夕礼拝

愛するあなたへ

「愛するあなたへ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第34編9-15節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙三 第1章1-15節  
・ 讃美歌:11、507、77

「愛するガイオへ。」と書かれている、この手紙は、いまわたしたちに渡されています。長老ヨハネが、ガイオという一人に宛てた手紙ですが、いまわたしたちに、宛名をかえて渡されています。神様が今「愛するあなたへ」と宛名をかえて、いまわたしたちにこの手紙が渡されました。ですから、この手紙を神様からのわたしたち一人一人への、個人的な手紙として読んでいきたいと思います。神様は、今日わたしたち、直接伝えたいことがおありになっています。それは、一つは、あなたがたが「受け入れるもの」となって、福音の伝道のために生きて欲しいということ。そして2つ目は、あなたがたは「受け入れることのできないもの」になってはならないということ。そして最後に、神様がわたしたちに直接あって、「親しく話し合いたい」と思ってくださっているということです。 このヨハネの手紙三は、長老ヨハネからガイオという人に宛てられた個人的な手紙です。ヨハネの手紙二は、「選ばれた婦人」と「その子どもたち」と書いて、ある特定の教会に手紙をおくっていましたが、ヨハネの第三の手紙は複数の人が目を通すような手紙ではなく、完全にガイオだけに読んで欲しいという手紙でした。このガイオという人がどこの人だったのかはよく分かりっておりません。新約聖書には、ここに出てくるガイオの他に、3人のガイオが出てきますが、ガイオというのは当時の多く使われる名前の一つですから、それらが同じ人とは言えません。おそらく違うとでしょう。この手紙のガイオは、おそらく長老ヨハネから信仰の指導を受けた人であり、ヨハネが責任を持っていた教会の一つを任されていた人ではないかと思います。このガイオを、長老ヨハネがどれほど愛し信頼していたかは、1節、3~4節を見れば分かります。「長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。」「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。」  ここで「真理に歩んでいる」と繰り返されておりますが、これはガイオが主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストと共に生き、主イエス・キリストに生かされている者として、ふさわしい歩みをしているということでしょう。それは具体的にはどういうことであったかと申しますと、巡回伝道者と呼ばれていた人を、ガイオはいつも喜んで迎え、受け入れて、これを丁寧にもてなし、愛の業に励んでいたということなのです。  当時のキリスト教会は、まだ教会としての制度が整っておりませんでした。おそらく、それぞれの教会には、その教会の群れを指導する人が立てられていたと思います。ガイオもそのような役割を担っていたのです。しかし、当時の生まれたばかりのキリストの教会には、巡回伝道者と呼ばれている人が、各教会を巡り、主の日の礼拝で説教をしたり、集会を開いたりしていたようなのです。巡回伝道者とは、集会から集会へと旅をし、神様の言葉であるイエス様を述べ伝える人であり、また非キリスト教徒のために、集会を開きイエス様のことを伝え、証しすることが任務でありました。それが7節に書いてあり「キリストの御名のために旅に出た人」という言葉で表現されています。キリストの御名を宣べ伝えるため、それはキリストご自身を伝えるためということです。ですから、その巡回伝道者を迎えて泊めたり、食事の世話をしたりすることが、教会に責任を持つ人のとても大切な務めだったのです。ガイオは、その務めをとても良く果たしていたようなのです。3節の「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。」というのは、巡回伝道者のような人が「ガイオの所で大変世話になった」という報告を長老ヨハネにし、それをヨハネも大変喜んでいるということなのです。そして、5節の「よそから来た人たち」というのは、巡回伝道者を指していわれています。  ヨハネは、8節で「だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。」と告げます。ガイオ自身は伝道のために、巡回伝道者のように外に出掛けることはしません。