって死んで下さった主イエスを、父なる神は三日目に復活させて、永遠の命を与えて下さいました。父なる神の愛のみ心に従って人間となり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んだ独り子主イエスを、父なる神は復活させ、永遠の命を与えて下さったのです。独り子主イエスへの父なる神の愛は、死の力に勝利して、死の支配から主イエスを解放したのです。その主イエスへの愛を神は私たちにも及ぼして下さいます。父なる神が死に勝利して主イエスに与えて下さった永遠の命が、私たちにも与えられるのです。主イエスの十字架の死によって罪を赦された私たちは、主イエスの復活によって、もはや死に支配されて終わるのではない、つまり滅びてしまうのではない、永遠の命を新たに生き始めることができるのです。神が独り子を与えて下さったのは、主イエスを信じる者も神の子とされ、その復活にあずかって永遠の命を生きる者となるためだったのです。
洗礼を受ける方々と共に
本日のこのクリスマスの礼拝において、四名の方々が洗礼を受けて教会に加えられます。洗礼を受けるというのは、神がその独り子を与えて下さったほどに自分を愛して下さり、主イエスの十字架の死による罪の赦しを与えて下さることによって、自分をも神の子として下さっている、という恵みを信じて、その救いにあずかり、神の子とされて歩み始めることです。そのことによってこの方々は、父なる神が主イエスに与えて下さった復活の命、永遠の命を、今この人生の中で生き始めるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この神の愛が、今私たち全ての者に注がれています。そのことを覚えることこそがクリスマスの喜びです。このクリスマスの礼拝に集った全ての方々が、今日洗礼を受ける四名の方々と共に、主イエス・キリストによって私たちに与えられているこの神の愛を受け止めて神の子とされ、インマヌエル、神が共にいて下さるという恵みの中で、復活と永遠の命の希望に生きて行くことができますように、祈ります。