主日礼拝

希望によって救われる

「希望によって救われる」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章27-31節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章18-25節
・ 讃美歌:18、22、531

<苦しみ>
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」
 そのようにパウロは語ります。現在の苦しみ。わたしたちには、生きている中で苦しみがあります。様々な苦しみが、わたしたちの人生を取り囲み、傷つけ、打ちのめします。人間関係の破れで、人を傷つけたり、傷つけられたりします。大きな災害に遭ってしまったり、病によって苦しんだり、大切なものを失ってしまう、そんな苦しみもあります。それらの苦しみは、闇に閉じ込められて動けなくなってしまうような、深い谷底に落とされてしまうような、そんな感覚をわたしたちに与えるかも知れません。

 それをパウロは、「取るに足りないとわたしは思います」と言います。苦しみの中にある人に、誰がこのようなことを言えるのでしょうか。今、苦しみを覚えている人が、そのように思うことが出来るでしょうか。しかし、パウロは、「将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べれば」、わたしたちが覚えるあらゆる苦しみは取るに足りないのだ。これらの苦しみをはるかに覆い尽くす、取るに足りないと思わせる、そのような栄光が、わたしたちの将来に待ち受けているのだ、神によって約束されているのだ、と語るのです。

この、神が与えて下さる約束を信じて待ち望むことを、「希望」と言います。24節で、パウロは「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」と言っています。
救いは、今抱えている苦しみや悲しみが消えてなくなることではありませんし、自分の思い通りに生きられることや、自分の願いが叶うことではありません。救いは、希望を持つこと。そして、希望によって、苦しみを忍耐し、今を生きる力を与えられることなのです。

<被造物の苦しみ>
 ところでわたしたちは、「苦しみ」というと、いつも自分自身の苦しみや、身近な人の苦しみのことだけを考えているかも知れません。もちろん、それだけで十分抱えきれないものなのであり、そのような苦しい時こそ、周りを見る、視野を広げるなどということは不可能です。しかしパウロは、この御言葉を聞く者の目を、神のお造りになったすべてのものに向けさせます。あなたの苦しみ、呻きと共に、被造物も、世界のあらゆるものも、共に呻いているのだ、と言うのです。この世界すべてが、今、苦しみとうめきの中にあるのです。

 パウロが「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と言った後、19節で「被造物」が突然出てきます。被造物とは、創造の時に神がお造りになったすべてのもののことです。「被造物は、神の子たちの現われるのを切に待ち望んでいます」とパウロは語ります。被造物もまた、切に待ち望んでいる。それは被造物も今、望みを持たなければならない状態にあるからです。
 そのことを20節では「被造物は虚無に服している」と言っています。「虚無」とは虚しさ、無意味さのことです。それはまた、21節を見ると「滅びへの隷属」を指しているということが分かります。世のあらゆるものは、虚しく、滅んでいくものである。永遠に続くものなどない。それはわたしたちも、よく知っていることだと思います。

 しかし、被造物がなぜそうなってしまったのでしょうか。それは、被造物の中で特別に神の似姿に造られたわたしたち人間が、神に背いたためだと、聖書は語ります。
神は、旧約聖書の創世記で、すべてのものをお造りになり、最後に人を創造された後、人を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創1:28)と仰いました。地を従わせる、すべて支配する、ということは、すべてを人の思うようにして良いと言うことではありません。それは、神がわたしたちを愛をもって平和の内に生かすために支配して下さるように、わたしたちに被造物を支配せよと委ねられたのです。
しかし、人は神に逆らいました。神のご支配を拒み、自分が神のようになろうとした。その罪のために、人は滅びに向かうものとなり、また人同士の関係も、また他の被造物との関係をも破壊したのです。そのため20節にあるように、本来は人が愛を持って治めるべき被造物を、神が、神のご意志によって虚無に服させておられるのです。創世記3章には神がアダムに「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。」と仰ったことが書かれています。
 ここには、神に背くわたしたちの罪の深刻さ、そして恐ろしい影響力が語られていると思います。神に背いた人の罪は、自分の苦しみのみならず、あらゆる被造物を、神が虚無に服させるほどのもの、滅びに隷属させるほどのものなのです。

