主日礼拝

母には子が、子には母が

「母には子が、子には母が」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第49章14-21節 
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第19章25-27節
・ 讃美歌: 310、361、392

受難週
本日は「棕櫚の主日」と呼ばれている日であり、今週は、主 イエス・キリストの十字架の苦しみと死とを記念する受難週で す。そして来週の日曜日は、主の復活を喜び祝うイースター、 復活祭となります。主イエス・キリストはこの日曜日にエルサレム に入り、その週の金曜日に十字架につけられて殺され、そして 三日目の日曜日に復活なさったのです。その主イエスの歩みを 覚えつつ私たちは今週を過したいと思います。そのために、早朝 祈祷会が毎朝行われます。また受難週祈祷会が水、木、金に行わ れます。木曜と金曜は聖餐にあずかります。これらの祈祷会にど うぞ参加して下さい。

女性たちと「愛する弟子」
さて今年は、この受難週とイースターの主の日に、ヨハネによ る福音書を読むことによって主イエスの十字架の死と復活の出 来事を覚えていきたいと思います。ヨハネによる福音書は、他の 三つの福音書とはかなり違う仕方で主イエスのご生涯を語って います。ヨハネ福音書は象徴的な意味を持った物語の連なり です。主イエスの十字架の場面もそういう物語として語られて います。そのため他の福音書とは違うことが幾つもあり、本日の 箇所、19章25?27節も、他の福音書にはない話です。ここ には、十字架につけられている主イエスの下に、主イエスの母を 始めとする何人かの女性たちがいたことが語られています。他の 福音書には、女性たちが遠くから主イエスの十字架を見ていた ことが語られていますが、ヨハネは十字架の真下に女性たちが いたと語っており、しかもその中には主イエスの母がいたので す。それも、他の福音書にはないことです。そしてもう一つの特 徴は、「愛する弟子」と呼ばれている人がこの女性たちと共にい ることです。他の福音書では、弟子たちは皆逃げ去ってしまって 十字架の場面には一人も登場しませんが、ヨハネはこの「愛する 弟子」が主イエスの十字架の下にいたことを語っているのです。 「愛する弟子」と呼ばれているこの人は、いわゆる最後の晩餐 の場面から登場しています。13章23節に、「イエスのすぐ隣に は、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に 着いていた」とあります。十二人の弟子たちの中に、主イエスが 特に愛しておられた弟子がいたことはヨハネ福音書のみが語って おり、この弟子のみが主イエスの十字架の傍らにいたのです。こ の「愛する弟子」こそ、この福音書を書いた人であると言われ ています。この福音書の最後の21章の24節には「これらのこ とについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」とあ ります。その前の所を読めば、「この弟子」というのは「イエス の愛しておられた弟子」であることが分かります。そして伝説に よればそれはゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟の中のヨハネで あると言われています。それゆえにこの福音書は「ヨハネによる福 音書」と呼ばれているのです。主イエスの十字架の下に、この福 音書の著者である、主イエスの愛しておられた弟子と、主イエス の母を始めとする何人かの女性たちがいたのです。

主イエスの遺言?
そしてここには、十字架に着けられている主イエスが、その苦 しみの中で、母と愛する弟子とに語りかけたことが語られてい ます。26、27節です。「イエスは、母とそのそばにいる愛する 弟子とを見て、母に『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』 と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母 です』」。このようにご自分の母と愛する弟子とに、主イエスは最 後の言葉をかけたのです。そしてその主イエスのお言葉によって、 「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」 とあります。そこから、主イエスがここで語られた言葉の意味が 見えてきます。主イエスは母に対しては「私の愛しているこの弟 子は今からあなたの子です」とおっしゃり、愛する弟子に対して は「私の母は今からあなたの母です」とおっしゃったのです。

十字架の死に臨む苦しみの中で主イエスがお語りになったこ のお言葉は、表面的に見れば、死に臨んで、残していく母に、 これからは私の愛するこの弟子を息子と思って頼りなさいと言 い、愛する弟子にご自分の母を託して、面倒を見てくれるよう に頼んだ、ということとして読めます。主イエスは死に臨んでも 母のことをそのように心配し、その老後を考えてこのような遺 言を残した、という話のように思われるのです。そしてそのよう に読むなら、ヨハネがこれを語っているのは、自分こそ主イエス に指名され、母親の面倒を見るように頼まれた後継者なのだ、 自分には他の弟子たちよりも大きな権威が主イエスによって与 えられているのだ、と主張するためではないか、という捉え方も 生まれます。つまり弟子たちの間に、主イエスの後継者争いがあ り、ヨハネはその主導権を握ろうとしてこれを書いたのではない か、という勘ぐりが生じるのです。しかしこの話をそのように読 むのは間違いです。ヨハネがこの話によって語ろうとしているのは、 誰が主イエスの後継者か、などということではありません。彼は象 徴的な意味を込めてこの話を語っているのです。ヨハネは何を 語ろうとしているのか、それを考えていきたいと思います。

