「イエスさまを信じれば」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:創世記第43章1-7節
・ 新約聖書:使徒言行録第16章25-34節
・ 讃美歌:205、60、509
牢屋の中で
さっき読まれた今日の聖書の箇所、使徒言行録の16章25節からの最初のところに、「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると」とありました。パウロもシラスも、イエス様を神の子、救い主と信じて、イエス様のことを人々に宣べ伝えていた人たちですが、その二人が真夜中に讃美歌を歌って神様にお祈りをしていたのです。この時彼らはどこにいたのでしょうか。それは牢屋の中です。さっき読まれた所のすぐ前のところ、23、24節にこう書かれています。「そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に現住に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢にいれて、足には木の足枷をはめておいた」。パウロとシラスは捕まえられて、鞭で何度も打たれて、牢屋に投げ込まれて、足枷まではめられていたのです。なぜ捕まえられてしまったのでしょう。何か悪いことをしたからではありません。パウロは、悪霊に取りつかれて占いをしていた人から悪霊を追い出したのです。そうしたら、その人の占いでお金儲けをしていた人たちが怒って、「こいつらは町を混乱させている」と言ってパウロたちをつかまえて牢屋に入れたのです。神様の力によって、占いの悪霊に取りつかれていた人を癒しただけなのに、捕えられて、鞭で打たれて、牢屋に閉じ込められてしまったのです。足枷まではめられて自由に動くこともできません。鞭で打たれた傷もひりひりと痛んでいたでしょう。でもその夜遅く、二人は、讃美歌を歌って神様に祈っていたのです。
「祈っていた」だけだったら、「神様私たちはこんな牢屋に入れられるようなことはしていません。こんな所はいやです、早く出して下さい、助けてください」と必死に神様の助けを求めていたのかな、と思います。でも「賛美の歌をうたって」とあります。賛美の歌、讃美歌は、神様に感謝して、神様をほめたたえる歌です。つまり喜びの歌なのです。パウロたちは、牢屋に閉じ込められ、足枷をはめられ、鞭で打たれた傷の痛みに耐えながら、でも喜びの歌を歌って神様をほめたたえ、そしてお祈りをしていたのです。どんなお祈りをしていたのでしょう。それははっきりとは分かりませんが、「今この牢屋の中でも、神様が私たちと一緒にいて、支えて下さっていることを感謝します。神様が今も、これからも、私たちを導いて下さることを信じています。どうぞ神さまのみ心のままになりますように」というようなお祈りだったことは確かです。パウロとシラスは、無実の罪で牢屋に入れられてしまっても、悲しみにおしつぶされて、希望を失って、もうだめだとあきらめてしまうのでなくて、讃美歌を歌って神様にお祈りをしていた、つまり礼拝をしていたのです。そこには、不思議な平安と慰めがあり、普通では考えられない喜びや感謝があったのです。
私たちの礼拝
私たちも今ここで一緒に讃美歌を歌い、お祈りをして、神様を礼拝しています。パウロとシラスが真夜中に牢屋の中でしていたのと同じことを今私たちもここでしているのです。ここは牢屋の中ではありません。でも、今ここに集まって神様を礼拝している私たちの中には、この時パウロたちが味わっていたのと同じような苦しみや悲しみ、つらさを覚えている人がいます。自分の力ではどうしようもない苦しみに捕えられて、まるで牢屋に入れられてしまったかのように、そこから抜け出せないでいる人がいます。それは病気の苦しみや不安だったり、だんだん年をとって前には出来たことが出来なくなっていくという悲しみだったりします。いろいろなことがうまく行かなくて、自分の人生はこれからどうなっていくのだろう、という不安だったりもします。家族のことで心配なことがあって、何とかしてあげたいのだけれどもどうにもならない、という思いをかかえている人もいます。あるいは愛する家族が亡くなってしまって、その悲しみ、寂しさをかかえている人もいます。私たちの人生にはいろいろな悲しみや苦しさがあって、そこから抜け出せずに、牢屋に閉じ込められてしまっているように感じることがあるのです。そういう苦しみや悲しみは、大人だけが感じるわけではありません。今日は花の日の総員礼拝で、子供からお年寄りまで、みんなで一緒に礼拝を守っていますが、教会学校の生徒である皆さんの中にも、自分の体のことでとか、家族のことで、つらいこと、苦しいこと悲しいことをかかえている人がいます。保護者の方々もそうです。私たちは、人には見せていなくても、いろいろな苦しみや悲しみをかかえながら、日曜日に教会に集まって来て、神様を賛美し、祈り、聖書のお話を聞いて神様を礼拝しているのです。そして私たちはこの礼拝で、不思議な平安と慰めを味わいます。礼拝したからといって苦しみや悲しみの現実が変わるわけではありませんが、神様が確かに共にいて下さるという慰めを味わって、新しい一週間へと歩み出すのです。礼拝というのはそういう不思議な時なのです。
礼拝によって心が変えられていく
パウロとシラスの礼拝に、ほかの囚人たちが聞き入っていた、と25節にあります。この牢屋には、他にも大勢の人が捕えられていました。その人たちはみんなそれぞれ、つらい苦しい思いをしており、不幸をかかえていたでしょう。つらさ、苦しさの中で罪を犯してしまって捕えられた人もいたでしょうし、パウロたちのように悪いことをしていないのに、人に恨まれてここに入れられてしまった人もいたかもしれません。それぞれに苦しみ悲しみをかかえていた人たちが、パウロたちの賛美と祈りを、つまり礼拝を、じっと聞いていたのです。この人たちは神様を信じているわけではありません。イエス様のことを知っていたわけでもありません。だからパウロたちが何をしているのか、最初は分からなかったでしょう。こんな所で歌なんか歌ってへんな奴らだ、と思ったでしょう。でもその賛美の歌や祈りを聞いているうちに、そこにある不思議な平安と慰めをその人たちも感じていきました。牢屋の中になどあるはずがないと思っていた不思議な喜びや感謝がこの人たちにはある。そう感じた囚人たちは皆、パウロたちの礼拝を真剣に聞くようになったのです。それによって、その人たちの心は変えられていきました。