<神の子の希望>
しかし、神はそれでも人を愛して下さいました。滅びに至ることをよしとせず、自分の罪を自分自身で担いきれないわたしたちのために、神は御自分の御子、イエス・キリストを遣わして下さったのです。キリストが全ての者の罪のために死んで下さいました。この方による罪の贖いを信じてキリストに結ばれた者、洗礼を受けた者は、キリストの死にあずかって、罪に対して死に、そして神に対して生きる新しい命を与えられる、と語られています。
キリストの救いを信じた者は、神の霊を受け、神の子とされます。キリストと一つに結ばれ、わたしたちもまた、神を「父なる神」「アッバ、父よ」と呼ぶことができる者とされるのです。

しかしここで、自分自身の罪を赦され、救われて、自分だけ満足して、ホッとして良いのではありません。神の救いの出来事は、個人的な出来事に留まりません。
神との関係を回復させられ、罪を赦されて新しくされた者は、自分が神の子とされ、将来神の栄光を受けることが、神がお造りになったすべてのものが滅びから解放されることに関係するのだ、ということを示されているのです。
19節には「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」また21節に「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」とパウロが述べています。
神はあらゆる被造物をお見捨てにはなりません。その御手を持って、愛をもって、良いものとしてお造りになったからです。わたしたちが、この地上において、世界において、さまざまな混沌、悲惨、不条理を目にする時、しかし、それらは神がお見捨てになっているからではない、ということを知ることができます。被造物は、人の罪のために、神が虚無に服させておられるのですが、神の救いのご計画において、終わりの日に神の子供たちの栄光に輝く自由に与るという希望を与えられているのです。すべてのものが、希望を待つことを許されています。

ですから、22節では「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」と語られています。このうめき、苦しみは、産みの苦しみだと言われています。それは、ただ滅びに向かう、虚しさに喘ぐ苦しみなのではなく、新しい命を待ち望む時を過ごしている、うめきであり、苦しみなのです。だからこそ、わたしたちも、あらゆる被造物も、この現在の苦しみ、痛みに耐えることができる。それは、新しくされること、神の栄光を受けることを待ち望んでいるからです。

<終末の体の贖い>
 これらのことが実現するのは、イエス・キリストが再び来られる日、終末の日です。それは神の国の完成の時、と言われます。神の国とは、神が王となってすべてを治められること、つまり神のご支配のことであり、すべてのものに、神のご支配が及ぶ日のことです。
 この時に、わたしたちに栄光が現わされる。神の子供たちに栄光が現わされ、またすべての被造物も、滅びの隷属から解放される。そう言われています。
 それはつまり、今はまだそのことは実現していないということです。ですから、23節には「被造物だけでなく『霊』の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と語られています。
 「『霊』の初穂」と言われていますが、初穂というのは、その後にもたらされる収穫を約束するものです。つまり、わたしたちは、確かにキリストに罪を赦され、神の子とされ、救われている。しかし、なおまだ、「体の贖われること」を待ち望んでいる状態なのです。

それは終わりの日に、わたしたちが復活の体にあずかるということです。
わたしたちが罪を赦され、神の子とされる、というのは、ただ霊魂が救われたとか、体が滅びても魂は天国に行くことができるとか、そういうことではありません。キリスト教では、人を魂と体に分けて考えたりはしません。神から与えられたこの体も、神は憐れみ、贖って下さる。主イエスの救いは、魂は救われたけれど、肉体は滅びてしまいました、というような、中途半端なものではありません。神が与えて下さった、わたしという存在そのものが、すべてが、救われるのです。