しかし、巡回伝道者を助け支えるというあり方で、主の福音伝道のために共に働く者となっています。神様に選ばれ立てられた者を支えるというあり方で、神様の御業に仕えていた。わたしたちも、そのような者として召されているのだと思います。伝道者を受け入れること、これは、わたしたち一人一人にも当てはまります。ここを読むときに、わたしたちはガイオのように、伝道するものを受け入れることが大事であるということを、この聖書箇所から読み取ることができます。今の教会にあてはめると、牧師や伝道師を、支えることが大事であると、連想してこの箇所を受け止めると思います。ですが、時にわたしたちは、伝道のことは特別にたてられた伝道者に任せておいていいのだという心になるときがあります。わたしたちは、支える側で、伝道には参加できないと、伝道することと、それを支えることを二つにわけてしまうことがあります。しかし、それらは、実際、二つにわけることのできないものです。わたしたち一人一人が「キリストの御名のために旅をしている者」です。だからといって、すべての信仰者が、外にでて色々な集会を開いて、そこで説教をしなければならないということではありません。わたしたちは、福音伝道を担う一人として、伝道の旅に出ている一人です。その旅のメンバー全員が、説教しか語ることができないのならば、その旅団は旅を続けることができなくなるでしょう。旅団の中には、食事の準備をするもの、旅の行き先を見据えて計画を立てるもの、荷物を運ぶもの、疲れているものに配慮するもの、祈るものなど、様々な人が必要となります。そのようなすべての働きによって、福音伝道が進んでいくのです。ガイオは、この巡回伝道者を暖かく迎え入れるということで、福音伝道に寄与していたのです。 神様は、わたしたちのために、たくさんの伝道者をこれまでに備えてくださいました。そして今も備えてくださっています。そして、そのものたちから、神様の御言葉との出会いを与えられました。しかし今度は、わたしたち自身が、愛する者たちのために、伝道するものして働くことも求められているということを、忘れてはならないのです。 わたしたちは、いままで、たくさんの御言葉と恵みを、かつて伝道していた方たちと、今伝道している方たちを通して、神様から頂いてきました。そのわたしたちに対して、神様は、「今度は宣べ伝えるものとなって、共に伝道の旅に出よう、共に働こう」とこの手紙を通して、誘ってくださっています。それがこの手紙で、神様がわたしたちに個人的に伝えたいことの一つであります。 2つ目の神様がわたしたちにこの手紙を通して伝えたいことは、ガイオという人の特徴と、ディオトレフェスという人の特徴からわかります。ガイオの特徴は、「よく受け入れるもの」であったということです。彼は、巡回伝道者を受け入れていました。彼はまた、兄弟姉妹を受け入れるものであったことが五節にかかれています。五節「愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。」とあるとおりです。ガイオは、受け入れることができる人でありました。この手紙の五節から八節で、長老ヨハネは、そのガイオの特徴を書いておりますし、そのガイオの働きに感謝し、喜んでいることが書かれています。続く九節と一〇節でディオトレフェスという人のことが、批判的に書かれています。 ディオトレフェスという人は、ガイオと同じ教会に属しており、またガイオと同様に指導的な立場にいたものであったと考えられています。しかし、九節に「指導者になりたがっている」ということが書かれているように、指導するようなことをしていたが、実際、教会では、指導者とは認められていない人であったことがわかります。そのディオトレフェスという人の特徴は、ガイオとは対照的に「受け入れないもの」であったということです。 9節に「わたしたちを受け入れません」とあるように、ディオトレフェスは長老ヨハネたちを受け入れておりませんでした。それは、ヨハネがガイオや、ディオトレフェスが所属する教会にお願いの手紙を書いたが、その言葉を受け入れなかったということが、9節冒頭に書かれています。その注意の内容はというと、5~7節に登場した巡回伝道者をそちらの教会で受け入れて欲しいということだと考えられております。ですから11節で登場するデメトリオという、巡回伝道者を、再度長老ヨハネは紹介して、受け入れ欲しいと書いております。ディオトレフェスは、当時、地域の複数の教会を指導する長老の願いと言葉を、拒否しました。彼が拒否し受け入れなかったのは、ヨハネの言葉だけでなく、実際にやって来た巡回伝道者を拒絶しておりました。