イエスの母
先程も申しましたように、十字架の場面に主イエスの母が登 場しているのはヨハネ福音書のみです。私たちはマタイとルカ福 音書から、主イエスの母の名はマリアだったことを知っています。 しかしヨハネ福音書はその名前を全く語っていません。イエス の母、とだけ言っているのです。そしてこの福音書にこの母が登 場する箇所がもう一つあります。それは主イエスの誕生の場面 ではありません。そもそもヨハネは主イエスの誕生の出来事を語 っていないのです。イエスの母が登場するのは2章の始めの所 にある、いわゆる「カナの婚礼」の話です。ある婚礼の祝宴に 主イエスと母とが共に招かれ出席していた時、ぶどう酒がなく なってしまったのです。母が主イエスに「ぶどう酒がなくなりまし た」と言うと、主イエスは母に「婦人よ、わたしとどんなかかわ りがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言ったと2 章4節にあります。主イエスは母に、「お母さん」ではなくて、「婦人よ」と語りかけています。本日の箇所においてもそうです。 母に対して「婦人よ」と語りかけるのはおかしなことです。さら に2章4節の「わたしとどんなかかわりがあるのです」というお言 葉は、この訳だと、ぶどう酒がなくなったとしても私とかかわり のないことだ、という感じがしますが、そうではありません。ここ は以前の口語訳聖書では「あなたは、わたしと、なんの係わりが ありますか」となっていました。こちらの方が原文に忠実な訳で す。つまり主イエスは母に対して「あなたと私は関係がない」 とおっしゃったのです。「婦人よ」という呼びかけも含めて、母親 に対して何ということを言うのか、と顰蹙を買うような話で すが、まさにそれが、ヨハネ福音書特有の象徴的な話なのです。 母に対する主イエスのこのような言葉には何が象徴されている のでしょうか。

主イエスの時
それを考えるヒントは、2章4節の「わたしの時はまだ来てい ません」というお言葉にあります。主イエスの時はまだ来ていな い、だから主イエスと母との間に母と子という関係はまだ成 り立っていないのです。しかし主イエスの時が来たなら、その事 態は変わり、母と子の関係が成立するのです。その「わたしの 時」「主イエスの時」とは、主イエスの十字架の死の時です。こ の福音書の13章1節には、いよいよこれから十字架の死に向 かおうとしていた主イエスが、「ご自分の時が来た」と意識して おられたことが語られています。十字架につけられ、死のうとして いる本日の箇所においては、まさにその「わたしの時」が来てい るのです。つまり本日の箇所における母に対する言葉は、2章4 節の言葉と対応しています。あの時はまだ時が来ていなかった から、母と子の関係が成立していなかったが、主イエスが十字架 にかけられて死のうとしている今は、その時が来たので、母と子 の関係が結ばれるのです。それは勿論象徴的なことです。この母 と子の関係は何を象徴しているのでしょうか。
ここで結ばれる母と子の関係は、母マリアと主イエスの間 のことではありません。母と子の関係が結ばれるのは、主イエス の母と主イエスの愛する弟子との間においてです。主イエスの 母は、この時から、主イエスの愛する弟子という子を与えられ、 主イエスの愛する弟子は、この時から、主イエスの母を自分の 母として与えられたのです。主イエスの十字架の死においてそう いうことが実現した、とヨハネは語っているのです。

