召天者記念

おびただしい証人の群れ

「おびただしい証人の群れ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第8章1-10節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第12章1-13節
・ 讃美歌:14、382、536

召天者記念礼拝  
 本日の礼拝は、召天者記念礼拝です。この教会の教会員として天に召された方々、またこの教会で葬儀が行われた方々のことを覚え、ご遺族をお招きしてこの礼拝を守っています。お手元に召天者名簿をお配りしました。昨年はこれを教会員以外の方々にお配りできていなかったというミスがありました。今年は皆さんの手に渡っているでしょうか。この名簿は基本的に1986年以降に天に召された方々のお名前と亡くなった日付を記したものです。この31年の間に、これだけの方々が天に召されたのです。先週私たちはこの教会の創立144周年の記念礼拝を行いました。144年の歩みにおいては、いったい何人の人々がこの教会に連なり、そして天に召されていったのでしょうか。もはや数え切れない、おびただしい召天者の方々が、この教会の歴史を築いて来たのです。  
 先程朗読された新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第12章の1節に「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上」と語られていました。「おびただしい証人の群れ」とは、その前の11章に語られていた、旧約聖書に出てくる、主なる神を信じてこの世を歩み、そして死んだ多くの人々のことです。主なる神を信じて人生を歩み、そして死んでいったおびただしい人々の群れに私たちは囲まれているのだ、とこの手紙の著者は言っているのです。その人々のことが「証人」と言われています。先に天に召された信仰の先輩たち、召天者の方々は、私たちにとって証人なのです。証人とは、何かを指し示す人、証しをする人、証言をする人です。その人たちは今生きている私たちにあることを指し示している、証しをしている、証言をしているのです。その証言を聞き取ることによってこそ、私たちはその人々とつながることができます。証人たちの証言を聞かないなら、その人たちと私たちとのつながりは失われます。「おびただしい証人の群れに囲まれている」という聖書の言葉はそのように理解しなければなりません。これは、先に死んで天に召された人々が今も私たちの周りをとり囲んでいて、目に見えない仕方で、つまり背後霊のように私たちを守ったり支えたりしてくれている、ということではありません。その人々は証人なのです。証言をしているのです。その証言を私たちがしっかり聞くなら、私たちはその人々に導かれて歩むことができます。しかし彼らが証言していることを私たちが聞こうとしないなら、たとえその人々のことを懐かしく思い出していたとしても、それは今生きている私たちにとって本当の意味で支えにも導きにもなりません。私たちが、先に天に召された召天者の方々を覚えてこの礼拝を守るのは、その人々が証人として私たちに語りかけている証言に耳を傾けるためなのです。

信仰は競走  
 おびただしい召天者の群れが私たちに証言し、勧めていることは何でしょうか。1節は、私たちはこのようにおびただしい証人の群れに囲まれているのだから、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と語っています。信仰の競走を忍耐強く走り抜こう、ということこそが、おびただしい証人の群れが私たちに指し示し、勧めていることなのです。ここでは信仰の歩みが「競走」と言われています。勘違いしてはならないのは、それは人と競い争う競争ではないということです。これはゴールを目指して走る競走です。人を打ち負かしたり、人よりも良い成績を上げるためではありません。信仰は人と比較してどちらが強いとか弱いとか、勝ったとか負けたとかいうものではありません。人ではなく神を見つめて、神が定めておられるゴールを目指して、ひたすら走ることです。だから2節には「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と言われているのです。信仰者が見つめるべき相手は人間ではなくて主イエスです。私たちに信仰を与え、またそれを完成して下さるのは、つまりゴールへと導いて下さるのは主イエス・キリストなのです。主イエスをひたすら見つめて、自分に与えられている人生を走り抜いていくこと、それが信仰に生きることです。召天者の方々は、それぞれに与えられている人生を、主イエス・キリストを見つめて走り抜き、そして天に、主イエスのもとに迎えられたのです。

