主日礼拝

若者は幻を、老人は夢を

「若者は幻を、老人は夢を」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨエル書第3章1-5節
・ 新約聖書:使徒言行録第2章1-21節
・ 讃美歌: 344、204、347

聖霊に満たされた弟子たちの体験したこと  
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。ペンテコステはクリスマス、イースターと並ぶ、教会の大切な記念日です。クリスマスは主イエスの誕生を、イースターはその復活を記念する日として分かりやすいですが、ペンテコステは何を記念する日なのでしょうか。そのことが、本日の聖書の箇所、使徒言行録第2章1節以下に語られています。1節の冒頭に「五旬祭の日が来て」とあります。この「五旬祭」が「ペンテコステ」という言葉です。それは五十日目という意味で、何から五十日かというと、ユダヤ人の最大の祭である過越祭からです。しかしそれは私たちにおいては、主イエスの復活、イースターから五十日目ということになります。今年のイースターは4月5日の日曜日でした。その日から昨日までで7週間が経ち、今日が五十日目なのです。主イエス・キリストの復活から五十日目のこの日に何があったのでしょうか。4節の始めのところに「すると、一同は聖霊に満たされ」とあります。これが、ペンテコステの日に起ったことの中心です。「一同」というのは、主イエスの十二人の弟子たちです。彼らは復活なさった主イエスと出会い、主イエスが死に勝利して生きておられることを知らされていました。その弟子たちが共に集まって熱心に祈っていたところに聖霊が降り、彼らは聖霊に満たされたのです。  
 彼らは知らないうちに、気がついたら聖霊に満たされていたのではありません。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。この出来事は激しい音を伴っていたのです。家の中に天からの轟音が響くというのはどういうことなのか、よく分からない感じがします。また、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあるように、この出来事には目に見える現象も伴っていましたが、「炎のような舌」とはどのようなものなのか、これもよく分かりません。この天からの轟音や炎のような舌を、この家の周囲にいた全ての人々が聞き、見た、と考える必要はないでしょう。これらはそういう物理的現象と言うよりも、聖霊に満たされた彼らが感じ、体験したことです。彼らは、天からの大きな力が自分に働き、新しくされることを体験したのです。彼らはどう新しくされたのか、それが4節の「すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」ということです。聖霊に満たされた弟子たちは、ほかの国の言葉を語り始めたのです。

神の偉大な業を語る新しい言葉  
 このことは「炎のような舌」と関係があります。「舌」と訳されている言葉と、「ほかの国々の言葉」の「言葉」は原文において同じ言葉です。「ほかの国々の言葉で話だした」は直訳すれば、「ほかの舌で語りだした」となるのです。聖霊に満たされたことによって弟子たちに与えられたのは、それまでとは違うほかの舌、新しい言葉だったのです。「ほかの国の言葉」と言うと、外国語という意味になり、彼らは突然外国語がしゃべれるようになったのか、という感じがしますが、そういうことではありません。聖霊によって外国語がしゃべれるようになるなら、どんな語学学校へ行くよりも教会に来ればよいということになりますが、残念ながらそういうことではない。「ほかの国の」は意訳であって、直訳すれば「ほかの言葉」です。彼らは、それまで語っていたのとは違う、新しい言葉で語り出したのです。その新しい言葉は、聞く人にただ一つのことのみを伝えるための言葉でした。そのただ一つのこととは何だったのでしょうか。  
 聖霊に満たされた彼らはエルサレムの町に出て、人々に新しい言葉で語り始めます。その言葉を聞いた人々が驚いて言ったことが7節以下に語られています。この時エルサレムには当時の世界の様々な地域から人々が集まって来ており、その地名が沢山ここに並べられています。それらの様々な地域の出身である人々が、自分たちの出身地の言葉が語られているのを聞いたのです。だとすればやはり外国語で語っていったということではないかと思いますが、しかし彼らが様々な言葉で聞いた内容はただ一つでした。11節の後半に「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」とあります。弟子たちが新しい言葉で語って行ったのは、「神の偉大な業」だったのです。弟子たちが聖霊に満たされたことによって与えられた新しい言葉は、神の偉大な業を語り伝えるための言葉でした。彼らは、外国語ができるようになって国際ビジネスを展開できるようになったのではなくて、神の偉大な業を世界中の人々に向かって語る新しい言葉を与えられたのです。  
 その「神の偉大な業」とは何か、それは14節以下のペトロの最初の説教を読むことによってはっきりしていきます。しかしその説教の中で「神の偉大な業」について語られていくのは、本日の箇所の後のところ、22節以下です。22節だけを読んでおきます。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」。神の偉大な業、それはナザレの人イエス・キリストによって神が行って下さった救いのみ業です。神は独り子主イエスをこの世に遣わして下さり、その神の子である主イエスが十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦し、復活して新しい命、永遠の命の約束を与えて下さったのです。主イエスによって実現した神のこの驚くべき、偉大な救いのみ業を語る新しい言葉を、ペトロら弟子たちは、聖霊に満たされることによって与えられたのです。