愛する弟子とは
主イエスの愛する弟子はヨハネである、という言い伝えはか なり早くからありました。しかしこの福音書はそのことを全く 語っていません。イエスの母の名前が語られていないのと同じ ように、主イエスの愛する弟子の名前も語られてはいないので す。つまりこの愛する弟子も象徴的な意味を持っているのであ って、主イエスがヨハネだけを特別に愛していたということでは ないのです。主イエスは弟子たち一人一人を愛しておられたので あり、その弟子たちの信仰を受け継いで主イエスを信じ、従って いる私たち信仰者一人一人をも同じように愛して下さっていま す。主イエスを信じてその救いにあずかる信仰者とは、主イエス に愛されている者です。私たちは主イエスの愛によって導かれ て信仰を与えられ、自分も主イエスを愛し、従っていくという信 仰を告白して洗礼を受け、教会に加えられるのです。主イエスを 信じて生きる、信仰者として生きるとは、自分が主イエスによって 愛されていることを信じ、その愛を受け入れ、自分も主イエス を愛して生きていくことです。著者ヨハネは、自分が主イエスに 愛されたことを深い感謝をもって意識しつつこの福音書を書い ています。他の弟子たちに比べて自分の方が、という自己主張を しているのではないし、先程申しましたように主イエスの後継者争 いをしようとしているのでもありません。彼が自分のことを「イエ スの愛しておられた弟子」と言っているのは、主イエスがこの私を 深く愛して下さったし、私も主イエスを深く愛している、とい うことを語るためです。そこには、他の人と自分を比べてどうこ うという思いはありません。ヨハネによる福音書に、他の弟子と の主導権争いのようなことを読み込んではいけないのです。その ような読み方をすると、この福音書が本当に語ろうとしている ことが分からなくなります。この福音書が本当に分かるとは、読 んでいる私たちが、自分もこの人と同じように主イエスに愛さ れている弟子だ、ということが分かることなのです。

イエスの母とは
つまり、主イエスの愛しておられたこの弟子は私たち信仰者のこと を象徴的に現しています。ですからこの話は、主イエスの十字架の苦 しみと死とによって、信仰者である私たちに母が与えられた、という ことを語っているのです。その母とは、マリアではありません。愛す る弟子と同じようにイエスの母も、具体的な名前は語られておらず、 象徴的な意味を持っているのです。この母は教会のことを象徴してい ると言われます。「母なる教会」という言い方が古来なされてきまし た。教会は、私たち信仰者の母なのです。その教会というのは勿論建 物ではありません。また単なる信仰者の共同体でもありません。教会 は、人間が集まって造る団体や結社ではなくて、神が築いて下さるキ リストの体です。主イエス・キリストが頭(かしら)であり、そのキ リストの救いにあずかる者たちが頭であるキリストに結び合わされ、 キリストに繋がる者とされることによってお互いどうしも繋がり合 って共に生きている群れです。この福音書の15章はそのことを、ま ことのぶどうの木である主イエスに枝である私たちが繋がっている、 というイメージで語っています。ぶどうの枝である私たちは独りでは 生きることができず、実を結ぶこともできません。それは人間どうし の交わりが必要だということではありません。枝だけがいくら集ま って交わりを持ってもぶどうの木になることはできないのです。地面 にしっかりと根を下ろしている幹に繋がっていることによって、個 々の枝に命が与えられ、そして枝どうしの交わりも与えられて行くの です。生まれつきの私たちは、その幹との繋がりを失っており、命の 源から離れてしまっています。つまりもともと繋がっているはずのぶ どうの木から離れた枝になってしまっているのです。私たちが罪人で あるとはそういうことです。神によって造られ、命を与えられ、神と 繋がっていることによって生かされていたはずの私たちが、神を神と して信じ礼拝し従おうとしない罪によって、自ら神のもとを離れ、神 と繋がりのない、遠く離れた者となり、命の源から切り離されて、干 涸びた枯れ枝のようになってしまっているのです。

母なる教会
しかし神は独り子イエス・キリストをその私たちのためにこ の世に遣わして下さって、主イエスが私たちの罪を全て背負 って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪 を完全に償って下さいました。そのキリストによる救いへと神 は私たちを招いて下さっているのです。主イエスの十字架の死 を特に覚えるこの受難週の礼拝に今集っている私たちは、十字 架につけられたキリストのもとへと招かれています。キリストの 十字架のもとで、私たちは罪を赦され、神との繋がりを回復され て、神の子として新しく生まれ変わって生き始めるのです。そ れが洗礼を受けるということです。洗礼によって私たちは神の 子として新しく生まれるのです。その新しい誕生が起る場が 母なる教会です。私たちは教会の礼拝において主イエス・キリ ストと出会い、キリストの救いがこの自分に与えられていること、 自分がキリストによって愛されていることを知らされ、その愛を 受け止めて洗礼を受け、自分もキリストを愛する者として新 しく生き始めるのです。洗礼を受けて新しく生まれた私たちは、 母なる教会の懐の中で、み言葉によって父なる神の愛をより 深く知らされ、それによって養われ、育てられていきます。母な る教会が私たちを、父なる神の子として生み出し、育てていって くれるのです。主イエスの十字架の苦しみと死とによって、私た ちを新しく生まれさせ、神の子として養い育む母なる教会が 与えられた。ヨハネはその恵みをこのような象徴的な物語を通 して語っているのです。