信仰の競走には妨げがあり、忍耐が必要  
 しかし召天者の方々が私たちに証ししているのは、この信仰の歩み、競走には妨げとなるものがある、私たちの歩みを止めてしまおうとする重荷や絡みつく罪がある、ということでもあります。その中で信仰をもって歩み通していくためには忍耐強さが必要だ、ということをも、彼らは証ししているのです。先に天に召された方々のことを振り返って見る時に、私たちはその人生に様々な試練があったこと、苦しみ悲しみがあったこと、困難に直面することがあったことを知っています。そのような中で、主イエス・キリストを信じてキリストと共に生きることを妨げられてしまったことや、その歩みが滞ってしまったこと、時として主イエスを信じる思いそのものを失ってしまったことすらもあったことを知っています。召天者の方々の誰一人として、完璧な信仰者であり、神に全く信頼し、主イエスに完全に従って、人生における信仰の競走を何の問題もなく走り抜いた、などという人はいません。それぞれにいろいろな弱さがあり、罪があり、信仰における欠けがあり、人生の重荷に押し潰されて神への信頼を失ったり、絡みつく罪に足を掬われてしまったこともあったのです。だからこそ彼らは、「すべての重荷と絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜」きなさいと私たちに勧めているのです。それは、自分たちはそうしたのだからあなたがたも出来るはずだということではなくて、自分たちの歩みがそうだったように、この世の人生には重荷や罪による信仰への妨げが沢山ある、だから忍耐強く走り続けることが大切だということです。そして忍耐強く走り続けるためには、信仰の創始者また完成者である主イエスを見つめて生きることがどうしても必要だ、と彼らは証言しているのです。彼らが信仰者として生涯を終え、主イエスのもとに迎えられたのは、彼ら自身の信仰的な力や忍耐力によることではないし、彼らが主イエスに従ってしっかり歩もうと努力したことの結果でもなくて、彼らに信仰を与え、それを守り、様々な妨げから救い出して導いて下さった主イエス・キリストのみ力によることだったのです。召天者の方々は、この主イエス・キリストの恵みの力を私たちに証ししています。自分がどれだけきちんと信仰に生きる努力をしているかではなくて、主イエス・キリストとその救いの恵みをこそ見つめて歩みなさい、そうすればあなたがたは忍耐強く走り続けることができる、そのようにこの証人たちは語りかけているのです。

主イエスを見つめて  
 2節の後半には「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」とあります。主イエスは御自身の前にある喜びを捨てた、それは主イエスが人間となってこの世に来て下さったということです。父と子と聖霊の天における交わりに留まっていれば、そこには失われることのない喜びがあったのです。しかし主イエスはその喜びを捨てて人間となられました。つまり私たち罪ある人間と関わって下さったのです。そして私たちのために、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んで下さったのです。何の罪もない方である主イエスが、私たちの罪を背負って、身代わりとなって十字架の死刑を受けて下さったのです。私たちの罪を赦し、神の子として生きる喜びを与えて下さるためです。そして父なる神はその主イエスを復活させ、天に引き上げて下さいました。今主イエスは神の玉座の右にお座りになっておられます。主イエスの十字架の苦しみと死、そして復活と昇天とによって、神の恵みの力が私たちの罪と死の力に勝利し、今や主イエスこそが神のご支配を司っておられるのです。召天者の方々の信仰の人生は、主イエスの十字架と復活によって神が実現して下さったこの救いの恵みの中に置かれていました。彼らが今私たちに証ししているのは、自分たちの罪や弱さ、失敗や欠けの全てに打ち勝って救いを実現して下さった、主イエスによる神の恵みの勝利です。私の人生には、様々な重荷に押し潰されたり、絡みつく罪によって信仰の歩みを妨げられてしまうようなことがあった。しかし神は主イエスの十字架と復活による救いの恵みによって常に私を支えて下さった。その恵みの中で私は人生を終えることができた。だからあなたがたも、主イエスをこそ見つめて歩みなさい、そうすればあなたがたも、信仰の競走を忍耐強く走り抜くことができる。召天者の方々は今私たちにこのように語りかけているのです。

主イエスの忍耐  
 信仰の創始者であり完成者であられる主イエス・キリストをこそ見つめつつ歩むこと、それこそが、先に天に召された方々が私たちに指し示し、勧めていることです。主イエス・キリストをこそ見つめるとは、何を見つめることなのでしょうか。それが3節に語られています。「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」。「よく考えなさい」とは「見つめなさい」ということです。主イエスのことをよく考え、しっかり見つめるのです。するとそこに何が見えてくるのか。主イエスが御自分に対する罪人たちの反抗を忍耐なさったことです。主イエスの地上のご生涯は忍耐に継ぐ忍耐の歩みでした。私たちはそのことをもっとしっかり見つめなければなりません。まことの神であられる主イエスが、罪ある人間たちを救うためにこの世に来て下さったのです。それなのに、罪人たちは主イエスを受け入れず、反抗しました。救い主である主イエスを無視したり、嘲笑ったり、自分の罪はすっかり棚に上げてあれは罪人の仲間だと軽蔑したり、そして最後は「十字架につけろ」と叫び、主イエスを殺してしまったのです。それは当時の人たちだけのことではなく、そのまま私たち一人ひとりのしていることです。私たちも、主イエスを受け入れず、自分には関係ないと無視していたり、この世を生きていく上で何の役にも立たないと軽蔑していたりします。あるいは、主イエスを信じているつもりでいても、主イエスが愛し、迎え入れようとしておられる人々を批判し、排除することによって、主イエスに逆らっています。自分の思いを通そうとして、主イエスに反抗しているのが私たちです。主イエスはそのような私たち罪人の反抗を徹底的に忍耐して下さったのです。それが、「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んだ」ということです。主イエスが私たちの反抗の罪を忍耐して忍耐して、忍耐し続けて受けて下さった十字架の死によって、私たちの罪は赦されたのです。