 新約聖書の時代においては、体や物質というものは、霊的なものと分けて考えられ、より低次元なものとされていました。それで、人の霊は肉体という牢獄に閉じ込められている、というようなイメージが持たれていました。ですから霊が体から解放されて、霊的な高みに達することが救いだと考える人が多くいたのです。
キリスト者の中でも、体の復活を信じないで、自分たちはもう霊において救われたのだから、これで救いは完成したのだ、と言っている者たちがいました。しかし、それは聖書が教えていることとは違います。キリストの復活はわたしたちの復活の保証です。わたしたちは、体の復活を約束されており、まだ救いの完成を待っている状態なのです。

主イエスは、死者の中から、復活の体をもって甦られました。幽霊が出て来たとか、弟子たちの思い出の中に甦った、というのではありません。また、復活というのは、ゾンビのように、腐ってしまった肉体がムクムクと起き上がったり、死んでいた体が息を吹き返すことではありません。まことの人となられた主イエスは十字架で死なれましたが、まったく新しい体、朽ちない、死なない体に甦られたのです。その体がどのようなものかは分かりませんが、しかし、主イエスが確かに体をもって甦られたと聖書は語るのです。
この主イエス・キリストの復活を信じ、わたしたちも、キリストと同じように体の甦りが約束されているというところに、救いの根本があります。救いは、肉体は朽ちていくけれど、心や魂だけが救われる、というような精神論ではありません。この世を生き、衰え、弱り、痛み苦しみを覚えた体も、神がお造りになって下さったものであり、憐れんでくださり、救って新しくしてくださる。終わりの日に、このわたしという人間の存在全体が、体も命も魂も、まるごと、主の御手に救われて、まったく新しくされる。新しい体と永遠の命をもって、神の国を受け継ぎ、神と共に生きることが赦される。それが、わたしたちに与えられた救いの完成であり、終わりの日の復活の約束、体が贖われる、ということなのです。

 これこそが、わたしたちの希望です。また復活して、新しい体を持つということは、一人の人間全体の救い、というだけでなく、人が他者との交わりや、他のものと関係を持つということが回復される、という点においても重要なことです。
神に逆らって、人間同士の関係も、他の被造物との関係も壊し、虚無に服させてしまった者が、主イエスの救いに与り、体を贖われるということは、神との関係の回復のもとに、他者との関係、被造物との関係も、再び祝福に満ちた良いものとされるということでしょう。救いは、個人一人だけのことには留まらないのです。
ですから、この救いが完成する時を、神のご支配が、天にも地にも満ち、すべてが新しくされる時を、わたしたちも、すべての被造物も、共に苦しみつつ、うめきつつ、待ち望んでいるのです。

ヨハネの黙示録という書物には、終わりの日のことが、このように語られています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」そして、「わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」
神の子たちが栄光に与る時、虚無に服しているすべての被造物をも滅びから解放し、新しくして下さる。新しい天と新しい地において、神が人と共にいてくださる。涙をぬぐいとって下さり、死も、悲しみも、嘆きも、労苦も過ぎ去らせて下さる。だから、現在の苦しみは取るに足りないものとなるのです。
その希望に向かって、わたしたちも、また天も地も被造物も、すべてが共にうめき、神の救いの完成、神の国の完成に向かって、ひたすら進んでいるのです。