神の子とされる
愛する弟子に与えられたこの母が「主イエスの母」であること にも意味があります。主イエスに愛され、救いにあずかる信仰者は、 主イエスの母を母として与えられ、その子とされるのです。とい うことは、主イエスの兄弟姉妹とされるのです。母なる教会におい て新しく生まれた私たちは、主イエスの兄弟姉妹です。主イエス は父なる神の独り子ですから、神を父と呼ぶことができるの は本来は主イエスお一人です。しかし私たちは、教会において洗 礼を受け、キリストと結び合わされることによって、主イエスの 兄弟姉妹となり、私たちも神を父と呼ぶことを許されるのです。 だから私たちも、「天におられる父なる神様」と祈ることができま す。キリストと結び合わされて神の子とされ、神を天の父と呼 んで祈ることができる者とされる、それもまた、母なる教会にお いて与えられる恵みです。私たちは、教会という母のもとで生ま れ、養われ、育てられていくことによってこそ、自分を本当に愛 し、守り、導いて下さる父である神の子として生きていくこと ができるのです。

母なる教会の懐の中で
主イエスが十字架の上で語られた、「婦人よ、御覧なさい。あなた の子です」「見なさい、あなたの母です」というお言葉は、主イエス の十字架の死によって私たちに与えられたこのような大いなる救いの 恵みを象徴しています。私たちは今日から始まる受難週を、この恵み をかみしめつつ歩みたいのです。主イエスの十字架の苦しみと死とを 覚えて歩む受難週は、自分の罪を深く見つめ、そのために主イエスが 苦しみと死とを背負って下さったことを覚える時です。だから受難週 には身を慎んで、罪を悔い改めつつ、神妙にしていなければならな い。そのために早朝祈祷会や受難週祈祷会があり、そういう集会に参 加するという苦しみを負うことで、身を慎んで神妙にしている姿勢を 神様に示すのだ、という感覚を持つことがあります。しかし本日のこ のみ言葉をかみしめつつ受難週を歩む私たちには、それとは違う歩み が与えられるのではないでしょうか。私たちのために十字架にかか って死んで下さった主イエス・キリストが、私たちにまことの母を与 えて下さったのです。私たちを神の子として新しく生まれさせ、神の 恵みによって、具体的にはみ言葉と聖餐によって養い育ててくれる母 なる教会です。私たちは主イエス・キリストの愛によってこの母なる 教会へと導かれ、洗礼を受けてキリストと結び合わされることによ って、キリストと共に神を天の父と呼んで祈ることができる神の子と されます。受難週はその主イエスの恵みを深く味わい、確かめつつ歩 む時なのです。そのために毎朝の祈祷会が、また受難週祈祷会が行な われ、木曜と金曜には聖餐が祝われるのです。母なる教会の懐の内に 養われ育まれている恵みと喜びとを体験するために、これらの集会 が、そして聖餐の食卓が備えられているのです。受難週はこの恵みを 豊かに受けるための時なのであって、私たちが神妙に反省するための 時ではありません。一年に一週間だけ、猿回しの猿のように「反省」 のポーズを取ったって意味はありませんし、たとえ私たちが自分の罪 を心から真剣に反省したとしても、私たちの反省によって罪の問題が 解決するわけではありません。私たちの罪は、私たちが反省すること でどうにかなるようなものではないからこそ、神の独り子である主イ エスが十字架にかかって死んで下さったのです。ですから私たちは、 主イエスの十字架の苦しみと死とによってこそ与えられた罪の赦し、 その救いの恵みをこそ見つめ、感謝してその救いにあずかり、母なる 教会に抱かれている神の子として、み言葉を聞き、祈ることを、また 聖餐による養いを受けることを大切にし、そのために時間をささげつ つこの受難週を歩みたいのです。そのようにして、来週のイースタ ーを、心からの喜びをもって迎えたいのです。

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