気力を失い疲れ果ててしまわないように  
 そしてこの3節は、この主イエスの忍耐は「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」となされたことだったのだと語っています。主イエスが、罪人の反抗を忍耐して下さったことをよく考え、見つめることによって、私たちも、信仰の歩みにおいて、気力を失い疲れ果ててしまわないようになるのです。私たちが信仰において気力を失い疲れ果ててしまうことが起るのは、様々な重荷や絡みつく罪のためです。私たちはそれぞれいろいろな重荷を負って人生を歩んでいます。その重荷のゆえに、神の愛や恵みなどどこにもないように思ってしまうのです。また人間の罪が神を信じて生きることを妨げます。人の罪によって傷つけられてしまう時、何よりも信仰者の群れである教会において罪の現実に直面し傷つく時、私たちは疲れ果て、気力を失ってしまいます。また同時に、自分自身の罪によって人を傷つけ、躓かせている、という事実があります。多くの場合、人の罪によって傷つけられることと、自分の罪によって人を傷つけることは同時に起っています。教会の外で起っているのと全く変わらない人間の罪の現実に直面して、私たちは信仰に生きることに絶望してしまうのです。しかしその現実の中で私たちが見つめるべきことは、主イエス・キリストが私たちのために負って下さった徹底的な忍耐です。私たちの救いは、主イエスの忍耐によってこそ与えられたのです。神の私たちに対する愛や恵みはどこに示されているかと言えば、それは独り子である主イエスの忍耐にこそ示されているのです。

神から与えられる鍛錬として  
 この主イエスの忍耐を見つめていく時に、私たちが味わい体験している苦しみや悲しみ、重荷や絡みつく罪の現実に、別の意味が見えて来ます。そのことが4節以下に語られています。4節以下の結論は7節です。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」。私たちの人生に、神を信じ、主イエスと共に生きる信仰の歩みに、重荷や絡みつく罪があり、それによって疲れ果て、気力を失ってしまいそうになる現実がある、その苦しみの現実は、主イエスがひたすら忍耐して十字架の死へと歩んで下さったことを見つめていく時に、神から与えられる鍛錬という新しい意味を持つものとなるのです。神が父として私に鍛錬を与えておられる、私を鍛えようとしておられる、そこには神の父としての愛があり、このような鍛錬を与えられていることこそ、私が神の子とされていることのしるしなのだ、ということが見えて来るのです。11節には「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」とあります。神は自分にこのような実を結ばせるために、今自分に鍛錬を与え、鍛え上げようとしておられる、だからこの鍛錬の中で忍耐して歩もう、という思いが与えられていくのです。それは繰り返しになりますが、主イエス・キリストが私たちのために負って下さった徹底的な忍耐を見つめることによってこそ与えられる思いです。  
 主なる神が、ご自分の民であるイスラエルに試練を与え、子として訓練なさる、そのことは本日共に読まれた旧約聖書の箇所である申命記第8章にも語られていました。その5節に「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」とあります。四十年の荒れ野の旅は主がイスラエルの民にお与えになった訓練の時だったのです。食べ物が得られない苦しい荒れ野の旅において、主が与えて下さった天からのパンであるマナによって養われつつ歩んだことによって、イスラエルの民は、「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ことを学んでいったのです。

主イエスの忍耐に支えられている私たち  
 私たちが信仰をもってこの世を生きようとするとき、そこには様々な重荷があり、人間の罪や弱さが絡みつき、気力を失ってしまいそうになる現実があります。その人間の罪と弱さを、誰よりも深く味わい、それを忍耐して下さったのは主イエス・キリストです。私たちの信仰の人生は、主イエスの忍耐によって支えられ、守られ、導かれているのです。その主イエスの忍耐を見つめて生きるならば、私たちも、重荷を負い、罪や弱さに苦しんでいる現実を、神から与えられている鍛錬として受け止め、神が父として愛をもって鍛えてくれているのだと信じて、忍耐していくことができるようになる、そのように歩みなさい、とこの手紙は私たちに勧めています。でも私たちは忍耐し切れないかもしれません。苦しみは苦しみであり、そこに神の父としての愛を見るのはとても難しいことです。私たちの忍耐力はそんなに大きくはないですから、気力を失い疲れ果ててしまうことがあります。そのことは、先に天に召された人々だってそうでした。召天者名簿にお名前が並んでいる人々は決して、苦しみを神の愛による鍛錬と信じて、最後まで忍耐し続けて神に従う生涯を歩み通し、信仰の競走において栄冠を獲得した人々なのではありません。信仰の競走を立派に走り抜いた人のみがこの名簿に載せられているのではないのです。この方々のお名前がここに記されている理由はただ一つ、この方々は皆、主イエス・キリストの限りない忍耐によって支えられていた、ということです。主イエスの忍耐こそが、先に天に召された方々一人ひとりの人生を支え、導き、この教会と結びつけ、主イエスによる救いの恵みにあずからせて下さったのです。おびただしい召天者の方々は今、自分たちを支えていたこの主イエスの限りない忍耐をこそ、私たちに証ししています。その証し、証言を私たちはしっかり聞き取りたいのです。その証言に耳を傾けるなら、私たち自身も同じ主イエスの忍耐によって今支えられ、守られ、導かれていることが分かります。その恵みの中でこそ私たちは、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜いていくことができるのです。

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