聖霊の働きによる教会の誕生  
 この新しい言葉を聞いた人々が、主イエスにおける神の救いのみ業を知り、それが自分に与えられた神の救いであることを悟り、主イエスを信じる者とされました。2章の41節には、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」と語られています。聖霊の働きによって主イエスによる神の偉大な救いの業を告げる新しい言葉が語られ、それを聞いた人々が主イエスを信じて洗礼を受け、キリストを信じる者の群れである教会がこの世に誕生したのです。それがペンテコステの出来事であり、本日私たちは教会の誕生を記念してこの礼拝を守っているのです。しかしそれはただ過去の出来事を記念するためではありません。ペンテコステの日に弟子たちに降り、彼らに新しい言葉を与え、教会を生み出した聖霊は、その日に一度限り降ったのではなくて、その後も繰り返し降り続けました。人々がキリストによる神の偉大な救いのみ業を信じる者となり、洗礼を受けてその救いにあずかり、キリストの体である教会に加えられる、そこには聖霊のお働きが常にあったのです。そして聖霊に満たされた人々は、この日の弟子たちと同じように、神の偉大な救いのみ業を語る新しい言葉を与えられました。そのようにして、キリストの福音は人から人へと伝えられ、全世界に広められていったのです。今私たちが日本でこうして教会に集い、礼拝を守り、キリストの福音を聞くことができているのも、聖霊のお働きによることです。私たちの教会の創立者であるヘボンが、開国したばかりの日本に、福音の種を蒔くために来たのも、聖霊が彼に働いてその志を与えて下さったことによるのです。彼は日本に来て、日本人との交わりの中でこつこつと日本語を学び、最初の和英、英和辞典を造りました。聖霊が降ったことによって突然日本語がしゃべれるようになったわけではありません。長い年月をかけてこつこつと努力して日本語を習得していったのです。しかしそのこともまた、聖霊の働きによることだったと言えます。聖霊によってヘボンも、キリストによる神の偉大な業を日本人に語る新しい言葉を与えられていったのです。

聖霊の力、勢い、迫力  
 その聖霊が、今私たちにも降り、与えられています。私たちがこうして教会に集い、神を礼拝し、キリストによる神の救いのみ業、福音を信じる信仰を与えられている、あるいはその信仰を求める思いを与えられているのは、聖霊が私たち一人一人に働いて下さっているからこそです。聖霊の働きは、洗礼を受けた人だけに与えられるのではありません。むしろ私たちは聖霊の働きによって教会の礼拝へと導かれ、主イエスを信じる信仰を聖霊によって与えられることによって洗礼への志を与えられるのです。そして私たちが洗礼を受けてキリストによる救いにあずかり、神の子とされて新しく生き始めることも、聖霊のお働きによって起ります。そして勿論洗礼を受けた後の信仰者としての生活も聖霊の導きの中にあります。私たちの人生は、信仰を得る前も、得た後も、その全てが聖霊の導きの下にあるのです。そのことに気づかせ、それを信じ受け入れて生きる者となることが信仰者となることであり、私たちをそのように導いて下さるのも聖霊なる神様なのです。聖霊はそのように大きな力で私たちの人生を導き、私たちを生まれ変わらせ、新しく生かすのです。そのような聖霊の力、勢い、迫力が、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っている家中に響いた」という天から響く轟音として、また「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」という目に見える具体的な現実として弟子たちに体験されたのです。同じ聖霊が私たちにも働いていて下さっているのですから、私たちも同じように聖霊の力、勢い、迫力を体験することができるはずです。ペンテコステを記念するのは、昔聖霊がこのように人々を新しくして下さった時があった、と懐かしむためではなくて、私たちにも同じことが起るためなのです。