 ですから、この神の救いは、個人一人が心の平安を得ることではないし、また滅びていくこの世にはもう望みを置けないから、別世界を待ち望んでいるということや、理想の世界に思いをはせる、というような現実逃避でもありません。希望を持って、この今を、この世界を生きるのです。
 神はこの世のすべてを愛しておられ、造られたすべてのものを神の栄光にあずからせることを望んでおられます。ですから、わたしたちも、またすべての被造物も、苦しみを分かち合い、また希望を分かち合うのです。共にうめき、共に待ち望むのです。
この世がどんなに絶望的な状況に思われても、この世は神に見捨てられたものではなく、神の約束を共に待つものとして見つめることができます。すべての被造物は、わたしたちが神の子とされることを待っている。わたしたちの救いの完成を、共に待ちつつ苦しんでいる。
その時、わたしたちは苦しみつつ待つ間、自分のことだけを考えるのではなく、隣人に対しても、あらゆる被造物に対しても、世界に対しても、無関心でいるわけにはいかないこと、真剣に向き合わなければならないことに気づかされるのではないでしょうか。すべての被造物は、わたしたちが神の子とされることを待ち望み、そこに希望を持っている。決して自分と無関係ではないのです。わたしたちは、主が来られる日まで、キリストに結ばれた神の子として、隣人のために執り成し、祈り、仕えて、苦しみを分かち合い、この希望を伝えていかなればならない。また世界を正しく管理していかなければならない。そのことに、召されているのではないでしょうか。

<見えないものを望む>
 しかし、これはわたしたちにとって、見えない希望です。わたしたちの目は、現実の目に見える、具体的な苦しみに圧倒されて、いとも簡単に希望を見失ってしまいそうになります。
希望を持ち続けることがもし、わたしたちの信仰深さと呼ばれるものや、熱心さによるものであれば、わたしたちは大きな苦しみに飲み込まれたなら、簡単にキリストの十字架を無かったことにして、神の存在を疑い、この希望を捨ててしまうことでしょう。

しかし、この希望を保証して下さるのは、神ご自身です。十字架の死によって罪を贖って下さったキリストが、確かに体をもって神に復活させられたこと。そして、キリストを信じる者たちに、神の霊が与えられていること。これが希望の保証であり、根拠であり、終わりの日の約束が確かであることを知らせるものです。

本日の箇所の直前の14~17節には、神の霊によって、わたしたちが神の子とされること。イエス・キリストの父なる神を、わたしたちもまたキリストに霊によって結ばれて「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来ることが語られています。そして、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることをわたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」とあります。
また、本日の箇所の直後には、この霊が弱いわたしたちを助けて下さり、言葉にあらわせないうめきをもって執り成して下さると書かれています。この聖霊の箇所に前後を挟まれて、今日の箇所、霊の初穂をいただいているわたしたちの「希望」が語られているのです。

この聖霊のお働きによって、わたしたちは洗礼を受け、キリストの救いに与り、お一人のキリストに結ばれ、一つの群れとして集められます。また、聖霊の働きによって、わたしたちはこの地上にありながら、神の語りかけを聴き、神との交わりに生きることができるし、この体を持って、終わりの日の恵みを先取って味わうことが許されています。
特に、聖餐は、終わりの日の神の国の食卓の先取りとされています。わたしたちがキリストの体と血に与って、一つに結ばれて神の子とされていることを、目に見えるパンと杯というしるしを通して、確かにされる時です。またそこには、キリストに結ばれた一つの共同体、神の民が形成されます。神の国の完成を、わたしたちは教会において垣間見るのです。
目に見えない希望の実現を待っている今の時は、わたしたちにとって、すべての被造物にとって苦しみの時ですが、希望を確かに持ち続けて歩むことができるように、聖霊によって、神によって、教会において信仰を励まされ、守られ、支えられ、導かれていくのです。

<希望によって救われている>
本日の旧約聖書の箇所、イザヤ書40:27~31には、まさにこの神の希望が、人に力を与えることが語られています。「ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが/主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

主に望みをおくからこそ、倦んでも、疲れても、つまずき倒れても、新たな力を与えられ、歩き続けることができます。ローマの8:24で「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」と言われているように、これらの希望は、今現在の苦しみを耐え忍び、今を歩んでいくための力になるのです。慰めであり、救いなのです。この希望によって、わたしたちは今を生きることができる。すべての被造物と共にうめきながら、苦しみを分かち合いながら、「アッバ、父よ」と神を呼びつつ、神の子とされること、体の贖われることを、忍耐して待ち望むことができるのです。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」

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