10節の後ろから二行目のところで、「兄弟たちを受け入れず」と書かれているのが、その巡回伝道者のことです。彼は、巡回伝道者のみならず、巡回伝道者を受け入れようとする教会の人たちの働きを邪魔し、教会から追い出していたようです。彼か、教会の外の兄弟姉妹だけでなく、教会の内にいる兄弟姉妹をも受け入れることができませんでした。なぜ彼が、そのように受け入れることができなくなっているのか。その一つの理由は、9節の「指導者になりたがっている」ということにあります。彼は、指導者になりたいけれども、それをゆるしてもらっていない。そのように自分を認めてくれていない、長老ヨハネを妬み、ヨハネを受け入れませんでした。では、彼を指導者にすれば、解決するじゃないかと、考える人もおられると思います。しかし、それはだめなのです。実は彼は指導者になれないから、他の人を受け入れることができないのではないのです。本当の問題は、彼が指導者になっていない、自分を受け入れることができていないことです。その問題の根っこには、さらなる問題があります。それは「神様を受け入れようとしていない」ということです。彼は、今の自分の立場に不満がありました。自分は人の上に立ちたい、指導するのはわたしであるのにと、心が不満でいっぱいになっています。そのような、指導者じゃない自分を受け入れることができない、理由には、神様の選びを見失っているからだと言えると思います。わたしたちも、そうですが、今自分が立っている場所や仕事というのが、どなたから与えられたものなのかを見失っていることがあります。その立場や仕事を与えてくださるのは神様です。自分がその仕事をしている時に、うまくいっている時はいいのですが、うまくいかなくなると突然仕事に対して不満を持ったり、なんで自分はこんな仕事をしているのだろうかと意味が、見出さえなくなったりすることが起こります。その時、わたしたちはその立場や仕事を与えてくださった神様のことを忘れています。この立場や仕事をする意味はわからないけれども、神様が、わたしがその立場や仕事につくことを選んで下さったのだ。神様が仕事をする意味を知っていて下さるということが見えていれば、わたしたちは自分の立場や仕事を不満に思うことありません。それは、全部神様が決めてくださっているということを思い込んで、我慢しているだけなのでは、考える方がおられると思いますが、そうではないのです。神様が仕事や立場を選んでいてくださっているということが、神様がしかるべきときに、仕事を変えて下さる、立場を変えて下さるということにも、ゆだねられるからです。ディオトレフェスは、指導者になりたがっていました。その彼が、神様のことを見えていれば、「わたしは指導者なりたい。神様がしかるべきときにわたしを指導者にして下さる時を待ち望みます。ですが、すべてはあなたの計画に沿っておこなってください。もしわたしが指導者になれなくても、あなたが選んで下さった道であれば喜んで進みます」という祈りと、考えになっていたはずです。彼はそうはなっていなかった。神様に祈ったり、神様のことを思ったりするのではなく、彼はヨハネに「悪意に満ちた言葉でそしり」、そして、兄弟姉妹を教会から追い出すということをしてしまっていたのです。その彼の状態を、ヨハネは11節で、「神を見たことのない人です」と一言で、表現しています。彼は、神様を見たことがないと言われています。わたしたちも時に、ディオトレフェスのようになってしまうことがあります。神様のことを知っているのに、時に神様を忘れてしまって、見失ってしまって、自分のことばかり見てしまうことがあります。そのような時は、善い時はいいのですが、悪い時、わたしたちは隣人もそして、自分も受け入れることができなくなってくるのです。すべてにおいて受け入れることができなくなっていると、その心の苦しさから、隣の人を傷つけたり、追い出したり、自分を傷つけたりします。神様は、今日のわたしたちに、11節にあるように「愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。」とこの手紙を通して、願っておられます。悪いこととは、神様を見失うことです。そして、善いこととは、ガイオがしていたように、神様を見つめ、神様を受け入れ、兄弟姉妹を見つめ、兄弟姉妹を受け入れることです。神様は、わたしを見つめて欲しいと願っておられます。わたしたちは自分のことを、受け入れることができなりますが、神様は、わたしたちのことを誰よりも受け入れてくださっています。すべての人が自分を認めていなくても、すべての人が自分見捨てたとしても、神様はわたしたちを「愛するあなた」と呼んで、認め、受け入れてくださっています。