そこに突然大きな地震が起って、牢屋の戸がみんな開き、囚人たちを繋いでいた鎖も外れた、とあります。この牢屋から逃げ出せる状態になったのです。ところが誰一人逃げようとせずに、パウロとシラスのもとに留まりました。逃げ出して自由になるよりも、この人たちと一緒にいたい、この人たちの礼拝に一緒に連なっていたい、そこにある平安や慰め、他では得ることのできない喜びや感謝をもっと体験したい、という気持ちが生まれていたのです。礼拝というのは、そういうことが起る所です。神様を信じて礼拝をし、神様をほめたたえて祈っている人たちの傍で、その礼拝の様子を見たり聞いたりしていると、そこにある不思議な慰めや平安が、教会の外にはない特別な喜びや感謝が感じられていくのです。そういうことがこの総員礼拝でも起るでしょう。大勢の大人の人たちが喜んで真剣に神様を礼拝して、大きな声で讃美歌を歌って祈っている、その姿を見た子供たちは、ここには何か特別なものがある、人を生かす本当の喜びがあると感じると思います。逆のこともあります。子供たちが喜んで熱心に、素直に神様を礼拝してお祈りをしている、そういう姿を見て大人たちが、ここに神がおられ、祝福して下さっていることを感じる、そして信仰の初心に立ち帰らされる、ということも起るのです。そしてどちらも、この礼拝の場にこそ留まりたい、この平安と喜びと感謝を味わっていたい、と思うのです。この牢屋の中で起ったことが、私たちの礼拝でも起るのです。
救われるためにはどうすべきか
同じことがこの牢屋の見張りをしていた看守にも起りました。地震で扉が開いて鎖も解けてしまったことを知った看守は、囚人たちがみんな逃げてしまったと思ったのです。普通はそう思います。牢屋に入れられている人は、逃げ出せるものならすぐにでも逃げ出したいといつも思っているのです。だから看守は絶望しました。囚人たちが逃げないように見張っているのが自分の任務なのに、逃げられてしまったら責任を問われるのです。もう破滅だと思った彼は剣を抜いて自殺しようとしました。するとパウロが、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」と叫びました。囚人たちは誰一人逃げ出そうとせず、パウロたちと一緒にそこにいたのです。それを知った看守は、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏した、とあります。この看守も、囚人たちと同じように、パウロたちのもとにある不思議な平安と慰め、喜びと感謝に打たれたのです。苦しみや悲しみの中で怒りに満たされていた囚人たちが、平安、喜び、感謝を与えられたという礼拝の奇跡を彼も見たのです。彼はパウロたちに尋ねました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。私も救われたい、私もあなたがたの平安に、喜びに、感謝に、共にあずかりたい、そのためにはどうすればよいのでしょうか、と尋ねたのです。礼拝の中で、そういう思いが、私たちにも与えられていくのです。
イエス様を信じて洗礼を受ける
パウロたちは答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。救われるためにはどうすればよいのでしょうか。イエス様を信じればいいのです。イエス様こそ、神様の独り子で、私たちのために人間となって下さり、十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって、私たちの救い主となって下さった方です。そのイエス様を信じれば私たちは救われます。苦しいこと、つらいことをかかえながらも、イエス様による不思議な平安と慰めをいただいて、賛美の歌を歌い、お祈りをする、そういう礼拝の喜びを私たちも味わうことができるようになるのです。でもイエス様を信じるというのは、ただ心の中でイエス様は神の子で救い主だと思う、ということではありません。イエス様を信じた人は、イエス様と結び合わされて、教会に加えられて、その一人となって生きていくのです。そのしるしが洗礼です。この看守は、パウロたちを家に迎えて、家族全員で、パウロたちが語る主の言葉、神様のみ言葉を聞きました。そして家族みんなで洗礼を受けました。イエス様を信じて救われた人は、洗礼を受けてイエス様と結び合わされ、教会につながる者となるのです。
あなたも家族も
「あなたも、家族も」救われます、と言われています。私たちがイエス様を信じるなら、神様は私たちだけでなく、私たちの家族をも救って下さるのです。この看守の家族も、みんなが洗礼を受けることへと導かれました。一人の人がイエス様を信じるようになるとき、その人につながる沢山の人たちへと、神様の救いの恵みは広げられていくのです。私たちは神様のそういう恵みによって招かれています。イエス様を信じているあの人、この人とのつながりの中で、私たちは今日この礼拝に来たのです。それはお父さん、お母さんかもしれません。きょうだいかもしれません。お祖父ちゃん、お祖母ちゃんかもしれません。あるいは自分の妻や夫かもしれません。子供や孫かもしれません。さらには友達、同僚、恋人かもしれません。神様はいろいろな人とのつながりを通して、私たちを礼拝へと、そこにある不思議な平安と慰めへと、そしてイエス様と結び合わされて新しく生まれ変わることのしるしである洗礼へと招いて下さっているのです。