主日礼拝

立ち帰らせる人、ヨハネ

「立ち帰らせる人、ヨハネ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:マラキ書 第3章19-24節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第1章5-25節
・ 讃美歌:230、237、440

クリスマスに備えるアドベント  
 本日からアドベント、待降節に入ります。主イエス・キリストの誕生を喜び祝うクリスマスに備える時です。昨日、そのための飾り付けが行われ、この礼拝堂にもアドベントクランツが飾られました。四本の蝋燭(型電球)の最初の一本に明かりが灯っています。毎週その数を増やしていき、四本全部が灯されるとクリスマスです。そのようにしてクリスマスに備える思いを深めていく時がアドベントです。  
 今年はこのアドベントの期間、ルカによる福音書第1章をご一緒に読むことにしました。ルカによる福音書において主イエスの誕生が語られているのは第2章です。その前の第1章には、その備えとなったいくつかの出来事が語られています。そこを読むことによって、クリスマスへの備えをしていきたいのです。  
 本日は5~25節です。ここには、小見出しにあるように、「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」ということが語られています。聖書は、主イエス・キリストの誕生の前に、洗礼者ヨハネの誕生を語っています。そして主イエスの誕生が予告されたように、洗礼者ヨハネの誕生も予告され、その備えがなされたのです。

ヘロデの時代  
 それは「ユダヤの王ヘロデの時代」のことでした。このヘロデは、「ヘロデ大王」と呼ばれている人で、紀元前37年から紀元前4年までユダヤの王でした。しかし元々ユダヤの王家の出だったわけではありません。彼は前の王朝に仕えていた武将の子で、当時地中海世界全域を支配下に置き、帝国となろうとしていたローマによってユダヤの王としての地位を得たのです。だからローマには頭が上がらず、常にローマの顔色を見てそれに従うことによって王位を守ったのです。彼はエルサレムの神殿の大修理を行い、大変壮麗な神殿を建設しました。しかしそれは彼がユダヤ人の出ではなく、ユダヤ人たちから自分たちの王として喜んで受け入れられてはいなかったためです。ユダヤ人たちのご機嫌を取るために神殿を立派に改築したのです。このように彼はいろいろな人の顔色を伺いながら、抜け目なく自分の地位を守った人でした。それは逆に言えば、自分の地位を脅かす者に対して極度に警戒心を持っていたということです。前の王朝の血を引く者は、自分の妻や子でさえも殺しました。主イエスの誕生に際して彼が、新しい王の誕生の知らせに恐れを抱き、ベツレヘム近郊の二歳以下の男の子を虐殺したというマタイ福音書の話は、歴史的には証拠がありませんが、このようなヘロデであるゆえに「あり得る話」として伝わったのでしょう。超大国の顔色を伺い、その言いなりになることで国際社会における地位を守り、国内においてはナショナリズムを煽って政権を維持しようとしている国は今もあります。昔も今も変わらぬ人間の権力争いや権謀術数の世界のただ中で、ヨハネの、そして主イエスの誕生の出来事は起ったのです。

ザカリアとエリサベト  
 このヘロデ王の時代に、ザカリアという祭司がいました。エルサレムの神殿には当時大変多くの祭司たちがいたようで、七千人ぐらいだったという人もいれば、二万人いたという説もあります。その祭司たちが、24の組に分けられていて、ザカリアは「アビヤ組」に属する祭司でした。彼の妻エリサベトも「アロン家の娘の一人で」とあります。アロン家は由緒正しい祭司の家系です。そしてこの夫婦は、6節にあるように「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」のです。しかし7節には「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」とあります。子供を与えられることはイスラエルの人々にとって神の祝福の目に見える印でした。逆に言えば子供がないことは神の祝福が与えられていないと感じられる悲しみだったのです。彼ら夫婦は、神を信じて、神の前に正しく生きていましたが、神の祝福が与えられないままもう年をとっていたのです。