酒に酔っている者との違い  
 しかしそこで気をつけなければならないことがあります。それは、聖霊の力、勢い、迫力によって新しくされ、新しい言葉を語って生きる信仰者の姿が、ともすれば、酒に酔ってたわ言を言っている酔っぱらいの姿と見分けがつかないところがある、ということです。ペンテコステの日にまさにそういうことが起りました。新しい言葉を与えられて神の偉大な業を語っていた弟子たちのことを、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って嘲る者たちもいたのです。聖霊に満たされた弟子たちの姿が、酔っぱらいに見えたのです。このことは世の人々の誤解としてすましてしまえることではありません。聖霊に満たされている信仰者と、酒に酔っている人の姿は似ているところがあるのです。だから私たちも、実は酒に酔っているだけなのに、聖霊に満たされていると勘違いしてしまうことがあります。何かに夢中になりのめり込むことを「酔う」と表現することがあります。私たちはそういう意味で何かに酔うことがあります。何かに酔っている時というのは、充実感があり、喜びがあり、エネルギーが漲るような感じがします。自分が新しくなったように感じられるのです。信仰においてそういう感覚になる時に私たちは、自分にも聖霊が降った、ペンテコステの出来事が自分にも起った、と感じます。しかしそこに働いているのは、聖霊の力、勢い、迫力ではなくて、人間の力、勢い、迫力であることもあるのです。それを聖霊によるものと勘違いしてしまう時に、私たちは大きな罪を犯すことになり、それによって悲惨なことが起ります。典型的なのはあのオウム真理教の事件でしょう。間違ったものに酔ってしまうと、無差別に人を殺すことが人々の救いのために必要なことに思えてしまうのです。ですから私たちは、聖霊の力、勢い、迫力を体験することを求めていく時に、よく気をつけなければなりません。それが本当に聖霊の力、勢い、迫力によることなのか、それとも人間の思いや力に過ぎないものに酔っているだけなのかを、醒めた目でしっかり吟味しなければならないのです。  
 ペトロの説教の最初の部分、本日読まれた21節までの箇所に語られているのはそのことです。彼がここで語っているのは、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲る人々に対して、私たちは決して酒に酔ってたわ言を言っているのではない、これは神の霊、聖霊の働きによることなのだ、ということです。つまり、酒に酔っている人の姿と、聖霊に満たされている者の姿との違いを彼は語っているのです。私たちが、何かに酔っぱらってしまっているのか、聖霊の力と勢いと迫力を受けているのかを醒めた目で見極めるために必要なことがここに語られているのです。

ヨエルの預言によって  
 ペトロがここで語っているのは、今私たちに起っていることは、預言者ヨエルの預言の成就なのだ、ということです。17節以下に引用されているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、ヨエル書第3章です。この預言が今実現したのだと言っているのです。ペトロが言っているのは、今起っていることは旧約聖書に預言されていたことの実現だから、それは聖霊の働きによる神のみ業であることが分かる、ということではありません。むしろ彼はヨエル書の言葉によって、ペンテコステの出来事の意味を明らかにしようとしているのです。その意味が見えてくることによって、この出来事が確かに聖霊の働きによることであることが分かってくるのです。ペトロはヨエルの預言によってペンテコステの出来事をどのように捉えているのでしょうか。

終わりの日に  
 17節には先ず「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とあります。ヨエル書の方では「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」となっています。「その後」というのは「終わりの時に」と同じことです。つまりヨエルは、この世の終わりを見つめているのです。この世の終わりというと私たちは、恐ろしい出来事が起って世界が滅びる、いわゆる破局を想像します。確かに19節には「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ」とあり、20節にも「太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる」とあって、この世の終わりの世界の滅亡が語られているように感じられます。しかし次の21節には「主の御名を呼び求める者は皆、救われる」とあります。預言者ヨエルが世の終わりにおいて見つめているのは、主なる神のご支配があらわになり、主の御名を呼び求める者が皆救われること、つまり主による救いの完成なのです。主の霊、聖霊が注がれることは、この主なる神のご支配による救いの完成にあずかることの印なのです。ヨエルの預言は、ペンテコステの出来事が、世の終わりに実現する主のご支配による救いの完成と、主のみ名を呼び求める者に約束されている救いを、今この世において前もって体験することであると教えているのです。弟子たちは聖霊の力、勢い、迫力によってそういう体験を与えられたのです。私たちが聖霊の力、勢い、迫力を体験するというのも、単に私たちの気持ちが高揚し、充実感や喜びを感じ、力が漲るように思うことではなくて、主なる神のご支配があらわになり、主の御名を呼び求める者が救われるという救いの約束が世の終わりに完成することを私たちが信じて、その救いの恵みを前もって体験しつつ、希望をもって生きる者となる、ということなのです。