その愛は、自分の子である、イエス様を十字架に欠け、血を流させて、犠牲とするほどです。そうまでして、わたしたちを受け入れ、愛してくださったのです。その愛を見つめて欲しいと神様は願っておられます。これが、この手紙の二つ目の神様の伝えたいことです。 3つ目は、この手紙の最後の部分の13節から15節の部分に書かれています。神様が、今日最後にわたしたちに伝えたいことは、神様がわたしたちと「親しく話し合いたい」と思われているということです。これは、先週ともに読みました、ヨハネの手紙二の最後の部分と同じです。わたしたちが神様と親しく話し合う場所は、この礼拝であると先週申し上げました。手紙では、送り手側には、読み手の反応がわからないということがあるけれども、会って話すことができれば、その語り手は聞き手の反応見ることができ、共に悲しむこともできれば、共に喜ぶことができます。そのように神様は、わたしたちと共に悲しみ、共に喜びたいと願っておられます。そのために、この礼拝が用意されました。説教で神様が今わたしたちに伝えたいことを、語ってくださり、わたしたちが、感謝し讃美、祈りをもって応答していく。その話しあい、語り合いの場がこの礼拝です。今日の礼拝には聖餐式があります。 そこに神様がわたしたちに対して示してくださっている「親しさ」が表れています。礼拝において、神様は食卓の席を用意してくだっている、それが、聖餐です。その食卓にわたしたちは招かれて、神様と親しく食事をさせていただきます。パンを食べ、わたしたちは神様に常に体と魂とを養われていることを知らされます。また、イエス様がわたしたちの救いのために、十字架上で自らの肉を神様との和解の献げ物としてくださった、その尊き御業を思い出しながら、パンを頂きます。また、わたしたちはその聖餐の食卓の席で、ぶどう酒、ぶどう液にあずかりながら、今もなお渇いている自分の魂を潤してくだっていることを感謝することができます。またわたしたちはぶどう酒、ぶどう液にあずかりながら、イエス様がわたしたちのために十字架上で血を流され、神様とわたしたちの間に新しい契約を打ち立ててくださり、わたしたちが死で終わることなく、復活し永遠の生命にあずかるものとしてくださった喜びを噛みしめることができます。 この食卓には、喜びが満ち溢れています。神様がこの食卓の席で、わたしたちのことをどれほど愛してくださっているかを言葉で語ってくださり、またパンとぶどう酒を通しても教えて下さる。わたしたちはそのことに感謝して、目の前におられる神様に祈り、讃美の歌を歌います。このような親しい交わり、親しい語り合いが行われているのがこの礼拝です。そして神様はわたしたちとこのように親しく交わり、親しい語り合うことを望まれておられます。わたしたちは今日のここに神様に招かれて来ています。そして、今、神様は「あなたは、兄弟姉妹を受け入れるものとなり、共に伝道の旅に出ようと」と誘ってくださっています。そして、わたしたちが、「神様を見たことのない人」のようになり、神様も、兄弟姉妹も、自分をも、受け入れることができなくなることがあるが、自分が神様に「愛され、赦され、受け入れられた」ということを思い出し、もう一度「受け入れるもの」となることを、神様は願っておられます。 そしてなによりも、神様はわたしたちと会って「親しく話し合いたい」と思ってくださっており、この礼拝を用意してくださいました。そして今日、喜びの聖餐の食卓を神様が整えてくださいました。今日与えられたこの手紙は、わたしたち宛の、神様からのこの食卓への招待状でもあります。ですが、この食卓に与るのは、神様からの愛を受け入れ、罪を悔い改め、神様への信仰を告白し、洗礼をうけたものだけです。信仰を告白し、洗礼を受けることが、わたしたちが神様からの招待への返事となります。神様は待っておられます。神様はわたしたちと「親しく話し合うことができる日」を心待ちにされておられます。 わたしたちも今、そしていつまでも、神様と「親しく話し合いたい」願っています。その願いに神様は応えてくださり、いつまでも話しあうことの出来る礼拝を神様は用意して下さいました。また神様は今日この場でわたしたちと出会ってくださいました。そしてまたその喜びを共に分かち合うことのできる兄弟姉妹をわたしたちに与えてくださいました。「愛するあなた」とわたしたちに呼びかけてくださって、聖餐の食卓へ招いてくださいました。感謝いたしましょう。そして、今度はわたしたちが、神様に「愛するあなた」と祈り、告白し、神様と親しく話しあいながら、歩んでまいりましょう。

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