主との出会い  
 このザカリアが、神殿の聖所に入って香をたく務めに、くじ引きで当たりました。このくじに当たることは、祭司としての生涯に一度あるかないかの、大変な晴れ舞台です。イスラエルの民全体を代表して、主なる神のみ前に出て、人々の祈りのしるしである香をたくのです。だから10節にあるように、「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた」のです。多くの人々の祈りに支えられ、またその祈りを携えて、彼は主の前に立ったのです。  
 するとそこに主の天使が現れました。天使が現れたということは、主なる神ご自身が彼の前に現れたということです。その天使を見たザカリアは、「不安になり、恐怖の念に襲われた」と12節にあります。これはおかしなことであるようにも思えます。主の聖所に入って香をたくということは、主なる神の前に出ることです。自分は今主なる神の前に立っているということを彼はしっかり意識してこの務めに当っていたはずです。それなのに、そこに主の天使が現れると、不安になり、恐怖の念に襲われたのです。しかしそれは決しておかしなことではありません。このことは、ザカリアがこの時本当に主の前に立ったことを示しています。生きておられる神の前に本当に立つ時、私たちは、人の前では隠しており、取り繕っている自分の罪と汚れを、神がちゃんと見ておられ、知っておられることをはっきりと示されるのです。そして自分は神の前に立つことなどとうていできない罪深い、汚れた者であることを思い知らされるのです。ザカリアが不安と恐怖を抱いたというのは、そのような神との真実な出会いが起ったことを意味しているのです。  
 主の天使はザカリアに「恐れることはない」と語りかけます。生きておられるまことの神との出会いによって起る恐れは、私たちが神のみ前に出ても恐れずにすむような正しい者になることによって乗り越えられるのではありません。神ご自身が「恐れるな」と語りかけて下さることによってのみ、私たちは神の前に立つことができるのです。私たちの礼拝は、私たち自身の正しさや立派さによって成り立っているのではなくて、神が罪人である私たちに「恐れるな」と語りかけて下さることによってこそ成り立っているのです。

思ってもいなかったこと  
 天使は「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と語りかけました。ザカリアの願いが神に聞き入れられたのです。その願いとは何だったのでしょうか。「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と言われています。彼らの願いとは、自分たち夫婦に、神の祝福の目に見える印である子供が与えられることだったのです。そのことは彼らの長年の願いでした。しかし「二人とも既に年をとっていた」彼らは、おそらくもうそのことをあきらめ、願うこともなくなっていたのだと思います。神は自分たちには子供を与えて下さらない、それが神のみ心なら、それを受け入れようと思っていたのでしょう。そして、聖所で香をたく務めにくじで当った時、子供は与えられなかったが、神はこのような形で大きな祝福を与えて下さった、この恵みで十分だ、と感謝したのではないでしょうか。神の前に正しい人であった彼らならおそらくそのように考えていただろうと思うのです。  
 しかし主なる神はその彼らに、彼らが思ってもみなかった、全く期待していなかった恵みをお告げになりました。自分たちに子供が生まれる、それはザカリアにとって全く予想外の、びっくり仰天することです。神との出会いにおいてはこのようなびっくりすることが起るのです。私たちは、いろいろな期待や願いをもって神に近づきます。神というものがもしいるなら、このような願いをかなえてくれるのではないか、こういう恵みを与えてくれるのではないか、そんな思いでいる私たちに、神は、それとは全く違う、私たちが思ってもいなかった、全く期待していなかったことをお示しになるのです。私たちはそれにびっくり仰天します。そしてそれと同時に、ザカリアがそうであったように私たちも、これこそ自分が心の奥底で本当に求め願っていたことだった、自分ではもう忘れていたり、あるいは全く意識していなかったけれども、自分の人生の根本的な問題、そこに欠けているもの、それゆえに真実に求めていることはこれだったのだ、と気づかされるのです。神と出会う時に私たちはそういう体験を与えられます。それはまさに突然、不意打ちのように起るのです。

ヨハネの使命  
 14節以下には、生まれてくる子ヨハネがどのような人になるのかが告げられています。「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる」。ヨハネの誕生によって、子供がなかった彼ら夫婦に大きな喜びが与えられるのです。しかしそれに続いて「多くの人もその誕生を喜ぶ」とあります。ヨハネの誕生は、多くの人々の喜びでもあるのです。それは15節にあるように、「彼は主の御前に偉大な人にな」るからです。「ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて」というのは、ヨハネが神によって特別に選ばれており、聖霊に満たされて、神によって与えられた使命を果していく、ということです。その使命とは何かが16、17節に語られています。「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。「エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ」とあるのは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、マラキ書第3章の23、24節から来ています。そこにはこうありました。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。「大いなる恐るべき主の日」とは、主なる神が全ての民を裁くために来られる日です。その前に、預言者エリヤが先に遣わされ、人々の心を父である神の方に向き変わらせ、父なる神が怒りをもって彼らを破滅させることのないように人々を整える、そのエリヤの働きをヨハネがするのだ、と天使は告げたのです。「主に先立って」行く、その「主」とは、ヨハネの後に生まれ、現れる主イエス・キリストです。ヨハネは、主イエスに先立って現れ、人々の心を神に向けさせ、準備のできた民を救い主イエスのために用意する使命を与えられているのです。それは一言で言えば16節にあるように、「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」ということです。神の民イスラエルを、その神である主のもとに立ち帰らせる、そのことによってヨハネは、救い主イエス・キリストが来られるための準備をするのです。そういう使命のためにヨハネは選ばれ、母の胎にいるときから聖霊に満たされて生まれて来ようとしているのです。