すべての人に  
 しかも主の霊は「すべての人に」注がれるとヨエル書は語っています。主のご支配による救いの完成を前もって体験することができるのは特定の人だけではありません。誰かある指導者だけが救いを体験していて、その他の人々はその指導者の言うことに従うだけ、というのではないのです。聖霊は弟子たち一人一人に与えられ、一人一人に神の偉大な救いの業を語る新しい言葉が与えられました。そして彼らが語った言葉を信じた人々にも聖霊が注がれ、彼らも新しい言葉を語っていきました。そのようにして次から次へと新たな人が聖霊を受け、主イエス・キリストの教会が世界中に広がっていったのです。ペンテコステの出来事はその始まりでした。世の終わりの主のご支配による救いの完成が聖霊の働きによって始まり、今もなおすべての人々へと広がりつつあるのです。

ほかの言葉で語る  
 ヨエル書はさらに、主の霊が注がれることによって人々が「預言する」ようになると語っています。人々が預言するようになることが、世の終わりの救いの完成の先取りの一つの印なのです。「預言する」というのは、これから起ることを前もって言い当てることではありません。神の言葉を預かり、それを語ることが預言です。つまり預言は自分の言葉、自分の思いや考えを語るのではなくて、神の言葉を語るのです。聖霊が与えられることによって、それまで語っていた人間の言葉とは違う、ほかの言葉、新しい言葉、神の言葉を語り始めるのです。まさにそのことが、ペンテコステの日に弟子たちに起ったのです。彼らが聖霊によって与えられた新しい言葉は、自分の思いや考えを語る言葉ではなくて、神の偉大な業、つまり主イエスによる救いの恵みを語る言葉でした。彼らは、罪人である人間を独り子の命を与えて下さるほどに愛し、救って下さる神の恵みのみ心を語る言葉を与えられ、預言する者となったのです。

違いや個性を生かす新しい言葉  
 しかも、彼らが与えられた新しい言葉は、様々な地域から集まっていた人々それぞれの故郷の言葉で語られました。様々な異なった言葉で生きている人々がそれぞれ、自分たちの使っている言葉で、主イエスによる神の偉大な救いのみ業を聞くことができたのです。聖霊に満たされた人々が預言するようになり、神の言葉を語るようになった、その預言は、それを聞く人々のそれぞれが語っている様々な違う言葉によってなされたのです。つまり弟子たちは、私の語っているこの言葉が神の言葉だから、みんなこの言葉をしっかり聞き、理解できるように勉びなさい、そうすれば救いにあずかることができる、と言ったのではなくて、彼ら自身が言葉を変えられ、新しい言葉、聞く人々が分かる、様々な異なる言葉で語っていったのです。それは弟子たちの心構えや配慮ではなくて、それこそが聖霊の働きなのです。聖霊に満たされる時、私たちは新しい言葉を与えられ、神の言葉を語る者、預言する者となります。その時私たちは、自分の言葉に合わせて人を造り変えるのではなく、むしろ自分が変えられて、人々の様々な違いや個性に寄り添う新しい言葉を与えられるのです。聖霊に満たされる時、私たち一人一人の個性、それぞれの違いは生かされ、大切にされるのです。ヨエル書が、主の霊を注がれて預言するようになる時、「若者は幻を見、老人は夢を見る」と言っているのはそういうことではないでしょうか。聖霊は若者に幻を与える、それはこれから人生を、また社会を築いていくために必要なビジョン、目指すべき目標を与え、希望を与えるということでしょう。同じ聖霊が老人には夢を与える、それは平安の内に、主の恵み、これまでの導きを振返って感謝し、安らかに主と共に歩むことを意味しているのでしょう。聖霊は、若者には若者に必要な、老人には老人に必要な恵みを与え、それぞれの個性や違いを生かす新しい言葉を与えて下さるのです。そのように様々な個性や違いを生かす新しい言葉が語られ、しかもそれらが皆共通して、主イエス・キリストによる神の偉大な救いのみ業を語っており、様々な異なる言葉で主のみ名が呼び求められ、皆が同じ救いにあずかる、それが聖霊に満たされた教会の姿です。聖霊が力をもって、勢いをもって、迫力をもって働いて下さる時、私たちはそのように、それぞれが生き生きと、個性豊かに、またそれぞれに必要な言葉を与えられつつ、共に主のみ名を呼び求める一つの群れとして歩むことができるのです。

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