神に立ち帰る  
 このヨハネの使命から私たちは、主イエス・キリストがこの世に来られることに備えるためには何が必要なのかを教えられます。それは、主なる神のもとに立ち帰ることです。その備えのためにヨハネが先ず生まれたのです。このアドベントの時、リースを飾ったり、クランツに火を灯したりすることを通して私たちが本当になすべきクリスマスへの準備は、神のもとに立ち帰ることなのです。  
 神のもとに立ち帰るとは、何をすることでしょうか。またそれはどうしたらできるのでしょうか。神に立ち帰ることを聖書では「悔い改め」とも言います。「悔い改める」と言うと、自分の罪や過ちを反省して、もう罪を犯さないと決意して新しく歩み始めること、というふうに私たちは思います。しかし聖書が語っている悔い改めは、そのような「反省と決意」ではありません。聖書における悔い改めとは、神に立ち帰ることなのです。それは「反省と決意」とどう違うのでしょうか。「反省と決意」は、自分がすることであり、自分一人で出来ることです。しかし、神に立ち帰ることは一人ではできません。誰かに助けてもらわなければできないということではなくて、立ち帰る相手である神なしにはできない、ということです。つまり神に立ち帰ることは、神と向き合い、関係を持つことなのです。私たちはつい、神のもとに立ち帰るとは何をすることなのだろうか、と考えます。こういうことをすれば、ああいうことをすれば、神に立ち帰ったことになるのではないか、と考えるのです。でもそれは、「反省と決意」と同じで、自分一人ですることです。自分が何かをすることで神に立ち帰ろうと思っている間は私たちは神に立ち帰ることはできないのです。神に立ち帰ることは、自分が神から目を背けて、あさっての方を向いて生きていることに気づいて、神に思いを向けることから始まります。同じルカ福音書の第15章にあるあの「放蕩息子」のたとえを思い起こします。父の家を飛び出して放蕩の限りを尽くし、スッカラカンになった息子が、父のことを思い出すのです。以前父の家にいた時には、不自由で窮屈だから早くここを出て自由になりたいと思っていた、しかし実はその時自分は父の愛によって支えられ、豊かに養われていたのだということに気づき、その父のもとに帰りたい、と思うのです。そこから「立ち帰る」ことが始まります。それが悔い改めなのです。罪を反省してもうしないと決意するというのは、神の赦しなしに一人でやっていける立派な自分になろうとすることです。聖書が語っている悔い改めは、そういうことではなくて、自分は神のもとで、神の赦しの恵みをいただかなければ生きることのできない者だということを認めて、神に向かって「赦してください、助けてください」と願い求めていくことなのです。神に立ち帰ることはそのようにしてこそできるのです。

主イエスによる赦しの恵みによって  
 あの放蕩息子の話が語っているように、そのようにして帰って来た息子を父は全く責めることなく赦し、喜んで息子として迎えてくれました。この父の赦しの愛によって彼は立ち帰ることができた、悔い改めることができたのです。私たちの悔い改め、神に立ち帰ることも、神の赦しの愛によってこそ可能となります。そのために、父である神はその独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。主イエスがこの世にお生まれになったのは、私たちの罪を全てご自分の身に負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さるためでした。私たちは、神によって造られ、命を与えられているにもかかわらず、神に背き逆らい、そっぽを向いて、自分が主人となって、好き勝手に生きている罪人です。その私たちのために、神の独り子主イエスが、自らの命をささげて下さることによって赦しを与え、私たちを神の子として回復して下さったのです。この主イエスによる赦しの恵みがあるからこそ、私たちは神に立ち帰ることができるのです。悔い改めることができるのです。独り子主イエスによってその赦しの恵みを与えて下さっている神に心を向け、この救いに感謝しつつ、神の下で、神と共に生きていこうとすること、それが神に立ち帰ることであり、悔い改めることなのです。

全生涯が悔い改めであること  
 今年は、ルターによる宗教改革の開始から500年の記念の年です。1517年10月31日、ルターがいわゆる「95箇条の提題」を掲げたことから宗教改革が始まりました。その内容を学ぶ講演会が間もなく教会で行われますから、多くの方が参加していただきたいと思いますが、その95箇条の最初の第一条は「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」でした。主イエス・キリストは、私たちの全生涯が悔い改めであることをお望みになっておられる、このことの確認から宗教改革は始まったのです。だから宗教改革の信仰に生きる私たちにおいて、「悔い改め」は信仰の中心です。しかしそれは、「罪を反省してもうしないと決意して生きる」ことが大事だ、ということではありません。ルターが言っているのは、反省と決意によって少しは立派な人になろうとするとか、あるいは何かの儀式に参加したり、教会の発行するお札を買うことによって悔い改めたと思ってはならない、大事なことは、あなたの罪をご自分の命と引き換えに赦し、無条件で救いを与えて下さっている主イエス・キリストの方をしっかり向いて、主イエスによる救いを求めることだ、主イエスによって罪の赦しを与えて下さっている神の恵みを見つめ、その神のもとに常に立ち帰りつつ、神と共に生きることをこそ主イエスは求めておられるのだ、ということです。

主の前で沈黙する時  
 ザカリアは、天使によって告げられたことを信じることができませんでした。自分も妻ももう老人になっている、という現実からして、子供が生まれるなどということは余りにも非常識な、あり得ないことだったからです。すると天使は、私の告げたことを信じなかったので、あなたはこの事の起る日まで話すことができなくなる、と言いました。聖所から出てきたザカリアは口が利けなくなっていたのです。天使の言葉を信じなかったので、罰が当ったのでしょうか。そういうことではないでしょう。ザカリアは、子供が生まれるまでの一年弱の間、主の前で沈黙する時を与えられたのです。自分の言葉を語ることをやめて、ただひたすら神の言葉に耳を傾け、神と向き合う時を与えられたのです。この沈黙の期間にザカリアは、神に立ち帰ること、悔い改めに生きることを学んだのです。神殿の聖所で香をたく務めをしていた時、彼は自分が主なる神の前に立っていると思っていました。主の掟と定めをすべて守り、神の前に正しく生きているのだから、その資格が自分にはあると思っていたのです。しかしその時には実は彼は、主に立ち帰ることができてはいなかった、主と共に生きてはいなかったのです。天使の出現とお告げによってそのことが暴露されました。彼は自分が人間の常識に囚われており、心の底で願っていたはずのことを主が実現してくださると聞いてもそれを信じることのできない不信仰な者であることを思い知らされたのです。そこから、彼の立ち帰り、悔い改めが始まりました。次第に大きくなっていく妻のおなかを黙って見つめながら彼は、自分の言葉、人間の思いではなく、主のみ心こそが実現することを知らされていったのです。そして主なる神の恵みのみ業を見つめ、自分の言葉を語るのではなく主のみ言葉を聞き、主と共に生きることの幸いを味わい知っていったのです。それは妻エリサベトもまた同じだったでしょう。彼女が自分の妊娠をはっきりと知って、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と語ったことはそれを示しています。彼女もまた、主なる神が自分にしっかりと目を留めて下さっていることを知らされ、主のまなざしの中で生きる者とされたのです。

神に立ち帰る時、アドベント  
 洗礼者ヨハネの誕生において、父ザカリアと母エリサベトはこのように、神に立ち帰るという備えを与えられました。その備えの中で生まれて来たヨハネは、主イエスによる救いのみ業の始まりに向けて、人々を神に立ち帰らせる備えをしたのです。主イエスをお迎えするクリスマスに備えるアドベントの時、私たちに求められているのもこのこと、神に立ち帰ることです。私たちは日々の生活に忙しくしており、この世の様々なことに心を奪われています。本日からのアドベントの時を、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架と復活によって私たちの罪を赦し、ご自分の子として迎え入れて下さる主なる神に、自分の心を向けていく時として歩みたいと思います。主イエスによる赦しの恵みは既に与えられています。だから私たちは、自分が正しい立派な人になることによってではなくて、主イエスによる救いを心から求めていくことによって、神に立ち帰ることができるのです。

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